こんにちは〜。
やっとがま 春らしくなってきた宮古です。 そちらはいかがですか? がんづぅかり うらまずなー(お元気ですかー)?
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『クイチャーの日』の制定を
クイチャーマン(下地・与那覇出身)
3月4日は「さんしんの日」、3月5日は「サンゴの日」、3月8日は「三板(さんば)の日」、4月3日は「シーサーの日」、5月8日は「ゴーヤーの日」、5月10日は「黒糖の日」、7月10日は「指笛の日」などと制定され、県内版のカレンダーや手帳などに記載されている。
それらの日には記念のイベントなども開かれる。今年の第24回「さんしんの日」に、私たちは読谷村のメイン会場でクイチャーを踊った。そのとき「クイチャーの日」について思いをめぐらせた。
実は「クイチャーの日」はまだ制定されていない。しかし、その制定についての提言は以前からなされてきた。主な経過を振り返り、今後の「制定」に向けた私の思いを伝えたい。
2002年(平成14年)1月18日に国の文化審議会が文化庁長官に対して「宮古の各地で継承されている『宮古のクイチャー』を新たな記録作成等の措置(記録保存)を講ずべき無形の民俗文化財に選択するよう答申した。そのことを喜んだ私の投書が1月27日付『琉球新報』の論壇に「クイチャーの無形文化財答申―記念館と記念日の創設を」というタイトルで掲載された。
論壇の中で私は記念館の意義に触れ、市町村合併記念に建設をと提言。記念日に関連しては「クイチャー記念日(クイチャーの日)には、宮古をはじめ、県内各地はもちろん、本土および世界中でクイチャーを踊る。大地(地球)を蹴って踊るクイチャーが地球的規模で踊られ、世界平和の架け橋になるのも夢ではない」「クイチャーの日をいつにし、行事の内容をどうするかなどは研究者や関係者でよく話し合って決めればよい」などと述べている。
その後、同年3月24日に浦添市社会福祉センターで開かれた宮古民謡保存会(國吉源次会長)主催「クイチャーフォーラム―クイチャーの保存・継承・普及をめざして―」のなかのパネルディスカッションで「9月1日をクイチャーの日として制定してはどうか」という提起が5人のパネリストのうちの一人からあった。クイチャーの語源といわれる「クイ(声)」を「チヤース(合わせる)」から、語呂合わせで「9月1日を」との提案であった。このフォーラムを取材した宮古毎日新聞は26日付の紙面で「9月1日をクイチャーの日に」という大見出しで報じたが、その後の具体的な動きなどはなかったようだ。
このディスカッションの司会を宮古民謡保存会の事務局長の私が担当したが、「クイチャーの日については、話し合いの場を広げて議論していきたい」とまとめたと記憶している。フォーラムには宮古出身者を中心に会場いっぱいの約200人の参加があり、会場からの発言も多かった。そのような中で、私は参加者と約束したことを、その後14年を経た今日まで果たしていないことになる。責任重大で、大きな宿題を背負ったままである。なお、このフォーラムでは、本格デビュー前の下地勇さん(当時宮古民謡保存会の役員)が方言で「関白宣言」と「我達が生まり島」を歌い場内を沸かせた。
一方、同年4月10日、クイチャーフェスティバル実行委員会(下地暁委員長)が平良市役所(当時)で記者会見を行い、11月3日に第1回クイチャーフェスティバルを開催することを発表した。当時「クイチャーフォーラム」の取り組みをしていた私は、「クイチャーフェスティバル」の準備をしていた下地暁さんと連絡を取り合い、意気投合した。その後クイチャーフェスティバルにも参加し、創作クイチャーの審査員やクイチャー大共演の先導役を務めてきた。しかし「クイチャーの日」については、暁さんやフェスティバル関係者とも話し合いをしたことがなかった。
沖縄県教育委員会は平成15年度から3年間にわたって調査してきたものを、平成18年3月「宮古のクイチャー調査報告書」として発表・出版している。これは国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択された」ことにともない、まとめたものである。報告書は10人の学識経験者等の分担で調査し記述されている(A4判209頁)。この中で、宮古の旧市町村ごとに17か所のクイチャーが記録されているほか、クイチャーフェスティバルについても第4回までの沿革などを紹介し、考察も加えている。
今年はクイチャーフェスティバルが15回目、教育委員会の報告書が出てから10年目という節目に当たる。私は「クイチャーの日」を制定するタイミング、チャンスとして今年を位置付けたい。幅広く関係者と意思疎通を図り「クイチャーの日」の制定を実現したい。記者発表会はどこにしようか、もちろんその場でクイチャーも踊ろう。長年の宿題を果たすために、クイチャーマンとして取り組んでいかなければ・・・。
あんすぅが んにゃ、あんしぬ くとぅー うむいやーみーみー かんげーやーみーみー うーっかー にう゛わりぐーっふぁにゃーん。のーがすぅでぃ。(しかしながら、そのようなことを思ったり、考えたりしていると 眠れそうもない。どうしよう) 。すきゃき ぷかー にゃーんいら(やるしかないか)。
◇あの話をもう一度
ひさぼう(平良・西仲出身)
野際陽子が、押し殺したような声で、このセリフ。たじろぐ仲間由紀恵。テレビドラマ「トリック」のワンシーンである。今回は、このセリフから。
ミャークフツ | 共通語 |
---|---|
のお | なに(何)、どう(如何) |
ていぬ | という |
ばあ〜 | こと |
りゃ〜 | 「のお」+「りゃ〜」で、ものごとを尋ねたり、ただすとき使う。 「一体どういうことなの?!」というのが、このセリフの意味。 |
のお | 「のお」は、上の使い方の外に、単独で使うときは、 呼ばれたときの返事になる。 宮古の人は、ハイとは言わず、「のお」と言う。ハーイは、「のー」である。ちょっとうるさいな、という意味をこめるときは、「が」をつけて、「のおが」、「のお〜が」と言う。語尾を上げて「のおーー」は喧嘩ごし、「なにおー!!」。目上と年寄りには語尾をさげて、ソフトに「おう」と返事する。 |
のおりゃー くりゃー のおりゃー うりゃー のおりゃー かりゃー | 順に、これ、それ、あれ は ナニ ?という問いかけになる。 |
のおしーりゃー | ごきげん如何?に相当。元気?生活はどう?具合はどう?など。 |
のおゆが しーゆー りゃー | 何をしているか?という意味。この「しーゆー」の所に、相手の動作を入れると、何を○○しているか?になる。「のおゆがみいゆう(見ている)りゃー」「のおゆがふぁいゆう(食べている)りゃー」「のおゆがゆみゅう(読んでいる) りゃー」 |
のおてい がらやー のお がらやー のおまい あらん のおまい にゃあん | 順に、何でだろう、何だろう、何でもない、何にもない。 |
のおしぬ のおしいまい のおしいがみまい | 上から、どういう、どうしても、何としてでも。 |
のおがらくうがら のおまいしらいん | 何が何だかお手上げだ。 |
島燃えたトライアスロン!大イベントの誕生秘話(3)
與那覇 淳(平良・鏡原出身)
【特別協賛金の獲得と道路使用許諾の狭間】
大会開催の必須条件の一つは道路使用許可である。
ところで、大会運営には多額の資金が想定された。琉球新報社の協賛金だけでは賄えない。そこで浮上したのが「JALカップ」の冠大会にすることだった。前述の田中氏と島袋局長は日本航空と系列の南西航空に交渉して、多額の特別協賛金と交通運輸援助の供出の約束を取り付けた。
大会に「JALカップ」の冠をつけることを条件に。あすぅがどぅ(ところが)沖縄県警は一企業のために16時間にもおよぶ一般公共道路を使用させることはできない、との理由で道路使用を拒絶した。
大揺れに揺れた挙句、田中氏が「JALカップを外して交渉するように」助言したことで許可された。JALカップが外されたことに不満を隠しきれない日本航空に対して田中氏は「沖縄県警の立場も理解してください。JALカップの形は排除するが、本土での宣伝活動にはJALの名前を臆することなく使ってください」と進言した。
苦しい説得であったが、結局、日本航空は特別協賛金と運輸援助の約束を果たした。日本航空が協賛金を出してくれなかったら、実現することはなかったであろう。「航空路線を持っていなかった宮古島の大会に、特別な計らいをしてくれた日本航空には素直に感謝、評価すべきである」と田中氏は振り返った。
【NHKが生中継で燃える島を全国に】
第一回宮古島大会で特筆すべき一つにNHKの生中継がある。この交渉を すきゃきた〜(手がけた)のは田中氏だ。窓口は島田プロデューサー。田中氏の働きかけによってNHKは調査団を宮古島に派遣した。
なかなかいい返事得られずやきもきしていた矢先に田中氏はNHKに呼ばれた。島田プロデューサーから「調査結果を待ってくれ。前向きに考えたい」と告げられた。うのあとぅん(その後)、島の代表と一緒に来てくれと言われた田中氏は、宮古広域圏協議会の副会長の森田武雄氏(城辺町長)芳山弘志氏(上野村長)と琉球新報の伊豆見社長を伴ってNHKを訪ねた。
対応した小畑報道局次長は調査結果から「島は燃えていた」と述べた。当時、NHKは沖縄の視聴料の不払いに頭を悩ませていた。その実情を聞かされた伊豆見社長は「琉球新報は25万部の発行を擁しています。視聴料不払い問題でキャンペーンをはりましょう」と啖呵を切った。
うぬ ぴとぅくいし(この一言で)生中継が確定した。「琉球新報、日本航空、NHKは宮古島トライアスロンの実現に大きく関わった」と、全日本トライアスロン宮古島大会の仕掛け人である田中氏は述懐した。
1985(昭和60)年、4月28日。ついに第1回全日本トライアスロン宮古島大会は開催され、NHKは、しゃーか(早朝)から夜中まで述べ4時間の生中継で全国の茶の間にトライアスロンに燃える島の模様を映し出した。
インタビューの最後に田中氏は私に訊ねた。「島の最大の功労者は誰だと思うかね」。私が考えあぐねていると、続けて「当時の市長の伊波幸夫さんでしょう。伊波さんの銅像を造ろうという話もあがったという話も聞いている。左とか右とか(宮古の政治風土を指して賛否両論の意)もあろうが、銅像が建ってもおかしくない。それにもう一人は宮国猛さんだね」と述べた。
【宮古島経済活性化計画と長浜幸男氏の功績】
末尾になったが、トライアスロンの話が持ち上がる以前に策定された「宮古島経済活性化計画」の存在を ばっしや ならん(忘れてはならない)と思う。同計画は地方自治法に基づく特別地方公共団体である宮古広域圏協議会が、当時の宮古の六つの市町村をまとめて広域的な産業おこしのために立ち上げた計画である。
こうした取り組みのなかでトライアスロンの話が持ち込まれ協議の結果、トライアスロン大会は同協議会と琉球新報社の共催で行うことが決定された。同計画の受け皿があったからこそ、当時無謀とも言われたトライアスロンの実現へ動き出したのである。
この協議会をまとめ上げたのが長浜幸男氏で、彼はその後の全日本トライアスロン宮古島大会・宮古島トライアスロン実行委員会の初代事務局長を務めあげた。トライアスロンを語る上で彼の功績を忘れてはならない。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
前号で、県立高校の卒業式の話を少ししましたが、3月9日・10日には高校の入学試験がありました。(宮古には現在4つの高校があります)お昼時間には、恒例の高校内で受験生を囲み家族でお弁当タイム。私も甥が受験生だったので応援に行ってきました。たくさんの家族親戚たちが集まって賑やかでしたよ。受験生たちもこの時間はリラックスしている感じでした。そして昨日は合格発表。うまかまで合格祝いをしていましたね〜。私も甥っ子のお祝いをしつつ、従妹の家にも受験生がいたので、お祝い周りをしました。
3月11日は、東日本大震災から5年ということで、テレビや新聞でたくさん特集をしていましたね。普段は自分のことで精いっぱいでなかなか思いを馳せることができませんが、あの日のこと、東北のこと ばっしつかーならんいら(忘れてはいけませんね)。
話は前後しますが、3月5日には、昨年結成された「劇団ぴん座」の旗揚げ公演「愛だら、ピンザ!」がマティダ市民劇場で行われました。方言と標準語を交えての劇でしたが、笑いあり、涙ありで、だいず うむっしでした。宮古が色濃く出ていて、脚本、キャストとも素晴らしく、感動しました。今後、どんな作品がでてくるか楽しみです。
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
今や、いろいろな記念日がありますが「クイチャーの日」がないのは意外な気がしますね。これまでいろいろな取り組みがされてきているということなのでぜひ制定へ向けて進んでほしいですね。して、その日に世界のいろいろな国の人がクイチャーを踊るというのを想像しただけでも、すごく楽しい気持ちになります。
ひさぼうさんの方言講座は、本当に分かりやすいですね。そして面白く、楽しい〜。2003年の掲載当時は「トリック」が流行っていましたね〜。みゃーくふつがテレビから出た時はびっくり。ゆーや かーりーど うー(世の中は変わっている)と思ったのでした。方言講座、ぜひ、声にだして読んでくださいね〜。
與那覇淳さんのトライアスロン誕生秘話。最終回でした。読みごたえがありましたね。成功するかどうかも分からないことへの挑戦。困難を乗り越え今があるんですね。やまかさの人の熱い想いは、んなまぎー(今まで)受け継がれ、今年は4月17日に行われます。
貴方の感想もぜひ、お寄せくださいね。
掲示板での感想も どんないお待ちしています〜。
きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(きょうも 終わりまで お読みくださり ありがとうございました!)
次号は三週間後の4月7日(木)発行予定です。
うぬ ときゃがみ ぱだーぱだ うらまちよー(その時までお元気で)。あつかー、またや〜。