こんにちは〜。
残暑もぴっちゃ(少し)和らいできた感じですが、ぞうかりうらまずなー(お元気ですかー)?
vol.346お届けです〜。お楽しみくださいね。
ご一緒に『んきゃーんじゅく』(7)
さどやませいこ(城辺・新城出身)
〜食いしん坊の神様〜
やがてぃ、すとぅがつ やぁ(やがて旧盆ですね)。ぐそぅ(後生)の正月 てぃ あっザぃうーてぃ(言われていて)、ご先祖さまと会食できる日。昔は、ご馳走が正月とジューロクニツとお盆にしか食べられなかったので、待つかにぃーうーたーさぁ(待ちかねていたね)。何より、親戚のみんなと会える日でもあり待ち遠しいものだった。今日の んきゃーん話はお盆にまつわるもので、「ありえなーい」と思うかも知れないが、それが昔話のうまみよ。
んきゃーん どぅ(昔ね)、おじいが ぱり ぬ 片隅ん(畑の片隅に)古墓があったそうな。ぱりすぐとぅ あしぃ(畑仕事をして)昼どきになると、おじいはその墓の前で弁当を広げた。そこへ神さまがあらわれ、大そう親しくなったそうな。
お盆になると、死んだご先祖は神さまになって、自分の家に帰ることになっていた。ところが古墓の神さまは帰る家がありません。そこでおじいは、畑の神さまも家族の一員として「一緒にお盆をしませんか」と誘いました。畑の神さまは喜んで三日間をおじいの家で過ごすことになりました。
あすぅがどぅ(ところが)、ぴるます くとぅん(不思議なことに)、供えられたごちそうがみんな消えてしまいます。「これまで、お盆の供え物に手をつけた神さまはおらんかったのに、畑の神さまは出された物は全部食べてしまう。不思議だ」とおじいもその家族も頭をかしげた。しまいには、子どもたちが食べている物まで取り上げようとする。とうとう子どもたちは、お盆にしかない んまむぬ(ごちそう)が食べられないのに、といって泣きだしてしまいました。
それでも、おじいは誘った手前、家の人たちには我慢してもらう以外にありません。はらはらしながら三日間を過ごしましたが、送り日には、家の神さまも畑の神さまも仲良く帰って行ったので、おじいは、胸をなでおろしました。
家の神さまはごちそうを減らすことはありませんが、珍しい神さまもいるもんだと、おじいは反省し、それからはお盆が来ても畑の神さまに声をかけることはありませんでした。
(話者=城辺字比嘉の池間利盛おじい)
<あまズむぬゆん(余話)>
貧しかった幼い頃、きざズ(伝統行事)の度に、あんなに待ち焦がれた「三枚肉」や「焼キ豆腐」「昆布の煮物」「あギぱんびん」「かまぼこ」「もち」・・・普段食べられないものばかり。今はどうだろう。毎日、きざズのようで「ハレ」と「ケ」の区別がつかなくなった。それは考え方によっては、感謝の気持ちが薄っぺらになり、何が本当の喜びで、その反対が悲しみで、というメリハリのつかない子どもたちが増えたように思う。親の責任でもあるだろうが、地域でこうした伝統文化の在り方を考える必要があるかもしれない。子どもたちの心が豊かになるのも私たち大人の考え方ひとつデアルサー。
(※方言の中舌音は、カタカナで記しました)
◇あの話をもう一度
ひさぼう(平良・西仲出身)
「ミャークフツ講座 ミャークフツの始まり編(3)」vol.135 2006/11/2
この表題で一番理想的な形は、今から三千、四千年前の古くから宮古島には人が住んでいて、連綿とミャークフツを今に語り継いでいるという展開である。そうすれば日本列島に成立した最も古い日本語、“縄文語”をお聞きになりたい方は宮古島へどうぞということになる。ところがそうは問屋がおろさないハードルがいくつもある。
1. そもそも“縄文時代のことば”というのは想像の世界でしかない。いくら宮古方言は縄文語の生き残りだと言ってみても仕方がない
2.また、日本列島に住む人間のしゃべることばが「日本語」として成立したのはいつか、地理的にはどのあたりかという問題については、おそらくそれを解決する手立ては無い。
3.さらには肝心の宮古島に昔から今までずっと絶えることなく人間が集団で住んでいたという考古学的証拠があるわけではない。上野の野原で見つかったピンザアブ人が26,000年前の旧石器時代人、それからいきなり2万年以上とんで本土の時代区分で縄文・弥生時代の遺跡が5カ所(多良間1、城辺4)、さらに千年以上経って12、3世紀以降のものが80数カ所というのが現状らしい(仲宗根将二さんの「宮古の歴史」)。
しかも生活様式が11世紀まで自然採集、そこにあるものを採って食べる生活である。そんな中で2千年も3千年もミャークフツを語り継ぐ人口を維持していけたかという問題である。いくらなんでも宮古島は自然採集で2千年も生活するには狭すぎる。宮古島を畳一畳とすると沖縄本島は畳八畳である。さらに全国まで拡げると沖縄全島の面積は日本全国の面積の0.6%にしかならない。
4.その沖縄本島も10〜11世紀まで生活様式は「貝塚時代」であり、人類学者や考古学者が言うのにはそれ以降のいわゆる「グスク時代」の人間と「貝塚時代」の人間が同じだという証拠は今のところ見つかっていない。なお且つ本土の縄文人と「貝塚時代」人とは同じではないらしい。要するに今の沖縄人のルーツが連続している証拠は未だない。宮古島より桁違いに遺跡数の多い本島でさえこんな状況である。
5.さらに生活文化の違いがある。奄美・沖縄本島には本土の縄文・弥生文化の影響が認められるのに対し、宮古・八重山諸島にはそれがない、むしろフィリピンなどの南洋諸島の文化に近いという。そうすると最悪の場合(?)宮古・八重山人は南洋人ということにもなる。
余談ながら宮古方言を聞いたという最古の記録が中国の「元史」・「温州府志」にあり、これが1317年のできごと。これには「宮古人」が「密牙古人」(保良の人?)と書かれているらしい。当時、沖縄本島は統一王朝ができる前段階で宮古島の与那覇勢頭豊見親が中山王に朝貢したという記録が1390年。このあたりから宮古・八重山の文化はやっと本島文化と交流を始めたらしい。
以上のハードルのうち、実感としてやはり無理かと思えるのは「島で住み続けること」の厳しさである。平穏な時ならまだしも孤立した状態で、台風、地震、津波、マラリア等に襲われてはどうしようもない。やはり縄文時代から途絶えることなく同じ系統の人たちが生き続けたとするのには無理があるように思えてくる。
確かに人は住んでいた。しかしこれらの人間が今に続いているという確証はない。
そうすると、古い時代から宮古島に居たのではなくて、古いことばをもってより新しい時代に島に渡って来たと考えるしかなくなってくる。
日本語
1.本土方言
2.琉球方言
(1)奄美方言
(2)沖縄方言
(3)宮古方言
(4)八重山方言
(5)与那国方言
“日本語は列島各地の方言の中から育ってきた。そして未だに古い日本語、祖語に近いことばを残しているのは琉球方言であり、中でも宮古方言は音韻、文法、語彙いずれにおいても日本語の最も古い姿を保持している”と、これが正しい、としてそれではなぜ宮古方言がそうなったのか。
これを考える土台として、外間守善さんが書かれた『沖縄の歴史と文化』(中公新書)を読むと、次のように書いてある。
「沖縄語のあゆみについて、私は次のように考えている。歴史的出発をほぼ二、三世紀から六、七世紀頃、方言化への傾斜を十一、二世紀頃、沖縄語と文字との接触を十三世紀頃、文字による表記法の確立を十五世紀末頃、そして十五、六世紀に文献時代に入る、というとらえ方である。 これは、服部四郎による言語年代学的研究やオモロ語を中心とする古語の比較研究、隣接諸科学の研究成果を援用しながらの仮説作業である。このような手だてで探り得た範囲では、今のところ、二、三世紀から六、七世紀頃にかけて、日本祖語から本土に広がっていく日本語と、九州を経て南の島々に渡っていく沖縄語に分岐したのであろう、というふうに考えられる。・・・十一、二世紀頃になって沖縄の言葉は、初めて「方言化への傾斜」を始めることになったわけで、それまでは日本語と沖縄語はほとんど同一か、それに近い姿をもっていたであろう、と思われる。」
この中で気になるところが「・・・十一、二世紀頃になって沖縄の言葉は、初めて「方言化への傾斜」を始めることになったわけで、それまでは日本語と沖縄語はほとんど同一か、それに近い姿をもっていたであろう」というところである。
ここで「沖縄の言葉」および「沖縄語」を「琉球方言」と読み替えると「宮古方言」は「琉球方言」のグループに入るから、この考えだと「宮古方言」は平安・鎌倉時代の十一、二世紀頃まで「日本語」とほとんど同じだったということになる。これはおかしいからここでいう「日本語」とは「琉球語」と分岐した二、三世紀ないしは六、七世紀頃の「本土方言」ということであろう。さらに「方言化への傾斜」というのは「琉球語」が「日本語」からだんだん遠くなっていった、変わっていったというのではなくて、「中心」の「日本語」はどんどん変わっていったのに「周辺」の「琉球語」は取り残された、変わらなかったということであろう。
同じことが「沖縄方言」と「宮古方言」との関係にもあって、琉球王朝をつくりあげたり、薩摩の直接支配を受けたりした沖縄本島では「沖縄方言」はどんどん変わっていったのに対し、隔絶した孤島の「宮古方言」は取り残された、変わらなかったということであろう。なぜに宮古方言がより古いことばを保持しているかの理由はおそらくこれである。
つぎに今に続くミャークフツを話す人たちはいつ宮古島にやって来たかという問題である。
さきの外間守善さんの記述に出てきた服部四郎さんに『日本語の系統』(1971刊)という著書があってその中で、“「沖縄方言」と「宮古方言」の言語年代学的距離は700年を越える ”と書いてあるという。そうすると、「宮古方言」と「沖縄方言」が分かれたのは計算して13世紀以前ということになる。しかしこれだと前述した与那覇勢頭豊見親が首里の中山王に朝貢したという1390年に既に本島では宮古方言はまったく通じなかったというからこれでは近すぎる。それで試しに1390年から700年さかのぼると690年以前ということになり「宮古方言」と「沖縄方言」は6、7世紀頃に分岐したということになる。
今に続くミャークフツを話す人たちは、宮古島に“農耕をもたらした人たち”ではないかという本もある(『島の先史学』高宮広土著 ボーダインク刊)。しかしこれだと、宮古島の古い人たちは、ヤマトガム(大和神)としてこういう人たちを拝んでいるから、宮古島でクワ、カマを使って農業を始めたころには既にミャークフツは使われていたと思われる。
ところが、クワ(鍬)のことは“FFATSU(っふふぁつ)”、カマ(鎌)のことは“ZZARA(い゜さ゜ら)”と言うこのよその土地の人が聞くと奇妙な発音は12世紀の始めごろには既にあったと思われるけれども、それじゃあこの発音はどこから来たかということになると、やはり農業を宮古人に教えた人たちではないか、農具の名まえは農業といっしょに入ってくるのが普通だろうとも思えてくる。
宮古・八重山は三千年前から11、12世紀まで南方系石器文化圏にあって本土どころか沖縄本島とも交流がなかった。ところが遺伝学や形質人類学によると、今の「琉球人」は沖縄本島だけではなく、宮古・八重山も含めて北方系になるのだという(『沖縄人はどこから来たか』安里進・土肥直美 共著 ボーダインク刊)。そうすると人口が増大する12世紀以前の先史時代の宮古の人たちと北方系すなわち九州から南下した人たちとの混血がこの自分たちかと考えたりする。
ミャークフツの始まり・・・
んなだ のおまい っさいん(未だ全然わからない)。
かなす(愛しい)母ちゃん
キムキム(平良・西里出身)
母ちゃんは赤い口紅を持っていた。一本しかないその口紅は古い鏡台の小さな引出しに大切にしまわれていた。鏡台は、どういうわけか裏座とよばれる家の中では「楽屋」のような暗い部屋の隅っこに置かれていた。家の北側にあり四畳半ほどの広さだったろうか。
母ちゃんは、いつもカチャカチヤと慌ただしく化粧し、最後に口紅をつけた。赤い口紅をつけた母ちゃんは あぱらぎ(美人)だった。でも、母ちゃんはちり紙を取り出し、せっかくつけた口紅を拭きとってしまう。紅色はうっすらと残るだけだった。
「母ちゃん、なんで拭いているか?きれいなのに」と私は聞くのだが、
「紅い口では、仕事に行けんさ。あがい、子供は余計なことを心配しないでいい」と取り合ってくれなかった。
その日学校から帰って、母ちゃんはまだ帰っていない。ねぇねぇもまだ学校から戻っていない。私は薄暗い裏座で、こっそり鏡台の引き出しをあけ、母ちゃんの口紅の蓋をそっとあけた。そこには大人への憧れと秘密のにおいがあった。くるくると回して、口紅を思いきり長く出してみる。ドキドキしながら唇に塗ってみることにした。楽しい時間になるはずだったが、力を入れると口紅は根元からポキンと折れた。あがんにゃ、しまい。んにゃさいが・・・(ああ、どうしよう。大変だ・・・)
折れたところをあわててくっつけてみたけど、グニャリと曲がってしまった。夕方になって帰って来た母ちゃんは私の顔を見て、「子供は、口紅を塗らんでもかわいいよ」と言った。だがそれだけだった。ひどく叱られると思っていたのに拍子抜けだ。母ちゃんは、次の日から小指で口紅を塗っていた。戦後の物のない時代だったけど、質素な暮らしの中に美しいと思うものがあった。私は母ちゃんの大切にしているものに惹かれた。
夏休み、もくもくと夏の雲が湧きあがる日は、夕方になると うぷあみ(大雨)が降った。ゴロゴロと雷まで鳴ってきた。「雷だ。ねぇねぇは傘持って行かなかったさ〜迎えに行くよ」姉の学校まで子供の足で15分ほどかかる。母ちゃんは「すぐ止むから大丈夫。雷がくるから家にいなさい」と言った。
でも、私はわくわくする楽しいことを思いついていた。(ねぇねぇを迎えに行く時、母ちゃんの上等な傘を差して行こう。そう、母ちゃんの綺麗な刺繍の入った淡い藤色の傘がいい)「行ってくるから〜」私は言うことを聞かず母ちゃんの傘を差して家を飛び出した。ぷからっさ(うれしさ)のあまり、私は雨の中をスキップしながら走った。途中から強く降り出した雨に傘はブツブツ音を立てた。心なしか傘の藤色が濃くなった気がした。
得意になって迎えに行った私にねぇねぇが言った。「ぷり(アホ)、これは母ちゃんの大事な日傘だよ。雨の日に差したら、やぶれるさ〜」日傘というものがあることを私は知らなかった。傘は雨の日のものと思い込んでいた。
帰り道は行くときとは大違い、日傘をたたんで、ねぇねぇとひとつの傘で、ザゥー(びっしょり)と濡れながら帰った。家までの道は遠かった。帰ったら母ちゃんに叱られる。それより上等なこの傘は駄目になってしまったか。家に戻ると、「アガイー、何でもやってみせんとわからんさ〜ね」と母ちゃんは、イヒーガ、アハーと笑った。その後も、母ちゃんは、天日で乾かして使っていたから、やぶれんかったみたい。
靴箱には、1年に2回ぐらいしか履かない母ちゃんのハイヒールが箱に入れてしまってあった。履くと靴の甲までしかない私の足だが、歩くとコツコツと音がして、大人になった気がした。いつまでも履いて歩き廻った。そのハイヒールのかかとのピンを折ったのも私。卒業式に、母ちゃんはセメダインでかかとを修理して履いて来た。
あの頃、いたずらばかりして母ちゃんを困らせていた。母ちゃんはどんな気持ちで私を見ていたのだろう。本気で叱っていたのだろうか。
母ちゃんの一周忌に、思い出すことは、やらびぱだ(子どもの頃)の事ばかり。暑い暑い日々、今日も母ちゃんに貰った日傘を差して出勤する。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
ぶーぎ(キビ)の夏植えをする姿が うまかま(あちこち)で見られます。暑い中での作業は、大変なもの。最近は、サニ(種)を切る時、パラソルを立ててやっていることも多いですね。この夏に植えたキビは、再来年の収穫となります。長―い時間をかけての成長。やらばど(だから)ぶーぎ(キビ)は、つーばー(強い)なのかもしれないですね。
「アートキャンプ2015in宮古島アール・ブリュットとの出会い展」が宮古島市中央公民館で8月12日〜16日まで行われました。
この展示会は、県内の障害のある人たちの作品を展示するもので、2001年に始まったとのこと。作品は、紙とペンだけのものやセロファンや牛乳パックで作ったもの、ぬいぐるみ、針金作品など多岐に渡り、またどの作家も他と似るところはなく、その人が表れているような個性あふれる内容で、とても楽しく、面白く、美しく、見ていて飽きることがありませんでした。自分の内側からあふれるもの、これが好きというもの、人は とーまい(誰でも)それぞれの宇宙を持っているんだなーということを思いました。上等でしたよ。
宮古には本当にたくさんのイベントがあって、全部を見るのはなかなか大変ですが、とてもいい刺激をもらえるなーといつも思います。
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
今年の旧盆は8月26日〜28日。お盆がやがてということで、せいこさんはそれにまつわる話を書いてくれました。んきゃーん(昔)そんな神様がいたんですね。やらびぱだ(子どもの頃)お供えの果物や、あぎぱんびん(天ぷら)など、送り火の後に食べるのが楽しみだったことを思い出しました。飽食の時代、もしかしたら、また食いしん坊の神様は狙っているかも!?
宮古方言についての疑問、やまかさありますねー。方言の語源について聞かれることもままあって、答えに窮することがいっぱいあります。みゃーくふつは、いつから始まったのか。とても大きなテーマですが、ひさぼうさんの解説は年代を追って、ていねいにされているので、だいず勉強になります。9年前の掲載ですが、改めて アハー(なるほど)とうなずくこと多し。
キムキムさんが、幼い頃やったことは、たぶんほとんどの女の子がやったことがあるか、あるいはやってみたかった事ですよね〜。お母さんやお姉さんとの思い出がセピア色の写真を見ているかのようでした。きっとキムキムさんも優しいお母さんの性格を受け継いだのでしょうね。最後の日傘には、かなす(愛しい)お母さんへの想いがあふれていて、グッときました。
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きゅうまい、しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました!)
次号は9月3日(木)発行予定です。
台風の動きが気になりますね。気を付けましょう!あつかー、またやー!