こんにちは〜。
ぬふーぬふだったり、ぴしーぴしになったりとこの季節は、不安定な天候ですね。感冒などしていませんかー?
今回もいろいろな話題をお届けですよ〜。お楽しみくださいね〜。
富浜定吉著『宮古伊良部方言辞典』紹介
宜野湾ぬ清(平良・西里出身)
私の宮高時代の恩師である富浜定吉(さだよし)先生がこの程、定年退職後24年かけて完成した『宮古伊良部方言辞典』と題する大著を沖縄タイムス社から刊行されました。
先生は1929(昭和4)年旧伊良部村字仲地で出生されており、当年84歳。時折、お電話でお話することがありますが、大変 がんずー(お元気)です。
宮高時代には英語も音楽も担当できる二刀流の富浜先生に憧れていました。私が所属していたブラスバンド部の顧問であったことも嬉しかったです。
「はしがき」によれば、先生は、「小学校へ上がるまでは標準語は話せなかった」との由。
では以下に「凡例」を元に見出し項目数17,300余の同著の紹介をします。但し、辞典関連の一般的な情報(例 見出し語の五十音順配列)などは省略しております。また、入力が困難なIPAも省略しています。尚、*のついた箇所は読者の便宜を配慮しての辞典からの引用や補足説明です。(機種依存文字の関係で本の通りでない場合もあることをご了承ください)
1.収録語
(ア)伊良部島字伊良部・仲地の方言を収録した。
2.見出し項目
見出し項目は、かな表記、IPA(国際音声字母)表記、品詞名、活用語は活用の型を示し、語の説明は意味記述、用例、古語(の場合はその旨記述)の順に示した。
(1)かな表記
(ア)省略
(イ)ひらがな表記を原則とし、ひらがなで表記できない音はカタカナ表記にした。
*例文まーじゃがピー{名}妖火。鬼火。燐光。
一個の火から数十に分かれ、又一つになったりする。略。
(ウ)省略
(エ)省略
(オ)無声記号。「。」で示す。
(カ)省略
(2)〜(3)省略
(4)活用語
(ア)すべての動詞には活用の型を示した。
(イ)すべての動詞に終止形、未然形、連用形A,命令形の順序で示した。中略。
(ウ)活用の型の代表語例には「活用形と用例」1〜19を設け示した。
(5)見出し語(項目)の意味
(ア)意義が多義にわたる場合、それぞれの意義を―中略―分けて記し、それぞれの意義と例文を示した。
(イ)省略
(ウ)ネフスキーの「宮古諸島の語彙研究のための資料集」に掲載されている佐和田集落の生々しい記録を取り入れ「ネフスキー宮古方言集より」として収録させていただいた。
*同方言集は2005年に平良市教育委員会より『ニコライ・A・ネフスキー宮古方言ノート複写本』として刊行されています。
(6)例文
(ア)見出し語(項目)には出来るだけ多くの用例を付けるようにした。中略
(イ)日常使われている談話の中から例文を拾い、昭和20〜30年代の伊良部の生活の匂いを出せるように心がけた。
(ウ)伊良部に昔から伝わっている諺を例文の中に取り入れ、又伊良部の歴史的史実も書き入れた。
*諺:まいぬンつあがたまーイ゜(<近い遠回り。近道だからといって急ぐと危険だから遠くても安全な道を行け。急がばまわれ)。
*歴史的史実:赤らともがねakara tomogane{名}あから弟金。比屋地御嶽の祭神。西暦1380年、伊良部比屋地に来往し農具を作り農耕を教えた。
(7)古語について
(ア)日本古語{日古}岩波古語辞典補訂版と旺文社古語辞典のなかから現在伊良部方言で生きて使われている語を拾いだした。
(イ)沖縄古語{沖古}角川書店沖縄古語大辞典(中略)から抜粋した。
*例す(すの下に。付き)とぅむてぃ{朝}【日古】つとめて
【沖古】すとめて
(8)屋号
(ア)屋号は字仲地だけではなく、昭和20〜30年頃の伊良部、仲地、国仲、長浜、佐和田、池間添、前里添の屋号もできるだけもれなく収録した。
(イ)省略
3.略語表省略
4.標準語からの逆引き
例*愛する(かなっさあす)〜こと(かなっさ)〜者
(かなすむぬ、あたらすむぬ、かなしゃ)
*農耕する(ぱるーあす)〜こと(ばふ)
最後に「あとがき」から心うたれる文章を抜粋しておきます。「見出し項目の大半は筆者の内省によるものである。ある単語を思い出したら、すぐその場で書き留めておかないと、もう忘れてしまう。―中略― 外出の時もメモ用具は手放せない。寝る時も枕元に筆記用具を置き、思い出したら暗いところでもメモできるようにした。このような生活が20年近く続いた。方言に対応する語彙を見つけるために2,600ページにも及ぶ広辞林を一枚一枚めくることもした」。
同先生のこれまでの長きにわたる ばんたが(我らの)みやーくに対するご尽力とご貢献に対して心から敬意を表したいと思います。富浜しんしー まーんてぃ たんでぃがーたんでぃ。
◇あの話をもう一度
R(平良・西里出身)
「十六日祭」(vol.191 2009/3/5)
北京市の国営中国中央テレビ新社屋の付属高層ビル火災報道はまだ記憶に新しい2月9日の出来事だ。出火原因は、元宵節の花火が考えられるとのニュースだった。
元宵節(げんしょうせつ)とは、太陰暦(旧暦)の正月が終わる日で、旧暦の1月15日だとテレビは伝えた。ということは、中国での(この世、今生の)正月は1月15日まで続くのか。そして翌日の16日にあの世、後生の正月に繋がっていくんだ。
私の頭の中で、長い間持ち続けていた「なんで十六日がグソーの正月だわけ?」という疑問が解消した瞬間だった。
私が宮古島に住んでいた頃、父は四男で家に仏壇がなく、また、父方の先祖のお墓も那覇に移っていたせいか、我が家では十六日祭を祝う習慣がなかった。嫁いだ先も清明祭(シーミー)を祖先供養の行事として行う本島中南部だったため十六日祭はテレビや新聞のニュースの一つに過ぎなかった。
父が生前準備した宮古のお墓に両親が入ったことにより、私も十六日祭を意識したのは4年前のことだ。「島外で暮らす人々も帰省し、親族一同で墓参りをし、お墓の前でご馳走を食べる習慣」と親戚の叔母さんから聞いて両親(のお墓)が寂しい思いをしないようにと姉たちと重箱料理を準備して宮古島の墓参りをしたのが初めての十六日祭となった。
その日は暑かった。お墓を掃除した後、重箱を供え、線香をあげ、ウチカビ(紙銭)を焚いて両親を供養した。両親の初めての十六日祭ということで自分達が準備した物が足りているか心配になり、隣のお墓に集った皆さんが供えた物がとても気になった。
夕方遅くまであちらこちらのお墓の前からは子どもの声が聞こえ、とても賑やかな様子が伝わって来た。まるでピクニックのようだと思ったものだ。
翌年の十六日祭の日はとても寒かった。姉たちが用事で宮古に行けないということになり娘と二人での参加となった。雨も降り、ぴしーぴしで(寒くて寒くて)お墓の前で到底食事することはできなかった。近くのお墓では青年が、「北海道から帰って来たら北海道より寒い」と言いながら一人で濡れながら墓掃除をしていた。
今年の十六日祭は、2月10日で、かぎ わーつきだった(とても天気がよかった)。今年は、宮古には行かず、沖縄本島南部の三重城で十六日祭を祝うこととなった。
本島に住んでいて故郷に帰れない場合、この三重城に集うということだった。14歳年が離れた長女姉さんは、やらびぱだ(小さい頃)母に連れられて何度か来たことがあったようだ。その頃は小高い丘のように感じていたようだが、現在は階段を十段くらい登ったところにちょっとした広場があり、その先に海が広がっているというロケーションに位置する拝所である。
お昼過ぎ、姉二人、義理の兄、甥、甥の嫁と私という6人で三重城から宮古島の方角へ向かってご馳走を並べ、てぃをかみた(手を合わせた)。平日なので子どもの姿は数える程しか見えないが、ひっきりなしに訪れる人がいる。4〜5人のグループが主流だが、夫婦(と思われた)や姉妹といった二人組、また重箱を両手に持ち、一人でやって来た腰の曲がったお婆ちゃんなどなど。りっぱなお供えセットを持ったユタ?と思われる人も何人か見かけられた。
初めて参加した甥が隣に位置した久米島出身の女性に供える線香の数を聞いたところ「久米島は15本だけど宮古はどうかねー?」との返事。それに対し甥は、90本の線香に火を点けた。一同、爆笑。「線香一つには6本まとまっているから、15本は二つと半分だよ。間違ったことで覚えられるさー。来年は大丈夫だね。」とその女性との会話が進んだ。
みんな後を絶たない訪問者へ場所を譲ることとし、ご馳走を食べる際には場所を移動している。私たちも下の方に場所を移し、草の上に敷物を広げ、サンサンと降り注ぐ太陽の下、ピクニックタイムと相成った。
その昔、島では長男しか残れない時代があったという。この地は、島を出た人たちが故郷を偲んだ場所でもあるのだろうな。
宮古で感じた十六日祭の独特な賑やかだがのんびり流れる時間を今年は離れていても感じることができた。
十六日祭は、祖先からの繋がりを受け、また未来へ繋げていく営みを認識できる行事であると思う。
砂漠の国に うかーす うぷあみ(豪雨)
山雀タヌキ(下地・上地出身)
昨年、11月1日夜中の11時30分ころ、バーレイン空港に降り立つが、11月にしては気温が28度と蒸し暑かった。今回の仕事はこの初日からつまずいた。
いつも迎えにくる顔見しりのタクシー・ドライバーが見つからない。結局約1時間過ぎの午前0時30分頃、私の名前を書いたプラカードを持った見たこともないドライバーが非常に目立たない所に立っているのを見つけたときは、ほっとしながらも、あがい くぬ ぷりむぬがま(この間抜けな奴)とつぶやいてしまった。
バーレインとサウジアラビア国境の海上道路中間地点にある、イミグレーション(入国審査)にて指紋検査後、同所からサウジ入国ゲートへの車列に合流させてもらえず(必死に頼んでも車の割り込みを譲ってくれない)通過するのに約1時間かかり、ホテル着が午前3時半、自宅を出てからおよそ26時間かかってしまった。出勤時間は午前7時半。うかーす かーぬ(ものすごく疲れた)1日でした。
11月に入ると、さすがの暑いサウジアラビアも日々気温が下がって、朝晩はしのぎやすくなる。宮古の11月頃の気温と同じくらいかな?4月から10月頃の暑い季節には見ることのないハエが、気温が低くなるのを待ちかまえたように飛びまわり始めるのがこの頃からで、日本とはハエの飛び回る季節が逆転している。このハエが、みー、ぱな、ふつ(目、鼻、口)にまとわりつき、かさますむぬ(うっとうしい)。
11月18日の午後、突然空が曇り、つむじ風とともに砂埃が舞い上がり太陽がうすぼんやりと陰るとともに、大粒の雨がおよそ2時間ふり続いた。夕方から本ぶりになった。夜には、うかーす うぷかじ あみ(ものすごい風と大雨)で目がさめてしまった。ホテルの部屋から外をすかしてみると、みゃーくぬ うぷかじふき(宮古のものすごく強い台風)のようであった。とにかくものすごい うぷあみ(大雨)だった。
翌朝、ホテルの駐車場は水没状態で、歩道も気をつけて歩かないと、くるぶしまでつかってしまい、朝食をとるレストランにサンダル履きで行くはめとなった。レストランの屋根から漏水し、天井板が外れ落ちレストラン・フロアーは水浸し、ホテル2階の部屋も天井からの漏水が多数発生したようだ。排水溝の無い駐車場はしばらくの間、小池の様な状態となった。
サウジの市内道路には、排水溝が付設されていない。そもそも うぷあみを予想していない。
翌朝の通勤車は、大型バスに切り替えホテルを出発した。途中、建設中の道路はものすごい水嵩とぬかるみで、立ち往生している乗用車がいたるところに見られた。路上駐車していたと思われる乗用車が多数、道路の中央分離帯に水に浮かんで運ばれ乗り上げた状態も目立った。出稼ぎの巻きスカート姿のインド人たちは、スカートをたくし上げサンダル履きで水没した道路を平気な顔で歩きまわっている。かじふき(台風)、しゅーまん ぼーしゅう(梅雨)の うぷあみでも裸足で歩きまわった自分の やらびぱだ(子供の頃)を想いだし、インド人たちの強い生活力に感心した。
私たちの現場も、さんざんたる状態で、2日ほど工事ができなくなった。うぷあみの日から20日以上経つが、いつもは荒っぽい運転をするドライバーは車がぬかるみに嵌らないよう慎重な運転をしてくれました。うぷあみの後約1カ月経つが、道路のぬかるみは完全にとれず、轍のあとがうねった状態です。
ホテルの周辺は、もともと湿地帯で「よし」が生えておりいつもは塩が浮き出ている。今回の うぷあみで大きな湖が出現し、ホテルへの道路は1カ月近く経っても水が引かない状態が続いている。
30歳後半の、当社サウジ人スタッフは、生まれて初めて経験する うぷあみだった話していました。この うぷあみはサウジやその周辺の湾岸諸国一体を襲ったようで、現地テレビで被害状況がさかんに放送されていました。道路周辺の湿地帯は、水が引ききらずに湖や沼となっています。
過去に何度か雨で、現地事務所前が冠水した経験はあるが、このようなうぷあみは本当に初めてのことで、驚きの一言でした。この雨をサウジのお客さんとなる会社の社員の方は、にこにこしながら、いい天気(雨の少ない砂漠で雨が降ることは神からの恵み)で嬉しいと笑顔で話していました。まーんてぃ ぷからすきむぬ やたん(本当に嬉しそうだった)。
うぷあみの後、3日程度で工場内の砂利の隙間から、フサ(雑草)の芽が生えはじめ、日本ではごく普通に見える景色ですが、砂利敷地がうす緑に映えています。フサの生命力に感心しながら、写真を撮ってしまいました。この雨で、植物や屋根に積もった砂塵が綺麗に洗い流されて、道路沿いのブーゲンビリアや広大な化学プラント群もすっきりと輝いていました。
サウジアラビアは12月から2月頃までは薄寒い日々が続き、ときどき小雨が降る雨季となります。砂漠の短い雨季(秋?)が過ぎて、やがてうかーす あつーぬ(猛暑)の長い夏がやってきます。つかぬ間の雨季をサウジの方々は楽しんでいるようでした。
追記:今年の1月中旬にも同じような うぷあみが降ったとか、地球全体が異常気象になりつつあるのでしょうかね?
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
先月26日、関東下地郷友会では、東京中野にてボウリング大会を開きました。6レーンを貸し切っての大会。珍プレー、好プレー続出で、方言も飛び交い、大盛り上がりでした。普段は、関東の うまかまで頑張っている郷友たちが、うがなーり(集まり)同じスポーツを楽しみ、同じ時間を過ごす。なんとも あたらす上等時間でした。
1月31日は、旧正月でしたね。宮古の池間、佐良浜、久松では、今も盛大に旧正月を祝うそうで、今年もにぎやかに行われたと宮古毎日新聞に出ていました。
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
宜野湾ぬ清さんから、掲示板に富浜定吉先生の方言辞典が出版されたという書き込みがあり、メルマガでもぜひ紹介をと書いていただきました。諺や伊良部の歴史、屋号、そして逆引きもあるとのことで、とても内容の濃いものであることが分かりますね。ぜひ、入手したいと思います。
今月15日はジュウルクニツ(十六日祭)ですね。宮古を離れ、沖縄本島に住むRさんの十六日祭。天国にいるお父さん、お母さんは、ぷからすーと(うれしく)見ていたことでしょう。身近な人を亡くして初めて、十六日祭は自分に近いものになるのかもしれませんね。Rさんのを読んで、改めて十六日祭の良さを実感しました。
山雀タヌキさんは、海外でのお仕事を多くされていて、サウジアラビアの話はこれまでもありましたが、うぷあみ(大雨)のイメージがなく、びっくりでした。被害が大きい中、サウジの方が「砂漠で雨が降ることは神からの恵み」と話していたということが印象深かったです。異常気象が続かないことを願いたいですね。
貴方の感想もぜひ、お聞かせくださいね。
まちうんどー(お待ちしています)!
今回も しまいがみ ゆみふぃーさまい、すでぃがふー!
(最後までお読みくださり、ありがとうございました)
次号は、2月20日(木)発行予定です。
きゅうまい(今日も)良き日でありますように!あつかー、またや〜。