くまから・かまから vol. 368

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 こんにちは〜。
 まいにつ、あつむぬやー(毎日暑いですねー) ぱだーぱだーうらまずなー(お元気ですかー)?
 くま・かまは夏バテ知らず。お楽しみくださいね〜。

『ひめゆりの塔』の話 2

カニ(平良・西里出身)

【石に刻む】
 
 ひめゆりの塔の除幕式が行われたのが1946年(昭和21年)4月7日であった。1946年のその日朝早く、仲宗根政善氏は米須の海岸に立った。6月22日ひめゆりの女学徒らはこの米須の浜から喜屋武断崖へと逃げて行ったのだ。そうして喜屋武断崖までの道のりをあの悪夢の日を再現するかの如くに歩いた。
 
 政善氏は捕虜として米兵に捕えられ時にとっさに着ている上着を喜屋武断崖の岩場に隠した。その隠した自分の服をも岩場に見つけた。その米須海岸から喜屋武断崖の彷徨の中で、仲宗根氏が観た光景は無数に海岸線にころがる屍だった、という。身のすくむ思いと衝撃をうけて立ちすくんだだろう・・・無念の思いで泣き崩れた・・・に違いない。
 
 映画「ビルマの竪琴」のシーンと重なってくる。無念の思いで異国の地で屍となった同士の姿に、その屍を放置し日本に帰れなくなった一兵士の姿・・・それはひとりの人間の持つ思いやりの深い崇高な優しい心・・・なのだ。
 
 仲宗根氏はその後、35年間(1953年〜1989年)に渡り、「ひめゆりの塔の日記」を綴り始める。なくなったひとりひとりの女学生らの形跡を詳細に綴り始めたのだ。
 
 仲宗根政善氏は「ひめゆりの塔」の除幕式の際に次の句を書き読んだ。

 「いわまくら かたくもあらむ やすらかに  ねむれぞといのる まなびのともは」

 2日後にはこの句が石に刻まれた。私は「石に刻む」とはこの句が刻まれたものをいうのだと思っていたが、調べていくうちにもうひとつの意味ある石碑(石に刻む)が在ることに気付いた。
 
 ひめゆりの塔の立つ場所には亡くなった女学徒の名前が刻まれている。古いものと新しくできたものがある。墓碑銘である。亡くなられた女学徒らの中には、いまだに消息不明となっているのもいる。
 
 墓碑銘を彫り刻んでいくのは専門職の仕事である。明らかに死亡を確認できた女学徒らの名前が最初に専門職人より刻まれていった。行方の分からない消息不明の女学徒らはもしかしたら帰ってくるかもしれない・・・そう思い5年間は名前を彫らずにそのままにしていた。
 
 仲宗根政善氏は女学徒らの実家に何度も足を運んだ。5年経っても多くの家族・両親はあきらめていなかった。ひたすら娘の帰りを待っている姿があった。

 宮古島の○○さんの父親は「師範学校に勧めたため娘を死なせてしまった」と涙し後悔していた。国頭の宜名間村の○○さんの母親は一人暮らしでまだ娘は戻ってくるものと信じ、「かやうちばんた」の崖で娘の帰りを待っていた。
 
 宮古島の離島・多良間島からも美里キヨという名の女学徒が消息不明となっていた。仲宗根政善氏は多良間島にも足を運んだ。もしかしたら生きて戻っているかもしれない・・・そんな願いと期待で何回か尋ねていった。
 
 どうしても消息不明のままの女学徒らがいた。そのころの状況からしてやはり死んだと思われた。探し続けた5年後仲宗根政善氏は自ら泣く泣く消息不明の教え子たちの名前を持っていたノミで彫り刻んでいった。
 
 専門の仕事ではないのでその彫った文字は明らかに素人のそれと分かった。私はその墓碑銘の石碑があることを知った。古い石碑と新しくできた石碑がある。古い石碑にその消息不明らの名前が、そう仲宗根政善氏が自ら彫り刻んだ名前があることを知った。私は何だか確認したくなった。
 
 そして那覇出張の際に「ひめゆりの塔」に向かった。小学生の頃、那覇市久米町の母の弟(叔父)さんに連れていって貰ったことがあった。それ以来である。
 
 私は仲宗根政善氏が自ら彫り刻んだ古い石碑を捜した。それは豪の手前に目立たない形で残っていた。壕の奥の方には大きな立派な一人一人の名を刻んだモニュメントができ、訪れた観光客らは皆それに向かって手を合わせていた。
 
 古い石碑は立派なモニュメントの手前に2つあった。私はその中に刻まれた名前を見た。確かに素人が彫り刻んだと思われる名前が幾つかあった。それらが消息不明の女学徒らであった。

 仲宗根政善氏は無念の気持ちで泣き崩れながら名前を彫り刻んだ。多良間島出身の「美里キヨ」の名前もあった。私はその石碑に手を合わせた。仲宗根政善先生の気持ちを少しでも知りたかった。そうして皆にも伝えたかった・・・今日は沖縄は慰霊の日。その日に伝えたかった。
 
 「石に刻む」の真の意味はそれだったのだ。(終)

◇あの話をもう一度

宮国勉(城辺・西城出身)

「じんふくるぎー(小銭入れのなる木)」 vol.102 2005/6/16

 40年程前の我が家は主屋の南側には、ぴさーてぃぬ あかんたーしいぬ みなか(平らな赤土の庭)があり、大豆などを収穫するときはそこで豆打ちをした。庭の先には野積みの石垣で道を隔て、道の向こうが、まいにゃー(南隣)の屋敷となる。そこは広い屋敷林で大きな がざまぎー(がじゅまるの樹)や たまうぎぃ(先島浜朴(ハマボウ))、ぷぅくきぎー(フクギ)などが生えていた。東方は通路と花壇が長細く在り境界の石垣が低く積まれていた。あがにゃー(東隣)の家は6メートルほどの屋敷林を挟んで建てられていた。そのようにして周り中が高い樹に囲まれて我が家は在った。

 家の作りは宮古の一般的な田の字型の間取りで、一番座(客間)の ぱい(南)と あがず(東)には矩折り(かねおり)に4尺幅の縁側が付いていた。その縁側は風通しもよく、子供のころの遊び場であり、昼寝の場所であった。雨戸は殆ど取り払っての暮らしだったので、ぱいまいあがずまい みとうさいぬ いみやーやらまい ぴそぅーてぃどぅ うむーたー(南)も東も見渡せて小さい家だったが広く感じた)。

 ある夏の あしむぬう ふぁーんきゃ(昼飯を食べる前)だったと思う。空は青く雲一つ無い快晴で、ほんの少し風が吹いていた。縁側から白く光るものが、みなかんかい とぅびきし ふぁーてぃー うりさいが(庭に飛んできてふわりと降りる)。あんちってぃ うきうーにゃーん くるがりゅう(そして浮くようにして転がっている。)裸足で追いかけ捕まえてみると透き通った白い綿毛に扁平で茶色の粒が一枚付いた何かの種であった。その不思議な飛来物は、じんふくるぎぃの種であることを誰かに教えてもらった。

 それは数分おきにポツリポツリと、んまぬぱ(南東)から、さずぬぱ(南西)の たつ(馬小屋)の方向に飛来している。たまには少し風が吹いたのか一度に何個か連続して飛んできて、落下傘部隊のようだった。吸い込まれるような青空から白く透き通ってきらきらと飛来する様は、まさに白銀の妖精が舞い降りるようであった。その情景は昨日、今日のように想い出される。

 ういが とぅびきゅしゅー ままあずぃゆ みーつかー んまぬぱ ばかーずぃ からどぅ とぅびきしぅー(それが飛んでくる辺りを見たら南東方向から飛んできているようだ) あがにゃーの やすきぃゆぅ とぅみうー(東隣りの家の屋敷辺りを探してみる)。きーぬ わーぶままーずゆ みーやぷらきいっざいでぃ みーろーまい すっさいん(樹の最も上の方辺りを、眼をこらして一生懸命みるのだが見つからない)。あがにゃー(東隣)の屋敷林には、12、3メートルはある しんだんぎぃ(栴檀(センダン))、うぎゃすぎぃ(木橘(モクタチバナ))、真竹などが植えてあった。

 うまたぬ きーぬわーぶから(そこら辺の木の上の方から)飛んでくるようだが じんふくるぎーは見当たらなかった。当時は、じんふくるに入れるだけの じん(お金)は無かったが、じんふくるぎーが有るだけで金持になったような気がした。じんふくるぎーの袋果のイメージが私の小銭入れのイメージである。

 和名は、リュウキュウガシワ(ガガイモ科)で、北は北海道や青森辺りまでの範囲に自生するようだ。日当たりのよい乾いた山野や道端などに生えつるを伸ばして他の草などにからみついて、逞しく生きている。葉や蔓を切ると白い乳液を出す、地下茎は有毒らしい。夏に10センチ程の長卵状の実を付け熟れると中に長い毛がある種子が弾けて飛び風に乗って運ばれる。

 その袋を開けると、内側には髭になる綿がびっしりと詰まっており、外回りには種がきちんと整列している。財布は中身が入っていれば結構だがタンスの中があれぐらい整頓されていると最高である。また、風を利用し遠くに種子を飛ばし種の保存を行う自然の仕組みには感激する。

 「じんふくるぎー」から和名を探し出すのに、だいぶ苦労した。実は、探せなかったので子供に探して貰う羽目になった。最初の驚きは、あば!あんちいぬ名どぅ やーたーなあ(あれ、そんな名前だったか)。少々困惑したさあ。ガガーリンなら許せるけど!!ががいも!!白銀の妖精がなんで!!あがんゃ〜〜〜〜。

 現在住んでいる家(埼玉)の近くの公園のフェンスにも去年からみついていた。そこで高校生の子供に「じんふくるぎぃ」を教えてやり、宮古ぴとぅに少し近づけた(?)。が、白い妖精の話題までたどり着けない男親であった。んにゃ、おしまい「END」

想い出の小窓

カーミ(平良・西里出身)

 祖父母の住む あこーふぐ(地盛)で週末の多くを過ごしていた やらびぱだ(子どもの頃)、TVや扇風機などという物はまだ無かった。
 
 夜ともなれば、おばやー(祖母の家)の庭先にはふわりふわりと蛍が舞い、まだ学生だった叔母達と降るような星空の中に天の川を探すそんな田舎が好きだった。
 
 夜も更けてくれば男たちの場所である一番座では、いつものように泡盛を食らい高鼾の おじー(祖父)が大の字に転がる。
 
 その傍らの二番座ではホヤランプを吊るし、薄灯りの下で一日の作業を終えた祖母と母の語らいは始まる。台風や冬でもない限り、ゆなか(夜中)であろうと窓や やどぅ(戸)などは閉めない。今なら不用心として考えられないだろうが、それが田舎の日常だった。
 
 なので夜の静けさの中、潜めた声での会話はより闇の雰囲気を引き立てる。まずむぬ(お化け)でも出そうな雰囲気に、会話に夢中になる母の背中に張り付き居眠りをしていると、…ペタ…ペタ…ペタ…闇の中から聞こえる島ゾーリ(さば)の音に「ひっ!」目が覚めた。息を止めて母にしがみ付き あらあ(外)の闇を睨み付ける。
 
 あんなー、うきどぅうなあ?(お母さん、起きていますかあ?)
 
 静かな声と共にヌーと現れたのは、隣のおばさんだった。

 ◯◯なぁ のーお んなまどぅりゃ まーりゅーりゃ (◯◯さん、今頃どうしたの?)

 あてぃ あつかいばどぅ まーりゅうさーい (あまりに暑いので、涼みに出てきたのよ)

 ランプ灯りのこぼれる土間先に闇からすーっと現れる姿は、ご近所さんとはいえ子どもの私にはやはり うとぅるすむぬどぅ やたー(怖かった)

 おばー(祖母)とわずかな立ち話をした後、履き古して薄くなった島さば(ぞうり)の、足裏に張り付いては剥がれるような音だけが ふっふぁがず(闇の中)へと消えていった。
 
 思えば、蛍光灯が普及したのはいつ頃からだったろうか?夜も灯りがたっぷりとありクーラーは心地よさを提供する今、願ってももうこんな経験はできないのかもしれない。

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

 前号を発行した後、お盆休みをとって東京に行ってきました。東京のお盆は新暦の7月13日・14日・15日。(東京も地域によって違うようですが)墓詣りをし、仏壇に果物や野菜、ごはん等を供え、苧殻を焚いて迎え、送りました。(宮古とは、少し違いますね)

 お盆のあとは、金沢、京都、兵庫と日本海側を旅行。天橋立、丹後半島伊根の舟屋、城崎温泉、山間の中の田んぼの風景やその土地土地の、んまーんまの(美味しい)食べ物を堪能しました。日本には素晴らしい風景がやまかさ(たくさん)ありますね。陸続きの他県というのも妙に新鮮で自分の中の島感覚(?)を実感したりしました。

 室尾犀星の愛した犀川の近くを歩いたり、兵庫の城崎温泉では、志賀直哉の「城の崎にて」を読んだり、ゆかりの地に行ったりと ぴっちゃ(少し)文学的な旅でもありました。(笑)

 さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?

 前号に続き、掲示板に掲載されたカニさんのひめゆりの塔のお話しをお送りしました。仲宗根政善氏の「石に刻む」という深い深い想いが伝わってきました。掲示板 http://6005.teacup.com/kumakama/bbsには写真も掲載されていますので、こちらもご覧くださいね。

 あの話をもう一度は、宮国勉さんの「じんふくるぎー」でした。くま・かまを始めて間もないころのお話しでしたが、とても印象深く残っています。映像が見えるようですよね。この夏も、どこかでふわーと舞っていることでしょうね。

 カーミさんの んきゃーんの夜の光景はまさにそうでした。漆喰の闇とはこういう事かと。月のない夜は、うとぅるす むぬ やたん(怖かった)あすが、蛍もたくさん見えて、素晴らしい光景でもありましたね。それにしても夜のさばの音は、怖かったはずねー。

 貴方はどんな感想を持たれましたか?ぜひメールでお寄せください。
 掲示板での書き込みもお待ちしています〜。下の方では評価や感想も書くことができます。よろしくお願いしますね。
 
 きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
 (きょうも 終わりまで お読みくださり ありがとうございました!)
 
 次号は8月4日(木)発行予定です。
 きゅうまい、上等の一日でありますように! あつかー、またや〜。