あてぃ暑とぅるとぅる(すごくとろけそうな暑さ)の毎日ですが、みなさん、のーしーりゃー? 暑いけど、頑張っていきましょうねー。
「ぴとぅぬ てぃーぬ ぬふさ」(人の手のぬくもり)
菜の花
やらび(子ども)の頃は、おじい、おばあがかなまい(頭)をなでたり、体をさすってくれたりしてくれた。やらびながら、つむすむぬー(気持ちいい)と思ったし、おじいおばあが、かなすー(愛しい)としてくれているのが分かった。
大人になってからは、っふぁがま(子供)を撫でて ぷどうわーし(育てて)てきたし、仕事では、逝く人の手や足を摩りながら傍にいつでも付き添っていることを伝える手だった。私の手はいつでも対人に向かって伸び、常に無言のメッセージを届けていた。(つもり)
体調を崩してしまった私は、ウイルス感染してしまい、かなり重症。でも、仕事が休めない!私の方が患者だよーと叫びたいが、二重マスクで必要以外の会話をせず黙して働いた。免疫が落ちている患者さんには近づかないように慎重に行動するのは、だいず(大変)だった。
私の大好きな患者さんで元大工のおじいがいる。気管切開している上、薬のために免疫が落ちているので逢えん(逢えない)日が3日くらい続いた。栄養ドリンクと点滴と若さ?で回復した私は、早速おじいの部屋へレッツラゴー!
「お久しぶりです。体調はいかがですか」(ほんとに会えるのが待ち遠しかったよ、おじい。)新聞を広げていたおじいはみーパチパチして、それからちょっと顔をくしゃーとした。おじいの手がすーっと伸びてきて、私の顎の下を猫を撫でるように、なでなでなで。
して、今度は二つの手が私のかまず(ほっぺた)を包んでそーっとなでぃ?。(うわー!そんな風に優しく撫でられたらうち泣くよー。)ほんとになだ(涙)がでてきた。おじいのちっちゃくてまあるいみーのやぱーやぱさ。あがい。ものも言えん(ああ、何も言えない)おじいも気管切開してるからものも言わん。二人して黙って見つめ合っていたさー。
おじいは生まれて初めての入院で、生まれて初めて気管切開をし、生まれて初めて「告知」を受けた。そして生まれて初めての諸々の治療を毎日受けている。なのに、おじいの目の内には愛がいっぱい。自分が辛くて大変な時にも、他人をいたわれるおじいの懐の広さに包まれて、心のケアをされているのは私の方だ。患者さんの定義って何なワケ?おじいの人となりを私は看ていきたい。丸ごと看ていきたいと心底そう思ったさー。
ぴとうのてぃーぬ ぬふさや つむたーき ぬふますむぬど。
(人の手のぬくもりは心まで温めてしまうものだね)
「宮古のことわざ」
〔 井戸ぬ水ぬ増うちかぁ 大風ぬどぅ吹きす 〕
カァヌミズヌカズウチカァ
ウプカジヌドゥフキス
井戸やうり井(がー)の水が増えると、大風が吹くといわれた。昔の人たちが生活の知恵から水量による台風の予測をした。
『んきゃーんじゅく』 佐渡山政子/編 より
「ミャークフツ講座 夏の虫編」
松谷初美
- がーす(セミ)→ 一番小さいがーすを何をするというわけではないけど、袋いっぱい集めてなーいた。
- くーむや(ゴキブリ)→内地の人が、宮古のゴキブリは大きいけど、動きがにぶいねと言っていた。あんちー(そう)?
- ぱず(蝿)→私のおじさんは、飛んでいる 蝿を手でしとめ、下にたいつきる(たたきつける)たぶん百発百中だはず。
- やうさら(かなぶん)→夏の夜は、電気の下には必ずいたね。この頃見かけないけど、元気にしてる?
- がざん(蚊)→昔は蚊帳を吊って寝ていた。このごろは香取マットだねー。でも朝方まで持たなくて、うーーんというあの羽音で目が覚める。かさます!(腹がたつ)←この訳はいまいちだ。
- やーんぶ(蛍)→子どもの頃には家の近所でも、よく見かけたよ。両手で掴まえてそうっと開いて、やーんぶが光るのを見ていた。
「学校がない 宮島小学校編」
神童
宮島小学校が始まった。1年生から6年生まで全校生徒135名の小学校である。
しかし・・・。
校庭で始業式を行った後、各自教室へ戻るのが普通だが、4?6年生は戻る教室がなかったのである。そう、小学校として独立したのはいいが、何と教室の建築工事がまだだったのである。工事は一学期と夏休みいっぱいかかると言うのである。
対策として午前中は、1?3年の低学年が分校時代の教室を使用し、高学年は午後、教室へ入るのである。低学年は午前中のみの授業である。高学年は午前中は、廊下や木のカゲで授業を行うのである。2部授業と言うらしい。神童が長じて大学へ進学した際、工学部の?部だったのも何かのインネンである。
4?6年の担任の先生による協議の結果、教室は決定された。まず、4年生は、廊下である。5年生は、校庭南側の奥行き約5m、巾30mくらいのモクマオウの林であった。6年生は、うさぎ小屋付近のモクマオウの木陰である。もちろん○年○組という札もない。床は土である。
早速、雨の日対策として、各自肥料袋(布であった)を何枚かずつ学校へ提出せよとのことである。困った。神童宅は農業をしていなかったため、肥料袋が無いのである。結局、親せきより肥料袋をもらって学校へ提出した。提出された布袋は、それぞれに縫い合わされ、巨大な一枚布となった。これを木と木に渡し日よけとするのである。しかし、5年生の教室は(モクマオウの林)木立となっているので、このテントをうまく張ることはできなかった。
初夏、4月とはいえ、てぃだ(太陽)はこれでもかというほど、サンサンと輝き、白い紙を見るとまぶしさのあまり目がクラクラするのである。例えば、製図等を描く場合の必要な照度は、800?1.000ルクスであるが、夏の太陽の照度は、10.000ルクス?12.000ルクスである。んびゃーいん(耐えられない)
「お便りコーナー」
イラウピンザさんより
ゴーラとガウラはどちらが先祖?伊良部でもガウラというけど。それにしてもあんな小さな島によくも多くの方言があるものですね。脚と馬しか情報伝達手段がなかった時代では、言葉さえも狭い地域内に限られた情報伝達手段となっていたのかな。伊良部などは7か字で6つの方言があるのだから。
私が小学生の頃は標準語励行とかいって方言を話した友達を見つけて、方言札を回すのが遊びの一種になっていた。いちばん簡単な方法は拳骨をして「アガー」といわせることだった。先生が「紙に穴をホガシて綴じなさい」と言って「これは方言か否か」と議論したこともありましたね。
それから沖縄本島の方言は日本語の表音で書き表せるのに宮古のそれはできない言葉が多いのも不思議ですね。東南アジアの言葉とマンチャーになっているのかね。言語学に興味のある方は教えてくださいませんか。
神童さんの話を楽しく読みました。私が中学生の頃までは確かに島尻の生徒も狩俣中学へ通っていた。しかも徒歩通学だったから、皆が足を鍛えられていて、運動会のときは大概島尻部落が優勝した。野田部落(大和では部落と言う言葉は差別用語だと言って嫌われるが、沖縄では出身地の違いで人を差別するようなさもしい考えはないので、私は未だに遣っている。集落なんてぴったりしないじゃないですか。)は生徒数が少なかったので、島尻ほど強くはなかったが、それでも優秀な選手がいましたね。
狩俣の西の林には烏が沢山住んでいて、朝晩は賑やかだった。それが今ではほとんどいなくなっていると言う。農薬の入ったえさを食べて死んだのどろうと言うから恐い話だね。
※イラウピンザさん、お便りたんでぃがーたんでぃ。烏を見たら不気味な気がするけど、いないことの方がもっと不気味ですね。
「編集後記」
松谷初美
7月21日から29日まで宮古に帰ってきました。サニツ浜カーニバルに始まり、宮古まつりの花火で締めくくって、だいず充実した8日間でした。心配していた かじふき゜(台風)もそれてくれて、ぞーわーつく(良い天気)の毎日でした。
7月24日は、旧暦の15日で満月。25日は十六夜の月を前浜で楽しみました。静かな月明かりに波の音。。と思っていたら、いきなりブオンブオンと暴走族らしい車の音!おもわず「んぎゃます!(うるさい!)」と言ってしまった。でもそれも去った後は、また静かーーな夜。月明かりは海を照らし、キラキラと輝いていました。誰でも詩人になれそうな つきゆー(月夜)さいが?。
それから25日は、「ぷーず」と言って豊作を神願いする日でした。これは年に一度、旧暦の5月か6月の「きのえうま」の日に御嶽などでやります。私は、久しぶりに、母ちゃんと隣のおばぁと一緒に行きました。白い紙にお菓子やお米、んき゜(神酒)をそなえ、黒い線香をたきます。どこの家でもこの日にやるので、いつもは静かな御嶽もこの日は、賑わいます。
昔は、この日に供える「んき゜」は、家で作り、これを飲むのが、やらび(子ども)の一番の楽しみでした。今は「ミキ」として缶でも売っていますが、あの頃飲んだあず(味)とは違うような気がするなー。これからは台風の被害も少なく、豊作でありますようにと、てぃをかみて(手を合わせて)来ました。
〔おしらせ〕
「下地勇ミニライブ」(くま・かま主催)を東京で行います。
日時:8月23日(金)・24日(土)午後8時?10時30分まで。
場所:東京中野 沖縄料理の店「ちむ屋」
定員:両日とも50名。
まだ彼の歌を聴いたことがないという方もいると思います。どうぞこの機会に生の歌声を聴きに来てください。お待ちしています。
次回は、8月15日の予定です。あつかー、また。