こんにちは〜。
梅雨空が続いている宮古です。 がんづぅかり うらまずなー(お元気ですかー)?
今回も幅広い内容でお届けします。 お楽しみくださいね〜。
高野山
R(平良・西里出身)
以前、50歳になった時に私のジタバタぶりの心境をくまかまに寄稿したことがある。その時、初美さんに「50歳を超えたら年齢を気にしなくなるよ。体重計が示す年齢で自分の年を確認するくらい。」と言われたことを覚えている。
まーんてぃ(本当に)その通りだった。毎朝乗る体重計が私の年をあれから50、51、52、53、54と正確に教えてくれた。間もなく55に更新される日が近づいて来た。「あれから5年という時間で私は何を成すことができたのか?」と考えなければならないはずなのにまだ振り返る余裕はなく、常に まいんかい(前に)進む日々だ。
さてさて、そんな55歳メンバー、6人の同級生で5月19日から20日の1泊を和歌山県の高野山で過ごした。
那覇空港から関西国際空港行きの飛行機は初便。すとぅむてぃ しゃーか(朝早く)から行動しているので、移動中は、睡眠時間となりそうだが、6人もいると隣りに座った友人との話に花が咲き、眠るどころではない。
大学を卒業後、仕事でのキャリアを積み上げながらの結婚(再度の独身も含み)・子育てを経験しているメンバーばかりなので、それぞれがぶつかる壁を乗り越える術を誰かがアドバイスしてくれる。私もそれで何度励まされたことだろう。何かと節目を共に過ごす心許せる友だちとの小旅行。私たちの今回の旅の目的は、「宿坊での精進料理」と「瞑想」体験だった。
高野山は、弘法大使・空海が今から約1200年前に開山し、修禅の道場を開いた場所。平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録され、世界中から年間百万人を超える人々が訪れているという。
関西空港到着後は、電車・ケーブルカー・バスと乗り継ぎ、目的地の高野山へ移動した。ケーブルカーで高地を目指す際の辺りの景色が、俗世から離れる感、満々で、日常とは違う旅の姿を全面に押し出してくる。
その日の宿となる「一乗院」への到着は、14時を過ぎていた。高野山結界のシンボル(高野山入口)の「大門」を見学した後、しばらく近辺を散策したら18時となり、早速、目的の精進料理を堪能する。
高野山のパンフレットには精進料理について以下の通りの説明書きがあった。「『精進』とは、悪を断って善を行い、つとめに励むとい意味です。仏教では食事におけるすべての行為も修行のひとつと考え、一木一草にも私たちと同じ仏の心があり、その生命をいただく前には、天の恵みに感謝し、お米の一粒も残さず、おいしくいただくことが大事なのだと・・・。それが精進料理です。」
55歳を祝う合同の誕生祝ということで精進料理は通常値段のコースを2千円グレードアップさせた。そのためか、みんな完食することができない程の種類と量が提供された。
汲み上げ湯葉のお造り、胡麻豆腐、よもぎ麩田楽、賀茂茄子の精進麩餡掛け、赤梅の天ぷら、フルーツトマトの蜜煮・・・
お肉・お魚・卵を使わないでこんなにも料理の種類を揃えることができるのか、一同感嘆の声を上げた。見た目も美しい。事前に山芋アレルギーを申告してあった友だちには、山芋抜きの食事が準備されていたことも嬉しいサービスだった。
高野山の精進料理は、鎌倉時代から重要な儀式や法要の際に、僧侶間の振舞料理として発達し、現在のように参拝客が宿坊に泊まるようになると、接待料理として出されるようになったと教えてもらった。
主婦である私たちは食事を残すことがもったいなく思うことも手伝い、自分では食べきることができないと思ったおかずについて、食べられる人にお皿を回してみんなほぼ完食。お豆の皿が一人のお膳に全員分重なっているのを見て一同爆笑。
ゴールデンウィーク明けの観光オフシーズンであったので昼間もゆったりと御堂を見学することができたが、夕食後は「お坊さんが案内する壇上伽藍ナイトツアー」で空海が高野山というこの地で祈ることになった経緯を聞くことができた。
時折、頭上でムササビが木にとまる音が聞こえる。お坊さんが持つ提灯と少しの街燈の灯りの下、夜の静けさと高地の澄んだ空気が私自身を浄化してくれる気がする。途中、あがた(遠く)から夜に姿を現す餓鬼のために祈るお経も聞こえて来た。「静寂」という言葉が相応しいスピリチュアルな空間の中に身を置く体験を存分に味わうことができた。
龍のお腹に見える道(蛇腹路)が水脈の上に築かれていること、頑丈な岩盤のお陰で高野山には地震がないことなど、ガイドブックには記載されていない話をお坊さんに教えてもらい、自然に守られながら、1200年前から世の民の幸せがこの地では祈り継がれていたことを初めて知ることができた。
でも、そんな空間を私は以前にも感じたことがある気がした。そう、宮古島の御嶽で感じる空気と同じだ。宮古島では、昼間の御嶽でも遠くから海のさざ波の音が聞こえてくるような「静寂」を感じることができる。
住んでいた家の つかふ(近く)の「漲水御嶽」で、旅に出ている子どもたちの無事を祈る女性の後ろ姿があった風景を思い出す。両親の生まれ里の下地の「つぬじ御嶽」や表通りに出る角にあった名も知らない小さな御嶽。どこも同じ空気が広がっているように思い出す。太古から神や自然に感謝し、愛しい人の無事と幸せを祈る人たちにより守られていたことを身近に思い出す。
高野山で遠く離れた宮古島を思い出すのも不思議なものだ。先日66歳でこの世を去った長兄もあの世に無事魂を移せただろうかと気になり心の中で手を合わせた。
もう一つの目的の「瞑想」は、翌朝体験できた。密教真言宗では「阿息観(あじかん・あそくかん)」といい、親日如来(阿:自然・宇宙・この世の全て)と息を合わせることが大切なことで、頭に浮かぶことを消す努力をする必要はないと説明を受けた。禅宗は心を無にすることが必要なので、大きな違いがあるようだ。
「阿息観」の間、私の頭に浮かんだことと言えば、あぐらを組んだ足が痛いことを我慢しつつ、この旅で一緒の友だち一人ひとりの顔、給仕をしてくれたお坊さんの顔、家族の顔、顔、顔、顔・・・。
高野山という地で楽しい時間が過ごせるのも、また、元気に生活できているのもあらゆる人々の私へのサポートがあっての事なんだ、ということを再認識する気持ちが多くの人の顔を思い浮かべさせたんじゃないかと思った。
高野山の旅は、私の心に「感謝」という言葉を刻んでくれた。
下山後、朝3時まで語りあった大阪での1泊も加えて、2泊3日の旅行で4万歩余りを歩いた。沖縄に帰っての1週間、メンバー一同、筋肉痛を抱えながら仕事・家事と日常生活に戻った。旅から帰って4、5日は連絡を取り合えない程みんな疲れていた。
しかし、「身体は疲れても心は晴れ晴れ!」というみんなの感想と徐々に回復する体力を確認し、次の旅の計画が始まる。
◇あの話をもう一度
Jetzt(三重県・鈴鹿出身)
「宮古島の『ラハイナ・ヌーン』」vol.297 2013/8/1
私は埼玉に住んでいるが、15年前に宮古島に魅せられ、これまで20回ほど訪れている。
今回(6月28日)は、昼頃に真上に来る太陽が見たくて来ましたと、宮古空港に毎回迎えに来てもらっているレンタカーショップのおかみさんに話をした。すると、彼女は「夏はいつも真上にあるような気がしますけどねぇ」とけげんな顔をされた。
随分と前に訪れた夏の宮古。昼頃にあたりの景色が急に変わったように思った。日の光が強調されて、すべてのものが鋭く空に向かって直立している、と。その時、足下に落ちる自分の影がほとんどないことに気付いた。周りのものにも影はほとんどなく、それは暗い部分が極限まで減った光景であった。
太陽が真南にきた時の時刻が南中時刻であり、その時の太陽の高さが南中高度である。南中高度が90°であれば、太陽は完全に真上に位置し、物体に影がなくなる。南中高度が最大になる夏至、6月21日にそれを見に行きたかったのだが、実際に行けたのはその1週間後だった。
東平安名崎灯台は、北緯24°43’10” 東経125°28’7”に位置する。そこでの南中時刻と南中高度を、国立天文台のサイトで求めると、6月21日には12:39:51に南中高度が88.7°、29日は12:41:32に88.5°となることが分る。90°からのわずかなズレは肉眼では分からない。この角度では、直立する1mの棒にできる影の長さは2.5cm位である。関東では、それが20cm以上となる。国立天文台のサイト(http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/)
翌29日、多くの観光客が行き交う中、私は灯台の近くでペットボトルを日時計替わりにし、その影が段々と短くなっていく様子を眺めていた。予報通りに12時30分頃、いつもは白く明るく輝く東平安名崎灯台が、灯台上部の作る影の中にすっぽり入った。先頭部分は真上にある太陽光を反射して輝き、澄み切った青空とあの海を背景にしつつ、灯台本体は大げさに言えば薄墨色に見える。影の中に入った灯台本体の地面に近いところは、地上のコンクリートの照り返しをスポットライトのように浴びてやや明るい。
東屋の近くにある球状のモニュメントも、上半分にだけ光が当たり下半分は暗い。その境界線は海の水平線と重なり、見事な調和を見せている。手すりはその影を真下に落としている。すべてのものの影が最小となり日の当たる所が強調されている。この光景が見たかった。しかし、夢の中のような景色も長くは続かない。13時頃にはまた灯台にも日が当たりはじめ、段々と景色は影を取り戻し、見慣れたそれになっていった。
地球は地軸をおよそ23.4°傾けて、太陽の周りを公転している。見かけ上、太陽は夏には北緯23°26’22”の北回帰線上に到達し、冬には南回帰線まで移動する。この間に位置する地域では、年2回、太陽が完全に真上を通過し、ハワイではそれをラハイナ・ヌーンと呼び観光客にアピールしているようである。宮古島は北回帰線より1.3°ほど北に位置するため、最大の南中高度が88.7°となる。ちなみに、波照間島では、89.4°である。
改めて宮古での南中高度を計算してみると、5月下旬から2ヶ月ほどの間、南中高度は実に85°以上である。感覚的にはほとんど真上である。レンタカーショップのおかみさんの意見はまことに正しいことがよく分かった。宮古では見慣れた光景でも、しかし、時々しか訪れることのできない私にはとても新鮮な光景に見えるのである。
言葉をスディミズで洗う
根間(幸地)郁乃(平良・久貝出身)
沖縄県平和祈念資料館が毎年公募している「児童・生徒の平和メッセージ」で、宮古高校三年生の上原愛音(ねね)さんが今年の高校生平和の詩部門で最優秀賞に選ばれたそうです。
タイトルは「誓い〜私達のおばあに寄せて」。宮古島にちなんだ歌の単語も詩に詠み込み、直接は地上戦の行われなかった離島からも平和への願いを込めたそうです。6月23日の慰霊の日に糸満市摩文仁で開かれる沖縄戦全戦没者追悼式で、ご本人による朗読があるとのこと。高校の同級生のお嬢さんということで、まーんてぃ、うかーすぬむ(ほんとうに、すごいことだね)!と感心しています。
小さな頃から、学校の平和学習などで地域のおばあさん達に戦時中の話を聞いて育った愛音さんは、そうした記憶をもとに作品を書いたそうです。考えてみれば、これまでの入賞作はほとんど、生の体験談を聞き、こどもたちの視点から想像を広げて書かれたものでした。
しかし戦後72年を迎え、近年、昭和のあの沖縄戦を体験した世代の方たちが次第に少なくなってきています。直に話が聞けることがいちばんなのですが、代わりにどんな方法があるだろうか・・・。悩むところかもしれません。
毎年、6月の慰霊の日が近づくと、私の職場(図書館)でも「戦争関係で、読み聞かせにいい絵本はありませんか?」という問い合わせを多くいただきます。そして最近感じるのは、残酷な表現が出てくる絵本が敬遠されがちだということです。これは、小さい頃に何度も学校でむごたらしい映像や写真集を平和教育の一環として見せられた世代が親となり、子供たちにあのトラウマを植え付けたくないという思いからかもしれません。最近は、平和はいいなあ、戦争はかなしいね、といったソフトな表現のものが好まれる傾向にあるようです。
その流れに関しては個々人の考えもあるので、意見できないのですが、最近思ったことは、文字で残された証言集を改めて読み直し活用してみてはどうだろう、ということです。
『沖縄縣史』第10巻には「宮古編」がかなりの分量で載っています。例えば昭和19年の「十・十空襲」を当時7歳で体験した女性は、家の壁板が破れた着物のように穴だらけになっているのを見て、そこでお兄さんにこう言われたそうです。
「ウカース(こわい)弾がピスキ(穴をあけて)ピキウリバ(いったんだよ)イーバードゥ(よかった)クマンナ(ここには)ウリウカン(おらなくて)これがあたればスニドゥク(死んでいるよ)」―『沖縄縣史 10 沖縄戦記録』p305より引用
また、その女性は戦時中に父を宮古に残して台湾へ疎開するのを嫌がり、彼女の一言で家族全員とりやめたところ、その日の夜はお父さんが初めて「カヌシャガマヨー(かわいい娘よ)」と言いながら、抱っこし眠ってくれたのが忘れられないということでした。たった一言に、戦の中で子を思う親の気持ちがにじみ出ています。
学校の教科書では習わなかった個人のエピソードの数々が方言の会話も交えて記録され、当時の様子がぐっと臨場感をもってきます。こうした貴重な証言集が、あまり読まれず図書館などの本棚に眠っているのは、もったいないなあと最近思うのです。
宮古の民話「月のアカリヤザガマの話」の中に、スディミズ(若返りの水)のことが出てきます。昔のひとの言葉を声に出して、他者と分かち合うことは、古い言葉をスディミズで洗い、新たな命を吹き込み再生するようなことではないでしょうか。
地域のお年寄りの言葉によって、こどもたちから新しい平和の詩が生まれるように、忘れてはならないことを本の中からも探し伝えていくことで、何度でも何度でも、それぞれの心の中で昔の人の体験が生き続けるのかもしれません。
※琉球新報とタイムスのWeb版でも上原さんの詩が読めます。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
沖縄本島では昨日記録的な、うぷあみ(大雨)が降ったようですが、被害がないといいですね。どうぞ、お気を付けください。
6月2日、「志の輔らくごin宮古島」がマティダ市民劇場でありました。開場1時間以上前からお客さんが並び、大変な人気でした。マクラでは宮古での印象深い出来事を話し、小話もいっぱい。そして「八五郎出世」。話芸のすばらしさにその世界に惹き込まれ、イヒーがアハーと大笑い。堪能しました。宮古で一流の落語が聞けるうれしさといったら。
また、6月10日には茜屋出雲流 出雲松景星教室の発表会“舞踊の会”がマティダ市民劇場で行われました。高校の同級生も熊本から参加。演歌などに合わせて踊る“舞踊の会”のステージに会場からは指笛や大きな拍手が送られました。同級生はひとりで踊りましたが、キリリとキレのある踊りで同級生としても誇らしい気持ちになりました。
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
Rさんは、vol.279で「50代突入!」と題して書いていましたね。私は年齢は気にならなくなると話していたとは。ぱずかすむぬー。60代を前にジタバタしそうな自分がいます。(笑)いろいろな人生を歩んできた仲間との旅行は行く場所とともにしみじみと味わい深いものになったようですね。
6月になり、梅雨明けしたかのような日差しの強い日が数日ありました。影が短くなっていくのを感じ、Jetztさんが書いてくださった「ラハイナ・ヌーン」のことを思い出しました。今年の夏至は6月21日。晴れて、影が無くなるを見たいですね。その頃、宮古にいらっしゃる方もぜひ、意識してご覧くださいね。
間もなく慰霊の日ですね。上原愛音さんの詩、読みました。飾らない言葉の中に深い想いが伝わってきました。愛音さんは地域のおばあさんたちからの言葉をしっかりと受け止めてきたんですね。やらばど(だからか)と納得しました。沖縄縣史も読みたいと思います。「スディミズで洗い、新たな命を吹き込み・・・」の言葉に、まーんてぃやーと思いました。
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きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(きょうも 最後まで 読んでくださり ありがとうございました!)
次号は三週間後7月6日(木)発行予定です。
きゅうまい、上等な ぷからす一日でありますように。 あつかー、またいら!