パンパカパーン!
くま・かま、つ、ついに400号の発行となりました!
ういまい、かいまい(それもこれも)皆様のおかげです。まーんてぃ たんでぃがーたんでぃ〜〜。
「宮古の好きなところ」と題して特集を組みました。いろいろな好きなところ(方言や民謡や自然など)盛りだくさんです。
どうぞ、ぬかーぬか(ごゆっくり)お楽しみくださいね
400号特集「宮古の好きなところ」
島の空気
ビートルズ世代のサラリーマン(平良・下里出身)
みゃーくずまぬ(宮古島の)好きな所は、やまかさ(沢山)あるけど、やっぱり島の空気が一番好きかな。
宮古島に到着して飛行機のタラップを降り、あの南国特有の すぷーてぃぬ(湿った)暖かい空気に包まれた瞬間、一気に身体中の細胞が覚醒し、宮古島モードに切り替わる。まさに宮古島に帰ってきたーと実感する。
何故、宮古島の空気がそれほどまで私を元気づけるのか不思議に思っていたが、それは かざ(匂い)にあるのではないかと思う。宮古島の空気は、何とも言えない かばす かざ(いい匂い)がするのである。
宮古島で暮らしていた時は、のーまい(何も)感じなかったが、島を
ぱす゜でぃ(出て)内地で暮らすようになってから、島に帰る度に島の空気の中に僅に甘い匂いを感じるようになった。
内地と違い亜熱帯に属する宮古島は、内地では見られない植物が多く、一年中花が絶えない。匂いの正体は、ハイビスカスやサニン(月桃)の花、その他亜熱帯の草や木の匂いと、製糖期に島中を包むサトウキビの匂いが、南国特有の高温と湿った海風と混じり合い醸し出される匂いなのだと思う。
ばんたが(私の)宮古島の実家は、んなまや にゃーんふ なりにゃーんすが(今はもう無くなってしまったが)、門から玄関までの植え込みに何本かのトックリヤシが植えてあった。帰省したある日とても かばす かざ(いい匂い)がするので、その匂いを辿って庭に出た。匂いの正体はトックリヤシの幹の脇から突き出た箒の様な小枝にびっしりと付いた花実だった。
宮古島へ帰ると いつまい(いつも)サトウキビ畑を眺めに行く。海風を受けてサトウキビの葉っぱが揺れ風が通って行く道が見える。風の道は幾筋にも分かれてサトウキビ畑を渡っていく。うぷす(潮)の匂いと ぶーき゜(サトウキビ)の匂いが風に乗って ばが ゆかーらゆ(私の横を)と通り抜けていく。これほどの至福の時間は無い。
南へ渡るサシバが羽を休めに宮古島に降り立ち、また、元気に旅立つように、宮古の空気に浸り、宮古の空気を胸いっぱい吸って、いず(元気)と たや(力)を蓄えて、また、内地の生活に戻る。
この大好きな宮古島の空気が、いつがみまい かーらだな(いつまでも変わらず)、かばす かざ(いい匂い)で有り続けてほしいと願う。
ばが だいず あたらす とかまぁ(私の大切なところは)
さどやませいこ(城辺・新城出身)
★たかぁ みいが いかー(鷹を見に行こう)久松の天空茶屋
寒露の とぅきゃーん(頃)、必ずやってくるサシバ。宮古の人は親しみを込めて「タカ」と呼ぶ。私はこの季節になると、そわそわしてある場所に行きたくなる。それが、久松集落の墓地団地、西側高台にある喫茶店だ。
私は勝手に天空茶屋と呼んでいる。牛小屋をリフォームしたといわれモダンとはいえないが、とてもアットホームで落ち着く場所だ。何より、南側に広がる海がそのまま自分のものになる。夕方になると、マイパナリの向こうに落ちていく夕日が何とも神々しい。
その頃になると、いつも一人でふらっと立ち寄るので、大阪生まれのオーナーは「サシバみたいな人やね〜」と言って笑う。私も、「自称サシばあさんが来たよ〜」と言って二人でケラケラ笑う。この日は偵察のつもりで寄ったので、大好きな「水雲(モズク)冷麺」をいただくことにする。ご主人がモズクの養殖を生業としているので、新鮮なモズクに、さらにモズクを練り込んだソーメン、また野菜たっぷりが嬉しい。小瓶に入ったシークァサーの果実をたっぷり入れて、思いっきり大口で食べる。む〜、んましゃーぬ(美味しい)!
夕方5時ごろ、この日も一人で西の空を気にしながらコーヒーを、ぬみゅうたー(飲んでいました)。時々目を凝らしていると、伊良部島から円を描くように鷹が数羽飛んでくる。立ち上がって「おかえりー」と叫びたくなるような、そんな気持ちに駆られる。
「タカドーイ、デンゴ、う”あが やーや んざが(あなたの家はどこですか・・・)」。自然とわらべ歌が出てくる。今年も会えた喜びを胸いっぱいに、残ったコーヒーを飲み干し、家路につく。また、あつぁまい くーでぃやー(また明日も来るねー)。
★だいず(大変)!竜宮城に舞い込んだ 池間島の浜辺の茶屋
橋を渡って、集落へは向かわず、右におれると道路両脇にアカバナが咲き乱れる。その途中に看板はある。海に向かって150Mほど歩くと、そこはもう竜宮城。持ち主が時間をかけて手造りした茶屋だ。
以前は右手の方へ、なだらかな坂を下りて行って休む場所があったが、今年からユウナの木が生い茂る入口正面も開発し、海がますます近くなった。
久しぶりに訪ねたら、ずいぶん雰囲気が変わっていて、おねえちゃんの顔も変わっていた。とても丁寧に迎えてくれ、ぷからっさぁー(うれしい)茶屋特性のドリンクを頼んで、誰もまだいない高台のテラスに立つと、正面にどかんと座る円錐の大神島。周りを幾重にも囲む様々な青の表情。「うわ〜」言葉を失う美しさ。連なる青は上布にも似て、今にもフワフワ舞い上がりそうだった。
おねえちゃんが注文したドリンクをもってきた。何と炭酸にマンゴー果肉のかたまり。しあわせ〜。飲みながら、「みゃ〜くずまぁ ま〜んてぃ、かん ぬ すま(宮古島は本当に神の島)」。この平穏が未来永劫に続きますように、と祈らずにはいられませんでした。 うすか。
訳せないけど、便利な言葉
Motoca(平良・下里出身)
宮古の擬音語・擬態語が大好きだ。頭は壁に「がぱ」とぶつかるし、古い家の窓は「がふっ」と閉まって開けられない。元気な赤ちゃんの手足は「ばじゃらばじゃら」と動くし、子どもたちは外を「じゃじゃー」と駆け回る。音を伸ばしたり、逆にぐっと詰めたり、その言い方次第で度合いを伝えられる。
昔、ラジオでだれかが「宮古の人は、表現が大げさ」と言っていた。その理由として、例えば何かものが「落ちた」というようなときに「ダダと落ちた」というのを例に挙げ、擬音語・擬態語が多用されるから、とのことだった。
その後も何度か「宮古人は大げさ」という評価を耳にしてきた。そうだろうか。確かに、宮古の人間同士の会話には、擬音語・擬態語が多く出現する。感動詞も多い。けれど、別になんでも「大げさ」なわけではない、と私は思っている。その物事の大小や程度・頻度を正確に伝えようとした結果だと思うのだ。だから必要に応じては、実際より過小に表現することだってあるはず。
短い言葉でも、言い方次第でより正確に状況が伝えられる擬音語・擬態語のたぐいは、だいっっっず(ものすごーく)便利。すっぱり伝いあえてお互い気持ちがいいさあね。
もうひとつ、宮古方言の感動詞も、私の大好物だ。「痛い」ときに「あが!」というのは沖縄全域共通のようだが、意図せぬ水濡れに対して「あいじゃ」というのは宮古だけだろう。何かあったときにとっさに出てくる言葉なので「これはこういう意味です」という、ぴしっとした説明はできない。だから、よその人から意味を尋ねられると非常に困る。訳せない。でもきっと宮古人同士なら、叫び声を聞けば、何が起こったか大体想像がつくのだ。
特に「あがい」は、言い方ひとつでちょっとした驚きから苛立ち、さらには絶望の深淵まで幅広〜く表現することができる便利な感動詞だ。「あっがい!」というか「あがいよ〜」というか「あがーぃ・・・」というか。あるいは「たんでぃ」を添えて強調するか。驚嘆の「おごえ」も、苛立ちor納得の2通りのニュアンスを持つ「えげー」も、おそらく「あがい」からの派生だ。あがい、まーんてぃ、(あぁ、本当に)便利な言葉さいが。
擬音語・擬態語にしても、感動詞にしても、発される音声が表現するものは、抽象的で感覚的な、曖昧なものだ。もはや言語になる前の、原始的な「何か」のような気もする。でももしかしたら、これはとても進化した言語なのかもしれない、とも思う。とても短い音声で、ものの様子や人の感情など、たくさんのことを伝えることができるというのは、超効率的ではないか!ある意味テレパシーだはず。私が宮古にうまれて良かった、と思うのは、他の言葉に訳せないけど便利すぎる、この擬音語・擬態語と感動詞の存在なのである。
『ゆなぱふつ』へのラブレター
クイチャーマン(下地・与那覇出身)
私があなたに初めて出会ったのは、69年前でした。「おごえー、びきやらびがま」(おやまぁ、男の子だねぇ)」私を取り上げた祖母は、母にそう話し、安産を喜びあったと思います。
それからというもの、朝起きてから夜寝るまで、毎日あなたと一緒でしたね。幼稚園生になると、あなたのほかに、先生が話す変わった言葉にも会いました。小学校の教室には「共通語励行」という難しい漢字が黒板の端っこに書かれていました。それは、あなたではなく、共通語をつかうようにしましょう、という意味でした。
そう言われても、私も、友人たちもあなたのことが大好きでした。家に帰ると、大声で、自由に、ゆなぱふつ(与那覇方言)の「あなた」を話して、存分に遊びました。そうですよね、生まれた時からあなたとは不離一体、いつも一緒だったのですから。
しかし、私たちに危機が訪れましたね。それは私が中学2年のときでした。沖縄本島に転校すると、私の話し方がクラスメイトの言葉と違い過ぎることに気づかされ、それがコンプレックスになりました。思春期の環境の変化によって、あなたとの不離一体の維持が困難になったばかりではなく、話しことばで悩む原因はあなたとの関係にあるのではないか、とさえ思ったのでした。
高校生になると、放送部に入り「標準語」にのめりこんで、あなたのことはすっかり忘れてしまうかのようでした。でも、幸いなことに、下地の同期生が宮古からも受験できる工業高校と商業高校に10人ほど合格して那覇に来ました。中学を卒業して沖縄本島で就職する仲間たちも。私はその友人たちと、あなたを交えた青春時代を共有できたのです。
私は齢(よわい)を重ねるごとにあなたをもっとよく知りたくなり、あなたやふるさとの文化・芸能などへの関心も抱くようになりました。400号を数えるインターネットマガジン『くまから・かまから』の初美さんとも2003年に出会いました。『くま・かま』では、あなたやあなたの仲間のことなどが世界に発信されています。私は2004年1月の第68号からライターも務めています。
んなまからめー(これからも)、あなたと一緒に過ごし、いろいろなところであなたのことを紹介していきたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いします。
宮古の好きなところ
しのりん(千葉県茂原市在住)
宮古島劇の始まりは2009年9月24日(木)であった。JR山手線渋谷駅ハチ公前にQちゃんを自称する高橋尚子さんを友人で編曲家の遠藤謙二郎先生と待った。(株)よしもとアール・アンド・シーの方を伴って現れたのは小柄の可愛いQちゃんであった。その後に、歌手の砂川恵理歌さんと合流して喫茶店に入った。
次に2009年10月25日に上野水上音楽堂で宮古島のイベントがあり、歌と踊りを楽しんだ後、遠藤先生とともにQちゃんに連れられて宴会場に入った。そこで宮古島方言メールマガジンを主宰している松谷初美さん、新聞記者の宮国優子さん、モトカさんとその友人と出会って、食事をした。
その次は千葉県茂原市で茂原混声合唱団「四季」の団長をしていた私が一肌脱いだチャリティコンサートで、Qちゃん作詞、下地勇氏作曲、遠藤謙二郎氏編曲の『一粒の種』を合唱し、それを聞きに遠藤先生、Qちゃん夫婦、松谷さん、モトカさんが東京方面から駆け付けてくれた。
チャリティコンサートの打ち上げ会では宮古出身の3人娘(?)を紹介し、『芭蕉布』を歌ってもらった。また沖縄の民謡に合わせて踊ってもらい手つきなどを教えてもらった。その時の写真を見ると、出席者全員が笑顔で踊りを手で真似しようとしている。真剣なまなざしが3人に集中しているのが見て取れる。企画した私にとって2009年12月19日は生涯忘れられない日となった。
宮古島方言メールマガジン「くまから・かまから」をいつから読んでいるか、パソコンを更新したので、その起源を知るには時間がかかる。パソコン更新後では2014年7月14日(木)のvol.320が最も古い。もうすぐ400号になるから80号以上は読んでいることになる。
最近は毎号の感想文を松谷初美さんこと「はっちゃん」or「お初殿」に送っている。忙しくて読めないときは次号が届くときもあった。感想をなぜ送るかと聞かれれば、送った感想文を読んだはっちゃんの感想文を読みたいからである。当方の感想に対して誠に適切な反応が示されているのである。「篠崎さんも若い時は○○だったのですね。(笑)」などと返信があると、その洞察力に驚かされる。まさに、そうだから「くまかま」が400号も続いているのであろうと思う次第である。
「あの記事をもう一度」は素晴らしい企画である。「くまかま」を最初からではなく、途中から読んでいる人に対してこの上もなく忖度した企画である。このような忖度は世の中に大いに広めてもらいたい。が、現実は逆である。
最後に一つだけ残念な点がある。それは文章しか掲載できないのだそうで、写真や図表、イラストが載せられないことである。たとえば「サシバ」がよく登場するがその姿をまだ見たことが無い。それでインターネットで調べるのだが、やはり臨場感が少ない。FBなどのように写真ばかり掲載されても困るが、極めつけの写真は載せたい誘惑に駆られる。
最後に、このような素晴らしい交流の場を提供して下さっているお初殿に、やまかさ(たくさん)お礼を申し上げる次第である。たんでぃがー、たんでぃ。
神歌に生きる強さを聴く
菜の花(伊良部町仲地出身)
「宮古の好きなところ」と言われたら、自然・人・文化・歴史・・・といろいろ思い浮かぶ。その中でも特に好きなものをと選り分けていくと、最後に残ったのが「神歌」になった。
科学技術も交通も今のように発達していないその昔、洋上に浮かぶ宮古の島々はまさに南の孤島であったと容易に推測される。
宮古は台風銀座と言われ、毎年のように大型の台風が島を襲う。台風進路によってはUターンして宮古に寄ってから北上する台風もある。オジサンたちが「うやをど うがまだー んざんかいまい いかいんにばど(親を拝まないことには何処にも行かれないからね〜)」とジョークを言う程とにかく多いのだ。旱魃や流行り病に苦しみ、人頭税や戦争といった時代に翻弄された様々な苦難の歴史もある。もっと時代を遡れば、今の時代では想像がつかない程の苦しみがあったかも知れない。それでも島の人々は生きてきた。
私が子供の頃、島には集落ごとの祭祀がまだ残っていた。おばぁが つかさんま(司女)ということもあり、私はおばぁにくっついて御嶽に行くことが何度もあった。線香の白い煙と神願いをするおばぁ達に木漏れ日が当たると、白く透き通ったような影になる。その様は子どもの目にも神々しく、崇高な姿として映った。おばぁ達の かんにがい(神願い)の声は、音楽の様に共鳴し合い、神と人間のやりとりのようにも聞こえた。
大人になって、今度はお父が つかさしゅう(司主)になったこともあり、神歌の意味を知る機会があった。神歌は んきーん(昔)から受け継がれており、八百万の神に うさぎる(捧げる)祝詞であった。自然界のあらゆるものに対する感謝と歓び、豊作豊漁を願い、人々の安寧と平和、家の内外に至るまでの加護を願うものであった。
様々な神歌を知る程に、抗うことの出来ない自然界への畏怖の念、生き抜こうとする人間の姿、つむ(精神)の安らぎを得ようとする古の人々の姿を感じた。神歌を声に出し、また聞くことで、先人たちは生き永らえて来たのだろうか?そんなことを思わせる程、神歌の長さ多さは膨大なものであった。
神歌を紐解くと、島の人々の生きる力と強さを知るようで、それは多分私のDNAの中にもあるものなのだと誇らしくさえ思う。宮古でよく耳にする「がんずぅーさど いつばん!(健康こそが 一番だよ!)」命あってこそ!先人たちの声が聞こえるようで、私は神歌を選んだ。
(おまけ)
毎年、私は旧盆に帰省する。母ちゃんはお盆の間は朝昼晩と、あの世にいるおじぃやおばぁ、お父にお供えをしながら、まるで逝った人たちがそこに居るかのように話しかけ、 思いつく全てのことを かんにがい(神願い)する。他にも、台所の神様、家の神様にもお供えをして神願いをする。よーく聞いてみると、毎日、毎回、神願いのセリフは同じだった!これを聞いた私と姉は「母ちゃんがいなくなっても困らないように今のうちに録音しておこうか?!」と覚える気など毛頭なく、内緒話しながら笑いこける。(バチはあたりませんように!トートーイ!)
宮古民謡
マツカニ(上野・高田出身)
宮古島で好きなものといえば、やまかさ(数多く)ありますが、その中でも僕の思い入れが強いのは、やはり民謡といえます。
琉球民謡、八重山民謡、宮古民謡とある中で、とりわけ宮古民謡が好きだったわけではなかったのですが、三線を始めてから多くの民謡を知りたいと思い、いろいろ聴いた中で、宮古民謡を見直すキッカケになるほど好きになったのが「宮國の姉小(みやぐにのあねがま)」という唄です。
リズミカルなテンポとメロディライン、それに「ウヤケンナウレ」と唄われるハヤシが絶妙にマッチして三線弾きにも人気の一曲です。
うぷす(海水)を汲むのにこんなにオシャレをするの?と思うくらいオシャレな姉小(あねがま)が歌われています。女性が美しくありたいのは、んなままい んきゃーんまい(今も昔も)変わりはないようです。僕の出身地の上野の唄というのも思い入れの強さの一端かもしれません。
もう一曲好きな唄に、あまり知られていないと思いますが、「池の大氏(いきぬうぷうず)」という唄があります。何人かの池間のおばあ達がアカペラの掛け合いで唄っているのを初めて聴いた時は、鳥肌が立つほどの感動を覚えました。宮古島でおばあが唄っている民謡なのに、なぜかアメリカンカントリーソングのようにも聴こえ、ぴるます(不思議な)感じがしました。民謡本に載っている「池の大氏」とは違うメロディで唄われています。(歌詞は同じ)。なかなか聴く機会のない歌ですが、多くの方に一度は聞いてもらいたい一曲です。
宮古島にはまだ多くの名曲がひっそりと眠っているかも知れません。
宮古の好きなところ
セツボー(下地・上地出身)
あば、みゃーく かーぎ さいが(あれ、宮古の顔だね)。名前を言うと まーんてぃ みゃーく(本当に宮古だ)と言われる。
いつか投稿してみたい。と、ず〜っと思っていた。今回、400号を記念した特集「宮古の好きなところ」ん・・・のうすぅーでぃがらやー(どうしようか)。よし、思い切って投稿することで、定年まであと数年を残すこの機会に、改めて自分にとってのミャークを考えてみたい。その思いのままにつづったら やらびぱだ(幼少期)の拙い長い文章になってしまった。
春の盛り、暑さを感じるころ、キビの株出しは小学生の背丈ほどになり、葉っぱのザワザワと擦れ合う音は心地よかった。風に揺られ、擦れ合う葉っぱには小指大のツマグロゼミが群がりジーージーーと泣いていた。
休み時間には近くの畑に駆け込み、小さな手でそっとセミを捕り、授業のベルが鳴るとセミをポケットに入れ教室に駆け込んだ。しばらくおとなしくしていたセミもポケットの中は息苦しいのか、授業がつまらないのか途中で泣き出し、先生に睨まれたりもしたが、とがめられることはなかった。のどかな授業風景が懐かしい。
夏休みには畑に連れられ、キビ畑の ふさぴき(草引き)を手伝わされた。畑に行くのが嫌で朝早くラジオ体操に行った後は家に戻らず、しばらくパジャマを着て遊び、両親が ぱり(畑)に行った頃を見計らって帰った。しかし、12時にはご飯を食べなければならず、すさーんふぃがま(知らんふりした顔)をして帰ると、おとうから ぴんぎんなよー(逃げるなよ)と、くぎを刺されたが両親が昼寝をしている間にこっそり ぴんぎ出し一日中遊んだ。
あっぴーちゃーか(遊んでばかり)の夏休みでも、お盆前はスイカの収穫で ぱんたーぱんた(忙しく)して、さすがに ぴんぎまーる(逃げ回る)ことはできなかった。
この時期、おとうは連日スイカを見守り、畑の中に建てた ばんやー(掘っ建て小屋)で寝泊まりしていた。母ちゃんは毎日、あさむぬ(朝食)ぴすまむぬ(昼食)、ゆぃぬむぬ(夕食)を届けていた。そんな母ちゃんの後ろ姿を見ていると、さすがに あっぴぶり(遊び放題)ばかりしていてはならないことが、子どもながらに少しは分かるようになっていた。
とは言え、やらび(子ども)にできる事は、おとうが剪定ばさみで切り取ったスイカを一個一個抱きかかえ、火傷しそうな熱い んた(土)の上を うとぅしゃならん(落としてはいけない)と緊張し、んにゃがま(やっとの思い)しながら運んだ。
しかし、宮古の夏は突然、非情なものになる。台風が接近する夕方には、母ちゃんが必ず家で待っていて、帰るとそのまま畑に連れ、収穫前のスイカを台風の雨と強風から守るためのネット張りを手伝わされた。子どもながらに、これから起こるであろう事の大さは五感を通して実感できた。風雨で辺りが真っ暗になるまで台風対策をしても、情け容赦のない自然の猛威は一晩にしてスイカ畑をグチャグチャにした。あと一週間もすれば高値で売れたはずの あたらか(大切)なスイカもすべて全滅。台風一過の中、夏の日差しの下で黙々とネットを片付ける両親の姿が、んなままい(今も)ばっしらいん(忘れられない)。
寒露の時期になるとタカ(サシバ)が渦を巻きながらやってきた。やらびぱだ(幼少期)の私はそんな光景をニイニイ(兄さん)たちに囲まれ、その肩越から眺めていた。当時、タカは国際保護鳥に指定されていなかったため、タカの舞う時期になると店先には、3メートル程の竹竿がタカ捕り用の道具として売られていた。
屋根に上って見ていたニイニイが、タカが降り立ったミャッフ山の方向を見ながら、何やら相談をしたりしていた。タカが空を覆った翌日に友達の家に行くと、アカミーダカとンタミーダカが紐に繋がれていたりしていた。
また、この時期オバーたちはタカが風邪を運んでくるので、あらーぬかじぅ ふぅふぁがまぬきゃーん ぬますな(外の風を赤ちゃんや幼い子どもに飲ますな・吸わすな)と言っていたのを思い出す。季節の変わり目には体調を崩しやすくなる。それをオバーたちは渡り鳥のタカが風邪を運んでくるとして注意していた。生きる知恵だ。
にぃすかじ(北風)が吹き、天気の安定しない製糖期は なんぎ(大変)だった。特に雨の日の合羽を着ての作業は大変だったに違いない。私は10時、12時、3時のお茶を準備するのが仕事で、刈り取ったキビを積み上げて風よけを作り、ぱーがら(刈り取った葉っぱ)を集めてお湯を沸かしたりした。
ぴしさ(寒さ)の中で ぱなだる(鼻水)を流し手伝ったことや、そのぱなだるを母ちゃんが鼻に直接口を当て吸い取ってくれた。んきゃーん(昔)の母ちゃんの強さと子を思う愛情を今も感じる。
復帰の翌年に那覇に引っ越して40年余。今でも目をつぶるとあの頃のが蘇る。だから、今回のテーマ「宮古の好きなところ」を、記憶に残る場所や風景の一部として捉えられなかった。
もちろん私にも好きな場所や風景がある。前浜ビーチの白い砂浜はその一つだ。遠足の時、波打ち際でしたドッチボールやバレーボールで遊んだ時間や周りの風景も色あせることなく記憶に残る。
だからこそ「好きなところ」に縛られず、宮古での原体験はいつも力を与え、行動の糧となるアララガマ精神に気づかせてくれた。そんな「ところ」としての みゃーくずまのすべてが、私は好きだ。
与那覇湾の美しさ
松谷初美(下地・高千穂出身)
高千穂のカザンミというところに住んでいる。カザンミは川満集落の北側にあり、ンミ(嶺)と地名についているように高台になっている。
うちから南の川満方面に下って行くと目の前に広がるのが、与那覇湾。湾に沿う緑の入り江。赤い屋根の下地庁舎。その向こうには来間島。またその先には、群青色の地平線が来間島より上に見える。
勤務先が与那覇湾のすぐそばにあり、毎日この光景を見ながら、出勤するのだが、いつー みー りゃーまい かまりん(いつ見ても飽きない)海の青のグラデーション。濃淡のある緑の植物。入り江の形の美しさよー。
与那覇湾は、青い海に白い砂浜・・・とCMなどに出てきそうな海とは少し違う。泥の部分が多く、崎田川(咲田川とも書く)からの水や湧き水が流れ、海水と淡水が混ざった海であり、宮古で一番大きな干潟が広がるところでもある。
与那覇湾には、あずっう(アイゴ)や、アオサ、んきゃふ(海ぶどう)、ワタリガニ、ノコギリガザミなどが豊富に採れていたが、30数年前、干ばつに苦しむ農家のために与那覇湾を埋め立て水を溜める、淡水湖化計画が持ち上がった。しかし久松の漁師などによる反対運動があり、阻止された。今の与那覇湾を見ながら、淡水湖にならなくて良かったとしみじみ思う。
んきゃふ(海ぶどう)、カニなどはめっきり見られなくなったが、トントンミー(ハゼの仲間)やコメツキガニ、シオマネキなどが見られ、また、ワタリドリの休息所にもなっている。シギ科、カモ科、カモメ科、サギ科、チドリ科などたくさんの野鳥が飛来する。
与那覇湾は平成23年に総面積1366ヘクタールが国の鳥獣保護区に指定された。この区域内の水面域699ヘクタールと林野1ヘクタール、その他4ヘクタールの計704ヘクタールが特別保護地区に指定、この特別保護地区がラムサール条約に登録された。
与那覇湾のすぐそばにある職場は3階にあり、西の窓から与那覇湾が一望できる。カザンミの方角からとは違い、こちらは あがず(東)から いず(西)を眺めることになる。遠くは伊良部大橋と伊良部島が見える。
天気の良い日の青いあおい海。夕方、海に映る夕日の見事なオレンジ。波の荒い日は土色の波が立ち、おだやかな日には、なぎの海面に木々が映り、夜には遠くの家々の灯りが映る。日によってその表情は違い、自然の豊かさを見せてくれる、与那覇湾の美しさが好きである。
願わくば、以前のように、んきゃふ(海ぶどう)やカニなどが豊富になり周辺の緑ももっと増えますように。そして、百年後も千年後も美しい与那覇湾でありますようにと願っている。
宮古、それは言葉の宝庫
時原千恵子(茨城県稲敷郡出身)
それまでも幾度か宮古島を訪れたことはありましたが、私が宮古と本当に出会ったのは2008年9月18日(島くとぅばの日)、沖縄県立博物館だったと思っています。不覚にも、それまでは宮古言葉(ミャークフツ)と沖縄言葉(ウチナーグチ)がそれほどまでに違っていることを認識していませんでした。
さらに不覚にも、それまでそのお二人をあまり存じ上げていなかったのです。その日、島くとぅばのイベントで下地イサムさんと新良幸人さんがトーク&ライブを繰り広げていらっしゃいました。
その時聴いた「ジャズィーミャーク」から受けた衝撃は何度語っても語り尽くせません。ミャークフツの響きに私の心と頭は大混乱の極みとなりました。そして、そこからミャークフツへの道が始まったのでした。琉球大学では「琉球語入門―下地勇で学ぶミャークフツ」の授業を聴講し、「くまから・かまから」を拝読するようになり、それが縁となり関東に戻ってからは新里教室(宮古方言研究会)に通うようになりました。
イサムさんのライブの後、サブボーカルの方が「勇さんと自分の家は数100mしか離れてないけど、言葉がちょっと違うんだよね〜」というのを聞いて、「そうなんですか」と相槌をうちながらも心の中では少し大げさなのでは?と思っていました。でも、新里教室で勉強していくうちに、まさしくそれが事実であることがわかってきました。
新里教室に通うのは、関東圏内に住みながらも宮古にルーツを持つ方々が大半です。故郷から遠く離れていても心の中にはいつでも宮古が生きている、皆さんのそんな島への熱いにも心打たれます。ご自分を構成する大切な要素がミャークフツなのだろうと想像します。そのような方々の象徴としてイサムさんが存在し、自分を表現する手段としてミャークフツを楽しげに駆使している姿はなんと頼もしいことでしょう。
言葉の宝庫よ、永遠なれ!と願っています。
みゃーくぴとぅ(宮古人)の魅力
あば本舗(下地・上地出身)
宮古と言えば、透明度が高い海や白い砂浜。マンゴーなど南国果実の産地。魅力は色々あると思うが、何と言っても ぴとぅや あらんびゃーてぃどぅ ばやー うむう(人ではないだろうかと私は思う)
かれこれ40年以上も前、私は宮古の高校を卒業し本島に移り住んだ。島で過ごした1955年〜1973年の間、毎年50メートルから80メートル級の台風が襲来し、自然条件は今よりも一層厳しかった。
毎年襲来する台風の前にはなす術がない。のーばしい わいてぃ ぱたらきゃーまい(いくら頑張って働いても)汗水流して育てたサトウキビや野菜は全滅、何もかも破壊され生活を立て直すのも並大抵では無かったに違いない。
それでも、私の記憶にある周囲の大人たちは、誰も下を向くことなく後片付けに精を出していた。母子家庭の我が家の心配も随分してくれたし、貧しい我が家には時々野菜がこっそり届いたものだ。今頃になって、何と恵まれた所で育ったのだろうーと故郷への感謝で胸が一杯である。
また、宮古には強風を遮る山々はなく川もない。雨が降らない日が続けば干ばつと飲み水の心配をしなくてはならなかった。あれは私が4〜5歳の時だっただろうか。雨が降らず見渡す限りのサトウキビの葉が茶色になった頃、大人達がつのじ御嶽で二重三重に輪になりクイチャーを踊っていた事を覚えている。あれはきっと雨乞いのクイチャーだったはずだ。地下ダムが整備された今では想像もつかないが、神頼みしか手段が無かったのだろうと当時の苦労に思いを馳せる。
そういう過酷な自然環境のなかにあっても、みゃーくぴとぅ(宮古人)は荒波に立ち向かう逞しさで困難を乗り越えてきた。そんな持ち前の強さは、社会の様々な方面で発揮されているように感じる。
島でのイベントで言うと、全日本トライアスロン世界大会の成功は目覚ましい。今や宮古は、トライアスロンの聖地と呼ばれアスリート達の憧れの島だという。私が過ごした頃から、大きく様変わりして華やかに輝いている。島の為に何かをしなくては・・・と取り組んでこられた先人達の努力と工夫が今花開いている気がする。
みゃーくぴとぅ(宮古人)は、どんな困難にも一致団結して結果を出そうとする。困っている人を放っておけない情の厚さと負けず嫌いの「あららがま精神」を秘めている。そういう みゃーくぴとぅ(宮古人)の温かさと強さが私は好きである。
『ん』が好き
ワタリマリ(上野・宮国出身)
ん から始まることば
ん | いいよ |
んば | いや |
んーんな | みーんな |
んざんかい | どこへ? |
んざから | どこから? |
んなま | 今 |
んずぎ | ぶす |
んなし | どいて |
んぬつ | いのち |
んなぴーっちゃ | もう少し |
んなだ | まだ |
んぎゃます | うるさい |
とこんな感じの「ん」だが、使っているその人を思い浮かべては 笑ったり温かくなったり
脳性まひの兄が使っていたのことば
「ん」と「んば」
ん→肯定
んば→否定
もひとつあるとすれば
「あー」→食べたい
たったこれだけの言葉でも私は兄とずーっとおしゃべりをしていた
ん+兄とのアイコンタクト、表情、寄声
家に客が来て父親が 「んなし=どいときなさい」といえば、 兄は「んば=いやだし」と言っては父に怒らていた。 なんで「んば=いや」かあ?
「うまんな うーたーぬ=ここにいたーいわけ?」ときく私に 「ん=きまってるじゃん」とこたえる。来客に興味津々なのだ
あるいは元気がない時に
「こおこおなう?=しんどいん」と母が訊くと
「ん=ちょっとね」という
「病院かい いかじ?=病院いこうか?」と訊けば
「んば=いかない」とこたえる
病院大きっらいなのとみんなに心配かけまいとの優しさなのだ
祝い事の後、酔っ払いが兄の横に枕を置き
「うわとぅ にゅうわっちやー=ここでねちゃおっと」と枕を置けば
寄声を発しながら
「んば!=あっちいってー」と言うと
「んばなー=だめなの?」という酔っ払いに「ん=あほか」と返事する
酔っ払いはしぶしぶ退散し 兄はやんなっちゃうのあきれ顔
好物の天ぷらがあると
「あー=ちょうだい」と手を伸ばす
食いしん坊の兄はそれが口に入るまで「あー」を連発する
「んぎゃます=しつこい!」と私は兄を叱っていた
私はいつも兄に聞いていた
「ん」か「んば」か「あー」か
余計な説明はいらない
シンプルに好きか嫌いか 食べるから食べないか
似合うか似合わないか など
だから思う
方言に「ん」から始まることばがあってよかった
だから好き
たとえここでしか通じない言葉でっても
たった一人の人間がたったこれだけの言語の発声で人として
精一杯いきていたのだから
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
くま・かまを創刊したのは2001年4月5日でした。それから16年と7ヶ月。400号を迎えらえたことを、まーんてぃ ぷからすーてぃうむい うず(本当にうれしく思います)。その間、たくさんの方に読んでいただき、また感想や応援の言葉をいただいてきました。ライター一同心より感謝いたしております。すでぃがふー(ありがとうございます)!
節目の号では、これまでも特集を組んできました。
100号は2005年5月19日に「繋がり」をテーマに200号は2009年7月16日に「みやこふつ しりとり」と題して300号は2013年9月19日「うまかまの みゃーこふつ(あちこちの宮古方言)」と題してそれぞれ特集を組みました。400号の今回は、改めて宮古について考えたいと思い「宮古の好きなところ」と題してお送りしました。ライターだけでなく、読者の皆さんからの投稿もあり、だいず(大変)うれしく思いました。たんでぃがーたんでぃ〜〜。
いろいろな内容が寄せられました。読み応えがあったかと思います。初めて知ることや、そうだーと共感すること、なるほどと思うことなど、宮古の良さを再認識するのと同時に、それぞれの宮古への想いを感じました。そして、そのことが支えになったり、励みになっているということも。とうまい ゆぬぐーやー(誰も同じですね)。
宮古。この不思議な宇宙。この小さな島の魅力たるや。と、くま・かまを続けてきて思います。知っているようでまだまだ知らない宮古。これからも、くまからまい、かまからまい(こちらからも、あちらからも)、いろいろな角度から掘り下げていけたらと考えています。どうぞ、今後ともよろしくお願いします。
貴方の感想もぜひ、お聞かせくださいね。メールでも、掲示板への書き込みもお待ちしてます!
投稿もぜひ願いしますね
きゅうまい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(きょうも 最後まで 読んでくださり ありがとうございました!)
次号は、3週間後の12月7日(木)発行予定です。
きゅうまい ぞう(今日も佳い)1日でありますように! あつかー、またいら!