くまから・かまから vol. 356

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 こんにちは〜。
 暖冬かと思いきや広い範囲で大雪が降ったり、宮古は、雨ちゃーん(ばっかり)が降ったりとぴんなぎ(変な)気象ですが、がんづぅかりうらまずなー(お元気ですか)?
 今号も、熱い〜宮古への想いがいっぱい。お楽しみくださいね〜。

はしれ!“よんなな”

ワタリマリ(上野・宮国出身)

 1月17日。京都の都大路がにぎわう冬の日曜日は晴天なり。
 
 今日は毎冬楽しみにしている全国都道府県対抗女子駅伝大会。数日前に購読している宮古毎日新聞で宮古福嶺中学の生徒が沖縄県代表に選ばれたとの記事を読み心躍っていた。あがいー いらいがま。(よく頑張ったねの意)宮古から選ばれた郷土の代表。東京五輪の代表候補の一人にもなりうる。自分の子供が選ばれたような錯覚が襲ってきた。
 
 仲地楓華さんに声援を送ろう。今朝(1月17日)の新聞で各県のオーダーを知りいざ中継地点へ。
 
 中学生は3キロのレースに臨む。コースは京都御所辺り。京都を感じながら走るにはいいコースだ。今までも何度か沿道で応援していたが、中継点地点での応援は初めてである。走り終えた楓華ちゃんを労うのと走っている姿を写真に撮るのにはそこがちょうどいいのではないかと思い、混雑を予想して少し早めに家をでる。
 
 よし、まだ人は集まっていない。中継地点50メートル手前からは関係者以外は入れないからぎりぎりのところで待つことにした。野球やサッカーのように団体応援席があればいいのだが(競技場のスタンドはある)沿道で目の前を走るどの選手にも声援を送るのがまたいいところでもある。
 
 ぴーっ!ぴっぴっ。どうやら近づいて来たようである。交通巡査員のホイッスルの合図で関係者が三角コーンを車道に持ち出しいよいよ通行止めになる。人も多くなってきた。沿道から道路に飛び出さないようにロープが張られる。少し張りつめた空気。それを緩めるように自転車にのった観光客らしき外国のお姉さんが道路を渡りたいとお巡りさんに頼んでいるがぴーっ!ぴつぴっ 戻りなさいだめ〜!と一喝。かわいそうに肩をすぼめて戻ってきた。ばたふさり(腹立たしい)との顔である。
 
 と、後ろ中継地点ではスポーツガウンを脱ぎすてた選手たちがライン上に立ち始めた。京都・鹿児島・兵庫か?“よんなな”(沖縄のゼッケン番号47)はまだラインにはいないということはやはり今年もか?
 
 まあいいや、最下位であろうと大声を出して元気づけよう。駅伝の沖縄チームは毎年のように最下位付近でゴールしている。いろんな要因から来るであろうが、しかしながらトップもびりも関係なく己と戦っている走る姿は人生そのもののようで美しくも見える。いつか沖縄がトップに立ち、NHKのテレビの画面いっぱい”よんなな”が映り沖縄凱旋となる駅伝が見られますように。そこには宮古代表も多分いるであろう。
 
 中継車が角を曲がって近づいてきた。つま先立ちにして“よんなな”を探す。いくつもの集団が行ったあとから、よし来た!“よんなな”が見えたぞ!数メートル向こうから“よんなな”のゼッケンを確認しメガホンとスマホをとった。
 
 「はしれ〜ふうかあ〜」「えらいぞお〜!!」写真をぱちり。
 
 風のように過ぎ去りし数秒の間にいくつもの声援を送ったが上の二つ以外は覚えてない走れ走れ宮古の誇り?ともいったような・・・そしてそして、これまた目を疑ったが“よんなな”の後ろからも数人の選手がこちらに向かっている。ということは?あばあば?(えっ? えっ?)おお!これは奇跡だ!ぎーばんな あらんさいが(ビリではないぞ)!
 
 テンション高くなり、見知らぬ隣のおじさんに「沖縄最後じゃないね?四十番前だね?いや〜今年はすごい!」と話しかけている。そんな私の喜びように思わず抱きつかれるんじゃないかと思ったのかおじさんは目をまあるくしている。
 
 メガホンからは周りがびっくりしてふりかえるくらいのおおきな声が出てたようだ。交通整理の巡査部長がいぶかしげに一瞬こちらを見た。思わずピースをしてあげようかと思った。迷惑行為?いや応援ですよ〜。ほらそんなこと考えているからたすきを渡す瞬間も、写真をとりそこねてしまったのではないか。
 
 さあ、次は息ハアハアしているふうかちゃんにお疲れさまのことばをかけて労おう。おじさんすんませんでした。
 
 いたいた。ふうかちゃん発見。走り終えてほっとしているのかにこやかな表情。そこへふうかちゃん頑張ったねと突然おばさんが表れたもんだからへ?どこのだれ?の顔ではあったがそんなのおかまいなくハイテンションのまま「えらかった〜」とか「よくがんばった〜」とか言って肩をたたいたりして。まるであら?御親戚?の雰囲気。
 
 ちょっときつかったという楓華ちゃんだが、順位はどうであれ混戦の中戦いきって大健闘した15歳のさわやかな笑顔をぱちり。この大会をバネにもっともっと躍進してほしい。
 
 最後までなにが起こるか分からないといわれていた今年の駅伝。あとで結果をきいてびっくり。“よんなな”もどの区間でもいい走りを見せた。今回仲地楓華さんを中心に応援をしたが、もう一人宮古出身の仲間千華さんも二区を走った。今後大いに期待されるランナーだ。宮古から二人とは凄い事。東京五輪もゆめではない。
 
1区10位、2区27位、3区37位、4区37位、5区41位、6区41位、7区40位 8区42位 9区44位 ラスト44位
 
 心をポカポカさせながら電車に乗ってゴールとなる競技場へと移動する。メガホンを首からぶら下げている人。スマホで結果をみて喜んでいる団体。故郷はどこだろう?
 
 「ふるさと」とてもいい響きでとても温かい。また来年戦いましょう。

◇あの話をもう一度

大和の宮古人(城辺・長南出身)

「キビ倒し」vol.190 2009/2/19

 私は今までキビ倒しをした事がない。
 
 母が一日中畑に出ているので小学生ながら代理主婦だった。製糖時期は炊事当番となる。1950年代の話だ。
 
 昔は隣近所が一グループで取り組んでいた。倒す時は朝ゆっくりの時間だったと思うが、一番で工場に運ぶ時は朝が早い。(すべて手仕事だ。人間が持ち上げられる大きさに縄で結えたキビを道路まで運ぶ。その頃は三輪車だったと記憶しているが、一人が下から放り投げ一人が車の上で受け取って並べる。)
 
 積み終わると全員で戻って朝ごはんとなる。その為に畑に行ったことが無いのだ。すとぅむてぃ ぴゃしから(朝早くから)起こされるが眠くてグズグズしていると、おとー(父)の一言が飛んでくる。「うわたーまんてぃー すなさでぃな、ぴゃーまりうきる」(あんた達は本当に、叩き起こすか?早く起きろ)うとうるすむぬだった(怖かった)
 
 やらび(子供)の私が作るご飯は、毎日が白飯かさつま芋の蒸した物と味噌汁、おかずは畑から取ってきた野菜の炒めた物と漬物だけ。それしか作れない。薪で焚くのでご飯も焦がしてばかりいた。
 
 そこで、宮古に生まれ育ったからにはキビ倒しも経験したいと思い立ち、退職を機に決行した。主人も一週間休みを取って付き合ってくれた。
 
 宮古に着いたら、食事もそこそこに身支度。作業着の上にヤッケの上下。顔は目以外はタオルで覆い帽子を被る。運動靴にビニール手袋にその上に軍手と完全装備。恰好だけは一人前だ。うきうき、どきどきと畑へ。
 
 そこまでは良かった。畑に着いたが何をどうしたらいいか分からない。
 
 弟に鎌を渡されびっくりこんな上等な物見たことない。U字型の下に昔の鎌の刃まで付いている。使い方もやりも分からない。
 
 他の人は私がここまで無知とは思ってないらしく、自分の持ち場に戻っていく。仕方がないので近くにいたニイニイに聞いた。「これどうやって使うか?」そしたらこのニイニイのたもうた。
 
 「あがんにゃ、このネーネーは だみさいが(駄目だ)使いものにならん」ときた。それでも一応教えてくれた。ここに立って、ここに置いてと。「あすがー ネーネーは邪魔、かまんかいぴり」(だけど姉さんは邪魔あっちに行って)。弟も当てが外れたらしく皆から離れてマイペースでやるように言う。今に見ておれよと心の中で毒づく。
 
 前もってなぎ倒して並べて置いたキビの前に立つ。枯葉を払って根っこのヒゲと土を落していくだけの事だ。簡単さいが、と思った。言うは易しだ。
 
 他の人が一山終わっても20〜30本しか出来ない。馬鹿丁寧にするのとキビが長くて扱えないのだ。長さが5〜6メートル、太さにしたら直径が10センチ以上の物もあり、指の短い私などは持つのも大変だ。キビに振り回される。(エニシオ?しか知らないから種類の多さに!! 種類、畑の状態でキビの出来が大分違う。土が良いと此れがキビかと思うくらい成長する)
 
 形などは一直線の物など一本もない、S字やM字J字に曲がった物ばかりだ。だけどこれが面白い、4種類くらいにすると殆ど同じ形だ。子供のように並べて楽しむから仕事がどんどん遅くなる。
 
 あまりの遅さに主人が飛んできた。丁寧にするな、てーげーにしろ。品評会に出す訳ではないと。分かっているけど適当に出来ないこの性格。自分を恨めしく思いながらペースアップする。
 
 2,3日もすると少しは慣れてどうにか付いて行けるようになった。一つの畑を終わって一安心、少し休めると思った時、今度はスラをうつと言う。ここでも失言、「スラをうつとは何か?」と聞いてしまった。皆あきれ顔、「うわんなしらいん、あすぷぅき」(あんたには出来ん、遊んでおけ)スラうちが一番キツイからと言う。
 
 何だスラうつとは葉っぱを切るだけか、これも簡単そうだ。80のおばーがやっている、私にも出来る筈と思いながら挑戦した。
 
 鎌の弓型の方で切って行くが、上を向いて両手は挙げたまま進んでいくので足元が見えない。何度も ぶりんきて(落っこちて)は転倒する。体の重い私は立ち上がる度にキビに手をついて折ってしまった。確かに少しキツイが数人でやるのでつい競争心が出てむきになってしまう。(80歳のおばーには負けてしまった。)
 
 スラうつ事は楽しいが昼時やおやつ時、入り乱れているキビの中から這い出るのが大変だ。キビに上ったり潜ったりその度に枯れ葉に滑って尻もちをつく、又キビを折るの繰り返し。死に物狂いで出て行くと皆は涼しい顔で待っている、のーしぬ ぴゃーむぬがら(どうして早いのかね)。
 
 あと一つ、自分の不器用さに気がついたことがある。それは雨の日に起きた。突然両足の自由が利かない。不思議に思って足元を見ると濡れた枯れ葉が両足に絡まっている。仕事を中断して解いてから私の足だけにどうして巻きつくのかゆっくり再現してみた。
 
 私は一人だけ山の最後の方から始めていたが、同じ形のキビを並べるために、キビを一本左手で取り、葉を払いながら左回りに一回転して、出来上がったキビを右手側に置く事を繰り返していた。
 
 どうして左回りかと言うと、右回りだと払った葉を出来上がったキビに被せてしまうからだ。無意識のうちに体が動いていたのだろう、私は一人でグルグル回っていた。その場を動かないようにやってみたがペースが崩れて駄目だった。他の人が見たら可笑しな恰好だと思うが慣れてしまうと私にはこの方法しかない。ただ一日中歩いているようで一日の終わりにはグッタリになった。
 
 私たちのグループは多い時は10人以上にもなった。毎日イヒーがアハーと笑いながら続ける。でも夫婦二人だけの人もいる。笑っている時間などない筈。「毎年二人だから慣れたよ。あんた達は若い人が大勢で良いね、羨ましいよ」と語っていた。全然知らない人達なのに畑が隣り同士と言うだけで他人のような気がしない。朝昼夜と声を掛け合った。
 
 どうして家族単位になったのか母に聞いてみた。「若い人のいる家、年寄りだけの家とある、若い人が手伝っても返しに年寄りしか行けないと不公平になる。気にしているより自分達だけでゆっくりやるさー。気楽で良いよ。疲れて夕飯も食べたくない時もあるけどね、どこの家も同じさー。」何時までも昔のままだ。何歳まで続くかな?と
 
 色々な事情が有って現在のやり方になったと思うが何か淋しい気がした。ただ感心した事もある。二十歳代の若者が今日はこっちのおばーの手伝い明日はあっちのおばーの家と休みのたびに走り回っていた。宮古の若者は偉いな。(必ずおばーの家と言う。おじいの家は無いのかな)
 
 30日間頑張ったがキビ倒しがこんなにも好きになるとは思いもしなかった。宮古嫁になればよかった。残念だったのは、なぎ倒しがまだ経験していない。弟の無理の一言で断念したが今度こそは。
 
(追記)
 長南公民館では10時、12時、3時にオルゴールで時間を知らせる。おやつタイムだ。必ず何かしら食べる。これもまた楽しい事の一つではあるが準備する方は、きゅうや のーゆが ふゃーでぃ と しがりていた(今日は何を食べるか悩んでいた)

慶世村恒任

松谷初美(下地・高千穂出身)

 1月19日は“宮古研究の父”と言われる慶世村恒任(きよむらこうにん)の みーにつ(命日)だった。亡くなってから87年。宮古の歴史を通史として初めて『宮古史伝』に記した彼は37歳という若さで亡くなったが、その功績は大きく、今なお多くの人が讃えてやまない。
 
 先日、慶世村恒任の生まれた平良下里の上角(うえずの)にある井戸に行ってきた。この井戸は、慶世村が屋敷内の一角を提供し近所の人たちとともに掘らせたものだという。現在生家はないが、井戸は残っている。周りは植物が植えられ、とても きさばきーとしていた(すっきりときれいだった)。うい(東の方)には、香を焚くような場所もある。近所の方が出てきたので話を聞くと、年に一回ほどどなたかが参り、掃除をしているようだということだった。
 
 今年は慶世村恒任生誕125年にあたる。ぴっちゃやらばん(少しでも)彼の足跡をたどってみようと思う。
 
【んまり(生い立ち)】
 1891年(明治24)年4月21日、砂川間切下里村大原126番地(現平良下里763 自治会は上角)に、父恒綱と母マツの長男として生を受ける。幼名「茶武(ちゃむ)」。慶世村家は、頭職がたくさん出ている英俊氏の後裔だと言う。父恒綱が恒任6歳の時に亡くなったため、祖母、母、妹という女だけの世帯の主となる。祖母に大層可愛がられ、宮古の神話・伝説を聞いて育つ。
 
【たび(旅)】
 二十歳(1911年)熊本連隊入営。2年後帰郷。25歳(1916年)再度熊本連隊へ。除隊後も宮古に帰ることなく、約2年間、九州各地を回り、子どもには童話、大人には講話をして回ったという。27歳(1918年)の頃、「母危篤」の電報で帰ることに。この頃、各地を回ったことが、宮古を俯瞰的に見ることになったのかもしれない。
 
【ささぎ(結婚)】
 23歳(1914年)の時、長男「恒一」(のちに恒夫と改名)が生まれているので、帰郷した年(1913年)に結婚か?妻は、西里出身の下地カメ。入籍は恒一が生まれた3年後の1917年。その年に妻カメ亡くなる。35歳の年に次男「恒次」生まれる。生母は西里出身の平良メガガマ。入籍しないうちに慶世村が37歳で亡くなったため、恒次は平良の姓のままとなる。(後年平良から平に改姓)
 
【すかま(仕事・活動)】
 23歳(1914年)「宮古朝日新聞」(ガリ版刷り)創刊。青年活動にも積極的だったようで、平良・城辺・下地の三村道路の開通を記念して「三村民の歌」を作詞作曲、人気を博す。24歳(1915年)の時には若者男女を集めて演劇活動。28歳(1919年)八重山に本社がある「先嶋新聞」の宮古支局に勤める。精力的に書くも4ヶ月後に退社。29歳(1920年)宮古初の衆議院議員選挙で、立津春方を支持し、演説。盛島明長支持派と対立した。両氏とも当選せず。30歳(1921年)七原小学校(現鏡原小学校)代用教員。翌年准訓導。31歳の時、伊良部尋常小学校へ。32歳で新里尋常小学校へ。33歳の時に退職。

【しゅむつ(著作物)】
◎『島物語』31歳(1922年)
 教員をしていた頃、子どもたちに積極的に日本、世界の童話を話し聞かせていた慶世村恒任はこの時、児童の一人に「日本、世界にはかくも面白き数知れぬお噺あるに、我等が住む宮古島には何物もなきか」の言葉に奮い立ち執筆。

◎『宮古五偉人伝』34歳(1925年)
 「例言」より抜粋「本書は平良町社『宮古神社』鎮座祭に際し、祭神両豊見親及び境内なる産業界之恩人記念碑に因み、五偉人の伝記を叙せしものにして、予が近く公にせんとする『宮古史伝』稿中より抄録せるもの多し。此種の史書未だ世に出でざれば、以て其の事蹟を明かにし世人の参考に資せんとする微衷に外ならず」五偉人とは、与那覇勢頭豊見親、仲宗根豊見親、稲石刀自(宮古上布の創製)、長真氏旨屋(甘藷導入)、白川氏恵根(造林)である。
 
◎『宮古史伝』36歳(1927年)
 宮古初の歴史書。5年前に『島物語』を公にしたことが『宮古史伝』を書く動機となる。史伝は、第一編天太の代以前、第二編争乱時代、第三豊見親の時代、第四編大親の代と四編からなり、さらに章分けされている。家譜、土俗風習、文化、歌謡も収めその内容は多岐、細部にわたる。『宮古史伝』はこれまでに次の方々によって4回再版や復刻等がされている。
(1)1935年須藤利一
(2)1955年伊志嶺賢二
(3)1976年吉村玄得
(4)2008年坂本喜杏
 
◎『注釈曲譜附宮古民謡集』第一輯36歳(1927年)『宮古史伝』の中にも民謡は収められているが、その後も収集を続け、民謡集として出している。第一輯(しゅう)としているので、この後も続けて出す予定だったようだ。巻頭で「宮古アヤゴは歌詞音曲を異にせるその数一百を超え、音楽・文学・言語学及び民俗関係史実考証その他の各方面から見て興味深いものがあり、これを口ずさんで澄み切った大空と新緑の野と、真白なる珊瑚砂と素青なる海原を眺むる時、南島宮古の自然の懐のあたたかい情けにひたることができる」と書いている。
 
 また、この民謡集が出ることを下地恵栄翁が大層喜び、慶世村と宴を設けた際に、タウガネ二首を吟じて寄せたという歌も収められている。

 春の梯梧(でいぐ)の 花(ぱな)の如(にゃ)ん
 宮古のアヤゴや そね島(ずま)、糸音(いつうね)や
 あて美(かぎ)かりやよ
 親国(おやぐに)がみまい 下島(すむずま)がみまい
 とよまし見うでよ

 そう!あの「トーガニアヤグ」で歌われている歌詞は、この本が出る喜びの歌だったのだ。これにはびっくりした。もう一首は次の歌である。

 くや此(く)の書物の 出でたりやど
 みやこ島皆(すまんな)の
 三十原村皆(みそばらむらんな)や
 輝りヤがり名取りよ
 昔(ンカス)からマーン
 あらうユからの アヤゴや花咲きよ

 下地恵栄翁のこの本ができることの喜びと慶世村を称える気持ちが伝わってくる。(『宮古民謡集』第一輯は2008年の『新版 宮古史伝』にも入っている)
 
【ニコライ・ネフスキーとの関わり】
 ネフスキー二度目の来島の際(1923年)、「美人の生まれぬわけ」と「月のアカリヤ仁座」などを話している。そしてその著書『宮古史伝』の中で、「八重山諸島や沖縄島等についてはかなり学者間に研究されているが、宮古島については指を染めるものが殆どいない。・・・・独りエヌ・ア・ネフスキー氏は、近年一再ならず宮古島に渡り実地についてその民族言語を研究せられ、やがて結果を公にしようとしておられることは斯学界のため欣幸に堪えぬ次第である」と書いている。
 
【碑】
 宮古島市熱帯植物園の入口前の道の南側に、没後50年を記念して、「慶世村恒任を顕彰する会」(1979年設立)によって翌年建立。建立から30数年経っているため、刻まれている「宮古研究の父 慶世村恒任之碑」の文字も裏の説明文も読みづらくなっている。
 
【宮古への想い】
 宮古に史籍がないことを嘆きながら病をおして『宮古史伝』等を執筆。あすが(しかし)慶世村のやることを快く思っていなかった人も多かったようだ。また、それを研究して のーんが なりゃ(何になる)お金にもならないことは無駄だという認識も多かったと思う。嫉妬も多かったのかもしれない。『宮古史伝』の「自序」のあとの「例言」で「怪物が宮古の天地を横行している。・・・『宮古根性』の巣食う先輩知己朋友なるものの多くがそれである。『宮古人は人のやる事は皆嫌いなんだ!』」と書いている。本の中にこういう事が書いてあることに、驚きもしたが、納得もした。んなままい(今でも)同じようなことはある。
 
 それでも、慶世村は宮古の独特の風習や あーぐ(歌)などをとても大切にし、誇りにも思っていた。「絶対に少数なる先学知友の勢援により」本を完成させた。そして、『宮古五偉人伝』の巻頭に宮古のことを高らかに記している。歴史研究家の仲宗根將二氏は、「近代宮古で、宮古と宮古人について、これほど格調高くうたいあげた人物はほかにはいない。宮古史をかざる五偉人に、ひいては宮古史執筆に慶世村がいかに全身全霊をうちこんでいたかを垣間見せるものがある」と『宮古研究』9号ー宮古研究の父 慶世村恒任ー で書いている。
 
 本土を南に去る幾百里、太陽の波旭光に輝き、東支那海(トンハイ)の水夕陽を宿す所、点々青螺と散ずる麻姑山(まこやま)八島、面積僅かに十有五方里に過ぎずと雖も、人類往して既に世代遠く、公道布きて歳月久し。島土能く心身即し、心身亦島土に即す。古往今来實に宮古人なる哉。
 島大ならざるの故を以て、其の人智狭しとなす勿れ。山高からざるの故を以てその行徳足らずとなす勿れ。如何ぞ、翔程千里をし世界ほ狭しとなす鷲鳥も、棲巣僅か坪に足らず。春日雲裏の高きに囀すり扶嶽さらに低しとなす告天子も茅野一けいの下より巣立つに非ずや。(『宮古五偉人伝』より抜粋)
 
【しみゃー(最後)】
 慶世村は、『宮古史伝』『注釈曲譜附 宮古民謡集』第一輯を出したあと1929年、37歳で亡くなった。その前年まで「沖縄宮古新聞」に「仲宗根豊見親組躍書」を書いていたとのこと。まだまだ書きたいことが山ほどあったに違いない。1976年の『宮古史伝 復刻版』の中で、息子の慶世村恒夫氏は、「昭和四年一月一九日午后八時五十分『チャムチャム』と幼名を呼び号泣する女達と幼い子らを残して父慶世村はこの世を去った。」と書いている。家族の悲しみ、嘆きはいかほどだったか。
 
 上角にある井戸は、私のおばあ家の通りひとつ ぱい(南)にある。やらびぱだ(子どもの頃)は、おばあの家の前からこの通りに抜けられるようになっていてよく遊んだ場所でもある。その頃は知るよしもなかったが、井戸の前に立っていると、昔が蘇るようである。井戸が今も残っていることに感謝して、そして何より、現在の私たちにもたくさんのことを教えてくれている慶世村恒任にお礼を伝えたく、井戸の前で手を合わせた。
 
 ※参考文献
  『宮古史伝 復刻版』1976年
  『新版 宮古史伝』 2008年
  『宮古五偉人伝』  1925年(コピー)
  『宮古研究』6号 特集“慶世村恒任生誕100年”を語る集い
  『宮古研究』9号 宮古研究の父慶世村恒任 仲宗根將二

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

 今年に入って、晴れた日は2日くらいでしょうか。まいにつ(毎日)のように雨ちゃーん(ばっかり)降って、んにゃ かまりています(飽きています)。例年の3倍は降っているとのこと。マンゴーや野菜などの生育にも大きな影響が出ているようです。キビの収穫もハーベスターが畑に入れないため遅れがでています。この後は晴れが続くことを願うばかり。
 
 1月10日は、NHKのど自慢(宮古島市制施行10周年記念事業)が宮古のマティダ市民劇場から放送されましたね〜。ご覧になりましたか?私は食い入るように見てました。(笑)チャンピオンになったのは、高校生でしたね。落ち着いていて、とても素晴らしい歌声でした。また、「十九の春」のみゃーくふつバージョンもあずーあずで(味わい深いて)良かったですね〜。翌日は、どこに行ってものど自慢の話題でした。
 
 1月16日は、宮古島市民総合文化祭(主催:宮古島市・宮古島市教育委員会・宮古島市文化協会)の「音楽祭〜金管十重奏の夕べ〜」がマティダ市民劇場でありました。宮古出身のトロンボーン奏者池城勉氏(神奈川フィルハーモニー管弦楽団)、同じく宮古出身のトランペット奏者砂川隆丈氏と内地で活躍されている8名のメンバー(BRASS ENNSEMBLEAZURE)の演奏が行われ、素晴らしい音色に酔いしれました。宮古民謡の「漲水のクイチャー」「豊年の歌」などが入った「宮古島民謡のラプソディー」や「宮古島市歌」なども演奏され、とても素晴らしく良かったです。音楽の楽しさが伝わってくる演奏会でした。すでぃがふー!
 
 さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
 
 京都に住んでいる方たちにとって「全国都道府県対抗女性駅伝」は、なじみの大会なんですね。その大会に宮古の選手が出場するとあっては、いてもたってもいられないワタリマリの気持ち、分かりますね〜。ふるさとの人の応援は、本当にうれしいことですよね。その気持ちがとてもよく伝わってきました。仲地さんもとまどいながらもだいずうれしかったはず〜。
 
 大和の宮古人さんの「キビ倒し」の掲載から約7年。現在はは―ベスターを使う農家がほとんどで手刈りは少なくなってきました。書かれているような風景は、もう見られなくなるかもしれませんね。キビ倒しの様子、クスっと笑いながら読みました。大和の宮古人さんは今でもキビ倒しをしたいそうですが、人間は必要ないよと言われるそうで残念がっていました。
 
 慶世村恒任について、いつか書きたいと思っていました。命日が1月ということもあり、今回の掲載となりました。書くにあたり、仲宗根將二先生に大変お世話になりました。慶世村恒任について仲宗根先生ほど調べあげている方を他に知りません。資料もたくさんご提供いただき感謝の気持ちでいっぱいです。ぴっちゃやらばん(少しでも)どなたかの役に立つことを願っています。
 
 貴方の感想もお寄せくださいね。
 掲示板 http://6005.teacup.com/kumakama/bbs での感想もお待ちしています〜。
 
 きゅうまい、しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
 (きょうも 終わりまで お読みくださり ありがとうございました!)
 
 次号は2月4日(木)発行予定です。
 感冒しないように、ぱだーぱだ うらあちよ〜。あつかー、またや〜。