こんにちは〜。
早くも7月。今年も残り半年となりましたが、後半もがんづぅ(元気)でいきましょうね〜。
vol.343お届けです。お楽しみください!
路線バス
大和の宮古人(城辺・長南出身)
私たちが小さい頃(昭和30年代)は宮古に乗用車は少なかった。近場は自転車だったが自転車も1家に1台有るか無いかだった。有ったとしても おとう(父)が乗るので女性や子供は平良に行く時以外は徒歩だった。
城辺は砂川学区、西城学区、城辺学区、福嶺学区と4学区ある。本数は少なかったが路線バスも色々な方向に向けて走っていた。
砂川学区はウルカ又は友利線といい友利〜平良間を運行。西城は西中線長間線。その昔は更竹から長北線もあった。(長北線は早々と廃止になった)城辺と福嶺は分からないがバス会社が保良にあったので同じように枝分かれしていたのではないかと思う。
バス会社は城辺町経営の町営バス(平良〜城辺町役場間)。個人経営の協栄バス(平良〜福嶺間)の2社が走行していた。小学校低学年の頃は他にも1台だけ所有の個人経営があった。覚えているのはシロ―バスだ。多分運転手の名前が四郎さんだったのではないかな。
最近はワンマンカーになり乗務員は運転手さんだけだが、昔は車掌さんがいた。バスガイドさんではない。運賃の徴収や停留所の案内、大きな荷物などの積み下ろしも車掌さんの仕事だった。(男性しかいなかった)。その頃のバスには時々水を足していたが沿道の家から貰い水する為にバケツを持って走り回っていたのも車掌さんだった。
始発バスは朝7時チョット過ぎくらいだった。乗客は高校生が主だった。始発だけは3台通った気がする。3台とも超満員で乗客がバスの入り口からはみ出しており車掌さんは乗客が落ちないように身体の殆どを車外に出して支えていた。
サトウキビの収穫後は家の中からバスが見える、それを見る度におばあが心配していた。「かぬ しゃしょうがまー うてぃだなしい ぴさらがみ いかいでぃべー つんだらーさ むぬゆ(あの車掌さんは落ちないで平良まで行けるかねー かわいそうに)」おとうは「いらんしゅわす°なうてぃん(余計な心配はするな。落ちない)」
始発の折り返しのバスが学校の先生たちの通勤バスとなった。西城には8時20分頃に着いたような気がする。その時間に合わせて登校していると下車した先生たちと一緒になった。
平良に行く時しかバスに乗らなかったが、平良からの帰りに、降りる停留所が近づくと車掌さんに降りる旨告げなければならなかった。何故か知らないが「次で降ります」と言えず道すがらハラハラドキドキ。
現在でも協栄バスは走っている。朝は見たことが無いので高校生が乗っているかどうか分からないが日中の乗客は少ない。宮古に帰っても、ほとんどバスに乗ることはないが、バスが通るとつい気になって見てしまう。
◇あの話をもう一度
宮国勉(城辺・西城出身)
「ばんきぃぎー(桑の木)」vol.226 2010/8/19
クワ(桑)はクワ科クワ属の総称で蚕の餌として、また果樹としても古来利用されてきた。地図記号にもなったほど、桑畑は良くある風景であった。
夏は葉で隠れて判らないが、冬になると がんぷがんぷてぃぬ(瘤が多い様)枝振りの桑の木畑が一面に広がっている。現在でも埼玉の西の方(越生、児玉辺り)から群馬県にかけては桑畑が見られ、養蚕を生業にしているようでる。
また、童謡にも「やまの はたけの くわのみを・・・」と歌われるほど親しみのある木である。私には とすぴ(シマヤマヒハツ)や ぞうかに(グミ)と同様に桑の実は郷愁を呼ぶ果物である。
ばんきぃぎー(桑の木)は、戸ぶすまの取っ手にも使われ、だんだん手垢が付いて味わい深い色になる。クワの木質はかなり硬く、磨くと深い黄色を呈して美しく、一般に桑製品と称され、しばしば工芸用に使われる。緻密な年輪と美しい木目で高級材に属している。
宮古島では昭和38年頃大干魃があったが、おうたふたふ(青々としている)としているのは桑の葉と初夏に白い花の咲く たずなず(サキシマボタンズル)だけであったように思う。ばんきぃぎー(桑の木)には紫色の実がなり、みぱぎびゆま(ひよどり)が大好きでいつも賑やかな鳴き声がした。
子供の頃の記憶に残る ばんきぃぎーは かーずく(溜め池)の周囲の土手に古木が数本立ち並び初夏の実の熟れる頃には、子どもと みぱぎびゆま(ひよどり)が競り合っていた。
ばんきぃぎーが並んでいたのは珍しく、地境に植えていたのではないかと思われる。其処は子供たちの集まる場所で、缶蹴りあそび、かーらきず(瓦蹴りの遊び)、かくれんぼと顔の判別ができない位まで遊んだ。傍の家には かーずくの周辺にあることからカーバタヤーとの屋号がついている。
木から降りてくると口の周り、笑ったら口の中まで紫、まるで ぱーんとぅ(おばけ)である。桑の木レストランは繁盛し、そうやって腹ごしらえをしたら、また遊んだ。「あすぴぶり・・・(あそび惚けて・・・)」と親に叱られた時代が懐かしい。
その、かーずくから南に500メートルほどの処に子宝の神、ビルマ御獄がある。さらに300メートル行くと母の生家が有った まみっつぁである。
まみっつぁ(与那覇ユヌス「ミャーク方言辞典」によると まみっつぁとは豆のような狭い区域の意が込められているらしい。屋敷跡の裏手にはまみっつぁばり(畑)と呼ぶ小さな畑がある。確かに丘の頂上と思われ、そこから西側にかなり下ると、あがいすくばりのかーずくとなる。そのかーずくはほとんど涸れることはなかったが、昭和の大干魃には、メダカがアオコに包まれて必死で雨乞いをしているようだった。
ある日のこと。くぬ かたなー びうぶぃ どうー のーやつん きさいんば(この包丁はまったく切れ味が悪くなった、なにも切れないから)ぶざやー ぬど とぎいっすゅ かいきしゅーきっざ いき かたのうとぅぎくー(叔父さんの家が砥石を新しく買ったらしい、行って かたな(包丁)を研いできて)と母に言われた。
ぶざやー(叔父さんの家)は、ニカドリヤーと呼んで、かーずくの東隣りにある。包丁と鎌を持参して行き、あいさつと用件を告げに家の中に入る。と、一番ざーから2番ざーのすべての畳が取り外され、いつもと様子が違っている。草束が上から吊され、薄暗い家の中は枯れ草の臭いもする不思議な光景であった。
とうーつき みーるばど うぷむすぬ ぶるぶるてぃ たばりー ばんきぃぎーぬ ぱーゆ んまぎなり うぬすく ふぁいゆー(よく気をつけて見ると沢山の白い芋虫が桑の葉を美味しそうに一生懸命に食べている)
棚には むいぞうき のような浅い箱(浅くて大きなざるで麦などの穀物を選り分ける道具)の中には1ミリほどの蚕が ぶるぶるてぃ(うじゃうじゃ)と蠢いていた。その時の情景は、虫嫌いの私にとって恐ろしくて んなままい ばっしらいん(今でも忘れられない)。
心を落ち着かせてから新しく買った砥石が変形するまで、研の世界を満喫した。切れ味を左親指の爪に鎌の刃先を引っかけ、落ちないことを自慢する、つまり切れ味がよいと爪に食い込んで滑り落ちないのだ。勿論、脚のすね毛は試し切りで既に無く、つるつるである。
弟が学校から蚕の成長過程を観察することで、幼虫を2,3匹貰って来たことがあった。最初は緑色だったが白くなり繭をつくり中に閉じこもるまで間近で見ることが出来た。桑の葉を削り取るように食べるのは うぷむす(虫)と何ら変わりが無く、肌も うぷむすである。その時は食べる音は全くなかったが、何百もいるとカサカサと音がする。第一齢〜第五齢と成長していき、第五齢の蚕は繭をつくる。
虫で、がんなずむす(ハンミョウの幼虫)のことを思い出した。草のない地面に3ミリ程の穴を開けて中に住んでいる虫がいる。ガギィナ(メヒシバ)の穂を引き抜いて白く柔らかい方を穴に差し込むと敵または餌と思って食いついて土中より白い虫が引き出される。背中にコブがある幼虫が釣れる。ハンミョウの幼虫だが、方言では がんなずむす と呼ばれていた。子供が駄々をこねる動作がそれの動きに似ているからだと思う。
1、夕焼け 小焼けの 赤とんぼ 負われて 見たのは いつの日か 2、山の 畑の 桑の実を 小籠に 摘んだは まぼろしか 3、十五で 姐やは 嫁に行き お里の たよりも 絶えはてた 4、夕焼け 小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先 (「赤とんぼ」作詞:三木露風)
宮古の預言者、小眞良波按司
ビートルズ世代のサラリーマン(平良・下里出身)
B.サラが中学生の時、国語を担当していたI先生は、時々授業を てぃうう”ぃすてぃ(ほったらかしにして)、宮古島の神話・伝説・民話・由来記等を話してくれた。漲水御嶽の由来である大蛇と娘の話や飛鳥爺の白川浜の弓合戦の ぱなす(話)にB.サラ少年は、胸を躍らせたものでした。
その中でも特に印象深く残っているが、クマルパーズという預言者の話でした。クマルパーズが小眞良波按司の事だと知ったのは、大分後のことで『宮古史伝』慶世村恒任著に出合ってからでした。
小眞良波按司は14世紀半ばに かずまた(狩俣)に在住していた妖術使いで、生まれながらにして神通力を有し占いの名人であったと言う。ハリーポッターの魔法使いのように じゅっつ とぅばす(術を飛ばす)ことが出来たようだ。
小眞良波按司の妹は、あの飛鳥爺を謀殺したイサラ(石原)城の あるず(城主)、思千代按司の夫人であるが、飛鳥爺の従兄である糸数大按司によって、夫である思千代按司と息子を討たれ悲しみに暮れていた。
ある日、妹は小眞良波按司の むとぅんかいきし(元を訪れ)、何としても兄上の秘術を使って夫と子の仇を うちふぃーるてぃ(討ってくれと)頼むのである。
頼みを受けた小眞良波按司は、ソノリんみ(ソノリ嶺)で茅の葉をひとつ取り、呪文を唱え吹き飛ばすとアブ蝿に姿を変え糸数城を目指し飛び去った。城では丁度、按司が厠で耳掻きをしているところで、アブ蝿はその肘に止まった。糸数大按司は、反射的にアブ蝿を殺そうとして どぅがみんゆ(自分の耳を)突き刺しそのまま死んでしまうのである。
なんともファンタジー溢れる物語の展開が素晴らしい。(誰か映画化してくれないかと本気で思ってしまいます。)
小眞良波按司といえば宮古島に関する有名な預言があるので、『宮古史伝』より抜粋して紹介する。
1、上(うえ)や下(しも)なり、下や上なり、アジンが世になり、カムタが世になり。
2、人(ぴと)バラややせり、茄子木(なすぴぎ)が下ん物ば搗(つ)き。
3、ユウサから降(う)りあ 夫(ぷと)もつもつ。
4、ピトリころころ、赤印だらだらとも乱れ。
5、南(ぱい)の島から、大女人(おほめどんぴと)の、白舟(しろふね)がまから、世やなおれ。山のあかすめて青(あお)むばな。
それぞれの意味は
1、上流社会及び下流社会は大きくなって充実し、中流社会は疲弊して細り、上下を取り替えても混同して判別し難く、恰もアジン(兎杵のような形)のような世となり、無階級無差別となろう。そして人々は断髪し前頭髪をのばしてカムタを喜ぶ世となろう。(カムタとは前頭髪の高くふくらむ形を云う)・・・これは社会層を云ったであろう。
2、人ばらとは人類である。即ち人類は次第に短小となり(ヤセリは瘠せりで小さくなりの意)茄子の木の下でも臼を据えて物を搗くようになろうと。・・・これは人類の退化を意味するであろう。
3、ユウサはユサハリで即ちブランコである。ユサハリに乗って遊ぶ程の少年少女が自ら配偶を得ようと焦り、若年輩が淫に走って放縦になろうと。・・・これは風紀紊乱(ふうきびんらん)を意味するであろう。
4、ピトリは各自、めいめい、おのがじじである。世人は皆和衷親愛を欠き徳行はすたれ、互いに信なく、何事につけても赤印づくめに物件登録をもって上策とし、その結果各々なぐり合いの世態となり、共に乱れるであろう。・・・これは道徳頽廃と経済社会の乱調を意味するであろう。
5、南方の島(国)から女人(又は女神の意)が白舟で来る時、世は豊かに栄える。それは島内の山が赤い禿山になった後再び森林帯となって青み来る頃であると。・・・これは何を意味するか定かでない。
以上『宮古史伝』より抜粋
さて、この預言、皆さんならどのように解釈しますか。ただ、B.サラ的には宮古島の将来が予見できるなら真っ先に3つの島が橋で繋がる様が浮かぶと思うのだが、今のところ小眞良波按司にはそのような預言は見当たらない。しかし、その他にも預言があるといわれているので今後何処かでその記録が見つかるかも知れない。
最後に小眞良波按司の遺言を紹介して終わりとする。
「世俗上下を挙げて乱れん時、我が墓石に亀裂を生ずるであろうから、其時其処を開けよ、すると島内はよく矯め直される。」
おしらせ
宮古島市文化協会
■第22回鳴りとぅゆんみゃ〜く方言大会開催
宮古島市文化協会では、くぅとすまい(今年も)宮古方言大会を開催します。7名の弁士の方が登壇し、熱弁をふるう予定です。それぞれの方言を味わいにいらっしゃいませんか?皆さんのお越しをお待ちしています。
日 時 | 2015年7月12(日) 午後5時半開場 午後6時半開演 |
場 所 | マティダ市民劇場 |
入場料 | 900円 |
チケット販売 | 7月3日(金)午前10時〜正午 |
販売場所 | 平良(宮古島市中央公民館)、下地(下地庁舎) 上野(上野公民館(改善センター))、城辺(城辺庁舎) 伊良部(女性・若者等活動促進施設) |
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
先月19日から、東京に来ています。東京は晴れたり、雨が降ったりとまだ梅雨が続いています。宮古は、なんず雨が降らないので、干ばつがしわ(心配)ですね。
21日は、菜の花がセッティングしてくれて、宮国優子さんのお店「Tandiga-tandi」でオフ会でした。御嶽の深い話から ぱずがっさの話まで、意見を交わしたり、うぷあまい(大笑い)をしたりと、だいず楽しい時間を過ごしました。皆さん、たんでぃがーたんでぃでした。
24日は、下地勇さんのライブが大船の「花いちぜん」という居酒屋さんで行われ、菜の花と久しぶりの単独ライブを楽しんできました。勇さんはとてもパワフルでファン思いで、いつーまい(いつも)素敵ですね〜。
28日は、関東上野郷友会と下地郷友会の総会・懇親会がホテルグランドパレスで行われました。60名余り うがなーり(集まり)、上等な時間を過ごしました。私にとって最後の総会・懇親会となりましたが、6年間郷友会関わることができたことは本当に幸せなことだったと実感。今度は宮古から何かお返しができればと思っています。
くま・かま掲示板で、それぞれについて書き込みをしていますので、こちらもぜひご覧くださいね。
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
大和の宮古人さんの「路線バス」の話は、懐かしく読まれた方多いでしょうね。あの頃は老若男女、んーな(みんな)バスを利用していました。車掌さん、大活躍でしたよね。なるほどと思ったのは、協栄バスの経営者が保良の人という事。保良から平良(市街地)まで遠いので保良の人たちのためにと始めたのでしょうね。
今、「ばんぎぎー(桑の木)」は、少ないですねー。木を見つけると、ぽからすーと(うれしく)なります。木の質や利用方法まで詳しく書かれてさすが宮国さんですね。懐かしい思い出というだけでなく、昔の暮らしの貴重な資料にもなると思います。時季と重ねて、再掲載となりました。帰ったら、ばんぎぎーゆ とみみーでぃー(探してみようっと)。
B.サラさんたちに宮古にまつわるいろいろな話を聞かせてくれたI先生は、素晴らしいですね。クマルパーズが いみっちゃぬ(小さな)アブ蠅になって飛んでいきやっつける様子は、スピード感もあり、まーんてぃハリーポッターの世界のよう。その他の予言は、そうならないようにと戒めたのでしょうか。クマルパーズは、いろいろな顔を持っていたんですね。
6月から宮古島市文化協会で仕事をしています。大人気の方言大会が近づいてきました。ばんたが(我らが)、クイチャマンさんこと垣花譲二さん、與那覇淳さんも登壇しますよ〜。ぜひ、お越しくださいね。
貴方の感想をぜひお寄せください。
掲示板での書き込みもお待ちしています〜。
きゅうまい、しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました!)
次号は7月16日(木)発行予定です。
きゅうまい(今日も)上等な一日でありますように! あつかー、またや〜。