こんにちは〜。
ここ数日、のどかな天気が続いている宮古です〜。 きょうは旧正月ですね。おめでとうございます〜。
かつては旧正月が主流でした。今回は、その頃のお年玉のぱなす(話)からぱずみっとー(始めますよー)。
んきゃんぬお年玉(昔のお年玉)
大和の宮古人(城辺・長南出身)
宮古は今でも大きな行事は旧暦で行っているようですが、正月だけは新暦になっている。
ばんたが やらびぬ とぅきゃんな(私たちが子供の時は)正月も旧暦でした。新聞は取ってないしテレビもない時代でした。ラジオからの情報で内地は正月だと分かりました。
のうてぃが ばんたが やーぬ(どうして我が家の)正月は遅いのかなぴるますむぬ(不思議)と思いながら首を長くして待っていた記憶があります。
昭和30年代の宮古島殆どの農家は現金収入が乏しく貧しかった。正月とは言え子供に現金をあげる事など出来なかったと思います。お年玉と云う言葉すら有ったかどうか分かりませんが、鉛筆1本貰っていたので、あったのでしょう。そう、鉛筆1本がお年玉だったのです。(11才年の離れた弟は鉛筆、ノート、消しゴムのセットが貰えたそうです)
旧正月の朝食が済むと親戚や知り合いの家に使いに出されました。年始回りだったのでしょうが、殆ど子供が行かされました。(よそのお宅は知りませんが我が家では子供でした)ただ我が家は兄弟姉妹が7人もいました。毎年兄弟だけが行き、姉妹が行かされることはありませんでした。
原稿書くことに当たって気が付きましたが、正月早々子供とはいえ、手ぶらで親せき回りをするだろうかと。んまやー(親の実家)ならいざ知らず、隣近所を回るには何かしら持っていったのではないかと。しかし、その頃の宮古で何を御年賀にしたのか知りたくなりました。
弟達に電話しました。2つ違いの弟は名付け親の所には4合瓶のお酒(泡盛。泡盛は高価で一升瓶など買えなかった)その他の家には、おにぎりや豚肉の煮つけなど食べ物が主だったようです。生の野菜やお米までも。
末の弟は黒砂糖を持って行ったという。黒砂糖?どこの家にも有るでしょうと聞くと、キビは工場に出荷し黒砂糖は買って食べた家も多かったとか。我が家の隣は製糖屋でした。そこで黒砂糖にしてから出荷し、家で消費する分は大きなかめに入れて保存していましたが、それを持って行ったようです。(煉瓦のように固めた黒砂糖を釘と金づちで割って ちょうき(おやつ)にしました)宮古の家庭のお年賀に黒砂糖とはびっくりでした。
曾祖母や祖母の実家は丘を(宮古は山と云います)越えた向こう側に有りました。その頃は獣道のように細い山道でした。祖母たちも心細かったのでしょう。荷物持ちも兼ねて私も付いていく事が出来ました。徒歩1時間以上かかりましたが毎年出かけました。唯一私が鉛筆を貰える所でしたから。
残念なことに貰って嬉しかったのは記憶していますが貰った状況を記憶していません。きっと伯父さんか伯母さんに「はい! お年玉」と戴いたのだろうと勝手に想像しています。
正月明けの教室は自慢大会のようでした。束にして持っている子もいました。可愛いですよね。男の子も女の子も鉛筆一本で歓喜していたのです。確かに文房具が貴重な時代でしたが只の文房具ではなくもっと大きな愛が存在したように思います。
昔三角形のコーリン鉛筆がありましたね。お気に入りでしたが少し高価で買えませんでした。一度帰省した時に探し出して1ダース買ってきました。今では製造していないでしょうね。
◇あの話をもう一度
R(平良・西里出身)
「卒業」 vol.143 2007/3/1
沖縄県の県立高校では、毎年、3月1日に卒業式を行う。
25年前の今日、私も、宮古島の高校を卒業し、その数週間後、進学のため島を離れた。きょうだいが、そうだったように「私ももう宮古島に戻らないのだろうなあ」と思い、飛行機から見えた宮古島の風景に「さようなら」と告げていた。
私が卒業した高校は、当時、家政科2クラス、商業科2クラス、普通科8クラスの合計、12クラスあった。それからすると生徒数は、一学年450名は超えていただろう。普通科も前半クラスと後半クラスに分けられ、顔も名前も分からずじまいで3年間を過ごしてしまった同級生もいる。
まだ、メリケン粉投げが禁止されていなかった時代で、式が終わり校門をくぐる頃には、制服は真っ白になっていた。その姿の滑稽さとは裏腹に友と別れる寂しさが募り、また、親元を離れて過ごすこれからの生活を考えると笑えない心境で、顔は なだ(涙)で濡れていた。卒業式後の記念写真には誰の顔にもそんな表情が残されている。
高校卒業後は、その殆どが進学・就職と沖縄本島や本土への進路を決め、数名のみが宮古島に残ったと思われる。
その後、大学を卒業し先生になったり、役所に職を求めたりと宮古島に戻った同級生もいるが、その多くは、戻っていない。私もそのうちの一人。
私は沖縄本島で就職し、その後、結婚したが、仕事を続けたため、宮古島に帰省するといっても1年に1回程度、せいぜい2〜3日と短い間の滞在であった。そんな ぱんたーぱんたぬ(忙しい)日々はまだ続いているが、18年前、1ヶ月余の期間、宮古島で過ごしたことがある。それは、長女出産のためで、「里帰り出産」をしたのだった。両親が健在の頃の話である。
初めての出産は、何がなんだかわからない状況で迎えたが、出産後は、毎日通って入院している私の面倒をみてくれる母にとても感謝した。親への恩を初めて感じた瞬間だった。
当時の宮古病院は、かなり古く、また暗いイメージでパイプベッドが設置された大部屋は、だいず(とても)殺風景だったが、我が子と過ごす空間は、暖かい空気で包まれている気がした。
生まれてきた娘があまりにも可愛いくて、「かあちゃん、なんで赤ちゃんはこんなに可愛いんだろうね」と聞いたところ、返ってきた答えはこうだった。
「(赤ちゃんは、)神様だからさあー」
・・・納得。それ以外に答えはないと思った。
美しくなるようにとの願いを込め、主人と私はその子に「綾(あや)」と名づけた。娘は、歌と踊りを得意として成長してくれたので、有り難い事に私ができなかった親孝行を「おばあちゃん孝行・おじいちゃん孝行」としてやってくれた。
その娘も、今日、高校の卒業式を迎える。4月からは、大阪の専門学校に進むことが決まっている。
先日、母の声の いみ(夢)を見た。娘の入学式の会場から宮古にいる母に電話をしている私がいて、その電話の向こうから「まいふか(よくやったね)、おめでとう」と言ってくれている母の声だった。今では聞くことのできない母の声だった。母は、電話でいつも「いずゆいだし、さーてぃがんばりよー(元気を出して一所懸命頑張りなさいよ!)」と私にエールを贈ってくれていた。
25年前に私を見送った母の心境を今、私も感じている。
私も旅立っていく娘のこれからの生活の無事と成功を願って止まない。
綾、卒業、おめでとう。
いむ(海)の想い出
山雀タヌキ(下地・上地出身)
南海の小島で黒潮の流れに洗われる みゃーくずま(宮古島)。島のちょっと高いところからだと いむ(海)(“む”は“ん”と“む”を重ねたような発音)を眺めることができる。何年か前日本からのお土産として、ポーランドのお客さんに宮古島の海のカレンダーを配り、この海の景色は全て俺が島だと自慢したら、こんな海で泳ぎたいと好評でした。
私にとって、最も身近な いむは、ラムサール条約にて認定された湿地である うくみじゃー(与那覇湾の沖縄製糖側)。やらびがまぱだ(子供の頃)は夕方幼馴染とよく泳いだ。
あさい(カニ、小エビ、貝の採取)も時たま挑戦したが、母方のおばーのようにはうまく採れなかった。今は高級品となってしまった、ぬきゃふ(海ぶどう)は歩くのに邪魔になるほどしげっていた。
弟と潮の引いた潮だまりで、手製の竿を使って がーらがま(ひらあじ)を釣り食べたがおやつの無いやらびぱだの懐かしい想い出です。振りあげた釣り針で弟の耳を釣ったりして、親父には いむしゃーん ないがまたな(漁師 海衆になるのか)とよく怒られたものです。
現在下地庁舎が建っている一帯は、マングロープ(マングローブ)が生茂るドロ深い湿地帯であった。ここはガサミ(マングローブ・グローブ)が採れ、固くて大きなカニ足を げんのう(鉄ハンマー)で割って食べた。今でもカニと言えば、ガサミを想いだします。本当に美味しかった。もう一度たらふく食べたいです。残念ながら、現在ガサミは全く捕れないとの事です。
中学生になると、まいばま(前浜)で泳ぐようになり、ちょっと浅瀬に潜ったりしたが、根っからの臆病者で浅瀬をきれいだと感じたことがなかった。月夜の晩に まいばまの あだんぎーの茂みで かん(カニ)をよく捕ったが、これを食べた憶えがない。
まいばまの岩場で、小さい巻貝である ぴしむーな(和名が分からない)を採り、海水で茹でて、裁縫用の針で身を取り出し食べたのも懐かしい。
私は世界の中でも、最も美しい砂浜は、まいばまだと思っている。夕方来間島と伊良部島の間に落ちる夕日、月夜の浜、波打ち際の透明な波、遠くの海の碧さ、白砂・・・などなど。しかしこの頃は砂浜の幅が減少してきたように感じられ寂しい気持ちです。
高校生のころ、水産高校の瓦葺の教室から 授業中にパイナガマを飽きずに眺めていたことを想いだします。潮の満ち引き、太陽の高さによって海の色が刻々変化する様は、本当に素晴らしかった。こんな景色が見える所に家を建てたいとも思うが・・・。
パイナガマと言えば、水高生にとって1年の夏休みに5マイル(約10キロ)遠泳検定が行われた所でもある。この遠泳検定は進級の単位にもなるため、農家出身の生徒にとっては厳しいハードルであったが、伊良部や池間出身の生徒は早々2時間かからずに完走(完泳?)したが、私は5時間ほどかかったように憶えている。ちなみに女生徒は1マイルでしたが、佐良浜出身の女生徒はか軽く5マイルを泳いでいました。
先生や上級生がボートから飴玉を渡してくれ、海水と一緒に舐めた飴玉の塩辛い味は懐かしい想い出です。パイナガマ沖でのカッター操練も、オールが大きく・長く大変だった。今やパイナガマも整備され、昔の面影は無くなりつつありますね。
4月の初めごろに水高生全員で あーさ(ひとえぐさ)を久松海岸一帯で採取する行事が毎年行われていたが、すでに久松の ぴとたー(人々)が採った後で収穫は少なかった。(この時期の あーさ採取は、久松の方々に迷惑をかけないための配慮であった)この あーさは、佃海苔に製造科の実習で加工し、水高祭りで販売されていた。
現在は、海岸沿いの一周道路が整備され、池間大橋、来間大橋、伊良部大橋が開通し、みゃーくの財産である碧い海を堪能できるドライブが楽しみです。水族館とは趣の異なる海中公園も海の自然を観察できる施設で、ここも楽しめる所ですね。
与那覇湾のラムサール条約指定湿地に象徴されるように、みゃーくぬ いむの美しい自然がこれからも楽しめ、海の恵みが続くことを願いたいものです。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
春らしい陽気が続いて、野の草花も勢いが出てきました。すみれにハルノノゲシ、ルリハコベ、むつうさ(ビデンスピローサ)、やつうさ(ヨモギ)等など。畑や道端にいっぱいです。草取りしなければいけない農家は、大変なんだけど、かわいいがまです。
今月、宮古では宮古島文化協会主催で〜温故知新ー島の自然と文化を味わう〜をテーマに「みゃーく・ワークショップ(文化体験型講座)」が開かれています。4回講座のうち2回まで行われ、「今に生かす手わざの味わい」(講師:新里玲子氏)、「スマフツを話してみよう」(講師:佐渡山政子氏、ケナン・セリック氏)に行ってきました。
長年、宮古上布を織り続けている新里玲子さんのお話、佐渡山政子さんの宮古の諺の話やケナン・セリックさんのみゃーくふつの表記の仕方の提案など、とても楽しく興味深い内容で毎回賑わっています。その時の様子を掲示板に書き込みしていますので、よろしければご覧くださいね。
この後、2月22日(日)「風土に根差した住まいを考える」(講師:伊志嶺敏子氏)、2月28日(土)「島野菜を食卓へ」(川平俊男氏・小原千嘉子氏)と予定されているそうです。宮古にいる方はぜひ行かれてみてはいかがでしょうか?
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
きょうは、旧正月ですね〜。新暦でやる所が多くなったとはいえ、スーパーなどでは、旧正月用として果物などのコーナーなども設けられていました。
大和の宮古人さんの旧正月の話は、普段と全然違う特別な日のなんともいえない昂揚感を思い出しました。お年玉のえんぴつの数を がーりる(自慢する)姿、いいですね。「大きな愛が存在」に納得!食料品や黒砂糖にはびっくりでしたが、想いがいっぱい込められている感じがしました。
宮古の高校の卒業式は、ほとんどの高校生が親元を離れるので、親にとっても子にとっても特別なものがありますよね。赤ちゃんは神様だとすぐ言えるお母さんの凄さ、Rさんの想いと共に何度読んでも胸が熱くなります。掲載から8年。娘さんは大阪で就職をし頑張っているという事ですよ。
ガサミ(マングローブ・グローブと言うんですね!まさに)に海ぶどう、魚に貝など与那覇湾の豊かなこと!子どもの頃、そいういう自然に触れられたのは幸せなことですね。前浜ビーチにパイナガマビーチ。海の表情もいろいろで、思い出は色あせず、宮古の海を誇りに思う気持ちが伝わってきました。
今号も、しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(最後までお読みくださり、ありがとうございました!)
次号は3月5日(木)発行予定です。どうぞ、お楽しみに!
きゅうまい 上等一日でありますように。あつかー、またや〜。