こんにちは〜。
ぴしーぴしの(寒い)日が続いていましたが、ぴっちゃがまなー(少しずつ)暖かくなってきました。がんづぅかり うらまずなー(お元気ですかー)?
vol.382お届けです。お楽しみくださいね〜。
きーぬ みん(木の耳)
菜の花(伊良部町仲地出身)
「きーぬ みん(木の耳)」と書くと、何だか木が耳を澄まして人間の声を聞いているみたいだけど、宮古で「きーぬ みん(木の耳)」とは茸のこと。キクラゲやサルノコシカケをイメージしてみて下さい。ほら!木の耳に似てなくもないでしょう?
宮古とキノコは縁がないようにも思えるけど、高温多湿の宮古にもキノコは生える。私の年代なら誰もが覚えているのは、っふぁい(堆肥)に生えるキノコじゃないかと思う。ぬーまたつ(馬小屋)、ぴんざたつ(山羊小屋)の傍にうず高く積まれた っふぁい(堆肥)から、ニョキッと生える白い茎に灰色の傘のキノコは何とも可愛らしかった。やまぬ きー ぬ すたーら(林の木の下)に溜まった松葉や枯葉からは、真っ白なキノコが生えていた。キノコを見つけると、別にどうってことは無いことなのに意味もなく嬉しかった。なんだけど、今回はそんなキノコじゃなくて、おばぁとの思い出と茸の話をば。
おばぁっ子だった私は、おばぁにいろんなものを食べさせて貰った。食材は、ぱるんな(カタツムリ)や ずーぬい(地苔)などはまだいい方で、どう見ても雑草の葉っぱにしか見えないものや、木の枝にしか見えないものなど、今思い出しても得体も正体も分からないような島の植物や茸などだった。
「くりゃー アダン ぬ みん」「くりゃー まつぎ ぬ みん」直訳すると、「これは アダン(タコノキ)の茸」「これは松木の茸」と言うおばぁの声が思い出の片隅から聞こえてくるようだ。どこの場所でどんな形で生えていたかは全く思い出せないけど、確かに茸だった・・・はず。
おばぁは、てぃう”ぃざ(手のひら)程もある っそーっそぬ みん なぎ っふぉーっふぉーぬ みん なぎゆ(白い茸や真っ黒の茸などを)、わーぬ あっう”ぁ(豚の脂・ラード)で炒めて食べさせてくれた。肉厚の茸の味は・・・覚えてないけどきっと美味しかったと思う。
いつがーら(いつだったか)帰省した時、おばぁが食べさせてくれたいろんな植物や茸の事を母ちゃんに話したら「あんたは母ちゃんも食べたことのないものを食べているね〜!」と驚いていた。そうだったか!母ちゃんでさえ食べたことのないものを、私は食体験していたのか!と、こっちがびっくりした。
おばぁはスーパーを知る事も見たこともない。私が小学6年生の時にかんがなす(神様)になったおばぁは、畑や野原や浜辺や磯で食材を手にしていた。冷蔵庫も無いから、手に入るものがその日その日の食材であったはず。いつでも様々な食材が並んでいて、手軽に買い物ができるスーパーをおばぁが見たら、きっと「アッガイタンデェ〜!(何とまあ!)」とびっくりするはず。
おばぁが食べさせてくれた正体不明で得体の知れない(食べさせて貰っておきながらなんとのばあかさぁ・・・ね。ごめんね〜、おばぁ!)宮古の植物のエネルギーが、私の体内には思い出と共に留まっているんだなぁ!と、感動する私である。
古木に生える きーぬ みん(木の耳)、いつか見つけられたらいいな〜と思う。そしたらおばぁと昔の伊良部を偲びながら食べたいものだ。
◇あの話をもう一度
アモイ(平良・宮原出身)
「バダはどこへ行った?1」vol.42 2002/12/19
私の実家(平良市宮原の東瓦原<あがずかーらばり>部落)の裏には部落の人達から「バダ」と呼ばれている場所がある。日本語に訳すと何だろうと考えて見た。「小川」になるだろうか?場田という漢字から来ているだろうか?しかし「小川」というと川そのものだが、「バダ」は、川以外の全体の場所を指す。
バダがどんなところだったかというと、昔は田んぼの間を流れる小川であり用水路の役目もしていた。バダには色々な表情があった、普通の時は澄んだ水が穏やかに流れ、周りは草があおあおと茂り、蝶々が舞い、鳥が飛び交い、下流の方にいくと田んぼの間を通りやがては森の奥深くへと流れが続いていく。台風などで大雨が降れば水嵩が増し、流れが激しくなりバダに架かっている暗橋が冠水し渡れなくなるほどになる。
暗橋は平良市宮原の瓦原部落と城辺町山田部落を結ぶ橋である。バダの川幅は広いところでも2M位で、深さは、降雨量により違うが冠水時を除き深い時でも1M位だ。バダにはフナやドジョウや蟹やウナギもいた。しかし1ヶ月も日照が続けばたちまち干上がってしまう。バダの水が干上がる直前になるとフナやドジョウが手づかみで取れるようになるが、しかしウナギだけは水が干上がる前に下流の方の湧水のある方へ移動し居なくなってしまう。水が干上がった後はそこに住み着いていた生物が死に耐えて腐ってしまう、これはちょっときつい匂いを発しこのバダが一番いやな時だ。
しかし普段のバダは生活の場所だ。やらびぬきゃーぬ うゆぎすざーんなり(子供達のプールになり)みどぅんぬきゃーぬ服う洗い(部落の女の人達が洗濯をし)、お父たがずーすきぬうもを洗い(親父たちが農耕作の馬を洗い)びきやらびやーふそーかり(男の子たちが草を刈り)というように部落の皆がこのバダの恩恵を受けたものだ。
私がバダで密かに自慢したいことが2つある。一つは、私の知る限りでは宮古島では一番長い流れ川だろう事だ。バダの上流は城辺の成城へと続いていき最後は源流のカーズクへ行き着くらしいのだが、まだ行ったことがない。そして下っていくと森の中の何箇所かの湧水場所(“山田つぶ”と呼ばれ、フナ、海老、ウナギがいる)を通り、“荒明きバダ”“フサガー”と続き宮原小学校の東方で土底部落からの流れと合流し“スナバダ”等の呼称の場所を通ってずっと下流へ続き“ダーシ浜”から海へと注いでいる。城辺町と平良市を跨いだおよそ10kmはあろうかという長−い??川だ。しかし利根川とか、長良川と言うような川全体を呼ぶ統一した名前がないのが残念だ。正式に命名しては、どうだろうか?(ちょっと大袈裟か?)そしてバダの近くには“”ヤカランミガー”と呼ばれて昔の人が生活の場として使っていた古井戸が残っていて、今はウナギの住処と化している。
密かな自慢のもう一つは、宮古島の北側の海に見られる海岸の特徴である絶壁の岸の部分が小高い丘となり、それに沿ってバダの流れがあり、そこが昔は海だったんだなーと感じさせることだ。隆起して出来た島の証拠を見せられているようだ。私は帰省する度にこのバダをみにいくのだが、しかしながら先に書いたような昔ながらの色々なバダの表情は今ではうかがい知れない。その変わりようを嘆いた人がいた。
「くま・かま」のサンシンライブで有名な同郷の「ざうかに」が、お袋に聞いたそうだ「のうてぃがバダぬ水ぬ流りゅーらんんにゃー」(なんでバダの水が流れてないの?)、お袋さん曰く「敷石の下を流れているみたいだよ」ざうかに「バダぬ水や石ぬ下うーどぅ流りゅーてぃ?」(バダの水は石の下を流れてるって?)「ふざけんじゃねーそこはもうバダじゃねーよ、昔のバダはどこへいった!」
祖母と娘に寄せる想い
ヤモリ(東京出身)
私には8歳になる一人娘がいる。子供が産まれた時、私の職場の人や周りの友人たちは「赤ちゃんにかかりっきりにならないで気分転換してね。」「完璧を目指さないで上手に手抜きしてね」とか言う人がほとんとであったが、宮古の親戚のおばさんたちはちょっと違う。
「子供は大事に大事にだいーーじに育てなさい!」「おっぱいでてるの?出ないなら魚のおツユを飲みなさい。」とか、東京の人が「イマドキあんまり言っちゃいけない」と思っているあたりのことをどんどん言ってくるのだ。逆に私には新鮮すぎて、子供はだいーーじに育てるのが当たり前だな、手抜きなんてダメだな、とすごく納得してしまった。
マスコミは、少子化と母親受難の時代を世相として映すため、待機児童、産後うつ、ママカーストなど、次々に気が重くなるような言葉を発信してくる。働くママである私も、自分がそういった苦労人の1人であるような気分についなりがちだ。
でも、最近ふと思った。祖母は、宮古から台湾に疎開したりしながら戦前・戦中・戦後をまたいで8人の子供を産んで育てあげ、みんなを大学まで行かせている。便利な家電どころか、私の母が小さい頃は電気や水道すらちゃんと通ってなかったらしいから、いったいぜんたいどんな暮らしを送っていたのだろう。それに比べたら今の私の生活なんて、安全で快適で超楽勝のはず。もっと今の時代と生活に感謝して、子供をだいーーじにして毎日の生活を楽しもう、と。
祖母はその昔、「子供は3人産みなさい。2人だと1人が困った時に助けるのは大変だから。3人いればあと2人で助けられる。」と言っていたらしい。何という説得力。できれば私もそうしたのかったが、40才を過ぎた今、その教えはちょっと守れそうにない。せめて一人娘に少しでも宮古の言葉や心が伝わっていきますように。そう願う私の傍らでオーストラリア出身の夫も同じようなことを思っているはず。娘の英語がもっとオーストラリア訛りになりますように、大らかなオーストラリア人気質が失われませんように、と。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
ぬふーぬふの(暖かい)日差しが降り注ぐようになり、道端には、ルリハコベの青い花が可愛らしく咲いています。
前号からいろいろなことがあり濃い2週間でした。
2月5日は、第11回宮古島市民総合文化祭・一般の部 芸術劇場「金井喜久子生誕110年記念演奏会」でした。金井喜久子さんは宮古出身の偉大な作曲家ですが、残念ながら宮古での知名度が低く(かくいう私もあまり知らなかったのですが)反応が少ないのが気がかりでしたが、予想以上のお客さんがいらして、好評をいただきました。ぷからすむぬ。お越しくださった皆さん、たんでぃがーたんでぃでした。
2月10日は、下地イサムさんの単独ライブがJANG JANGでありました。何とJANGでのライブは初だそう!おごえー、もう何回もやっていたかと。お客さんが、ガフーと入って宮古ならではの反応がいっぱいあり(笑)、うむっし(面白い)楽しいライブでした。アンコールでは十六日祭が近いのでと「一粒の種」も披露されました。2月1日に亡くなった同級生の宮國透のことを思い出して涙が・・・。
2月11日には、くま・かま読者のふくうさん来島。神童の自宅にてふくうさんを囲んで、ひでおさん、K.takanosriさん、松谷でミニオフ会。神童がバーベキューをしてくれたのですが、外は寒いので、私達は神童の事務所内にいて神童が運んでくれる焼き芋やお肉に舌鼓を打つのであった。神童、ご馳走様!ふくうさん、楽しい時間でした。たんでぃがーたんでぃ。
2月12日は、じゅうるくにつ(十六日祭)でした。宮古では旧暦の1月16日にあの世のお正月をします。(1月15日にやるところも)お墓に行き、お重に詰めた料理を供えて祝います。その日が平日にあたると会社や学校は午後から休みとなりますが、今年は日曜日。甥っ子たちは平日の方が休めるのにと残念がっておりました。(笑)実家で、うぷに(大根)の煮物や天ぷら、んーむつ(芋餅)などを作りお墓に行きお供えしました。いつもはお墓でお供えしたものを食べるのですが、今年は風が強く、ぴしーぴしだったので、やー(家)に帰り、やーでお祝いしました。
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
菜の花は久しぶりの登場でした。おばあとの思い出がたくさんある菜の花。それをとても鮮明に覚えていて貴重な体験を綴ってくれます。まつぬみん(松の耳)は知っていたけど、アダンは、すさったん(知らなかった)。昔の人は自然と共生して暮らす知恵をいっぱい持っていたなーと思いますね。
あの話をもう一度は、アモイさんの「バダ」のお話しでした。もう14年も前のお話しですが、とても印象深く残っています。川と言えば咲田川しか知らなかった下地出身の私にとって、カニやエビやうなぎもいた豊かな川があったことにとても驚きました。そしてそれが今では失われてしまっていることにも。
ヤモリさんは2回目の登場でした。お母さんの宮古の血が脈々と受け継がれ、それを大切に思っていることがよく伝わってきました。「おツユ」や「だいーーじに」という言い方、もう宮古さね。本当に私達は今の豊かさに感謝しないといけないですね。娘さんはきっとご両親が大切にしている芯の部分を引き継いでいくことでしょうね。
きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(きょうも 最後まで 読んでくださり ありがとうございました!)
次号は3月2日(木)発行予定です。
がんずぅかり うらあちよー(お元気でいてくださいね) あつかー、またいら!