こんにちは〜。
フクギの青葉が目に鮮やかな5月です。 連休を楽しまれている方が多いでしょうか? がんづぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?
vol.363お届けです。お楽しみくださいね〜。
ビークン な んざんかいが ぴーたー?」(アオムロ は どこへ 行った?)
さどやませいこ(城辺・新城出身)
愛嬌の あー テンニンギクぬ 目立つよーん なズたぁ ピャウナ。(愛嬌のあるテンニンギクが目立つようになった平安名崎)。シューマンボーシュ んかい(小満芒種に)入り、島は、すさふむ 包まい(流雲に包まれ)うーずん ぬ(潤旬・うりずんの)中。この季節になると、耳の奥で鮮明に蘇る声がある。
「ビークン カーマチー」(アオムロを買ってー」。幼いころ聞いたおばさんたちの声だ。うまかま(あちこち)凹みの目立つ金だらいに、ビークンをいっぱい入れて頭に乗せ売り歩く、いわゆる行商のおばさんたち。
ビークンとは、5月から6月にかけ、黒潮に乗ってやってくるアオムロのことだ。以前は北海岸集落の漁師たちが組合をつくり、ビークン漁に駆り立てられた。前の晩、仕掛けられた網にかかったビークンは、翌朝サバニに次々と揚げられ、日が高くなるころには砂浜に打ち揚げられる。真っ白い砂の上でピチピチ跳ねながら銀鱗が朝日を受けて輝く。すとぅむてぃ(朝)の ぱま あ(浜は)待ち受けていた女たちと、魚を降ろす男たちの声で活気づく。
獲物は、その場で組合員に平等に配られる。昔ながらのやり方で。秤などない。砂の上で大まかに分けられ、目分量で少なそうなヤマに1匹ずつ投げるのである。その場に居合わせた子どもたちにも分け前がある。そのことを「たまうつ」という。
最近は知恵を分配することにも使われ、お年寄りの知恵を「たまうつ先生」として学校で披露する取り組みなども行われている。んきゃーん(昔)からの、ばきみゃー(分かち合う)という島の人たちの精神がここから生まれたようだ。
夫たちが捕ってきた魚を妻たちが売りさばき、生業としていた。冷凍設備もない暑い中を一刻も早くお金に換えなくてはならない、時間との勝負だった。1匹でも売れれば家計が潤う。妻たちは必至だった。売れた日はいいが、残ったものを持ち帰るのは辛かったにちがいない。でも、そこは生活の知恵で、傷まないうちに蒸して乾燥させ、甘辛で煮て佃煮風にして食べていた。多いときはそれを南蛮がめに保存し、1年中の蛋白源としていたようだ。
小学3年生ごろだったと思う。梅雨の中、なぜか父に連れられピャウナに行った。そのころのピャウナはアダンの生い茂る原生林だった。道なき道をかき分け父の後を追って行くと、突然海が開けた。その崖の下に広がる砂浜は、ちょうど大量のビークンを船から降ろしているところだった。光を受けたビークンがキラキラ飛び跳ねる様子が目に入る。初めて見る光景に息をのみ、言葉を失くした。「ビークンが揚ったぞー」という茶色いお父さんたちの声、それに応えるお母さんたちの黄色い声、そこには鬱陶しい梅雨空を跳ね返す活気が満ち満ちていた。
海の環境も変わり、50数年前のこうした光景を見ることはできなくなった。年々少なくなる漁獲量と高齢化する組合員の数も減り、今では組合という組織自体が解体してしまったようだ。今では、耳に残るおじさんやおばさんたちの声だけが私の中の風物詩となっている。
◇あの話をもう一度
ひさぼう(平良・西仲出身)
「やーぬ かしー(家の手伝い)」vol.147 2007/5/3
宮古島の「三大特産物」は黒砂糖とかつお節と宮古上布、と学校で習った。
やらびぱだ(子供時分)の思い出だと、黒砂糖はサトウキビを搾るのに馬を使っていたシートーヤー(製糖小屋)の時代で、親の実家が二人とも平良市の郊外にある「添道」なもんだから、用があって親と出かけるたんびに、その小屋に行っては馬と歯車がぐるぐる廻る様子を見ていた。小屋の中の煮えたぎった大きい砂糖釜にサトウキビを突っ込んで、棒状のアメにして食べるのが大好きだった。あの香ばしい小屋のにおいが懐かしい。
かつお節は、平良桟橋とポー崎の間、ポー崎のつけ根のところに工場があって、那覇行きの連絡船を横目に、大漁旗を掲げたかつお船が盛んに出入りしていた。しかし、時代の変わり目だったのか、シートーヤーもかつお節工場もいつの間にかなくなった。
うちには、タカバタ( 宮古上布を織る機械 )が二台あった。機械といっても、木で作られた織り機で、四畳半の部屋の南側と西側の窓際に置いてあった。そこで親が二人でバッタン、バッタンやっておった。東側の出入り口の脇には、藍染めをする樽が置いてあって、母親がその前に何時間も腰掛けて、ギュッギュッと言わせながら両手でにぎにぎするように布を染めていた。ゴムの手袋をしているのだけれど、手はいつも藍色に染まっていた。あと、糸を紡いだり、かけたりする道具などがあちこちにあった。
近所のうちにも、同じような タカバタや道具やらがあったから、その頃、1950年代はまだ普通の光景だったかも知れない。おとうに二人の織り仲間がおって、「あぐ〜」と呼びかけながらうちにやって来ては、「糊つけ」とか「洗濯」、「検査」また「組合」とかむつかしいことを話し合っておった。
何十年か経って、たまたまNHKのテレビを見ていたら、そのうちのひとりのおじさんがまだ現役で出てきて驚いたことがあった。80歳は過ぎておったはず。もうひとりのおじさんは、近所でも評判の“釣り名人”で、一艘の小船を持っていて、ハタ織りの合い間によく沖に出て行く姿を見かけた。
おとうは、その合い間には農業をやっていた。農業といっても、うちで食べる程度の芋と野菜作りで、それに山羊と豚を飼っていた。それだけでは現金収入が足りなかったのか、母親は豆腐を作って売っていた。
宮古上布はこどもが手伝うには専門的過ぎた。ただ、バフという片手でくるくる回しながら糸を巻きつける竹製の道具を使った作業はやらされた。庭先に糸の束を左右のあっちとこっちに引っ掛けて置いて、その間を行ったりきたりしながら、そのバフに糸を巻きつけていくのだった。
その巻き取った糸は横糸になった。シャッ、バッタン、シャッ、バッタンというハタ織りの音の、そのシャッという音が、横糸が左右に走るときの音で、バッタンというのが、その横糸が縦糸にかみ合わされる音である。そうやって面となって一反の上布に仕上がるのに二ケ月はかかっていたと思う。そういうわけで、うちの中は日常的に、シャッ・・バッタン・・シャッ・・バッタンの音がしていた。
半ば自給自足みたいな生活だったから、こどもの出番は多かった。ぴんざぬふさかず(山羊の草刈り)、んむかじ(芋ほり)、かまどで芋を煮る、かまどで燃やすタキギ・カンナ屑を集める、豚のえさ運び、あと現金収入になる“砂利売り”。これは、自然にころがっている石を拾ってきてげんのうで割って砂利の山をつくり、その山が馬車一台分になったら売る、という作業だった。
現金収入で手っ取り早いのは、鉄くずを拾って売ることだった。その時代まだ砂浜で火薬が拾えたから、薬莢(やっきょう)とかも落ちていて、そのほかナニかの破片みたいなものとか鉄線、ジュラルミンとかが拾えた。なかでも薬莢なんかの真鍮はいちばん高く売れた。
「ぴんざぬふさかず」は、ほとんど自分一人で山羊を育てたようなもんだった。山羊のエサは、芋ほりのときに出る んむぎー(いもの葉っぱ・ツル)が基本で、あとは住んでいる場所が平良市内だから草を刈る場所は限られていた。
海沿いの畑の辺りを、いざら(鎌)と おーだ(もっこ)を持って歩き回った。めぼしいものが無くなったら、“内陸”の方へ遠征した。乳が張って痛がって、親山羊が子やぎに乳を吸わせないものだから、給食の粉ミルクを残して持ってきて、綿に含ませて吸わせていたこともあった。そうすると、ミルクをやるひとを自分の親と思うのか、顔を見せると犬のように尻尾を振ってはしゃぎまくり、小屋の外に出してやると、トコトコどこまでもついてきた。
豚のエサでは、時々、「たりかす」を貰いに行かされた。たりかすというのは、酒造所で泡盛を造るときに出てくる“米のタれたカス”で、酸味のつよい茶色の汁だった。下里通りに魚の好きな家族があって、その食べ残しをカンカンに入れてもらいにもやらされた。
「食物連鎖」ということばがあるけれど、1950年代、まだ人のウンコを家畜に食べさせることをやっていて、外のトイレと豚小屋がつながっていたりした。年寄りは、孫のおもりをしながら、ウンチをさせるときは、“チク!チク!”と犬を呼んで始末させていた。
火が燃えるのを見ていると不思議な“おもい”がするのだけれど、かまどで芋とか大豆のひき汁を煮るのに、しゃーか(朝早く)から起きて、火をおこすのも やーぬかしーのひとつだった。芋を煮るときは、火の消し時はふたを開けて うみす(箸)で突いてみてわかるのだけれど、豆腐の場合はさすがに途中交代だった。
水道はなかったから、その代わりに雨どいから天水を貯めるタンクがあった。自分の背丈より高いコンクリート製のタンクで、その下の方に蛇口が付いていて、水の用はすべてそれで足していた。長いこと雨が降らないとひどいことになった。当然タンクがカラになる。そのときは、かー(自然の湧き水の出る所)まで行って水を汲んだ。長い石段をひんやりした暗がりのところまで下りて汲み上げた。こっちの水のほうが断然おいしかった。
歩いてすぐの近所に、子供のいない しゅうとんま(おじいとおばあ)がいて、そこにはタンクの代わりに水ガメが とーうう”ぁ(台所)の入り口に置いてあった。どういうわけか、その水ガメを満たすのが自分の役目になっていた。んまは、かんかかりゃ(神願い人)で、しゅうは、あすぴびー(遊びが役目の人)だった。可愛がられすぎて、あやうくもらわれそうになった。
「あたらす っふぉ お あんちい ならっちゃー」(大事な子をそんなことできない)、母親の抵抗で かんかかりゃの息子にはならなかった。
やらびぱだー あ まーんていー ゆーど やーぬかしーから となずぬかしー がみ しーどうずたず(子供時分には、ほんとによく家の手伝いから隣の家の手伝いまでやった)
『揃いどぅ美さ(するいどぅ かぎさ)』どうかってぃ(自分勝手に)に考えた宮古的『集団の美』
宮国優子(平良・下里出身)
この言葉は、豊年(ほうねん)の歌の一節です。お時間のある方は聞きながら、読んでいただけるとうれしいです。宮古の歌は、島の知恵の集積さいがよ、と日々思っています。
このおばあちゃんの歌声はある意味、天使です。伴奏もないので、無垢そのもの。https://www.nhk.or.jp/churauta/database/data/152.html
そして、與那城美和さんのyoutubeは早弾きで、まさしく豊年を祝って、年貢を納めた喜びを感じさせます。
歌詞を一番だけ抜粋しますね。
『揃いどぅ美さ(するいどぅ かぎさ)』 今年から始みゃしよ (くとぅすから ぱずみゃよしーよ) 弥勒世ぬ実らば 世や直れ (みるくゆーぬ なうらば ゆうやなうれ) ヨーイティバ ヨーイダーキヨー 揃いどぅ美かぎぃさぬ 世や直れ (すぅるいどぅ かぎさぬ ゆうやなうれ)
このなかで、私が言葉としても美しく、宮古の哲学だと思っているものがあります。それは題名にもした「揃いどぅ美さ(するいどぅ かぎさ」という言葉です。
宮古の哲学と書きましたが、美意識なのかもしれません。「揃って美しいもの」の宮古的概念を勝手に考察しました。もうずっとここ何年も考えているという変態っぷりです。
宮古は県内でも「荒さどぅ美さ(素朴こそ美なり)」の見本のような「剽悍(ひょうかん)の気風」を持つ島民性だと思います。「剽悍」とは、動作がすばやく、性質が荒々しく強いことで、明治の冒険家である笹森儀助が著書「南嶋探験」のなかで、当時の宮古の人たちを「剽悍の気風」と評しました。
私はその「剽悍の気風」と「揃いどぅ美さ(するいどぅ かぎさ)」が宮古の人たちの集団の美を形成する重要なファクターではないかと思っています。県内で、宮古の人はどう評されているかといえば「物事が決まるまでは、議論激論するが、決まったら素早くまとまる」と言われています。
私自身、この評価は何度も耳にしているし、実際そうなんだと思います。そのなかに埋没していたらわかりにくいのですが、皆、風土にそうように自然に集団的に動いている気がします。それが一言で表されてされいるのが「揃いどぅ美さ(するいどぅ かぎさ)」ではないでしょうか。
ですが、一般的な日本語の言葉通りではありません。ここは、どぅかってぃ(自分勝手)宮古通訳が必要!宮古の美意識的には、揃って美しいのは同じものが揃うのではなく、一人一人が個性的なことのほうが喜ばしいと感じるところがあります。さすが多様性の島、周回遅れのトップランナーさいが。その個人が自由に振る舞えるのにもかかわらず、集団の一員としても行動もできる。それが宮古的「揃いどぅ美さ(するいどぅ かぎさ)」なのです。
そして、この豊年の歌で言う「揃いどぅ美さ(するいどぅ かぎさ)」の真髄は、同じように年貢を納めるという大テーマに、個性のちがう各個人が力を合わせてどうやって乗り越えたか、それを互いに「揃いどぅ美さ(するいどぅ かぎさ)」という言葉で讃えたのではないかと思うのです。君も、私も、みんな美しいのです。力を合わせたことの喜びは歌ではじけるのです。
集団の一員になるということは、他の人たちの息にも合わせられるように細心の注意も払うことでもあります。大テーマに向かうためのバランス、自分がコミュニティの一員だという揺るぎない自信の裏返しでもあるように思うのです。「三つ子の魂、百まで」のように、孤島に生きていく人間たちの力強い生き方が表現されていると感じるのは私だけでしょうか。
そこに「集団の美」というものが創りだされていく。美しさの質は、その集団を担う一人一人の志の高さや能力があわさってできる。宮古上布が良い例です。宮古の人が宮古の自然からしか作り出せない、独自の品質の高さに結びつくのではないかと思うのです。宮古上布の手間のかけ方は尋常じゃないからです。
話は変わりますが、この二年間の「島を旅立つ君たちへ」プロジェクトhttp://myahk.org/projects/t02-2.html で、高校生と交流をしていて、その哲学が宮古にはまだ活き活きと残っていると感じました。「いやいや、宮古はこれからまだまだ面白くなるじゃないか?」と感動することしきりでした。
このプロジェクトは、島内4高校の卒業式で卒業生の皆さんへ「島を旅立つ君たちへ2016」という冊子を送るというものです。どんな冊子かというと「宮古の歴史と文化は面白いさいが!たまには思い出してね!」という単純な本でもあります。
私たちATALASに関わるスタッフや先生方が子どもたちと島内巡りをしたり、島の歴史や文化を体験してもらったりしました。作家の方やデザイナー、民謡歌手など、普段まわりにいない大人の人と交流してもらって、52ページを作りました。関わってくれた人たちは、どの方も子どもたちに優しいまなざしを注いでくれるのがひしひしと伝わって、豊かな気持ちになりました。
それこそが、私の思う「集団の美」であり、宮古の「揃いどぅ美さ(するいどぅ かぎさ)」が伝承していく様子だと思うわけです。
今回も、勝手な持論ですが、その豊かさをこれからの世代がどう表現していくか、私たちはどうやって余計なプレッシャーをかけることなく後押しができるか、アクションを起こしていくか、日々考えております。
「あんたー、なんで考えるかよ」なんですが、それは多分、宮古の人、一人一人が個性的であるように、私もかなり個性的で、でも「揃いどぅ美さ(するいどぅ かぎさ)」が身体に心に刷り込まれているからではないかと思っています。だって、宮古はだいず面白いさいが。「揃いどぅ美さ(するいどぅ かぎさ)」を標語にしてもいいはずよ〜。(この押し付けっぷりが宮古的だけど、笑)
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
ゴールデンウィークで観光客がいっぱいの宮古です。お天気もまずまずでこのまま週末までいくといいですね。観光客のみなさん、宮古を満喫してお帰りくださいね。海での事故には十分お気を付けください。
先月29日に、宮古島市文化協会設立10周年記念式典・祝賀会がホテルアトールエメラルド宮古島で行われました。市町村合併をする前は、平良市文化協会でしたが、合併にともなって宮古島市文化協会に。ホテルには、100名近い方が うがなーり(集まり)、10周年を祝いました。また、これまで文化協会に尽力された3名に功労賞、6名に感謝状が贈られ、その功績が称えられました。宮古毎日新聞の記事がネットで見られますので、ご覧くださいね。また、「行雲流水」にも紹介されていますのでこちらもぜひ。
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
「ビークン」の話は東京にいる頃から、城辺出身の同級生によく聞かされていましたが、南側の海が近い私は「ビークン」という名前すら聞いたことがなく、知らない世界でした。今回のせいこさんのお話で、当時の様子がよく分かりました。昔はその漁で大変な賑わいだったんですね。南蛮漬けも生活の知恵。伝えていきたい地元の歴史ですね。
きょうは「子どもの日」ということで、9年前に特集した「やらびぱだぬかしー」からひさぼうさんのものを再掲載いたしました。ひさぼうさんの かしー(手伝い)の種類は、すごいですねー。そして、近所の人のかしーまで!機織りの風景や小物など、時代を思わせるものもいっぱいでした。んなま(今)の子どもたちは、どんな かしーをしているでしょうか。
「揃いどぅ美さ」(するいどぅかぎさ)、いい言葉ですよねー。優子さんの深い考察、すごいなーと思いました。宮古上布が完成するまでにどれだけの人が関わるか。みんなの気持ちが揃ってこその美しさですね。「ATALAS」の「島を旅立つ君たちへ2016」大変、素晴らしい冊子です。分かりやすくて読みやすくて、そして深い。携わった高校生の皆さんにとっても貴重な経験だったことでしょうね。大人も持っていたい1冊です。
貴方の感想もぜひ、お寄せくださいね。
掲示板での書き込みも どんないお待ちしています〜。
きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(きょうも 終わりまで お読みくださり ありがとうございました!)
次号は5月19日(木)発行予定です。
きゅうまい かぎ ぴかず(きょうも佳き日)でありますように! あつかー、またや〜。