こんにちは〜。
ふゆがら、はるがら、すっさいん(冬なのか春なのか分からない)宮古です。あすが、春はうまがま(そこ)にいるはずね〜。
今回も、幅広い内容のくま・かまです。お楽しみください!
年表
R(平良・西里出身)
私の両親二人とも大正生まれで、父母の元で育っていた時は、大正時代も私の中で生きていた時代だった。あすが(しかし)、両親が亡くなり、平成の時代も28年となると、大正時代は私の中で遙か遠くなり、会話に出てくることはない時代として片づけられていたことに気づく。
昨年末、父方の本家のおばが他界した。享年102歳。
祭壇前に飾られた長寿を祝う県知事からの表彰状に書かれた生年月日によると、おばの生れたのは大正3年。その「大正3年」の文字に触れた時、おばが生きた大正から昭和を抜け、平成時代と続く「年表」が私の かなまず(頭)の中で広がった。
大正、昭和、平成と本当に長いこと生きて、宮古の移り変わりを見てきたんだな・・・。当時の宮古ではどんな やらび(子ども)時代、青春時代を過ごしたんだろう・・・。どんな出来事がおばの年表を埋めているんだろう・・・。
おばや両親が生まれ育った大正から昭和の時代、宮古ではどんな生活が繰り広げられていたのか、今更ながらに「宮古について知らないことだらけ」という事実を突きつけられる。
父が亡くなった時、父の子どもとしてわかっている気になっていたのに何も理解していない自分に気づかされ、教えてもらいたくておばに電話をかけたことがある。
おばは「何があったの?」と言いながらも「自分が嫁いで来た時、学校帰りに花を摘んで来てくれたよ、私が苛められていることがわかっていたんだね。」「戦時中、長崎の造船工場で働いていたんだけど、そこから給料を送ってくれていたよ。」など、父の優しい面を教えてくれた。
父の実家は、両親と7人きょうだい(男4人、女3人)の9人家族。父は下から2番目の4男として、旧下地町(当時は村だったかもしれない)の農家に生まれ育った。長男兄さんとは一回りくらいの年の差があったと思う。
時代が昭和になり、職業軍人の長男兄さんが結婚して、やーでぃ(家族)が増えた。第二次世界大戦の前のことだった。義理の姉さんになったのは、平良生まれ、平良育ち。沖縄師範学校を卒業して小学校の先生をしていた「おば」。農業経験のない中、舅、姑、小姑が沢山いる農家に嫁いで、経験した苦労もあっただろう。職業軍人に嫁いだので、戦争が終わって帰ってくるおじをひたすら待っていた寂しさは如何ばかりだったのか。
戦後、沖縄本島に移り住み、魚屋を営みながら51歳で夫を亡くした。大火事で家を失くした。
苦労を沢山重ねたおばの人生だったが、すとぅがつ(盆)や そうがつ(正月)で本家を訪ねた際の話題は、おばの70歳を超えてから始めた絵や書道の話、染めや織、琉球舞踊の話、90歳を超えても本土に嫁いだ娘たちを訪ねて歩く旅の話と、年の差を感じさせることなくいつも楽しい話ばかり。新しいことに挑戦し続け、周りの人に元気を分けてくれる人だった。私にこんな老後を過ごしたいと思わせてくれる人だった。
これまでの「年表」のイメージは、私にとって大きな世界の話で、有名な事件、事故が記載され、著名人の動きが綴られる自分の生活とかけ離れたものだったけれど、おばの賞状をきっかけに自分自身も自分の年表を完成させる途中を歩んでいることに気付かされた。
告別式で とーがらー(誰か)が披露したおばとのエピソードの一つ、「長生きは疲れるよ。」というおばの言葉も私にはおばからのプレゼントとして思えた言葉だった。
しっかり生きなくちゃね。
◇あの話をもう一度
ワタリマリ(上野・宮国出身)
「ぱんた、ぱんたぬ ばたんき°じゅうろくにつ(大忙しでお腹いっぱいの十六日祭)」vol.216 2010/3/18
久しぶりの じゅうろくにつ(十六日祭)だ。それに3月の宮古。何年振りだろう?春のやわらかな風や、日差し、おだやかな海のきらきら、きび刈り後の畑、実をつけ始めた ばんき°(桑の実)、一面紫に敷き詰めたすみれもこれまた見事。
草花もきれいに咲き誇ってあの世から来た人たちを、迎える準備にいそがしい。人もまたいそがしい。わたしときたら時間と料理との戦い。
急な出来事があっていつも仕切っている姉が午前中不在で いるみ(祝いのお重)の準備が私に回ってきた。
作る。どぅかってぃ(自分勝手)に作ることになった。すっさんさや〜ばや〜(もう知らないからね。わたし)、少々不安げに昆布の肉巻き。立派な昆布に驚く。大きすぎ。大根と人参の煮物と わーぬすうすぅ(豚の角煮)、この二つは前日に姉が仕込んだおかげで大助かり。
「ここに作ってあるからね〜」と後を私に託した姉の料理には うっぐたんでぃ(まあびっくり)で目を丸くした。だって乱切りを通り越した、あまりにも豪快すぎる切り方なのだ。何でもでかくて、どんどんだ
うりゅうばあ んんぷりゃしな ふぁあ?かんぬきゃあまい ふつんかい ぱい°やじびゃい?(これはイモ掘り道具で食べるの?神様たちの口に入るかしら?)そうゆうふうに作るんだと姉は鍋のふたを閉める。
さてお次は揚げ物。次女と三女が当たり前の口調できた。ばんたが んちゅうまい つふぃんに。(うちらの分も作ってよね)。一気にめまいが来た。半端な量じゃ間に合わない。エプロンのひもをしめなおし、何でも来い来い状態。
鳥の唐揚げ・魚・エビ・イカのてんぷら、やきどうふ(揚げ豆腐)。この焼き豆腐、何年か前にトライした時、あまりの薄さに姉に散々けなされた。
うりゃあ のう とうふ?(これはなんという豆腐)とね。内地ぬ うすあげちどぅ あす°(内地でいう、薄揚げかな)とわたし。ほんとはわたしもどう呼べばいいかわからないほど、いびつな豆腐だった。そんな苦い経験から今回は厚さを考えて、包丁を入れたのだが・・・。油の中でとうふも日焼けしていた。
で、いよいよ揚げ物も終盤。やれやれこれでよしと一息ついた時、次女三女の使いの者が「できたか〜」とやってきた。「できたよう、もっていけ」。使いの者たちは、つまみ食いしながら、せっせとタッパーに詰める。大きなタッパーだ。(次女、三女たちは嫁ぎ先に持っていくのである)
一抹の不安が。「もうそれくらいね〜」「いっ!もうちょっといれるよ。足りないよ」「ん?あば?まだ入れるわけ?おいよ〜!やーのがなくなるよ〜」「またあげればいいさあ」「はあ?厚かましさにもほどがある」
そしていよいよ大詰め。茹で卵とタコの ぱなすぅみ(赤く染める)。着色料を使わずに今はやりのハーブのローゼルで染めよとのご命令。
こんなの朝飯前。卵を ぶりんかして(突っ込んで)、んまっつう つきっかあ うすき。(火にかけたらそれだけ)と、たかをくくっていたが、あり〜んで〜 ぱな がまあ?(あら?どれ赤いのは?)どこにも見当たらない赤く染まったはずのたまごとタコ。
ぱなう さかさっち ぱなっすう すうばん、(はなを咲かそうとはなしをしても)ローゼルやくっついてくれない(紅)さあ。と、ひとりむなしくギャグのため息交じりにほほづえをつくって遠く ぱいぬ いん ぬ(南のほうの海)を見つめる私。あがい。のうぬ ぱなっすがしっしゅう。(なんのはなし?)
詰める。さて染まらぬ とぅなか(たまご)は仕方なくそのままにしてとっくに12時を過ぎたのを知らされるといつもの かかみきゃな(せっかちな)性格が輪をかけて かかみきゃになり、できた料理と むつ(おもち)と こうす(お菓子)を重箱に詰めていく。よし、これで準備オーケイ。おっと熱いお茶に、やき°かび(焼き紙)に、線香に、水に酒に米に。忘れ物はないかな?後は家の者の帰りを待って・・・さあ!じゅうろくにつだ。
「準備や おわりなうう?(完了?)」
「ばっちりよ!」
確認のため料理の重箱を開けた姉。呆れた笑い方で「はーい!!うりゃあ みさ°ーい やぬうんち?(ねえ?これって3人家族の分?)」と言うないなや、重箱をもう一回り大きなものに変えて、これまた豪快に詰める。唖然。
そりゃ確かにあの世からはたくさんの人たちが正月しに来るけどさあ
「うすかなあ、たがあ ふぉうがまた?(そんなのだれが食べるわけ?)」
「あしば かんぬきゃあぬ さあ。(だから神さまなんかがさ!)」
「いいっ?うすかなあな?(うわあ!こんなになあ)」
はいはい、もう ずぶんに(ころ合いを見て)墓にはいくさあ。ちいらんにゃ。皆が集合して車に乗り込んだのは3時少し過ぎていた。
ちなみに私は何も考えずに料理を重箱に詰めたのだが、母は言う。昔は12種類の料理を詰めていたと。
それからこんな歌を教えてくれた。父親と子の掛け合い歌。
子:じゅうろうくにつんな のうゆが きさ (十六日祭には何着よう) 親:しゅわすうな ぼうずがま んまが いたんぬ き°し、 しゅうが さなぎゆ ぬい ようい°ゆ しいる ぼうずがま (心配しなくていいよかわいい息子、おかあさんのパンツを切り おとうさんのふんどしを縫ってそれを着てお祝いしましょう) 子:のううがふぁあ(何を食べるの) 親:しゅわすうな ぼうずがま わーゆ やき、うっす やきい じゅうろくにっつ しいる(心配するなよかわいい息子、豚を 焼いて、牛を焼いて十六日祭をしましょう)
墓の門の中
ごちそうを並べ、あの世のお金を焼き、線香をたて、家族親戚が一堂に手を合わせる。祝詞は今日墓に来てくれた人達の名を呼び、皆一緒に じゅうろくにつのお祝をしに来たことを告げる。この世での健康と幸せを祈る。重箱に詰めてきたご馳走は全部小分けして香炉の前に並べ、そのままにしておく。えらいご馳走だ。やき°かびのお年玉もたっぷり焼き終えた。
墓の門の外
本家や んまやあ(おばあやあ)の墓の方向に線香を立て、ご馳走のおすそわけをして、手をかみる(あわせる)。それを済ませて、さあやっとこさこの世の皆さま食べましょうか?
親戚が次々やってきた。日が暮れるまで母の話を聞き、写真を撮り、ワイワイ過ごしてああー忙しかった じゅうろくにつもこれで終わり。また来年は来れるかねえ?んなーる(じゃあね)食べきれなかったご馳走をまた車に積んでお墓を後にする。
野に(お墓のある場所)吹く風は人の気持ちを和らげ、死んでしまった人たちは語らいの場に現れる。
あのときはあなたが逝ってしまったことが悲しくて仕方なかったけれど、いま皆ここで笑っている。歌っている。
悲しみは越えられたわけではないけれど、生きているこの者たちは笑いながら歌いながらあなたを想いその日が来るまで生きていこう。
守ってくださいこの者たちを。
与えてくださいほんの少しの幸せを。
今日のような柔らかな風をまた吹かせてください。
久しぶりの じゅうるくにつ(十六日祭)。大事にしなくっちゃ。ぐそう(後世)の正月。
島燃えたトライアスロン!大イベントの誕生秘話(1)
與那覇 淳(平良・鏡原出身)
【32年前にオープンした県内随一の豪華ホテル】
今年、32回目を迎える全日本トライアスロン宮古島大会。この大会が生まれるまでには、実は、たうきゃーぬ(一人の)サラリーマンが すたてぃたー(仕掛けた)壮大なドラマがあった。
偉業をなし遂げた仕掛け人とは当時の東急電鉄イン事業部販促課長の田中清司氏である。2013(平成25)年4月21日、宮古島東急リゾート別館の一室で どぅす(友人)の紹介で田中氏に面談、インタビューする機会を得たので、これをもとに大会誕生秘話を紹介する。
沖縄が本土復帰して3年後の1975(昭和50)年、沖縄国際海洋博覧会が開催されたが、これを機に沖縄では本土大手資本による大型ホテルの建設ラッシュが続いた。宮古島でも本土企業の土地の買い占めが相次ぎ、1984(昭和59)年4月20日には、下地の与那覇前浜で宮古島東急リゾート(2015年4月1日付で宮古島東急ホテル&リゾーツに名称変更)がオープンした。
当時、宮古島東急リゾートは県内随一の やぐみ(豪華)ホテルといわれた。151の客室を擁し、海水浴、ダイビング、ヨットなどの海洋性マリンスポーツが楽しめ、野外プールやテニス場などの付帯施設が完備された長期滞在型の施設として誕生した。
その頃、私は宮古テレビの駆け出しの放送記者でホテル開業を取材した思い出がある。オープン記者会見でプールサイドに腰掛けた今は亡き東急グループの社長・五島昇氏の格式漂う風貌と周りを威圧するような重低音の声が、今でも鮮明に脳裏に刻まれている。
【一人のサラリーマンの苦悩からの挑戦】
田中氏によると、当時、沖縄の観光といえば沖縄本島と石垣島が中心であった。沖縄本島と宮古島は南西航空(トランスオーシャン航空の前身)が結んでいたが、本土では宮古島の知名度は のーまい(まったく)と言っていいほどなかった。
開業したものの客が入らない。「いくらホテルを宣伝してもしょうがない。何よりも宮古島を知ってもらわなければ」と、田中氏は島そのものを売り込む作戦を思いついた。(あすがどぅ)しかし、海とさとうきび畑以外、のーまいにゃーん(何もない)島、のーしーししばが(どうすれば)宮古島を知ってもらえるのだろうか。田中氏は行き詰っていた。
その数年前、宮古島で沖縄県高等学校の駅伝大会が開催された。んきゃーんから(昔から)駅伝熱が高いといわれた宮古島。沿道は応援する住民で埋め尽くされた。このあと、マラソンコースも整備され日本陸連公認のコースが誕生した。
日本最南端の陸連公認のマラソンコースの存在を知らされた田中氏は、話題性があって将来性もあるスポーツ、しかも高い旅費を払ってでも宮古島に来てもらえるスポーツとは、何なのか、と思案に暮れていた。その頃、トライアスロンがオリンピックの公開競技になる可能性が噂されていた。そこで、トライアスロンに着眼した。
【消えかかった灯し火 早稲田繋がりで再燃】
早稲田大学競走部(陸上部)出身で箱根駅伝の監督も経験した田中氏は、そのネットワークを駆使してトライアスロンの資料を集め、ハワイのアイアンマンレースのビデオも入手した。その頃、田中氏は40歳そこそこ。日本ではまだ社会的に認知されていないトライアスロン。社内で提案して嘲笑も受けた。宮古島へ出張のたびに宮古体育協会の役員らにビデオを見てもらうなど積極的に働きかけたが一向に話は進まなかった。「とても、我々の組織で運営できる競技ではない」と丁重に断られた。宮古島ばかり行っているじゃないか、と社内でも揶揄された。
暗礁に乗り上げた状況のなかで、田中氏は宮古からの帰りに愚痴の一つでも聞いてもらおうと大学の先輩・福永俊郎専務を沖縄テレビに訪ねた。しばらくの間、話を聞いてくれた福永専務は「テレビよりも新聞の方が力になる」とアドバイス。自分の名刺の裏に紹介文を書いて琉球新報の伊豆見元一社長を紹介した。奇しくも伊豆見社長も早稲田大学の先輩であった。
面会の約束をとりつけることもなくその足で沖縄テレビからほど近い琉球新報社を訪ねた。社長室に通され秘書に紹介状を秘書に渡したところ、会議中の いみっちゃしってぃ うだーうだぬ(ずんぐりした)伊豆見社長が姿を現した。「私は役員会議中で議長をしているのでやめるわけにもいかん。だが、何の用だ」と聞かれた。
田中氏は、宮古島の将来とトライアスロン開催への熱い思いを伊豆見社長に説明し「開催にあたって御社に関わっていただきたい」とメディアとしての協力を求めた。この思いを受け止めたのか、伊豆見社長はすぐに島袋浩企画局長と真喜屋明事業部長を呼び寄せ「この人の言うことをよく聞きなさい。但し、当社として主催に関わるという前提で」と言い残して、役員会議の席に戻っていったのである。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
やっとがま、晴れの日が続くようになってきましたが、長雨が続いたり突然、ぴしーぴしの(寒い)日が続いたせいで、農作物に影響が出ているようです。マンゴーの花芽の成長も遅れているとのことで、しわ(心配)ですね。
うちの両親は、ぴてぃーつ(ひとつ)の電気ストーブの前にふたり、くっついて座っています。宮古に暖房器具はいらないはずーと最初は思っていましたが、いやいや、体感気温は相当なものですね。それにしても、両親のそんな光景もまたいいものがま。
くま・かまの掲示板でも書きましたが、2月6日のすまふつボランティア養成講座(主催:沖縄県・沖縄県文化協会 共催:宮古島市教育委員会 主管:宮古島市文化協会)は、琉球大学教授の狩俣繁久先生を迎えて行われました。70名余りの参加者は、狩俣先生の講義「よくわかる宮古語のしくみ」に熱心に耳を傾けていましたよ。若い方たちにどうやって伝えていくかということを普段からされているので、とても分かりやすく、面白く、アッと言う間の2時間でした。21日はいよいよ最後の講座となります。こちらも楽しみです。
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
Rさんのおばさん、素晴らしいですね〜。102歳まで生きたおばさんの人柄が伝わってきました。おばさんを通して知るお父さんの話も印象的でした。親の知らない一面を教えてもらうのはうれしいことですよね。そして、身近に生き方のロールモデルがいることもいいですね。一生懸命生きた後に、年表はついてくるのかもしれませんね。
今年のジュウルクニツ(十六日祭)は、今月23日。それに合わせてのワタリマリの話の再掲載となりました。ジュウルクニツの様子がすごくよく分かりますね。お供えものの準備は、まーんてぃ(本当に)大変なこと。ばんまい(私も)あぎ豆腐(揚げ豆腐)の厚みが薄いと言われたことあったなぁ。23日は晴れてお墓でのジュウルクニツができるといいですね。
今や宮古島のトライアスロン大会は全国的に有名ですが、なぜ宮古でトライアスロンが開催されるようになったのか。與那覇淳さんならではの取材力で明かしてくれます。興味深い内容ですよね。今年は4月17日に開かれますが、その前にぜひ、お読みくださいね。3回シリーズでお届けします。お楽しみに!
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きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(きょうも 終わりまで お読みくださり ありがとうございました!)
次号は3月3日(木)発行予定です。
感冒しないように気を付けましょうね。 あつかー、またや〜。