こんにちは〜。
10月になりましたねー。ぴゃーむぬやー(早いですねー)
くま・かまの中にも季節の移ろいや時代の流れが・・・。vol.325もお楽しみくださいね〜。
エイサー
R(平良・西里出身)
沖縄では日中の日差しはまだ強いものの日の入りが早くなったことと運動会シーズンに味わえる空気感で秋を感じる今日この頃ですが、今回は、ゆく夏を惜しみながら「エイサー」の話をさせていただきます。
結婚して沖縄市に移り住んで25年が経ちました。私が住む地域では、6月頃から ゆない(夜)になると「エイサー」を練習する音が聞こえてきます。青年会で結成する「エイサー隊」が近隣施設の だいばん(大きな)駐車場や学校の運動場を使い練習するのです。
結構、大きな音なので都会では、「騒音」だとクレームが出てもおかしくないのですが、そこはやはり「エイサー」のメッカと言われる沖縄市のこと、もう夏の風物詩です。近所の住民は、夏の暑い夜、涼みがてら、練習の見物に出かけることもあります。(正直なところ、ご近所さんは、煩くて大変なこともあるとは思います。)
「エイサー」の始まりには諸説あるようですが、念仏踊りを原形に持ち、祖先供養として踊られているという話がよく聞くところです。戦前、戦後、現在と地域によりその形をかえつつも現在では、宮古、石垣までもその波は伝わっています。
現在、沖縄市での「エイサー」は、午後7時頃集合場所を出発し、大きな太鼓を打ち鳴らしながら夜中まで地域をくまなく練り歩くということを旧盆期間の3日間続けます。(道ジュネーと言います)最終日の「ウークイ」の日には午前4時〜5時頃まで演舞するようです。かなりの重労働だということがわかります。
地域住民は、あがた(遠く)で聞こえていた「エイサー」の音が、だんだんと家近くで聞こえるようになったら沿道に出て「エイサー隊」を迎え待ち、過ぎ去るまで見物します。これがないと旧盆の行事は終われません。
一所懸命演舞する「エイサー隊」から、「郷土を誇りに思う」という若者たちのメッセージが聞こえてくるようで、だいず(とても)嬉しい気持ちになりますし、太鼓の音、三線の音が、何か人間の本質に訴えるものを感じ、清々しい気持ちにさせられます。
ある年、義母と「エイサー」を見物していた時のこと、与那原出身の義母が、「昔はエイサーは、がんぐりにいた知的障害者が踊っていた踊りなんだよ。」と教えてくれたことがありました。
「がんぐり?」
「葬式に使う道具を置いていた場所で働いていた人たちが踊ったんだよ」
(「がんぐりゆまたの片足ピンザ(山羊)」の話に出てくる場所だ!)
その時は、「がん」も「ぐり(くり)」も方言の意味は知らないけど、知っていた片足ピンザの話と結びつき、自分でも大きな発見をしたような驚きを感じました。
片足ピンザが現れる「がんぐりゆまた」って、そういうところだったんだ!だから妖怪(幽霊?)も出るんだー!
宮古島市平良下里に「がんぐりゆまた」と言われる交差点があります。今では近代的に整備された一角ですが、ここには妖怪片足ピンザが出ると今でも語られる場所です。片足ピンザに追っかけられると魂を獲られ、死んでしまうと言われています。
お盆の時期ということもあったせいか、私の意識が小さな やらびぱだ(子ども時代)に恐々聞いていた片足ピンザの話の世界、「がんぐりゆまた」にワープしたような不思議な気持ちを味わったことを覚えています。
「エイサー」について調べてみましたが、現在の「エイサー」の形に行き着くまでにはいろいろな変遷があったようです。
義母の話に通じる話としては、「ニンブチャー(念仏僧)が人が亡くなった時の供養に太鼓を打ち、念仏を行いながら踊っていた」という記述を見つけました。
「エイサー」が、琉球の時代からの時を重ね、今の形になったことで暗のイメージから明のイメージに転じたことも大いにある話だと思います。
今回、「エイサー」のことを調べなおしたことでいい文章があったので最後に紹介します。
「伝統芸能には、それを生み出してきた背景、歴史がある。エイサーの背景が祖先を敬い、親に感謝することであるならば、ただ楽しいから踊るだけではなく自分自身の背景というものをほんの少しでも考えながら踊って欲しい。生まれてきた自分、育ってきた自分を見つめることが、自分とそこにつながる人々を愛することになるのだから」
(web みっぷーのエイサー講座「エイサーの歴史、背景」より抜粋)http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/5058/mippu.html
高千穂の敬老会
松谷初美(下地・高千穂出身)
先日(9月28日)、高千穂集落主催の敬老会があった。
いつもは閑散としている、高千穂公民館。車が やまかさ(たくさん)止まり、次から次と人がやってくる。あば、高千穂にこんなに人がいたっけ?その賑やかさに、敬老会が住民みんなの喜びであることが伝わってくる。母を車で送ってきた私までも心うきうき。
庭には、余興に出る子どもたちが駆け回ったり、着物姿の中学生や、大人の人たちが、余興の準備に余念がない。
会場には、長机が並べられ、敬老のみなさんや来賓の下地の各地域の役員のみなさん、高千穂の青年会(50代、60代もいるけれど、青年会です)の面々も見える。私は夫と義姉と ぷか(外)から中の様子を楽しんだ。
現在、高千穂の敬老者(70歳以上)は、42名(新敬老者2名)とのこと。最高齢は102歳だそう。あすが(しかし)、施設に入っていたり、具合が悪かったりなどで、出席者は約半分。久しぶりに見るおじさんやおばさんたちの顔。みなさん、すがりて(おしゃれして)うれしそうだ。
かつて、公民館は幼稚園でもあった。私も一年間過ごした。あの頃は滑り台があり、鉄棒があり、学事奨励会も行われていた。おじさん、おばさんたちも若くて、私たちを見守ってくれていた。あれから幾年月。しみじみと歳月が流れたことを実感する。建物も変わり、庭は、老人会のゲートボール場になっている。
自治会長の挨拶や新人敬老者の挨拶などが終わると、舞台ではお待ちかねの余興だ。
男性による日舞の舞に始まり、小学生の和太鼓のグループの演奏。敬老代表者の三線による宮古民謡の披露。小2の甥っ子も高千穂の子どもたち7名で今大人気の「妖怪体操」を踊った。子どもたちを見る目は、優しさに満ち溢れている。母も孫の踊りにうれしそう。その他、方言漫談に うぷあまい(大笑い)をし、演歌に合わせて踊る人あれば、会場からは「けい子、頑張れ!」の声援。本格的な音響設備があるわけではないので、途中で音楽が止まったり、マイクの音が切れたりするが、会場からはやんやの拍手や指笛ぴゅーぴゅー。賑やかで楽しい敬老会だった。
家に帰って、敬老会の つと(お土産)を開けると、折詰弁当に、紅白のかるかん、かっぱえびせんと宮古のお祝いらしいものが入っていた。
改めて、宮古の良さを思い、敬老のみなさんに肖って つとを食べた。
そして、夫は11年後、私は16年後に立派な(?)高千穂の新敬老者になるべき!と思ったのだった。
ごーら(ゴーヤ)の想い出
ビートルズ世代のサラリーマン(平良・下里出身)
今では、内地で ごーらを見かけるのは珍しくもなくなったが、私が上京した当時はそれこそ ごーらてぃぬ なーまい すさいうらったん(ゴーヤという名前さえ知られていなかった)。ましてや、スーパーで見かけるなんてことは にゃーったん(無かった)。
いまや緑のカーテンとして日よけ用に植えられたり、食用に植える人も多い。ゴーヤチャンプルーは内地でもすっかり定着し沖縄料理屋以外でも定番メニューとして根付いた感がある。
やーぬ つかふぬ(家の近くの)家庭菜園でも夏になると ごーらはミニトマトと並んで人気の野菜だ。バスの中で、お年寄りが つかふぬ まっちゃ(近くの店)で買ったのか、ごーらの苗をぶら下げて会話している。
「去年初めてゴーヤを植えたら沢山実をつけてね〜」
「とても美味しかったので、今年はもっと増やそうと思ってね」
ゴーヤという むぬず(単語)が聞こえるたびになんだか嬉しくなり、思わず「あのー、私もそのゴーヤと同じ沖縄生まれなんです〜」と話しかけたくなってしまう。
ゴーヤチャンプルーは、うながーぶんぶん(それぞれ)家庭の味があり、やはり小さい頃から食べなれたお袋の味が一番美味しい。我が家では、ごーらを少ししんなりするまで炒める。
ナイチャーのワイフは、幸いにも5年間島で暮らした経験があり、その時お袋の味を覚えてくれたようで、私は今でも昔と変わらないお袋の味を食することが出来る。
石油ショックのさなかに大学を卒業した私は、就職もままならず東京のあざ(兄)を頼って名古屋から上京した。将来に不安を抱えアルバイトをしながら たうきゃー(一人)アパートで悶々とした日々を送っていた私は、東京での生活に ぶがり(疲れ)次第に落ち込んでいった。
そんなある日、近所を散歩していると「知念」と表札のかかった だいばん(大きな)屋敷の前を通りかかった。塀越しに みなかゆ みーるば(庭を見ると)、そこには見事な ごーら棚があり、幾つもの ごーらの黄色い花を付けていた。その鮮やかな黄色を目にした瞬間、これまでの心のもやもやがいっぺんに晴れた。それからというもの毎日の散歩コースとなり、ごーらが実をつけるのを観察した。
また、ある夕方通りかかった時は、簾越しに屋敷の奥から さんしんぬにーぬ(三線の音が)流れてきて、私は暫く立ち止まりその懐かしい調に聞き入った。東京で ごーら棚を愛でながら聴く三線の音は実に きむん(心に)沁みた。
んなまや(今や)、ごーらと同じように沖縄の三線もナイチャーに人気だ。私が上京した当時とは雲泥の差だ。東京んな うき°なーぬど あふりうず(東京には沖縄が溢れている)。
温暖化の影響もあり、内地での栽培範囲を一段と広げた感のある ごーらは、もはや特別な存在では のーんふなりきしゅー(無くなってきている)。内地で ごーらが日常風景として組み込まれた今、「ごーらの想い出」を語る世代は私たちの世代が最後となりそうである。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
9月23日は秋分の日でしたね。お彼岸は、内地では墓参りをする方が多いと思いますが、宮古では墓参りはせず、仏壇にいろいろとお供えをして、かびじん(紙のお金)を焼き、お焼香をします。我が家も家族で手を合わせました。考えたら、宮古で墓参りといったら、ジュウルクニツ(十六日祭)くらいで、普段はあまりしないかも。
10月に入って、来年のトライアスロン宮古島大会の出場者受付が始まったそうです。定員は1500名とのこと。来年は、伊良部大橋もバイクコースになるということで、これまでと違った風景が見られますね。伊良部大橋の開通は、来年1月31日。こちらも楽しみです。
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
今や、全国の小学校の運動会などでも踊られるようになったエイサー。その話で「がんぐり」という言葉が出てきてびっくりでした。エイサーは賑やかで明るいイメージでしたが、背景を知るとまた別の見方ができますね。本場のエイサー、いつか見てみたいです。
アモイさんも高野の敬老会のことを前号で書いていましたが、この時季、宮古のあちこちの自治会で、敬老会が行われ、新聞にも各地の様子が伝えられます。なんと来月は、カザンミ(高千穂の中の小さい集落)でもやるとのこと。祝いはまだまだ続く〜。
ごーら(ゴーヤ)も今や全国区ですが、1970年代の東京で ごーらを見た時の驚きと喜びは想像に難くないですね。知念さんの家の前で佇む青年B.サラさんが見えるようです。ごーらと三線は あがた(遠い)宮古とB.サラさんを結びつけ、力をくれたんですね。
貴方の感想も ぜひ、お寄せくださいね。
今回も しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(最後までお読みくださり、ありがとうございました!)
次号は、10月16日(木)発行予定です。
うぬ ときゃがみ がんづぅかり うらあちよー(その時までお元気で)あつかー、またや〜。