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宮古島方言マガジン「くまから・かまから」
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くまから・かまから  vol. 371

2021 5/20
メールマガジン
2016年9月1日2021年5月20日

こんにちは〜。 きょうから9月ですね。
朝晩の風がぴっちゃがま秋めいてきた宮古です。 がんづぅかり うらまずなー(お元気ですか)?
今回も あずーあずの(味わい深い)お話をたっぷりお楽しみくださいね〜。

目次

島の裸体を見るような

宮国優子(平良・下里出身)

ご無沙汰してます。宮国です。

センセーショナルな題名ですみません、笑。最近は見ていませんが、目をつむると、浮かびます。抽象的に表現してみました。

この4月までの二年間、宮古には頻繁に訪れました。かつてないくらいです。今年度は、県の文化振興会の補助が出ないのでなかなか行けないのですが、活動は粛々と続いております。二年間の積み重ねで、たくさんの協力関係も得られ、裾野も広がり「宮古の歴史や文化を学ぼう!」という畑は徐々に耕されつつあるように思います。研究者や表現者を含めた島内外のつながりが広がっていく様子は、時折、胸がつまります。さまざまな人生があり、暮らしがあり、思いがあり、追体験させていただくことも多いのです。同時に、いろいろなお力を借りるばかりで、何も返せていないような気がするのも偽らざる気持ちです。

アホなことを書きますが、私はいつも島から離陸する時、涙していました。それは18で島を離れた時からです。自分でもよくわからなかったのですが、どこか何か後ろめたかったんだ、と思います。宮古に育てられたのに、島を出ていこうとしている。恩返しもしないまま、私は自分の個人的な望みのために島を捨てようとしているのかもしれない、と。同乗している人は気づいていないかもしれないけれど、私の心は張り裂けそうになって、いつも動揺していました。もちろん、宮古に向かう時も、これは片道切符ではないと知っているので、気持ちが妙に落ち込んだりしていました。時代錯誤にも近いし、感傷的で、考え過ぎだと思うけど、本当にそう感じていたのでした。

ですが、前回、宮古に行った時、初めて泣かなかったのです。変実的に考えると、これから先、宮古に行く回数も減りそうなのに、私は今までの気持ちとガラリと変わりました。当初は、なぜそう思うのかわからなかったのですが。

いま、あれから半年後、やっとわかったような気がします。あぁ、そうか、覚悟ができたんだな、と。どんなことがあっても、今自分が楽しいと思っていること、価値があると思っていることを、どんな形でも続けていきたい、と。東京に住んでいても、宮古の引力に引っ張られるから。

今まではいろいろな迷いがありながら、だったんだと思う。島の外にいる私が島のことをやることになんの意味があるんだろうとか。そして、今までと違う生き方をし始めた私に対して、まわりのひとの戸惑いや反応にも、私自身が敏感になってました。ある意味、思考のメタモルフォーゼ的な部分もあるのだと思う。いや、先祖帰りか、笑。

叱咤激励だけじゃなく、罵詈雑言の時もありました。女のくせに、東京に住んでいるくせに、金持ちの道楽か、さまざまなことを言われ、それも面と向かって言われると、心臓が止まりそうになりました。ナイチャーとつるんで、宮古を食い物にしようとしている、と言われた時は、心が折れる前に膝が折れるさいが!とも思いながら。宮古も宮国さんも理解できない、と東京でいっしょに活動している人たちからも言われ、疎遠になってしまった人もいました。宮古との文化異差を話せば話すほどヤブヘビにもなったりするのだ、と気付きました。

って、わけで、この愚痴加減からわかるように、この数年間、ずっとメソメソしていたのです。でも、どんどん静かに意見の違いを話せるようにもなったし「あんたは馬鹿か!」と怒鳴れるようになった。本当は皮肉のひとつとか、素敵に言えたらいいんだろうけれど、そんな技術は私にあるわけないさいがよ。いまだ中二病に近い。成長が遅いので、長生きできると確信しています、はい。

話を戻します。私が今、何を楽しいと思っているか、なのですが・・・。

宮古の文化や歴史を紐解くたびに、宮古に関して新しいことを知るたびに、現代や土地とのつながりを発見するたびに、私は自分のなかの何かがよみがえるような気がする。細胞が生き生きとする。言語化していなかった宮古の美しさにふれるような。

風土が人を作り、その人々が、歴史に時間へ織り込んでいく。その様子に心が奪われるのです。自分が生まれた島の裸体をみるような、そんな気がする。直視をしてこなかったけれど、その姿は、私にとって、限りなく美しい。その美しさを伝えたい。伝わるように何か作り出していきたい。

私がこの数年、一番大好きな本を読むことや書くことをおざなりにしてまで、将来のために宮古を発信するような畑を、本当に心ある人たちと作りたいと思った理由だ。記者時代よりたくさんの人に会ったと思う。そして、そこには何ものにも代えがたい深さが増しました。

東京でも宮古の研究を軸に人間関係が育まれ、その有機的なつながりが広がっていくことに、感謝の言葉以外ありません。一般社団法人ATALASネットワーク http://myahk.org/ を作ったときも同じように感じていました。何かわからないけど、組織を作っていたほうがいいという直感だけでした。今思えば、良かったのか悪かったのか、禍福はあざなえる縄の如し、さいが。多分、いいはず。

何はともあれ、完全な自主運営としては、ATALAS blog 。たくさんの人が無償で手伝ってくれています。志をともにする編集者や書き手、興味を持って関わってくれる読み手、という仲間がいます。そして、それがどんどん広がっています。

名物の石碑シリーズも100を超えそうです。ロベルトソン号の連載も研究の深まりを見せています。そして、宮古在住のライターも加わってきた。宮古のいにしえと現代が発信されるということは、宮古の世界が広がるように感じるのです。また、来年は宮古島から生まれたアニメーションの始祖・下川凹天がアニメ制作からちょうど100年目です。これをなんという素晴らしい巡り合わせだろう、と歓喜しています。

「宮古の歴史や文化を学ぼう!」という畑から芽が出てきたように思う。まだ、頼りない小さな若葉です。でも、まわりの応援は、天からふりそそぐような慈雨や太陽の光です。宮古の風土という唯一無二の力が、その若葉、そして次の若葉を広げさせてくれるのだと思います。

秋口から本格始動をしたいと思います。書籍の出版や宮古、東京の連携開催のブックイベント、外部との連携ができないものかと試行錯誤しております。クラウドファンディングも含め、読んでくださった皆さんにお願いしたり、呼びかけたりすることも増えるかと思います。その時は、どうぞ、私や私の仲間たちが心に灯していること、積み重ねた十年近くを思い出していただければありがたいと思っています。

今回は、ものすごく真面目になってしまいました、笑。決意表明に近いかもしれません。これから宮古に関する仕事をたくさん増やしていこうと思ってます。東京で事務所兼飲み屋という棚ボタも頂いたことだし、東京と宮古をつないで何をやっていこうか、とワクワクします。何か東京でやってみたいという方がいたらドシドシご連絡ください。宮古に関わることなら、ノロシを上げてでも応援したいです。

しかし、一抹の不安も拭えず。私、どこに行ってしまうんだろう・・・と末恐ろしくもありますが、なんだかもう自分では選べないような気がするのです。しょうがない、宮古の神様に使われとくか!んびゃーいん!

◇あの話をもう一度

大和の宮古人(城辺・長南出身)

「運動会」vol.203 2009/9/3

私は運動が大嫌いだった。

走れば ぎーった(ビリ)、ハードルは手前で立ち止まり、高飛びはバーの下を潜り抜け、飛び箱は わーぎん(上)に座って・・・とこんな具合だ。逆上がりさえ出来なかったように記憶している。先生に練習するように言われても練習の仕方が分からなかった。そんなこんなでドンドン嫌いになった。運動会は苦痛の一日となる。

あの頃(1950年代)は第一次ベビーブームで、私が通っていた西城中学校の生徒数は、1学年130名前後、全校生徒約400名前後はいた。(現在は、全校生徒100名弱だそうで、だいず少なくなっている。)

運動会前日は かんたな(神棚)に願い事をしていた。一番にしてくれではない。あつぁー やまし ふぃーさまちよ(明日は病気にして下さい)あすがど(それでも)一度も熱さえ出した事もなかった。

毎年運動会だけは殆どの子が新しい体操着が買って貰えた。男子は真っ白なシャツにズボン。女子はやはり真っ白なシャツかブラウスに黒のショートパンツ、ソックスも靴も白。真新しい木綿の かざ(匂い)を漂わせながら重い足取りで登校した。

入場行進は校長、教頭、PTA会長が横に並び、後に各学年担任、1年生の男子、女子、2年、3年と続く。生徒は背の高い順だった。私はチビだったので最後尾になる。

行進曲と太鼓の音で行進が始まる。背の高い人達の行進は足並みが揃い見事だったが背の低い人は揃わない。ついていくのに必死なあまり音楽や太鼓の音が耳に入らないのだ。一人が右を出せば一人は左あるいは途中となりバラバラ。心の中で、右、左と言いながら歩いたが揃ったためしが無かった。カーブにさしかかると後列からでも前列が見えた。いつもズミやーばーと思いながら行進していた。(入場門から運動場を一周してから入場した)校長、PTA会長の挨拶、ラジオ体操の後、生徒だけは退場行進もあった。

最初の競技は100メートル走だった。コースの横には来賓用に机と椅子がズラーと並んでいる。その前を走るから溜まったもんじゃない。早い人は集中して走るから横は意識しなと思うが、ギーッタの人は気になって仕方が無い。嫌だなーと思うからピストルの音でもドキドキしてしまいスタートまでもが遅くなった。

徒競走が終わると各競技が始まる。3年男子は必ず棒倒しとマスゲーム(組み体操)が決められていた。笛の合図でキビキビと技を披露していく。その中でも一番の大技は10数名でタワーを作り、技を決めた後に一瞬で崩れる所だ。全員の息が合わないとタワーがグラグラしたり途中で崩れてしまう。息を殺して見入っていた。成功したときの感動。今でも昨日の事の様に覚えている。

中学3年生で初めてフォークダンスも知った(オクラホマだった様に思う)男子が内側、女子が外側に2重円を作り、手をとりなさいと言われた。男女共パニックだ。それまで男の子と手を繋いだ事など一度もない。

先生達が何度も手を繋ぎなさいと叫ぶが全員モジモジして繋がない。一人 やうわ(厳しい?)先生がいて、棒を持って みんぎて(叩いて)回っていた。先生が近づくと慌てて手を繋ぐが先生が後ろ向いたとたんサッと ぱなりううたー(離れていた)

その内に草や木の葉を持って繋ぐが見つかって又叩かれていた。同じ事の繰り返しで練習を始めるのにも何日もかかった。怒られても叩かれても最後まで繋がない子もいたがなぜか先生も剥きになって叩いていた。

40年後に真後ろに並んだ子に聞いた。「○○君は手を差し出していたが女の子が拒否したんだよ」「先生は女の子が叩けなくて男の子だけが犠牲になったんだ。○○君は黙って叩かれて可哀想だったよ」

離れている私達からは叩かれている様子しか見えず原因は男の子に有ると思い込んでいたが・・・。

こうして毎日大騒ぎをしたが、私たち10名程の女子には関係がなかった。私たちの学年は男子が少ない。余り者の私達は女子同士でペアーを組む。喜んでいいのか悲しんでいいのか複雑な気持ちで眺めていた。

後日先生が話してくれた。「男女で手を繋いでフォークダンスをしたのは開校以来あんた達が初めてだよ」と。私たちは男女ペアーにはなれなかったけれど、その言葉を聴いて嬉しい?誇らしい?気持ちになった。

走るのが嫌いな私でもリレーだけは大好きだった。(応援が)あの頃、リレーは部落対抗になっていた。最後の種目になる。親も子も総立ちでワーワー、キャーキャーうぷぐいしい(大声で)自分の部落を応援する。

200メーターのコースの外側は人で埋め尽くされ、小さい私などは選手の姿を見ることも出来ず、周囲の興奮の叫びと悲鳴で理解するしかなかったが、後で飛び上がって喜んでいた。

全競技が終了すると再び入場行進がある。宮古の小中学校では運動会に日の丸と校章が印刷された旗を両手に持って校歌を踊る。全校生徒がグラウンドいっぱいに広がり、前後左右上下と旗を振りながら舞う。その度に全員で元気良く振る旗の音が風になびいて心地良く響いた。この校歌の舞で嫌いな運動会も幕となる。私は嬉しくて一番元気に旗を振り回していた。

大嫌いな運動会でも一つだけ楽しみがあった。家族全員で囲むお昼の弁当の時間だ。我が家の弁当は毎年決まって宮古カマボコ、タクワン、ピンクのでんぶを海苔で巻いた太巻寿司だった。おかずは のーがやーたーがら うぶいやうらん(なんだった覚えていない)きっと無かったのかも知れない、それでも んまーんまだった(美味しかった)

運動音痴を娘に持った、ばんたがカーチャンの名誉のために云うと、ばかーばかの(若い)頃のカーチャンはスポーツウーマンだったようで、運動会だけは大活躍したそうです。父兄のリレーには毎年シャシャリ出て抜きまくっていた。我が担任「カーチャンは早いのに何でアンタは遅いか?」と云われ、私は絶対貰い子に違いないと落ち込んでいた。

運動会の練習で今でも重く心に残っている事がある。毎日放課後の炎天下に校庭で練習する。現在のように水道も完備されていなかった。学校には雨水を貯めるタンクが有り、飲料水にしていたが井戸はなかった。夏場は雨が少なく水が不足する。

全校生徒約400名。一人一杯ずつ飲んでも、元々少ししか入っていないタンクの水はすぐ空になる。でも喉は渇く。そこで全校生徒が一斉に学校の周囲にある家の水かめを襲撃した。

一軒を空にすると次の家と走り回った。留守の家が多かったので無断で頂いた。たまに柄杓を隠された事もあったが、探し出して飲んだ。全員で行くので怖くも罪の意識も感じなかった。家人は疲れて帰宅して空の水かめを見てどんな気がしただろう。学校に怒鳴り込む事もなく翌日には満杯に満たされていたが。

『台風と赤瓦屋根そして漆喰』と『漆喰の作り方 隠し味』

カニ(平良・西里出身)

台風が来るとやはり小学校時代を思い出します。小学6年生の時に現在日本で最も強いといわれる、そして最大瞬間風速85m/sと日本で最も風速の早い台風・コラを経験しました。

昔は台風対策はサンガマツ2本を雨戸の内・外からはさみ数か所針金でくくり、そして最後に五寸釘を家の壁に打ち込み強風対策をしていました。ゲンノウとバ−ルは必需品でした。私も毎回手伝いしましたのでその工程はいまだに頭に入っております。

コラ台風の時もそのように対策しましたが、それでも雨戸が吹き飛ばされそうになったので、父と二人で十時間以上も雨戸が吹き飛ばされないように紐で雨戸を引っ張っていました。この雨戸が吹き飛ぶと家がなくなる・・・そんな恐怖体験をしました。

コラ台風にて茅葺の家は殆ど跡形もなくなくなり、セメント瓦と赤瓦の家の殆ども崩壊しました。それ以来スラブ家(コンクリ−トの家)が登場し、簡単なスラブ家からハイカラな鉄筋コンクリ−トの家が登場してきて今に至っています。

ところで沖縄特有の赤瓦は台風に飛ばされないよう、また雨漏れしないように漆喰で固められています。その漆喰はどのように作られるのでしょうか?私は興味があったので2002年に宮古島の古老らを訪ね調べたことがあります。ほんの僅かな人だけが知っていました。

まず「生きた珊瑚石」を海に行き採取してきます。生きた珊瑚石でないと粘り気がでないようです。昔はリ−フの近くまで行き素潜りで採取したようです。珊瑚石の名前は「菊目珊瑚」「ハマ珊瑚」「コモン珊瑚」のようです。その生きた珊瑚石を太陽で何日も乾かし、その後大きな釜に入れて4日間程薪で燃やすそうです。薪は琉球アカマツが使われていたそうです。

4日間程燃やした後に、湧水を注ぐと珊瑚の種類により「白い粉」と「黄土色したした粉」ができるのだそうです。そしてその粉に藁(わら)を混ぜて何度も何度も捏ねるそうです。生きた珊瑚石を使わないと粘り気のある漆喰はできないそうです。

もうひとつ最後の隠し味のような秘密の種がありました。それを教えてくれたのは多良間島出身の校長先生でした。もう今は天国で休まれています。

それは「浜辺によくみられる『スナズル』という植物」を採取し、バケツの中の水につけておくと、数日後にその水がぬるぬるになるそうです。その「ぬるぬる 水」を「珊瑚石からできた粉」と「藁(わら)」と「湧水」に混ぜると、何と雨も透さない強い強い漆喰ができるのだそうです。

今日の話は私のとっておきの宝箱からとりだした話です。

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

ぴんなぎ(変な)動きをしていた台風10号は、いろいろな所に爪痕を残しましたね。被害に遭われた皆さまにお見舞い申し上げます。

お盆が終わった後の先月19日、里帰りしていた菜の花を囲んでオフ会を開きました。さどやませいこさん、菜の花、タイラー、ひでおさん、カニさん K.takanoriさん、マツカニさん、ざうかにさん、神童、與那覇淳さんと私の11名。久しぶりに会い、いろいろな話で盛り上がりました〜。二次会は、のひなひろしさんのお店「ぬか〜ぬか」で。ひろしさんの歌やマツカニさんの弾く、ひろしさん手作りのニュー三線(?)で宮古民謡を歌ったり、楽しい時間を過ごしました。くま・かまメンバーには、ギターや三線の名手、二胡を弾くアモイさんもいるので、何かイベントができるといいねという話も出ました。本当に何かできそうです。乞うご期待!

さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?

ATALASネットワークを立ち上げ、その後の優子さんの活動、活躍は素晴らしいですよね〜。まさにこれまでの総括でしたね。何を感じ、どうやってきて、これからどうしたいのかというのがよく伝わってきました。これまでされてきた事が今後大きく花開くことでしょうね。これからもずっと応援していきたいと思います。

あの話をもう一度は、大和の宮古人さんの「運動会」でした。あの頃の運動会はそうだったなぁーと場面のひとつひとつが懐かしく思い出されました。9月には宮古の各地の学校で運動会が開かれます。親や地域にとっても楽しみな運動会。8月31日付けの宮古新報には各学校の日程表が載っていました。

カニさんの赤瓦と漆喰の話は7月9日に掲示板で書き込みされたものです。(カニさんの本『天の根(てぃんぬに)島に生きて』(絶賛発売中)の中にも掲載されています)やらびぱだ(子どもの頃)、漆喰で赤瓦をくっつけていたのを見たことがありましたが、そのような材料だとは、すさったん(知らなかった)。昔の人たちの知恵は素晴らしいですね。

貴方の感想もぜひお寄せくださいね。掲示板での書き込みもお待ちしています〜。

きゅうまい しまいがみの お付き合い たんでぃがーたんでぃ!
(きょうも 最後までの お付き合い ありがとうございました!)

次号は9月15日(木)発行予定です。
きゅうまい、上等の一日でありますように! あつかー、またや〜。

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