こんにちは〜。
きょうは啓蟄。まだぴしーぴしだったりしますが、春の足音は聞こえてきそうですね。今回も幅広い内容のお届けです。
どうぞ、お楽しみください〜。
野鳥観察記(3)−仲間と一緒にステキな時間を−
あば本舗(下地・上地出身)
野鳥観察にハマってから4〜5年が経った。最初はクロツラヘラサギへの好奇心だけだったが、だんだんと渡り鳥や野鳥全般に興味を持ち始めた。毎年、渡りの季節になると、ういゆ みゃーぎゃーみーみー(上を見上げてみたり)潮の干満時間を調べたりーと妙に落ち着かない。
そして、この面白さとワクワク感を一人で楽しむのはもったいないと思うようになった。で、もっか仲間を増やすべく野鳥愛好家増殖計画中である。
まずはモアイのメンバー幾人かに野鳥観察の楽しさ、面白さについて説明し、何とか興味を持ってもらうようにした。しかし、反応はイマイチである。野鳥?何それ〜。気乗りしない空気漂うメンバー達。一昨年、そんな彼らを強引に誘って野鳥観察会を結成する運びとなった。
11月から3月にかけて、月1〜2回の観察会を計画する。観察日時と場所を決め、メンバーになってくれた4名に一斉メールで連絡。
当日は、予備の双眼鏡、コーヒー、お茶、茶菓子を準備し観察会の現場へ。場所は豊見城市与根の三角池周辺。初めのころは、集まっても野鳥そっちのけ。コーヒーを飲みながらお喋りに花が咲き、何も見ずに解散という日もあった。
あんしゃーまい ぴょーすんなーや うぐなーり うむがーにゃーん むぬーゆみぴじ うむっしむぬゆ〜(だけど、こうやって時々は集まって、心ゆくまでお喋りを楽しんで、とっても面白いよ〜)そうやって、回を重ねていくうちメンバーそれぞれにキッカケが訪れる。
ある日の観察会で、カワセミの狩りの現場に出くわした。スズメほどの体に七色に輝く羽を持つ水辺の宝石といわれる野鳥である。K子とYちゃんは、目を輝かせ夢中で双眼鏡をのぞき続けた。その日以来、すっかりカワセミファンである。
そして別の日、M子とS枝と同行した時のこと、偶然にも珍鳥ヤツガシラを目撃した。私も写真でしか見た事がなかった、世界で一科一種の大変珍しい鳥だ。「黄色と黒の縞模様がファッショナブルね!」「頭の冠みたいな羽がすごくカッコイイ〜」思いがけない幸運に3人とも大興奮だった。
K子とYちゃん、M子とS枝の4名は、あんしー かんしーやしー(そんなこんなで)野鳥愛好家へと見事に変身をとげつつある。
さて、私の趣味に無理やり付き合わせて多少気が引けていたけれど、どんどん夢中になってゆく仲間には感謝の気持ちで一杯である。これからもステキな時間を一緒に楽しめたら、あてぃ ぷからすむぬ(とても嬉しい)
我々の野鳥観察会は今後果たしてどうなる?まさり みじゃーすき むぬんどぅなす゜ぱずどー(ますますステキな感じになるはずよー)と、能天気につぶやく私である。
◇あの話をもう一度
菜の花(伊良部町仲地出身)
「生き抜く」(vol.166 2008 2/21)
ヒャ〜ッ!悲鳴とも奇声ともとれる声が ばんみく(響く)中、今日も施設の一日がはじまる。
とぅりーてぃ(穏やかで)まないーてぃ(静かで)ぬかーぬかぬ(落ち着いた)老人像なんて、そんなものには程遠くて、いや、もしかしたら無縁のようにも思える婆やの行動。
明治、大正、昭和、平成と近代日本のどの時代をも越えてきて、んなみ(今)、のーしーがら(なぜか)私の目の前にいるこの婆や。たー くいゆまい つかん(誰の声にも耳をかさない)。常に、常に・・・常にマイペース。よく食べる、よく出す、そしてあまり寝ないというのが婆やの生活パターン。
食後すぐに「ハラヘッタ〜!マンマモッテコ〜!」と叫ぶこともある。「食べたばかりでしょ」とは、第三者の答えであって婆やの本能は やーすむぬ(ハラヘッタ!)と訴えているのだから、かーきて(ハラヘッテ)いるのだ。のーまいしらいん(仕方ない)。温かいお茶とお菓子を手に握らせると、満面の笑みとはこういうものですという顔をする。そう、無垢の笑顔だ。この笑顔に職員は胸キュンとなり、いつの間にか婆やに恋をしていくのだ。
婆やはいつも同じ場所に車椅子で陣取る。たまに誰かがその場所にいようものなら だいず(大変)!青森で生まれたという婆やの言葉は理解不能。何を喋っているのかも分からない。軽く三オクターブはあると思われる甲高い声で言い立てる。婆やの陣地、テリトリーからどくまでその声は続くので、みゃーくふつで直訳すると「うまー あーせきどぅ(そこは私の席よ)かまーんかい ぴり(あっちに行って)」となるのだと思う。
時々静かだなーと思っていると、不意に「サケモッテコ〜〜」とヨーデルのようなハイソプラノが廊下じゅうに響き渡る。慌ててお茶を持っていくと、一口すすって、ペッ!と床に吐き出す。どうも気にいらなかったらしい。「もう少しでご飯ですから」となだめる職員にもチラリと一瞥。婆やに恋する職員にとってこの視線はたまらない。食事時間になると真っ先に配膳して機嫌を直してもらうしかないのだ。
婆やが夜ゆっくりと寝てくれたら、私たちも婆やの寝顔をじっくりと見ることができるのだけど、それままず無理、叶わぬ夢。やっと静まった深夜「ヒャ〜ッ!!」と、火曜サスペンスの事件現場のような悲鳴が響く。
婆やが職員を呼ぶ声だ。急いで婆やの元に行く。大抵「起こしてほしい」or「オシッコ」or「デタ(粗相した)」のどちらかだ。それは婆やの仕草でわかる。分かるようになったということは、やっとがま婆やと相思相愛になった印なのだ。
お茶を飲みすぎた日は「デタ」サインが増える。フロアでストックされている予備のフトン全部を、一晩で婆や一人で使ってしまったこともある。紙オムツという近代文明の代物を婆やは気にいらない。寝ている間にそ〜っとそ〜っと紙オムツを敷いても、当ててもすぐに外し「くぬひゃ〜!(こんなもの!)」とばかりに投げ捨てる。深夜の部屋で紙オムツが宙を舞う。その投力はすごくて、何メートルも先まで飛んでいくので感心して見とれることもある。思わず拍手したことも・・・。
もうすぐ100歳になる婆やには「寿命」という概念を感じない。婆やの生命のエネルギー、その逞しさにはただ感動するばかり。施設の行事で節分の豆まきに参加した婆や。その豆を見つめる眼差しを見て婆やが100粒の豆を要求したらどうしよう・・・ちょっとだけ本気で しわ(心配)もしたくらい。
婆やの一人息子は婆やより先に逝き、息子の嫁は脳梗塞で不自由な身体になってしまった。でも、婆やはそんなことは知る由もない。婆やは幸せなんだろうか?毎日を施設で過ごすことをどう思っているんだろうか?私が婆やに代わって考えたところでどうなるものでもないと知りつつ、考える。
認知症の婆やにとっては、地位とか名誉は何の意味をもなさない。過去も過去であり、婆やが生きてきた道程として存在するけど、過去も今もただ一人の自分として存在するのみ。それが婆やの全てなのだ。多くを望まず、無欲に、命尽きるまで生ききるために生きる婆や。私たちは婆やが一日を元気で過ごせることを考えればいい・・・。婆やの一日を預かる私たちが、婆やの幸せに繋がりたいと思ったら傲慢だろうか。
誰もがいつか迎える「老人としての己の日々」。人生最期をどう生きたいか、今から考えておくことは自分の人生にどれだけ責任を持つかということなんだろうなーと思ったりする。
私よ!ういぴとぅ(老人)になったらどう在りたい?好きなものを食べ、好きなことをして、好きに生きよう!
では、誰かの手をかりることになったら?
そうだねぇ〜、どうしようねぇ〜・・・。
あがい!のーんまいならん!(アララ!どうしようもない!)
宮古を巡るいろんなこと
宮国優子(平良・下里出身)
問題発言しそうなので、書く前からドキドキしています。なんでかよ、まず!です。
最近「宮古とつながっている実感って何だろう」と考えました。私は、近所に住む宮古の同級生や東京に住む宮古の人とのじかの交流、親兄弟との電話、宮古の新聞そしてインターネットです。このくまかまもそうですし、友だちからのメールやブログやフェイスブッック、Twitterなどなど。数十年前に比べれば、つながりやすくなって宮古が可視化できるようになりました。
リアルではないけれど。毎日、宮古の天気がすぐにわかって、宮古でどんなニュースがでているかなどなど調べようと思えば、すぐに情報として調べる事ができる。それもスマートフォンひとつで。宮古の日差しや風のなかにいることはできないけど、頭のなかだけでも宮古に近いってやっぱりうれしすぎる。
でも、反対に知りたくない情報も目にしたりもします。宮古内でのネガティブな情報に始まり、日本、特に東京に関するもの、宮古に関わる島内出身者でない人へのもの。私は今、東京に住まわせて頂いているので、目を背けたくなるし、心が痛くなる。
それから、沖縄本島の人たちの沖縄全体の意見として、宮古の人の思いは入っていないように見受けられるとき「いや〜どうしよう」という気持ちになります。「いや、それは違うよ」と言いたくてしょうがなくなる。ネット上では口で伝わるより早く拡散していくので、当事者や本当の思いが、いろんな風にねじ曲げられて伝わっていく。当事者や事実は取り残されて、肝心な本当のメッセージが伝わっていない事も多い。悲しくなる。
話は変わるんですが、私たちの世代は「沖縄県の歴史」という本で勉強しました。宮古のページは少なく、私はあまり興味が持てませんでした。なんでかーとおもったのですが、たぶんそれは、自分が当時暮らしている宮古の生活とかけ離れているように思ったから。たとえば266年も続いた人頭税の余波はまだ生活の中にたくさん残っていたように感じていました。それがその本にはわずかしか載っていないのでした。
【過去から学び、現在を生きて、未来をつくる】のだと思います。当たり前のことなんですが、過去を学んでいない私は、なかなか歴史を学ぶ事が腑に落ちなかったのです。
東京に住んでいても、こんなに身近に感じている宮古島。私の大切な人がたくさん住んでいる宮古島。そんな人たちから聞こえてくる島の苦悩があります。今の島を知って少しでも解決できることはないかと考え始めたとき、過去というか歴史を知りたいと思うようになりました。
そして、その昔、島から出て行った人たちがどのように暮らし、どのように島に帰ったか、そして、帰れなかったか。どのような思いを胸に秘めていたか。私が知りたいと思うことは、私自身の問題にもつながっているように感じます。帰りたいけど帰れない、でも反対に帰りたくないという気持ちもある、というような複雑な心境。心の居場所がふたつあるような不思議な感覚です。
加えて、私は自分が今住んでいる地域は宮古と同列で考えています。故郷を愛するように、今すむ地域も愛したい。それはやっぱり私は東京にお邪魔しているし、子どもたちの故郷でもあるからです。私はこの地域からはよそ者ですが、恩恵をたくさん受けています。宮古の人たちと同じように私のまわりの人たちは優しいからかもしれません。すでぃがふー。
相変わらず、話がずれていきます。まぁ、何を書きたかったというと、3/7に宮古に行きます。研究者の方々を連れて、宮古でお話を聞いたり、史跡を巡ったりする予定です。他のも偶然とも言える出会いから、宮古研究のゴールデンメンバーが集まりつつあります。目の前でプロの研究者たちが宮古の事を論じている様子に、ただただドキドキと見つめています。いや、私もなんかやらんといけんのですが。
今回は、1873年のドイツのロベルトソン号の一連の流れと顛末、それから1936年の建碑60周年式典。後者は戦意高揚のきっかけと言われています。宮古はずっと大海の小舟のように荒波にもまれ続けていたんだなぁと思うのです。でも、私だけだったらただそれを思うだけで終わってしまう。きちんと論理的に検証してくれる人たちがいる、ってなんて心強いんだろうと思うのです。
宮古の人と宮古外の人が、協力するからこそ、できることがあるように思っています。島の文化を島外で消費するという考え方もありますが、逆に島を深めてくれる協力者に、島の事をお手伝いしてもらえるかもしれない。それは、出身や現住所が宮古であるないに関わらず、宮古に関わる誰もが一緒に、考え、悩み、議論し、出来上がる新しい美しい形があるのじゃないかと思うのです。
勉強不足でこんなことを言える立場ではないのだけど、昔の宮古人は【大局を見る】という発想をしていたように思います。サバニで大海原に漕ぎ出す勇気。私なら怖くて無理です。そして流れ着く多様な人を受け入れる素地もあり、厳しい自然を相手に苦しい生活ながらも、人としての幸せを存分に楽しんでいた。そう思えてならないのです。他にもいろいろありますが、宮古はまるで一つの国のように自分たちの自治を鍛え上げていったのだと思うのです。
今回はいろいろ今の思いを書いてみました。いつもの調子ではなくごめんなさい。お気づきかと思いますが、私、真面目なんです、てぃーすっす。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
3月1日、宮古では高校の卒業式があったんですね〜。卒業生の皆さんおめでとうございます。笑顔と涙の顔が宮古の新聞に やまかさ(たくさん)載っていました。宮古ではほとんどの高校生が進学、就職のために宮古を出ます。離れてみて宮古の良さを発見したり、また宮古との違いもやまかさ経験することでしょう。宮古を引いた目でみることは、だいず上等な経験になると思います。そして、これまで宮古で育まれたものはきっと力になることでしょう。わいてぃどー!
3月11日が間もなくやってきますね。あれから3年。あらためて亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
あば本舗さんは、仲間を増やして、ますます観察を楽しんでいる様子が伝わってきましたね〜。仲間との観察はまた格別でしょうね。いつか宮古での野鳥観察も計画中とのこと。今後の観察報告もどうぞお楽しみに。
あの話をもう一度は、菜の花の登場でした。利用者とまっすぐに向き合い、そこからいろいろなものを感じ掬いあげる菜の花。どんな状況になっても生きていく、生き抜くその姿を愛おしく思う。学ぶ事がいっぱいです。
優子さんのつきない宮古への想い。宮古のいろいろなことに心の針が大きく振れて、喜んだり、憂いたり。そして何かできることを考える。今度の帰省も大きなものになりそうですね。優子さんの今後の活躍にも目が離せません。
貴方の感想もぜひ、お寄せください。
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どうぞお気軽にご参加くださいね。まちうんどー(待っています)!
今回も しまいがみ ゆみふぃーさまい、すでぃがふー!
(最後まで お読みくださり、ありがとうございました!)
次号は、3月20日(木)発行予定です。
あまい と ばらい(笑顔)の日々でありますように!
あつかー、またや〜。