こんにちは〜。
気温が30度近くまで上がって、夏にゃーんぬ(みたいな)宮古です。がんづぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?
今号もお楽しみくださいね〜。
『虹とみやこ』《ニコライ・A・ネフスキー生誕120年 記念シンポジュウム(報告集)》
あすなろ(平良・東仲出身)
10月は、特別な月です。年に1度“太平山“に帰り、アグ(同級生)達とゴルフに興じ、夜には盃を酌み交わす、至福の極みです。
田中君の「麻古山書房」に立ち寄る事も楽しみの一つでした。あの味のある(?)建物がさら地になっていた。モノクロ的な彼の「頑張り」の象徴が消え、「夏草や兵の夢のあと」何故か、自然にこの句が口をついていました。
昨年の10月、いつもの様に彼が薦めてくれた本の中に『虹とみやこ』がありました。このシンポは、2012年9月23日(日)に開催されています。このシンポの特徴は、「宮古」を研究対象にしている人々が、アカデミックな立場も保ちつつ、宮古地元の視点でネフスキーの宮古研究を語ることにありました。
4人の研究発表、基調講演、シンポジストによる討論。かなりボリュームがあります。
【研究発表】
1「月の不死」の神話〜「人間の死の起源」を語る〜(宮川耕次)
2「ネフスキーの宮古歌謡研究」(上原孝三)
3「宮古俗言(迷信)に見る民族遺風について」(下地利幸)
4「ニコライ・A・ネフスキーの言語研究」(かりまたしげひさ)
【基調講演】
「ネフスキーと宮古」(本永清)
【シンポジスト】
座長:上原孝三(沖縄文化協会)
下地和宏(宮古郷土史研究会会長)
かりまたしげひさ(琉球大学教授)
本永清(宮古の自然と文化を考える会理事)の内容です。
今回、かなり印象に残った下地利幸氏の発表にしぼって感想を述べてみたいと思います。
『宮古のフォークロア』の中に俗言は34句収録され、この中から人の死についての俗言10句を取り上げています。 その中の一つが、次の俗言です。 (*下線をつけて、意味を配置してみました。これは、浦崎安常(『宮古の俚諺格言』の著者)方式です)
○わーゆ ふぉー いみゅー みーつかー
豚を 食べる 夢を 見ると
ぴぃとぅだびん かいどぅ いきぃ
人の葬式 へ 行く
『宮古のフォークロア(P326)』
寡聞にして、私はこの俗言を知りませんでした。「食屍の遺風」を慶世村恒任が『宮古史伝』に記述しているとの下地氏の指摘に、今回改めて読み直すと、175ページにその記載があり、驚きました。死屍を食べる風習は南洋諸島のマライ族の間にあって、宮古島にも上古マライ種族が住居していて日本民族の征服するところとなり、その間に雑婚等が行われ、その風習が残ったのではとの説があるという。
葬式に行くことを意味する「骨を噛(しつ)ずが行か」の風習は、ショッツキングな話ですが、真実(?)から目をそらすわけにはいきません。流石に、人を食べるわけにはいかず、池間島の祭祀、歌謡、民族等の伝承者として知られた前泊徳正(故人、明治43年〈1910〉生)によると「昔、池間には墓というものがなくすべて風葬。昔は50歳以上の人が亡くなると豚を1匹炊いて食べる習慣があり、これをダビワーと呼んでいた」と証言したという。(※ダビワーは「荼毘豚」か?)
さて、ネフスキーに話を戻すと「何故に宮古なのか?」も含めて、リジヤ・グロムコフスカヤ女史が『宮古のフォークロア(P335)』で解説しています。何度読んでも興味が尽きません。読んでない方は是非お薦めです。
素人の私が言うのも僭越ですが、ネフスキーに「言語学者」の冠をつけるのには違和感があります。勿論、言語学での功績は計り知れない事でしょう。今回のシンポで狩俣琉大教授は、ネフスキーには言語学的な研究はない(「虹とみやこ(P22)」)と指摘し、あたえられた表題に「ネフスキー資料の言語的側面あるいは言語学的価値」の副題をつけて研究発表されています。同感です。
ネフスキーは、彼の師であるシュテルンベルグから「その種族の言語のしっかりした知識なしに、自分が関心を持つ種族の真の生活、とりわけその心理的な側面を知ることは出来ない」との教えを忠実に守り、2回目(1926年)の宮古訪問の際の日記に「8月1日・・・民俗学資料を集めるためのシュテルンベルグ方式に目を通す」と『宮古のフォークロア(P363)』に記しています。所謂、「言語」は宮古人を知るための手段であって、本来の研究である「神話創生の中心の探求」の地としての宮古訪問であった訳です。
得意の脱線です。ネフスキーに係る四方山話3つ。
久方ぶりに『宮古のフォークロア』の興味ある部分を拾い読みしていると、「東川根盛加越(P136)」の項目が気になりました。
1「たかーらばぬ」の説明の部分に「タカーラバ<地名>の」とあります。宮古に「タカーラバ」との地名があるのだろうか?「東川根(あがす゜がーに)」の隣が「高阿良(たかあら)」です。この部分は
たかーら ばぬ
高阿良 の
が正しいのではないか?
我が、集落の「高阿良」に同級生の「ひろあき」が住んでいました。歩いて2〜3分。小学6年も同じクラス。まさか、まさかの「国仲寛徒」の曾孫。(*寛徒―寛照―寛力(穂水)―寛昭))最近知りました。
早速、取材。「ひーおじいちゃんの面白いエピーソードはないか〜」「ない。余りにも遠い存在なので」との返事。父親(寛力=穂水)が新聞に載せた「おじいさん(寛徒)の思い出話、例えば、ネフスキーを馬に乗せて伊良部を案内した」等の新聞記事のコピーは大事に持っているとの事でした。 これから時間をかけて取材したいと思います。
見出しのシンポの前日(9月22日)に〈「ネフスキーの宮古」を歩く〉が企画されています。「稲村賢敷宅跡『虹のみやこ(P82)』」「富盛寛卓宅跡(同P83)」もその中に入っていて、高阿良四辻(たかあらゆまた)の地図が記されています。その場所も自宅から2〜3分。こんな近くに歴史上の人物が住んでいた。全く知りませんでした。宮古の事を知らないにも程がある!齢(よわい)70年も近づいてきた。今からでも決して遅くない、宮古の事を勉強しよう!
(*敬称を略させて頂きました)
◇あの話をもう一度
ひさぼう(平良・西仲出身)
「ミャークフツ幻想曲」vol.88 2004/11/18
宝石も、もとをただせば、どこかの鉱山を、掘って砕いて磨き上げたもの。同じように「日本語」も、段々に辿っていけばミャークフツになるのではないかと、日頃思っている“妄想”だか“幻想”だかを、聞スキフィール(聞いて下され)
ミャークフツは、まず「文字」に馴染まない。
人間の歴史を辿れば、文字が出てくるのは、人間が話すことを始めてからずっと後のことである。さらにその前は、声帯が言語をしゃべれるように発達するまでは、ずっと長いこと歌を歌っていたものらしい。もちろんこの場合の歌は、ア〜 とか ウ〜 とかいうだけで、それに感情がこもるうちに、だんだん言葉が出てきたらしい。だから順序からすると、歌があって、言葉が出てきて、それから文字である。それで、ミャークフツが文字に馴染まないということは、文字ことばに混じらないで、原始のままで来ているのではないか、ということである。
宮古の遺跡のほとんどは、12〜13世紀以降のものらしい。それ以前のことはわからない。それと、そもそも学校で習った日本の歴史の「時代区分」、旧・新石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代→奈良・平安時代→鎌倉時代→ こういう発展段階が、沖縄の歴史にはあてはまらないという。しかも、800年から千年は、時代が遅れている・・・。さらに、宮古・八重山は、奄美・沖縄本島よりもっと遅れた歴史になっている。何のことはない、宮古は原始時代が長かった。
「古事記」などの古い文献にある「古語」は、日本あちこちの方言に見つかるらしい。また、各地の地名の由来が、アイヌ語で解明できる例が多いともいう。奄美、オキナワ、宮古、八重山の方言と地名も、その中に出てくる。確かに、いろいろ本を読んでみると出てくる。たとえば、「夜」は、ミャークフツだと、「ゆさらび」、大阪では「よさり」、「枕草子」でも「夜さり」、地名の例だと、平良のヒラは、古語やアイヌ語では「坂」とか「崖」の意味(これは、昔の漲水桟橋から見上げる景色の印象からきているらしい。確かに、坂、それも急な坂が多い)、八重山の「祖内(ソナイ)」とか「比川(ピナイ)、ピナイ川」は、それぞれアイヌ語で「滝のある沢」「石のある沢」という意味になる、という具合。
これらのことから、つぎのような考えがだんだん拡がってくる。
むかしむかし、琉球列島が、大陸とも日本四島ともつながっていたころ、人類は、地球上各地を移動していた。沖縄本島には、「港川人」、宮古島には、「ピンザアブ人」がやって来ている。沖縄諸島が、孤島になり始めた頃、島の中で最も低い宮古島は、二回沈んでいるという。なぜに宮古にハブがいないかの理由がそれだともいう。その頃、本土では、縄文時代が始まっている。
日本の先住民はどこからやって来たか、地理的条件からすれば、北方、南方、大陸方々からその可能性はある。ただ、日本語の成り立ちからすると、文法は北方系、単語は南方系らしい。そして、1万年以上続いた縄文時代に、列島各地で話されていたことばを「縄文語」だとすると、今の日本語のもとは、その縄文語であり、それは、日本各地の方言に残っている。今、アイヌ語が日本語の系列に入ることが、着々証明されつつある。単語が全然違うとか言われ続けられたのが、「単語家族」という考えで、つながってくる。又、日本語の語源が、日本語だけだとわからないのが、アイヌ語で説明できる。要するに、日本語の一番古い層が、アイヌ語には残されているということがわかってきた。
沖縄人・沖縄方言も、前は、日本人ではない、日本語ではないと言われ続けた。どうも、同じ経路を辿っているようなのである。
「縄文語北海道アイヌ方言」と、「縄文語沖縄方言」は、どこで別れただろうか。先に挙げた、北方系の中にモンゴル語があって、モンゴル語には方言はないのだという。なぜかというと、遊牧民全体で方々移動するから、共通語にならざるを得ないのだという。それに、文化の発展がほとんどないから、あの、ジンギスカン時代の歌とか言葉がそのまま今、通用するという。このことから、「日本語の原形」は、日本列島で、先住民の移動(その前段階は人類の地球上の移動)の最中に、「共通語」として成立した、と考えられる。
その後、引き続く渡来人のもたらす文化やら言語の影響、地域性の高まりに、人口増大が相俟って、方々に方言が形成される。(そのとき、「日本語の原形」は失われない)。決定的な渡来は、稲の文化と鉄製の農具・武器をもたらした「弥生人」であり、日本史に弥生時代という区分を作ってしまう。縄文人の子孫であるアイヌ人は、東北・北海道に追われる。
ばんた(我々)沖縄人は、この“襲来”に、どう対処したのだろう。いや、これとは関係なく、南下していたかも知れない。「共通語」の「原形」だけは、もっていた。そして今、人口一千万の東京で、群れを成して行き交う人の顔を見ると、縄文系と弥生系に区別できる。“混血人口の群れ”である。私の場合、親の三代前に、島尻から添道に来て、親が平良市内に移っている。私は、オキナワに渡って、東京に来て、長野のミドゥン(女性)と一緒になっている。その親を見ると、父方が典型的な弥生顔で、母方は、眉毛の濃い典型的な縄文顔になっている。さて、私の子供の正体は、「何人」でしょう。
ミャークフツの中で、よその島人・県人が一番、発音しにくいと思う単語は何か、自分で発音してみて選んだのが「魚のウロコ」、これである。文字で書けないけれども、強いて表示すると、「イズ ヌ イズキ」である。古語辞典を見ると、魚は、「いを」である。オキナワでは、「イユ」という。「うろこ」を何というか全国方言を調べると、イラ、イリコ、イロコ、イーコ、コケ、コケラ・・・等出てくる。分布でいうと、東日本がコケ系で、西日本はイロコ系らしい。これは一つの例で、ミャークフツが“原石”で、だんだん磨かれて、イズが、イユになり、「いを」になり、イズキが、イリコ、イロコになり「ウロコ」になったのではないかと考えるわけである。
ヤマトピトからすると、宮古の特色は、その古代性だ、みたいなことを言われる。大神、狩俣、島尻あたりの風習やら、方々のカンカカリャ(神に願いごとをする人)の存在の見聞からかそんなことを言う。あしば(そうなんです)よ、実は2000年前あんたがたがしゃべっていたのは、ミャークフツなんだよ〜、といってみたいのである。
#参考文献:片山龍峯著「日本語とアイヌ語」すずさわ書店刊,鈴木 健著「縄文語の発掘」新読書社刊
まゆがま日記パート10 ―んじ まゆがまとぅぱなしみゅーでぃ(さぁ、猫と話してみよう)―
あば本舗(下地・上地出身)
ご近所に住む生協仲間の○島さんは、うかーす まゆがま あたらっさっす ぴぃとぅ(とっても猫を可愛がる人)で、自称猫語が理解できる人だ。我が家の がばまゆ(老猫)とも大の仲良し。病弱なハナの事をいつも気にかけてくれる優しい隣人である。
○島さんが我が家に遊びに来ると、すぐにハナが現れニャーニャー言いながら足元にすり寄る。すると、彼女も満面の笑顔になり言葉を交わし始める。
「ハナちゃん、最近あんまり外に出てこないねー。」
「ニャーニャー」
「ご飯、ちゃんと食べてる?」
「ニャニャニャ〜」
会話が成り立っているように見えるから不思議だ。んにゃ とうが ぬすがら っさるん(もはや誰が飼い主か分からない)
しかも「あのさ、ご飯がイマイチって言っているよ。」「最近、貴方が相手してくれなくて寂しいって。」と、いう通訳までしてくれるのである。まーんてぃぬ くとぅどぅ ゆみうす゜びゃーいら?(ホントの事を言っているのだろうか?)首を傾げつつ「はいはい、そうですか〜」と、適当に返事しておく。
うぬぴぃたー いつーまい ばぬー ばーっふぃちゃーかうす゜うむっしぴとぅゆー (この人は、いつも私の事をからかってばかり。面白い人だな〜)と、心の中で呟くのだった。
そんなある日、本屋に立ち寄ったら猫関連の本が並んでいた。『あなたも猫語が分かる』『我が家の猫ともっと幸せに暮らす方法』『猫力―うつな僕を救ってくれた猫―』
今、時代は猫なのか?と思いながら手に取った。どの書籍にも、猫と飼い主は対等。愛情を注ぎつつ適度な距離を置き尊重する事。猫が何を言いたがっているのか理解しようとする。気持ちが大事。などと書かれている。立ち読みしながら、17年も一緒に過ごしてきた割に、そこまで深く考えていない自分に気づく。
エサや腎臓の薬を与えることが最優先で、ハナが何を言いたがっているのか?考えてもみなかった。
そして、ばぬ ばーっふぃうす゜(私をからかっている)と思っていた○島さんは、猫を飼うための大切なマナーをわきまえていると、初めて気づいた。可愛がりつつも適度な距離を置いて接し、相手(猫)を思いやり対等に扱っている!
あんしばどぅ ○島ぬ あんがー まゆがまとぅ ぱなすぬ しらいさいが ばやー のーまいっさったん(だからこそ、○島さんは猫と会話ができるのね。私は、何も分かっちゃいなかったんだ。)
がばまゆがま(老猫)と並んで見上げる秋の夜空には、まーくまーくてぃぬ つき゜ゆー(まんまるお月様)が浮かんでいた。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
沖縄製糖工場の煙突から、白い煙が吐き出されています。来月の操業開始に向けてテスト操業でしょうか。して、もうすぐ12だというのに、ここのところの暑さにはびっくりどーや。んなままい(今も)クーラーをつけながら編集作業をしています。冬は来るべきかね??どこかーに ゆらりて(迷って)いないか、しわ(心配)。
11月は同窓会の季節ですが、11月14日、15日と下地小中学校の同窓会が那覇であって行ってきました。国際通りにあるホテルの一角は、42名の同窓で大賑わい。中には中学卒業以来初めて参加するという人や小学生の頃、転校したという人もいて40数年ぶりの再会を喜び合いました。自己紹介では、孫が何人います。という紹介も多々。(そういう年齢になったんだねー)
15年前の同窓会のスライドショーを皆食い入るように見、キャプション付の写真に うぷあまい(大笑い)。沖縄本島組の余興「会いたかった」宮古組の「宮古まもる君のうた」は大盛り上がり。(練習の甲斐あり!(笑))もちろん、校歌遊戯もやりました。(校歌遊戯といえば、JTAの機内誌「Coralway」新北風号で宮古の校歌遊戯が特集されていますね!)二次会は、生バンド演奏があるところで、70年代、80年代の曲に合わせて踊ったりと、めいいっぱい楽しんだ同窓会でした。
中学を卒業してから40年。みんないろいろな人生を歩んできて今があることを実感しました。ここに集えたことの幸せも。まーんてぃ あぐてぃ、あたらすむぬやー(本当に同級生は、愛しいものですね)。あぐぬきゃー また 次いら。
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
あすなろさんの紹介した『虹とみやこ』は、私も宮古の図書館で見ました。素晴らしい内容ですね。(シンポジュウム聞きたかった!)それにしても、同級生が国仲寛徒さんと血のつながりがあったとは。自分の身近なところから、歴史と繋がっていく様はなんとも言えないですよね。今後の新情報も楽しみです!
大好評、ひさぼうさんの方言解説、今回は11年前に書かれたものを掲載しましたが、ぴっちゃまい(少しも)色あせないですね。なるほどと思うことが多かったです。私たちの祖先が脈々と使い続けてきた、日本語の古い古い形が残っている、みやこふつ。大切にしていきたいと改めて思いました。
あば本舗さんのまゆがまシリーズはもう10回目となりましたね〜。元気な様子はうれしい限りです。猫はクールなイメージがありますが、そうばかりではないんですね。お月様をふたり(?)で眺める姿が想像できてとてもほんかわしました。そして、まゆがまは、ご主人様のことはよく分かっていますよと言っているかのようですね!
貴方は、どんな感想を持ちましたか?ぜひ、感想を聞かせてくださいね。。
掲示板での感想もお待ちしています。
きゅうまい、しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました!)
次号は12月3日(木)発行予定です。
ぱだーぱだ うらあちよー(お元気でいてくださいね) あつかー、またや〜。