こんにちは〜。
テッポウユリが白く可憐な花を咲かせている宮古です。 がんづぅかりうらまずなー(お元気ですか)?
vol.362お届けです〜。 ぬかーぬか ゆみふぃーさまちよ〜。
うなが かたあき(己(おの)の役目)
松谷初美(下地・高千穂出身)
やらびぱだ(子どもの頃)、私の かたあき(役目)は、お風呂を薪で沸かすこと。茹でた んーな(カタツムリ)を殻から出し、豚の餌とすること、母の家事の かしー(加勢)などであった。
学校(小学校の頃)での かたあき(役目、というか当番かな)は、花園係やうさぎ当番だった。役目を果たすことは、なかなか難儀でいやいややっていた気がする。
でも、大人になると、人には必ず何かしらの かたあき(役目)というのがあって、それはとても大切なものだということを実感している。
今年89歳になる母は、認知が少しずつ進んできて、きょうが何日で何曜日かもすぐ忘れるしまう。そんな母を見ていると、どこか遠くに行ってしまいそうで、時間のねじをこちら側に巻き戻したくなる衝動にかられたりする。
でも当の本人は、忘れることを「だいず(大変なこと)」とも思わず、若い頃から忘れっぽいからねーと笑っている。私の方は、しっかり者だった母が変わっていくことがなかなか受け入れられず、きついことを言ってしまったり、時にはケンカをしたりして、落ち込むのだが、母のあっけらかんとした明るさに救われている。
母は大家族の中でたくさんの役割を果たしてきた。そして「やるだけの事をたくさんしてきたから、もう何もしたくない、難儀をばやらん」と言う。年を取ると子どもに帰るというが、まさにそうだと実感をする。
子どもの頃は母が平良に買い物に行くとお土産が楽しみでしかたなかった。今は逆に母が私の買い物からの帰りを楽しみにしている。何か自分のために美味しいものを買ってきたのではないかと期待した目をして私を見る。大好きなスイカが入っていると、だいずうれしそうな顔をする。
兄嫁は、私と両親の会話を聞いて、初美さんがお母さんみたいだねと言う。確かに。今は私が親の役割をしているのかもしれない。
母は、私たち子どもに「老いる」とはどういうことかを見せてくれている。思うように体が動かないこと。車の助手席に乗るだけでも、あがい、脚が上がらないと言う。階段が登れなくなるということ。幼いころの思い出は鮮明に覚えているということ。子どもにかえるという事、などなど。
おじい、おばあの老いを見るのと、両親の老いを見るのは違う気がする。両親の場合はとても現実味があり、自分もそうやって年をとっていくというのをまざまざと見せられている気がする。
母の現在の かたあき(役割)は、私たちにそれをおしえるという事のようだ。(本人はそんなつもりはないだろうけれど)。いずれ自分も行く道。しっかりと受け止めていこうと思う。
◇あの話をもう一度
マツカニ(上野・高田出身)
「『狩俣のイサミガ』どぅかってぃ解説」vol.198 2009/6/18
今回はタイトルに宮古島の北端の地「狩俣」を冠した「狩俣のイサミガ」です。あまたある民謡の中で歴史の淘汰をかいくぐり、いまだ宮古島の人々に愛され唄われ続けている唄です。
『狩俣のイサミガ』 1 かす゜また ぬ いさみが んなぐず ぬ みやらび (狩俣のイサガミ んなくずの 乙女) アガスゥミャーヨ(ハヤシ) 2 とぅんがら や やうんむ なしばたや びし゜ぅうんむ (女友達は 家にいるの 年頃の乙女は 座っているの) 3 やうらば なうすぅでぃ びじうらば いきゃすぅでぃ (家にいたら何ですか 座っていたら何するの) 4 くりぷどぅ ぬ すぅうつん くりぷどぅ ぬ すぅびゃりん (これ程の大潮に これ程の干潮に) 5 いん うりだ やうんむ ぱまふまだ びじうんむ (海下りず 家にいるの 浜踏まず 座っているの) 6 ずぅやずぅ きゅうや いんうり ずぅやずぅ きゅうや ぱまふま (さぁ行こう 今日は 海下り 行こう 今日は 浜を踏もう) 7 いんざ いんむが うりでぃが いざ ぱまが ふまでぃが (どこの海へ下りるの どこの浜を踏むの) 8 うりならす゜ いんだら ふんならす゜ ぱなだら (下り慣れた海だよ 踏み慣れた浜だよ) 9 ばが てぃらや とぅりむち いすぅでぃらや さぎむち (私のかごを取り持って 磯用のかごを下げ持って)
【解説】
1番の「んなぐず」の部分はよくわかりません。「砂地」とか「屋号」とか訳されているのもありますが、ここでは、どぅかってぃに考えて城辺の地名「んなくず」にしてみます。狩俣のイサミガは城辺の「んなくず」から嫁に来て、親しい「とぅんがら」が出来た、となります。「とぅんがら」とは特に親しい同じ年の女友達同士のことをいいます。ちなみに同級生のことは「あぐ」といい「ハーイアグー」と呼んだりします。(ブタではないよ)
2番の「なしばた」の部分も悩ましい部分ですが宮古民謡の歌詞の特徴から考えると「とぅんがら」と同義語のような気がします。「子どもを産むおなか」と訳せないこともないのですが・・・。ネフスキーの本『宮古のフォークロア』の中には、「なりぱだ」となっていて、「年頃の乙女」と訳してあります。
4番の「すぅうつん」もまた難儀な部分です。『平良市史』によれば、「満潮」と訳されているのですが、後の歌詞から考えるとどうでしょうか?「大潮」としたほうが良い気がします。「すぅびゃーり」は通常は「すぅぬぴしゅー」と言いますが すぅ(潮)が ぴゃーり(日照り)ているということで、すごい干潮だと考えられます。
曲調は独特のメロディーをノリノリの三線がサポートします。「漲水のクイチャー」と同じ感じです。僕のかすかな記憶をたどれば西田佐知子の「恋に二日酔」という歌は「狩俣のイサミガ」をもとに作られ、よく似ていたと思います。「お富さん」の作曲で有名な沖縄出身の渡久地政信の作曲だったと記憶していますが・・・。
『平良市史』によると「狩俣のイサミガ」は、33番まであり、嫁があつまって姑の悪口をいっていると潮が満ちてきたので、見回していると貝やタコがいたので持てるだけ取って帰ると、舅や姑からは、お前が取ったんじゃなく不倫の相手が取ったんじゃないかと言われ、頭に来て、私がいなくなったら姑は、カマドの前に座って水でも飲め、舅は山に行きがてら蜂にさされてしまえという所まで歌われています。いつの世も大変大変。ではでは。
#参考資料:『平良市史 第7巻資料編』,『宮古のフォークロア』ニコライ・A・ネフスキー著
稲垣国三郎レポート vol.1ー 白い煙と黒い煙 ー
あすなろ(平良・東仲出身)
んな、ぴっちゃがま、すーつかー、こき、だら (もう、一寸、すると、古稀、だ)
70歳を前にして、「彼」に邂逅できた事は、ある意味必然だったかもしれない。偶然が幾重にも重なると必然に思えてくるから不思議です。
「あすなろさん、稲垣国三郎を知ってます?」と彼女。「聞いた事が有る様な無い様な」と私が混ぜる。彼女とは「宮国優子」さん。昨年の12月、東京の彼女のお店「Tandy ga tandhi(たんでぃがーたんでぃ)」で初めてお会いし、ある冊子を譲り受けた。
毎月第3日曜日、東京の渋谷で開かれている通称「新里(あらさと)教室」(正式には『宮古古諺音義』の著者「新里 博」先生の講義)に初参加した後の「課外授業?」での一コマ。
その冊子は、『宮古島最古の映像に関する一考察』(片岡慎泰・宮国優子共著)日大文理学部人文科学研究所『研究紀要』第89号(2015)抜刷とあります。
「ロベルトソン号」に纏わる論文で、その目的を「仲宗根将二氏の解説を手掛かりに、映像の中にある内容、撮影手法を分析し、当時の国際情勢を視野に、片岡・宮国(宮古島出身)で映像資料の価値を検討することにある」と述べています。
この『一考察』は、内容が濃く、取り寄せての一読をお薦めします。しかし、私の関心は、18頁に登場する岡崎(愛知県)出身の「稲垣国三郎」でした。岡崎は徳川家康が産声をあげた知る人ぞ知る有名地。
53歳から定年までの7年間を岡崎郵便局で過ごしたことが、「彼」を身近に感じたという訳です。早速、岡崎図書館へ。悪戦苦闘する事3時間。皆目手掛かりが掴めません。あきらめての帰り際、「稲垣国三郎さんをお調べの方はお宅ですか?」と女子職員。PCを見せてくれた。
何と、そこには琉球新報(2012年4月26日)の記事が・・・。愛知県安城市の古井歴史研究会のメンバーが沖縄県名護市にある「白い煙黒い煙」の碑の前で集合写真に納まっています。何と「彼」は岡崎出身ではなく、我が町安城の出身。鳥肌がたった。同じ小学校区内で、車で5分とかからない古井町の出身。
知人のI君にアポを取る。彼は古井歴史研究会のメンバーだ。資料を取り寄せてくれた。近くのお寺(憶念寺)の境内に「彼」の胸像が建立され、お墓もあるという。この偶然は「見えざる神の手」が「彼」の事を宮古島の皆さんにお知らせして下さい。と言わんばかり。
以上の経緯もあって、以下の通り何回かに分けてレポートしてみたいと思います。
1.はじめに
2.稲垣国三郎の生涯
◎幼年時代
◎愛知第2師範学校時代
◎沖縄での教員時代
◎沖縄を離れてからの教員時代
◎晩年
3.『琉球小話:詩(うた)の国 夢の国』大阪(盛運堂)1934(昭和9)年初版本
「白い煙黒い煙」の文章が教科書に採用されるまでの経緯
4.いくつかの疑問点について
(1)憶念寺(古井町桜塚)にある胸像の不思議
(2)「彼」は何故「ロベルトソン号」「久松五勇士」に深く関わったのか?
5.おわりに
この流れで、早速レポートします。
1.はじめに
このレポートの趣旨は、「彼」が辞令とは言え不安を抱えながら異国沖縄へ赴任し、如何なる体験の中から沖縄に魅かれ、『琉球小話』を著わすに至ったのか?
とりわけ「白い煙と黒い煙」の項では、大正時代に大阪へ就職する娘を名護から20里離れた那覇港まで見送りに行けず、娘の為に名護城の頂で老父婦が生の松葉を燃やし、白い煙で娘を見送る。汽船からは黒い煙が…。
この情景に感動した「彼」は、その「親子の情」を流れるよう美しい文章で綴っています。この一文も是非読んで戴きたいと思います。
この話が、昭和6年頃の小学国語教科書に採用されます。そのいくさつは?
『琉球小話』―立体感のある沖縄の風土記― 沖縄文教出版の再版(昭和47年)本によると、1918(大正7)年12月26日、初めて宮古島を訪れています。「宮古島の談片(192ページ)」
漲水港の宮古旅館から城辺まで12km程を雨に打たれながら宮古馬に乗って講演に行きます。「乗馬の旅(200ページ)」交通機関の全くない大正時代の宮古島。宮古島独特の「のどかさ」が「彼」の筆致で伝わってきます。是非、皆さんに読んで戴きたいと思います。
更なるレポートの課題は、「彼」が「ロベルトソン号」「久松五勇士」に深く関わる動機づけは何だったのか?
これらの事を探りながら、更に沖縄で作られた筈の胸像がどのようなルートで生地、古井町本神(ほんじ)に辿り着いたのか?
「納屋」に無造作に置かれていた胸像をどのような経過で岩瀬和市(注1)氏が憶念寺(古井町桜塚)の境内に建立するに至ったのか?
種々の疑問にも迫っていきたいと思います。
「彼」に纏わる多くの人達が泉下にいる現在、どこまで迫れるか疑問ですが、「胸像は納屋の中で隠すようにおかれていた、と聞いている。当時、お国(軍)に金属を納めねばならず隠していたのでは・・・」と「意外?」な証言をした稲垣Mさん(女性78歳)。「国三郎さんには与一(市?)という異母兄弟の兄がいた」(同Mさん)。この発言をうけて稲垣S子さん(85歳)は「与一さんは岩瀬瓦屋から稲垣家に婿養子できた」と証言。さらに「国三郎の葬儀に夫婦で参列した」「胸像の除幕式に奥さんが参列した」と証言。
彼女達の記憶が薄れつつある今「彼」に纏わる資料集めを急がねばなりません。幸いにも、安城市の著名な歴史研究家で「安城文化財保護委員会委員長」の天野暢保先生が近くにお住まいで、天野先生のアドバイスを仰ぎながら書き進めたいと思います。天野先生は2012年4月、古井歴史研究会のメンバーを引率し、名護、宮古島を訪れています。その記事が「宮古毎日新聞(2012.4.24)に掲載されています。
宮国優子さんとも面識があるとの事。この偶然も大切にしたいと思います。他にも、次々と偶然が重なって怖いくらいです。
つづく
注1
岩瀬和市 1891(明治24)年〜1985(昭和60)年。
安城市古井町出身。大正・昭和時代の農協運動家。安城農協組合長。
昭和5年農協組合の更生病院を設立。
<参考文献>
『新編 岡崎市史 近代編』
P234(3)師範学校と中等教育
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
熊本の地震には、本当にびっくりしました。二度も大きな揺れが来るとは。先の見えない状況が続いていますが、一日も早く安心して過ごせる日が来ることを願ってやみません。心よりお見舞い申し上げます。
曇りがちの天気が続いている宮古ですが、去った17日(日)には、第32回全9日本トライアスロン宮古島大会が行われました。「海・風・太陽(ティダ)熱き想い 君を待つ」をテーマにした本大会は、途中で雨が降ったり、風が強くなったりしましたが、1,277人が完走をしました。 沿道にはたくさんの応援をする人やボランティアの皆さん、吹奏楽部の演奏や歌三線での応援などとても賑やかでした。私も応援で、うまかま(あちこち)周り、楽しい一日を過ごしました。選手やボランティアの皆さん、お疲れ様でした!また、来年いら〜。
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
宮古に帰ってきて2年が過ぎました。朝晩、両親の顔を見に実家に行きますが、年寄りの1年1年は大きい気がしますね。年をとっても、その時々の役割が必ずあるように思い、書きました。
「狩俣のイサミガ」、うちのおばあもよく歌っていました。マツカニさんの民謡解説は分かりやすいですね〜。サニツ(旧暦3月3日浜下りの日)は終りましたが、これからの季節にも良いかと再掲載いたしました。30数番まであるという歌、全部聞いてみたいですね。
あすなろさんが紹介した稲垣国三郎さんのこと、初めて知りました。それにしても不思議な巡り合わせですね。まるであすなろさんを待っていたかのよう。あすなろさんの取材によってこれまで分からなかったことも出てきそうですね。続きの掲載もどうぞお楽しみに!
貴方の感想もぜひ、お寄せくださいね。
掲示板での感想も どんないお待ちしています〜。よろしくお願いします。
きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(きょうも 終わりまで お読みくださり ありがとうございました!)
次号は5月5日(木)発行予定です。
ぱだーぱだ うらまちよ〜(お元気で〜) あつかー、またや〜。