こんにちは〜。
まいにつ、あつむぬやすが(毎日暑いですが)、がんづぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?
今回は、崎田川の特集をお送りします。
ぴっちゃやらばん(少しでも)涼しさが届きますように!
崎田川
松谷初美(下地・高千穂出身)
川がないと言われる宮古島だが、いみっちゃぬ(小さい)川がある。下地は上地にある「さきた川」。「崎田川」や「咲田川」「酒田川」と表される。下地町誌には「崎田川」が多く記されているので、私もこれにならって「崎田川」としました。崎田川にまつわる、あれやこれやについてかき みーっとー(書いてみますね)
<源流>
崎田川は沖縄製糖工場の にすかた(北側)にある小高い山「宮星丘」(こういう名前とは、すさったん(知らなかった!))の麓にある、ピサガーを源とし、そこから与那覇湾に向け流れている。全長900メートル川幅2メートルの川だが、水量はとても豊富でどんな干ばつにも枯れることはないと言われている。(崎田川は一般にピサガーが源流と言われているが、近くに湧水は複数あるようだ。兄はピサガーの反対側の湧水でもよく遊んだということだが、今は見当たらない。また、嘉手苅方面にしても水路があり、そこが源流ではないかと言う人もいる)
ピサガーは下地の人にとって、思い入れのある場所だ。私も学校の帰りによく立ち寄って、手ですくって水を飲んだり、足を入れて遊んだりした。とてもきれいな水で、ひんやりとしていた。川の周りには、草も青々と育ち、両親は いきむす(家畜)のために草を刈りによく来たという。
<簡易水道>
1963年7月。その年はひどい干ばつがあったそうで、町民の水不足を憂慮した当時の下地芳蔵町長は、宮古の他町村に先駆けて、水道施設の計画を議会に提出し、同年9月に宮星山頂に浄水場を設置。上地、洲鎌の一部、小中学校に給水したということだ。その後宮古島用水管理局に移管。今でも、宮星山頂には配水池があり、(筒状をしており、あがた(遠く)からでもすぐ分かる)宮古島市上下水道部が管理している。
<生き物>
やらびぱだぁ(子どもの頃は)水のことばかりで、周りにいる生物のことは気にしなかった。魚がいたのか、虫などがいたのか、まったく記憶がない。大人になってから見ると、黒っぽい魚や、それをねらう鳥、アメンボ、糸トンボ、蝶々などが見える。でも残念ながら名前は知らない。
これまで、大学の先生や宮古高校生物クラブなどが調査に入り、いろいろな生物が確認されているようだ。「宮古島崎田川にて採取されたツノナガヌマエビとニセモズクガニ」藤田喜久・北村崇明(「宮古島市総合博物館紀要第14号」平成2010年発行)によると、表題の通り、ツノナガヌマエビなどの甲殻類が数種類採取されているとのこと。またテラピア類、グッピーなどの外来生物も生息していて「これら外来生物の駆除をすすめ、河川環境を良くすれば、さらに多種の十脚甲殻類が確認できるようになるかもしれない」と記されている。
<あーぐ(歌)>
崎田川は、歌にも歌われている。民謡「酒田川」は有名で、マツカニさんも「酒田川 どうかってぃ解説」の中で、お祝いの席でよく唄われる唄としてhttps://miyakojima.jp/kumakara-kamakara/vol-67/#chapter-1紹介している。ここでは、「下地町誌」(1969年)に載っている「咲田川のあやぐ」を紹介します。(酒田川と ゆぬぐーの(同じ)歌詞もあるが違うところも)
ー 咲田川のあやぐ ー 1.咲田川の水だき いでさざれ水だき (囃)いらよーまーん水だき 2.下からやばき上り 上からや漏り添い 3.飲みばまいぴならん つぎあいまいふぐまん 4.手のふぎんいらまあん うさぎばらの出てきやまい いらよーまーん ざうしやぐ ※ 5.月のちびんいらまあん 見上げばら出てきやまい ※同じ 6.やらぶざらまかない みのぱまあいまかない ※同じ 7.うまうまていじやーうさぐ かばかばていぢゃあうさぐ
註 上地、洲鎌から貢納布を納める時に歌ったものである。上布原料糸を漂泊する、咲田井の水は清浄で漂泊した糸は純白で少しのよごれけがれもない。丁度純情可憐、素絹にも似た娘心のようだ。この真水は下からは湧き、上からは降りそそぎつきる所がない。この盃を御受け下さいませ。いくらでもお注ぎしましょう。たよりにしているのはあなただけ、信頼の真心をこめて差し上げましょう。
<池田矼>
池田矼は、崎田川の下流、与那覇湾に近いところにある石橋だ。平良から下地線を上地方面に向かい、沖縄製糖工場の手前左側にある。昔このあたりは、湿地帯で、満潮になると歩くこともままならないほどだった。1506年、仲宗根豊見親は川満大殿に命じ石橋を架設させたが、大雨の為流されてしまう。その後、沖縄から専門の石工が派遣され、文化13年(1816年)池田矼が竣工された。当時の橋のままではないようだが、今もアーチ型の美しい石橋はあり、道路から奥まったところにひっそりと佇んでいる。
<沖縄製糖株式会社宮古工場>
沖縄製糖は、大正12年2月12日に工場が落成し、同年2月24日から製糖作業が開始された。この地(当時下地村字上地)に決まるまで、三カ所の候補地があり、誘致合戦がすごかったらしい。町誌(1969年)によると、「亮々と大空高く鳴響く汽笛、轟々たる機械の操音等は堕夫をして起ち上らせ、島民は文明の素晴らしさに驚いた」とある。当時の様子が生き生きと伝わってくる。そういえば、私が子どもの頃、会社と言えば、沖縄製糖の代名詞だった。会社というものはそこしかなかったからだね。
工場がここに来たのは、崎田川の水が豊富なことも理由になったと思う。機械を冷やすのに大量の水が必要らしい。そして んきゃーんな(昔は)、大量の水で冷やした後のお湯を使い、お風呂にしていたそうだ。住民にも開放していたようで、両親も若い頃ここのお風呂に入りにきたと話していた。製糖工場では、んなままい(今でも)、崎田川の水を冷却水としてポンプでくみ上げ、利用しているということだ。
<与那覇湾>
与那覇湾は、2012年ラムサール条約に指定された。海水と淡水が混ざる、生き物たちがたくさんいる豊富な海である。崎田川は、ピサガーからここまで流れている。30年以上前までは、ここには、天然の んきゃふ(海ぶどう)が豊富にあった。んきゃふは、淡水と海水が混じるところにできる。与那覇湾には、崎田川からだけでなく、他にも湧水が出るところがたくさんあり、以前はもっと豊かな海だった。カニもたくさんいたが、どういうわけか、今はほとんど見ることがない。天然の んきゃふも姿を消した。その理由は分からない。潮の流れが変わったのか、はたまた、陸地からの栄養が少なくなったのか・・・。今、鳥たちが羽を休めたり、舞う姿がよく見える。また、トントンミー(トビハゼ)やミナミコメツキガニの大群も見られる。それから、海の色のグラデーション。天気によりその配色は変わり、薄い水色から濃い青まで姿を変える。そして、周りの緑。何とも素晴らしく見ていて飽きるということがない。
<崎田川緑地公園>
この5月、ピサガーに行って驚いた。何やら工事をしている。トラバーチンの石が積み上げられ、ピサガーの入口がきれいになっている。そして、先月「市が水遊びの場を創設」と宮古毎日新聞で報じていた。池田矼をイメージして作られたそうで一括交付金を利用し、公園を整備しているということだ。先日、見にいくと やらびたー(子どもたち)が、歓声を上げて水遊びをしていた。水は滔々と流れ、透明感があり、清流ということばが、ぴったりする。して、宮古にも川があるんだよねーと誇らしい気持ちにもなる。水を見ると、なんでこんなにも安らぐのかね。ぴるますむぬ(不思議だ)。これから、周りも整備され、ますます水に親しみやすい環境になることでしょう。与那覇湾にそそぐ川沿いもきれいになり、入れるようになれば、ばんまい(私も)そこに住む生き物たちを観察したいと密かに思っている。
※参考資料
『下地町誌』(1969年、1989年、1999年)
『宮古島市総合博物館紀要第14号』
『新版 宮古の史跡を訪ねて』宮古郷土史研究会
ご一緒に『んきゃーんじゅく』(6)
さどやませいこ(城辺・新城出身)
〜川の種を分ける話〜
みゃーく(宮古)の んきゃーんばなすんな(昔話には)、ぴるますぱなすぬどぅ(不思議な話が)だぅ(たくさん)ありって、「まさか」と思えるような話が出てきますが、今日の話も「ん、川の種?」「かぁんどぅ たにぬ あーなぁ(川に種があるの)」と言われそうですが、この話は、30数年前に当時80歳の佐渡山マツさんというおばあが話してくれました。
んきゃーんどぅ(昔ね)、新里村の司屋うたきの つかふん(近くに)、はやり病に罹って体中、膿だらけの男の子がいました。村の人たちは、っしやな(汚い)子だと言って毛ぎらいしていました。
ある晩、おとう(父親)が息子を呼んで「つんだらっさ(可哀想に)おまえは、みんなの嫌われもんだから、村から離れた野原嶺に住んだ方が良いかもしれない。そこには、水も豊富にあるし、誰もめったに行かないところだから、人の目を気にせず自由に暮らせると思う」と言いました。
男の子は、父親の言うとおり、野原嶺に行き、一人で住むことにしました。そこで木の実を採って食べたり、火をおこしイナゴを焼いて食べたりしていました。
ある日のこと、田んぼのあぜ道でイナゴを捕っているいるうちに、竹やぶに入り、誤って竹の切り株を踏み外しました。そのとき足に大きな棘が入ってしまいました。あまりの痛さに「あがー、あが、助きふぃーるー(助けてください)」と泣き叫びました。
その泣き声を聞きつけて、やってきたのは野原村の人でした。しかし、近くまで来てみると、汚い膿だらけの男の子でした。「アガイ、っしゃなさ〜(汚いな〜)お前は病気もちじゃないか、汚い、誰が知るもんか」と言って見捨てて行ってしまいました。他にも何人もの村人が通りかかりましたが、みんな眉をひそめて見捨てていってしまいました。
そこへ、下地の洲鎌村の農夫が牛に水を飲ませるためやってきました。そして、助けを求めて泣き叫んでいる男の子に気が付きました。「あば!のぅすたりゃー(あら、どうしたの)」。よく見るとはやり病の男の子は、足に大きな棘を刺したまま、動けずにいるのです。「アガイ、アガイ〜たすきぃふぃーさまちぃー(助けてください)」と、口を歪めているので、「つんだらっさー(可哀想にー)」と言って、棘を取ってあげました。
男の子はようやく笑顔になって「タンディガータンディ(ありがとう)」と何度もお辞儀をしました。そして、「お礼に何かさしあげたいのですが、こんな体ではどうすることもできません」と言いました。すると、洲鎌村の農夫は「いやいや、お礼などいらぬ、ただおらの村には水が少なくてなぁ。そこの川の水を分けてもらえると助かるのだが」と言いました。
男の子は「そんなことたやすいことです。こんなんでお礼ができるのであれば」と言って、びう”がっさ(クワズイモ)の大きな葉っぱに川の水を包んできました。「この水は、島にどんな干ばつがやってきても枯れることがなく、とてもおいしいお酒のような水です。命も若返りますよ」と、呪文でも唱えるように差し出しました。
洲鎌村の農夫は川の水を受け取ると、「たんでぃがー、たんでぃ。これさえあれば、おらの村もこれからは水に困らないだろう」と言ってそろ〜りそろ〜り、水をこぼさないように、ぬかーぬか(ゆっくり)村に帰りました。牛さんもひもを農夫の腰に巻かれて、そろ〜りそろ〜り、付いて行きました。
ところが、農夫は村へ帰る途中、下地のツンフグ辺りまで来ると、石につまずいて倒れてしまいました。その拍子に水はこぼれ、見る見るうちに地面にしみ込んで、やがて消えてしまいました。「あが〜い」がっかりしている農夫の目の前に、あり得ないことが起こりました。
いま消えたはずの水が地中から湧き出したのです。そして、とうとうと流れだし川となりました。農夫はただただ大喜び、その場で「ヒヤサッサ」と小躍りしました。
いまでは、この川をピサガーと呼び、沖縄製糖の側を流れる酒田川(さきたがー)に注いでいるということです。ぴさとはつま先のことで「ぴさをきる」は、つまずいてつま先をけがすること。農夫が「ぴさをきズたぁ」ことから「ピサガー」になったといわれています。地名にはいろいろ訳があるようです。(うすか)
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
7月25日、26日と「宮古島夏まつり」が行われました。今年は10年ぶりにパレードが復活とのことで、男性が女性に扮したおなじみの「狩俣のイサミガ」や「荷川取のクイチャー」、「川満の棒踊り」などが、沿道の途中途中で演舞を行い、市街地を練り歩きました。沿道は、やまかさ(たくさん)の人で大賑わいでしたよ。太陽が照りつける中でのパレードは、大変だったと思いますが、伝統芸能がたくさん見られて、すごく良かったです。最終日の夜は、大綱引きも見ました。初めてみましたが、迫力がありましたね。今年は西が勝ったので、豊漁の年となるそうです。
さて、今回の くま・かまぁ のーしがやたーがらやー?
ピサガーの改修工事の様子を見て、崎田川について調べてみようと思いました。思いがけず、下地町誌の1969年版にいろいろなことが書かれていて、沖縄製糖工場の創立時のことも分かりました。工場は、先の戦争で焼けてしまい、工場に資料などはほとんど残っていないということでした。また「宮星丘」という初めて知る地名もあり、へぇーと思うことも。「みやほしおか」と読むらしいのですが、方言での名前もあるはずーと思っています。どなたかご存知の方は、ぜひ教えてください。崎田川周辺は、見どころがいっぱいです。この夏、出かけてみるのはいかがでしょうか。
せいこさんの、んきゃーんじゅく〜川の種を分ける話〜、うむっしでしたね〜。ピサガーの名前の由来がよく分かりました。そして、あたらか(大切)な想いのある水であることも。今でも脈々と流れる水を思うと、そういう人の想いも受け継いでいきたいものだと思いますね。それにしても、ピサ(つま先)を蹴ったから、そう名前が付いたとは。みゃーくのぴとぉ(宮古の人は)、名前つき名人やー。
貴方の感想もぜひお寄せくださいね。
掲示板での感想もお待ちしています〜。よろしくお願いします。
きゅうまい、とずみがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました!)
次号は8月20日(木)発行予定です。
お互いに、あつさん まきんようん いらー(暑さに負けないようにねー)
あつかー、またやー!