くまから・かまから vol. 354

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 こんにちは〜。
 くとぅすしみゃーの(今年最後の)くま・かまお届けです〜。
 ぱんたーぱんた(忙しい)だと思いますが、ぴっちゃ(少し)手を休めて、お楽しみくださいね〜。

宮古島へクルーズ船が来た

アモイ(平良・宮原出身)

「唐船ドーイさんてぃマーン」(唐の船が入ってきたよ)
 
 昔は沖縄でこのように歓迎したのだろうか、これは沖縄民謡、カチャーシーを踊る時の「唐船ドーイ」という有名な沖縄民謡の始めの一節で、昔、唐からの船を歓迎した事が解る歌です。
 
 時は平成27年7月28日、中国のアモイからスタークルーズ社のクルーズ船リベラ号が宮古島の下崎埠頭に接岸した。
 
 埠頭では歓迎セレモニーが行われ、宮古島市長が歓迎の挨拶を行い、北中学校のブラスバンドが花を添えた。全長216.3m,総トン数4万2千トン余、乗客定員数1418名と大型クルーズ船である。
 
 船のコースは毎週火曜日朝8時頃に宮古島に着いて、夕方7時に那覇へ向かい、翌朝那覇に着いて、夕方那覇からアモイへ向け出航するという事で、昼間のみ上陸するという予定である。
 
 宮古島市の観光課、観光協会、観光バス、タクシー、中国語通訳等の関係者を総動員しての観光サービスが始まった。私も関係者からの連絡でこの案内役を務める事になった。
 
 クルーズ船で中国人が来る?私は不思議な気持ちだ。あの中国の庶民が宮古島に来るのか?しかも私のハンドルネームと同じアモイから、昔の中国を知ってる人は誰しもそう思うのではないか、でもそれは私にとって楽しく ぷからす(嬉しい)事である事は間違いない。
 
 初回のクルーズ船入港の際はバスガイドが足りないという事でバスガイドを頼まれ、引き受けたが、ガイドの話は割愛し、第2週目からの無料通訳案内所に纏わる話を書きます。
 
 特設された無料通訳案内所には、中国語担当と英語担当の通訳が配置され、中国語の担当は宮古島に居住する中国人女性3人と私の4人で、中国本土(主に厦門《アモイ》広東、重慶、成都等)からの観光客を案内する。そして英語担当が2人体制で、船のクルー(主にフィリッピン、マレーシア、ベトナム、韓国、全部で10カ国以上)と香港からの観光客の案内である。
 
 ファンイングアンリン ライ ゴングウダオ「ようこそ宮古島へ」と出迎える。上品な子連れ夫婦がやってきた。
 
 「どこへ行きたいですか」
 「ちょっと有名なところを観光した後、買い物もしたいし、それから、和風亭というところで食事をしたいのですが?」
 「わかりました」
 「それじゃタクシーの3時間コースがあります。コースが決まっていますので、それで観光して、最後にAEON西里とドラックストアの駐車場で降ろしてもらうよう、運転手に話しますから、そこで買い物をして、この紙(和風亭)をタクシーの運転手に見せれば連れて行ってくれます」戻るときはこの紙(下崎埠頭)をタクシーの運転手に見せてください。」
 「明白了」(分かりました)
 「日本円もってますか?」
 「有」(あります)
 「じゃ気をつけて行ってらっしゃい」
 
 戻って来た子連れ夫婦、私の所に来て、特に奥さんの方が嬉しかったようで、「ありがとう」と何度もいいながら「来一起拍照好把」(一緒に写真とろう)と言って一緒に何枚か写真を撮った。中国に来たら連絡して、と言ってだんなさんが名刺をくれた。IT企業の総経理(社長)の肩書きだった。成功してるんだな、と思いながら、そばでニコニコしている奥さんを見ては、案内して良かったなーと気分爽快だった。
 
 若い2人連れの女性。
 「いらっしゃい。どこへいきたいですか?」
 「初めてきたので知らないよ」
 「それじゃタクシーのコースを紹介しましょう、2時間がこれ、3時間がこれ」
 「高いよ、安くならないの」
 「値下げは出来ないですよ」
 「じゃ歩いて行けるところはないの?」
 「歩いて行ける所?砂山なら歩いていけるかな。港を出て信号を左に曲がって」地図を書いて持たせ「時間は40分くらいかな」
 「わかったそれじゃ歩いて行ってみます」
 「加油」(頑張って)
 戻ってきたかどうか確認出来なかった彼女達、どうなったか ぴっちゃしわ(ちょっと心配)です。
 
 おばさん達がやってきた。
 「どこからきたの」
 「アモイからよ」
 「どこへいきたいですか?」
 「どこがお勧めですか?」
 「砂山ビーチや、来間島の長間浜前浜ビーチなどが有名ですよ」
 「でもビーチはアモイにもいっぱいあるから行かなくていいよ」
 そうかこのおばさん達にはアモイの海も宮古の海も同じなんだな?と思いながら、「主な目的は何?」
 「買い物と食事」
 「それじゃ南のAEONエリアがいいね、タクシーで1000円位で行けるから」とマックスバリュー南店へ(中国ではAEONが良く知られている)案内した。
 
 色々なお客さんが居て、タクシー3台に分乗した客に同行通訳を行った事もあった。
 
 通訳仲間で中国人通訳の一人は日本人並みの日本語力がある上、ユーモアも有り、ラッスンゴレライのリズムに乗りながら、「ファンイングアンリン、チンデンイーシャ、チンデンイーシャ」(いらっしゃい、ちょっとまって、ちょっとまって)等と言って中国の陽気な乗客と踊ったりして盛り上がり、すごく明るい雰囲気の案内所となり、日中友好にも一役かったのではないかな。
 
 また小さな爆買いもあり、売上の上がった店では大歓迎の様相で、あるドラッグストアの店長は、わざわざ案内所までお礼に来て下さいました。
 
 ちなみに宮古島クルーズ船の旅をブログにアップしてあるのを見ると、「交通手段がないようで、どうしようか心配していたら、港に無料通訳案内所があって、中国語で親切に教えてくれるので、行きたい所に行けてよかったです」。海岸線の綺麗な写真を載せ、「宮古藍」(宮古ブルー)という表現で書いていて、砂山ビーチの描写では、「せまい砂の坂道を登っていくと、頂上についた頃、そこからすごい綺麗な景色が現れ、思わず叫ばずにいられなかった。海の色が浅瀬から深くなるごとに色がかわり無限に空へと続いているようだ」などと書いていおり、またタクシーの運転手との写真をアップしており、ばかむぬぬきゃーや(若い人達は)宮古島の景色に感動し、親切な運転手に出会ったりと、宮古島の旅を満喫したようだ。
 
 9月の第2週からクルーズ船のコース変更で那覇行きを取り止め、宮古島のみ入港に変更された。変更に伴い、宮古島には月曜日の夕方接岸し、翌日の夕方まで滞在する事となった。
 
 それに伴い、船の中の舞台で宮古島の歌や踊りを披露して欲しいという事で、楽器屋さんがまとめ役となって、琉球舞踊と宮古民謡と私の唄で舞台を構成する事になった。
 
 私は通訳案内所から船の中の舞台へと移動になり、市の観光課や観光協会のお世話になりながら、クルーズ船の入港期限の10月末まで船の中での舞台を務めさせてもらった。船の中では出演者みんなでワイワイ言いながら食事し、クルーとの会話もはずみ、楽しいクルーズ船接待役となった。その影で徹夜で乗客の出入りチェックや荷物検査をしていた税関職員のみなさんも本当にお疲れさんでした。
 
  来年3月末にはまた宮古島へ来るそうです。

◇あの話をもう一度

カニ(平良・西里出身)

「んなくずやま(皆粉地山)」vol.164 2008/1/17

 平成10年の第5回宮古方言大会で、吉野部落の根間たけばあさんが、吉野海岸のウミガメ産卵の保護活動のことを方言でユーモアに話した。
 
 その時、昔の新城部落や皆福部落、それに七又、保良部落などの情景を話していた。昔はソテツ山やアダン山、サルカ山がいたるところにあったが、今は殆ど全部消えてなくなったと・・・その話のことが何故だか妙にいつまでも頭に残った。
 
 カニは小学生の頃に、通り会の すざ(兄)が保良から嫁を貰うことになり、結納式があるということで、通り会の子供代表でバスに乗り保良部落に行ったことがある。小学1年生の頃だったような、今から40年以上も前の思い出である。もちろん初めての保良訪問である。
 
 その時、城辺を過ぎて左手におっぱい山の見える坂道を降りながら、入ってくる景色が一転して変わったことを記憶している。つまり、緑豊かな素晴らしい自然の風景がカニの目に飛び込んできて、そのことが心に強く焼き付いたのだった。
 
 保良に着くと時間があったのか、泉(保良泉=ボラガー)まで連れて行って貰った。そこで見たのは、真っ黒に日焼けした子供らが涼しげに湧き水の泉で水しぶきをあげながら楽しそうに泳ぎ遊んでいる景色だった。カニは「いいな、羨ましいな」と思った。豊かな自然の中で遊びまくる子供らを羨望の目で眺めていたのだ。
 
 吉野部落の根間ばあさんはさらにカニが見た景色よりも、もっと昔の緑溢れる環境で過ごしていたのだな、と思った。どんな自然があったのだろうか?ソテツ山、それにアダン山、サルカ山が沢山あったという風景はどんなものだったんだろうか、と胸を膨らませ考えた。
 
 アダン山ながぎ(アダンの木々を鉈で切り開き) サルカ山しゅらぎ(サルカケミカンの木々を鎌で刈り開き)・・・そんな多良間島のアーグを口ずさんだ。
 
 城辺町元役場の通りを保良に向かって車を走らせると、先ほど話した急な坂があり、右手には丘陵、左手にはおっぱい山が見えてくる。この坂は結構な長い急な坂道なので、自転車で登ることは大変である。
 
 その坂には名前があるだろうと思い、城辺の古老らに会う毎に尋ねた。一人の80過ぎの古老がその坂道の名前を知っていた。「難工事坂(なんこうじざか)」。そういう名前だった。
 
 この坂道は「つがまき原」と呼ばれる丘陵を、道をつくるために削ったのだと話した。丘陵は高く硬い琉球石灰岩で形成されており、つるはしで山を削る工事は大変な作業だったようで、大正時代にダイナマイトを使用した大がかりな工事になったようである。
 
 工期に1年半もかかり、殆どが人力での作業で、つるはしや荷車を使用した難儀な労働であったことから、その坂の名前を「難工事坂」と呼ぶのだと古老に教えて貰った。「つがまき原」の丘陵、「難工事坂」・・・初めて聞く名前なので新鮮な響きでカニの心に入ってきた。
 
 カニは城辺の昔の風景を、本や写真集で見ていた。その時におっぱい山の近くを流れる川を描いた1枚の絵画を見つけた。「おや、どこだろう」と思った。現在おっぱい山の近くに川が流れているような場所はない。念のためカニは探してみたが、やはり見つからなかった。
 
 子供の頃のカニが見た保良に行く途中の風景、根間ばあさんの云うソテツ山、アダン山、サルカ山がいっぱいだったという風景、それに川の流れている風景は、一体どうなったんだろう・・・そんなことを考えた。
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 昨年のことだった。一冊の書を手にした。書の名前は『宮古島 保良の土俗信仰』、著者は松川寛良氏である。古里保良を愛する松川氏の書かれた本には、昔の風景が細かく描かれていた。その中に、「つがまき原」「難工事坂」の名前が出てきた。そうして「んなくずやま」の話が書かれていた。
 
 カニは「んなくずやま」とは皆福部落の南側にある嶺だと思っていた。ところがこの書を読んで、それが間違いであることを知った。松川氏の書より引用して「んなくずやま」を紹介する。
 
 「んなくずやま」は漢字では「皆粉地山」と書く。先ほどの「難工事坂」を降りていくと、新城部落とそのまま保良にいく道に分かれる。新城部落に行く道に曲がると、左手におっぱい山の東側にあるひとつが、右手には広大な畑があり、ところどころに嶺を思わせる小さな丘陵が福嶺小学校まで続いている。
 
 この右手の広大な土地は、戦前は湿地帯で、「旱魃時も水溜まりが多く」「ヒル」などが生息していたという。また琉球王朝時代の偉大な政治家・蔡温の森林政策で、この広大な土地に琉球まつが植林され、多くの琉球松が立ち並びどこまでも続いていたということである。
 
 この広大な土地の面積は広く、現在の大野山林程の森林を形成していたと云われている。この広大な森を「んなくずやま」と呼び、ここには宮古中に生息する動植物が豊富に存在していたようである。
 
 森林の中には、「グミの木も支え切れない程赤い果実を枝につけたまま、ところどころに生えていた。」また「抱えることが出来ない程の幹をした巨木が生い茂っていた」とのことである。そうして「雨季には、強烈な勢いで地下水が湧き水かさが約一米にも達し小川も流れた。」ようである。
 
 松川氏は森の様子をこうも伝えている。
 
 「外のかんかん照りがまるで嘘のようで」、「空気が『ひんやり』とし」「メジロ、ヒヨドリ、サンコウチョウ、アカショウビン等多くの野鳥がさえずり、調和のとれた自然であった。」「思うに皆粉山は、宮古に繁殖しているすべての草木や、生息している昆虫や、鳥類の宝庫であり、また学術的にも貴重な森林であった。」
 
 このような大野山林ほどの森林が戦後に土地改良で農耕地に変わり、消失していったとのことである。
 
 松川氏の書を読み、カニは自分が子供の頃に見たと思われる「んなくずやま」の琉球松並木林が記憶のかなたから蘇ってきた。
 
 そうして、根間おばあさんが話した、ソテツ山、アダン山、サルカ山の風景が、それに小川の流れていた「んなくずやま」の湿地帯の風景がすべて頭の中で繋がり再現できた。
 
 素晴らしい森林であった「んなくずやま」
 
 豊かな自然で動植物の宝庫であった「んなくずやま」
 
 カニは松川氏のお陰で自分の頭の中に「んなくずやま」を創ることができた。保良に向かう「難工事坂」を降りながら、左手の前方には「んなくずやま」の琉球まつ並木がどこまでも続き、左手には「つがまき原」の丘陵を見、そうして皆福を越え、七又の部落を右手に見ながら、保良へと歩く。
 
 「つがまき原」の丘陵の南側には、大原(うぷばり)、大道(うぷどう)の部落があり、大道(うぷどう)は、悪税として有名な人頭税廃止のために命をかけて立ち上がった西里カマが生まれた場所であること・・・このような素晴らしい土地をカニは胸をはって歩いている・・・そんなことが頭に描かれてくる。
 
 保良に着き、早速、保良泉(ボラガー)の清水を飲み、一休みをする。保良部落では、すとぅがつ(旧盆)に綱引きが行われ、こんな綱引きアーグ(歌)が聞こえてくる。
 
 いずざとぴとぅや つなだいしゃ(西組の人は綱引きには嫉妬深い)
 
 うぷむぬまい いみむぬまい うぷずーだるだる
 (大人も子供も大きな乳房を隠さない)
 
 あららがあらら ししゃながししゃな(だらしがないね きたないね)
 
 あがずざとぴとぅや なずきゃーやまぬ (東組はなずきゃー山の)
 
 うぷびう゛がっさ いたんましー 
 (大きなクワズイモの葉を股引にしているね)
 
 あららがあらら ししゃながししゃな(だらしがないね きたないね)
  ・
  ・
 「んなくずやま」のあった時代の豊かな人間の営みを考えていた。
 
 
 #参考図書
 『昭和初期の保良風俗誌』  松川寛良 著
 『宮古島 保良の土俗信仰』 松川寛良 著

ご一緒に『んきゃーんじゅく』(8)

さどやませいこ(城辺・新城出身)

 〜大歳の客〜 

 ぞーかりうんな!(お元気ですか)んきゃーんじゅくしぃ、あすぱ!(昔の教えであそびましょう!)
 
 んにゃ、師走やー。とぅすぁ増いやーぴーぴー(年は増えてはいくばかり)しゅわ ぬどぅ うぷかー(心配が大きいね)。(師走としゅわを掛けてみましたが、通じましたか)。今日は少し早いですが、大晦日の晩の話をします。地域によって題名がまちまちですが、内容はほぼ一緒です。佐和田カニさんは「猿長者」として話しています。他に「火の正月」として語られています。
 
 んきゃーん(昔)。大晦日の晩に天加奈志(てぃんがなし=天の神様)が村人たちに ゆー(福)をあげようと思って降りてきました。
 
 最初、東の金持ちの家を訪ねた。ミャーミャーと、猫になって入って行くと、使いの者が出て来て「あば、まゆぬどぅ ぱズしぃ 来しば(あれ、猫が入ってきたよ)、奥さーん」とうろたえています。何と奥の方から「こんな忙しい時に、追い払え」とわめいています。
 
 天加奈志は「なんて、がさつな人たちだ、こんな家に ゆー(福)なんてやるもんか」と思って隣の家に行きました。
 
 西の家では、おばあが出て来て「あがいー、まゆがまぬどぃ来しば(あれまー、猫ちゃんが来ているよ)おじい」と言うと、おじいは「どこの猫か知らんが、猫だってわしらと同じ生き物、何か食べるものはないか」とおばあに聞いています。
 
 これを聴いた天加奈志は「優しい人たちだ。来年の ゆー(福)を分けてあげよう」と、元の姿に変わり「今晩一晩泊めてもらえないか」頼みました。二人は困った様子でしたが、「この通り何も無い家ですが、よろしければどうぞ」と快く家にあげてくれました。
 
 大晦日だというのにほんとに何もなく、二人は囲炉裏でお湯を沸かして白湯を飲んでいます。天加奈志は「隣は、飯台いっぱいごちそうを並べ、三線を鳴らして賑やかに正月を迎えようとしているのに、なんという違いか」とため息をつき、おばあに、「鍋を持ってきてお湯を沸かすように」と言いました。
 
 言われたとおりにすると、天加奈志は懐から米粒を取りだし2,3粒鍋に投げ入れました。すると、鍋いっぱいに御飯が炊けました。おじいとおばあはびっくり!同じように肉汁も作り、3人で食べました。夫婦は「こんなおいしいもの、生まれて初めてです」と大喜びです。
 
 そこで、天加奈志は二人に質問しました。「あなたがたは、金持ちになるのと、若返るのと、どっちを望みますか」。すると、二人は「あがい、それは若返る方がいいさー。子どもだってつくれるし」と笑っています。
 
 「よし、それなら二人の夢をかなえてあげよう。まず、水桶に湯を沸かし、私が良いと言うまでそこに浸かっていなさい」。二人は言われた通りにしました。「もう、いいよ」というので、二人は立ち上がると、何と立派な若者と美しい娘に生まれ変わっていました。二人は手を取り合って喜びました。
 
 天加奈志は「私は正直なあなたたちに、欲しいことをかなえてやった。これからは力を合わせて優しい心を忘れることなく、幸せに暮らしなさい」と言い残し、どこかへ行ってしまいました。
 
 しばらくすると、東の家の主人が貸した火種を取りにやってきて、若い二人を見て「あば、この家の人はどこへ行ったのかな」と尋ねると、二人はくすくす笑い、「ここにいますよー」と言ってからかいました。
 
 目を丸くしている主人に訳を話すと「こうしてはいられない、わしらも若返らせてもらおう」と言って天加奈志を追いかけ「どうか、私たちも若返らせてください」と頼みました。欲深い主人に「それなら、家の人数分だけ黒砥石をさがして来てそれに一人づつ座っていなさい」と言いました。
 
 主人は深くお礼をして、大急ぎで黒砥石をさがしに行きました。そして言われた通り座っていると熱くなってお尻が真っ赤になり猿に生まれ変わりました。東の家の人たちは自分たちの格好を見て、もう村では住めないと山に逃げて行きました。
 
 そこへ、天加奈志が下りて来て、西の家の夫婦に「もう東の家の者たちは帰ってこないだろう、東の財産はすべてあなたたちに任せるので、好きなようにしなさい」と言って天に帰りました。
 
 二人は金持ちになった上に、子どもも授かり、村一番の幸せ者になったという話です。 うすか。
 
 (※方言の中舌音は、カタカナで記しました)

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

 ぶーぎ(キビ)の ばらん(穂)が咲き誇り、風にゆれる季節になりました。製糖工場の操業も始まり、キビ倒しの風景やハーベスターが活躍する光景が、うまかまに見えます。職場の近くに沖縄製糖工場があるのですが、あずまーあずまの かざ(甘ーい匂い)がしていますよ。冬がやってきたんだなーという感じです。
 
 掲示板にも書きましたが、新里博先生(宮古方言研究会講師)がまとめた「宮古方言に関する小論集」と「現代宮古方言語句に対応する古文献の語句」を宮古島市立図書館と市内各中学校に寄贈するため、先生に代わり、菜の花こと高橋尚子が来島し、二人で12月4日、長濱政治副市長と宮國博教育長にお渡ししました。寄贈をとても喜んでくださり、また新里先生のこれまでの功績を称えていらっしゃいました。私たちはとても誇らしかったです。市内図書館にありますので、興味のある方はぜひ、ご覧くださね。
 
 下地イサムさんのアルバム「THE HUMAN GIFT」が発売になりましたね〜。ライブ会場とホームページにての販売だそうです。私も注文し、さっそく手元に届きました!いろいろな人へのメッセージとなっていて、まーつき(一緒に)歌って楽しんでいます。世界はいろいろな人の集まりでできているさーね〜。また、このアルバムの発売を機に、名前もイサムとカタカナに改名したそうですよ。そのあたりのことも、ホームページに書かかれていますので、ぜひチェックしてみてくださいね。

 さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
 
 アモイさんは、仕事で中国に なぎゃーふ(長いこと)いましたので、まさしくぴったりのお仕事でしたね!中国の皆さんの宮古での様子がよく伝わってきました。私もイオンでみなさんをよくお見かけしました。宮古の自然なども満喫されたようで、感動の言葉も、ぽからすむぬやー(うれしいですね)。来年いらっしゃる時は、ニーハオと声をかけてみたいと思います!
 
 あの話をもう一度は、カニさんの「皆粉地山」でした。何度読んでもいいですね〜。今でも、おっぱい山が見えるあたりは、緑が多く感じるのですが、昔は、もっともっと自然豊かな場所だったんですね。カニさんのやらびぱだ(子どもの頃)に見た光景と松川氏の本で書かれているのが繋がって、カニさんの感動が伝わってきました。地名も勉強になりました。
 
 さどやませいこさんのお話は、年末にふさわしい「大歳の客」でした。んきゃーんな(昔は)、寒い夜に、おばあに話してもらったりしたのでしょうね。誰が見ていなくても神様はちゃんと見ているということですよね。伝承の中には、普遍的な大切な物がいっぱい詰まっていますね。
 
 貴方は、どんな感想を持ちましたか?
 ぜひ、きかしふぃーさまちよー。(お聞かせてくださいね)。
 掲示板 http://6005.teacup.com/kumakama/bbs での感想もお待ちしています。

 この一年まい、んーなが うがぎん(この一年も皆様のお蔭で)くま・かまをお届けすることができました。毎回、感想もいただき、大きな励み、力になりました。ライター一同、き゜むぬ すくぅから すでぃがふー!(心より、ありがとうございました!)。
 
 次号は三週間後、年明け1月7日(木)発行予定です。
 どうぞ、かぎ正月をお迎えくださいね。 あつかー、またや〜。