くまから・かまから vol. 414

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 こんにちは〜。8月になりましたね。
 ぴんなぎ(不思議な)気象が続いていますががんづぅかり うらまずなー(お元気ですかー)?
 vol.414お届けです。ぬかーぬか(ゆっくり)ゆみふぃーさまち〜(お読みください)

あとだまど うぷだま

菜の花(伊良部町仲地出身)

 宮古には、何かを分け合ったりする時、最後に貰う人に向かって「あとだま あ うぷだま」と大体の人が必ず添える。

 「残りものに福」との意には違いないが、その言葉で貰う人も笑顔になる。しかも子どもから大人まで世代を超えた効き目(?)がある。内地で「残りものには福」と言われて分配されても、「あ、そうね」くらいにしか思えないのに、みゃーこふつで「ハイ!あとだま あ うぷだま どお!(はい!最後に貰う人には福があるよ!)」と言われると、何か得をしたようで、まるで魔法の言葉のように思えるのは何故だろう?!普段あまりにも当たり前に使っているので、その古諺がどんな意味なのかと問われたら、私の理解の程は怪しい。

 今回はこの古い諺を新里博先生著の『宮古古諺音義』の中から詳しく紹介してみよう。長い文章になるけど、読み終わった時には、きっと目からウロコが何枚かは落ちているはず!

『宮古古諺音義』新里博著(伊良部・長浜出身)(P.31〜34)より抜粋

 後だまど 大だま
 アトダマド オコダマ
 atodamado  okodama

【通釈】 
 (物を配分する場合の分け前は、他の者がそれぞれ取り分を取った)
 後に残った配当分こそが、(最も)得する配当分(である)。

【評釈】
 上・古代、人びとが狩猟・魚労・農作業その他、万事共同作業に頼って生活していた社会では、その獲物・魚獲物・収穫物などを公平に配分することは最大の関心事だったようである。「配分を裁量する者」を“たま打ちぁ/タマウ”チャ”といい、その配分を
  親疎なく裁量するものは人々の上に立てる人格者として尊敬されていたようである。しかし、いかに有能な「たま打ちぁ」が分配した「たま」であっても多少の差が生じるのは仕方のないことであろうし、また、少しでも大きな「たま」を取ろうとする“たま取りぁ/タマトリャ/[tamatorja]”(配分を受け取る者)のいることも自然であろう。このような事態に備えて、古来、「たまを打つ」には、配分物を幾らか残しておいてその差を補う習俗があり、後から取った「割り前」の方がかえって大きめ(多め)になる場合が多かったという。この古諺は、このような上・古代社会の生活習慣が投影されたことわざだったようである。

【参考】
 その他
(1)「いをだま(魚だま)」・「たまうち(たま打ち)」などにかかわる故事が『宮古島旧記』(忠導氏おやけ屋の大主著.明友 文長良選編1748ー『宮古島旧記 並 史歌集解』<稲村賢敷著 1962刊>所収)に見られる。

 ◎根間大親の猶子、空広(※後の仲宗根豊見親)が七歳の時、当時、宮古の頭主だった大里大殿(※白川氏の始祖与那覇勢頭豊見親の孫)が赤牛に跨り、大勢の従者を従えて通尻という磯辺へ(しらなは(白縄)/スサナー(地引網漁)の遊びに行く行列を見て、自分の庄園に栽培していた“ひる(蒜)/”ピス゜〜ピル](にんにく)の初物を献上した。大殿は、空広が年齢に似合わず自発的に蒜の初物を献上した行為に驚きながらも大層よろこび空広をも伴に加えて「白縄の漁遊び」に連れて行った。その日は稀有な大漁であった。大殿は、空広の才知を試そうと考え、その漁獲した魚の「たま打ち」をさせたところ、空広はたちまち手際よく、しかも全員に親疎(しんそ)なく配分し終えたという。大殿は感心して空広を寵愛し、自分の許に引き取って養育し、大成させたのであった。

(2)旧ソ連の学者ニコライ・A・ニフスキー著『宮古の民謡集』(モスコワ1978年刊)に、「佐和田長道」という民謡が収録され、次のような歌詞が見られる。

 ◎(私が)佐和田の長道から(下地島の)長干潟(ながひだ)の海に降りて漁りをしていると、佐和田集落のおやじたちがイラウツ魚(ブダイ)やいろいろの魚を捕ってきて、(私にまで魚労仲間の皆さんと)同じように「魚だまを打ち」なさったうえに、(私の割り前の魚が)少し小さいから(といって)ユリャ魚(ニザ鯛科の魚)をまで添えて下さったので、とてもうれしかったよ・・・。

(3)昭和初期(第二次世界大戦前)ころまで、伊良部島の佐和田の浜で、“さでびき(小網引き)/サディピツ”と称する「地引網漁」が盛んに行われていたという。当時も、その漁に参加した者全員に、大人・子供の区別なく漁獲物を平等に分配していたとのことである。そのころまで、配分する漁獲物の幾らかを配分し残しておいて、大方の「たま取りぁ」が当たり分を取った後の少なめになった割り前に補う習俗は残存していたとのことである。
  以上、『宮古古諺音義』新里博著より

 早速、「佐和田長道」の古謡を探したが、手持ちの本には載ってなかった。しかし、「伊良部村史(旧伊良部村役場発行1978年)」と「五線譜 宮古のあやぐ(富浜定吉著1990発行)」から「長ピダアーゴ」というものを見つけた。この歌の由来は、昔、厳しい姑に仕えていた嫁(「イチュリャユナウリャ」という名)が創作したと言い伝えられている。

 ある日、長ピダの干瀬に潮干狩に出かけたが獲物が何一つ捕れなかった。手ぶらで帰ると姑に怒られるので心配していると近くの海で漁をしていたサーダヤーの漁夫たちが、ユナウリャに深く同情してイラブチャをタマウツをして与えた。感謝感激したユナウリャが即興で歌を作って感謝の意を表したという。

「伊良部村史」「長ピダアーゴ」4番の歌詞

♪ヨノタマド ウチュウカマイバ アティプカラサ ドツイサオサンナ
(平等に(魚を)分配しておかれるので 余りの嬉しさに感激して)

「五線譜 宮古のあやぐ」掲載「長ピだあーぐ」の4番の歌詞も同じものと
思われる。

♪ユヌタマドゥ ウチウカマイバヨー アティプカラサ ドゥツ イサ
 ウサンナヨー」(分け前を平等に 配分して下さるので あまりの嬉しさに 感激して)

 この「たま打ちぁ(分配をする者)」と言うみゃーこふつを初めて知った時、子どもの頃の記憶が映画のワンシーンの様に思い出された。お父は釣りが好きで、仕事仲間を誘って夜釣りに行くことがあった。深夜にガヤガヤと賑わう声で目が覚め、ミナハ(庭)に出てみると、お父たちが捕ってきた魚やクバスミャ(甲イカ)、タコなどが一か所に集められていた。

 お父は手早く、大きい魚、中くらいの魚、小さい魚、もっと小さい魚と分けていく。あんなに大声で騒いでいたオジサンたちがシーンと見守る中、お父は大きい魚を一匹ずつオジサンたちの足元に放っていく。全員に大きい魚を配ったら、今度は中くらいの魚、次は小さい魚と一巡するように魚を配っていった。最後に残った小さい魚や貝は、年取ったオジサンや見た目が少ないと言うオジサンに配っていた。魚を網駕篭にしまいながら、今日の釣りの大漁自慢もイソパギ(不漁)も、面白可笑しく話すオジサンたちの声はまるで少年のように弾んでいた。誰もが平等に分け合う公平性、助け合いの気持ちがそうさせていたのかも知れない。

 「あは〜!(なるほど!)インシーヌバア!(そういうこと!)」と、ものすごく納得しながら、今頃?!遅いっちゅうの!(書きながら一人突っ込みとボケをする私)

 東京のど真ん中の渋谷で、伊良部出身の新里博先生を講師に迎え、宮古方言について学習を始めたのは2006年12月。その後は毎月第三日曜日に「宮古方言研究会」を開催し、受講生の延べ人数は数えきれないほどである。あれから13年が経ち、講義をして下さる新里先生は御年95歳になられた。故郷宮古方言について細かく教えていただき、その貴重さに私の目からはどれくらいウロコが落ちたかわからない!習う度に アタラスー(大切なもの)との思いが年々増していく。新里先生には心から感謝するばかりである。

◇あの話をもう一度

ひさぼう(平良・西仲出身)

「ミャークフツ講座 路上の会話編」  vol.81 2004.8.5

モーシィ:あば、 みーだつやーぬ おばあーや あらんな。 おばあ 〜
おばぁ :うばい、うう”ぁ とーがらやー てぃ うむーつかー・・・ とーりゃー うう”ぁー
モーシィ:ばんどーや。 あんぷてぃやーぬ ちょーなん
おばぁ :いー モーシイ なー
モーシィ:おー
おばぁ :あがいー んにゃ、とうっさ とういど のーまい っさいん どーや
モーシィ:あらん しゃんーてぃ うぬすく ぞーかり うらあずさ
おばぁ :あってぃ、うう”ぁ んざぬ っふぉ が さーり まーりゅう りゃあ
モーシィ:だいず おばあ。 ばが っふぁ。 げんぼー どーや
おばぁ :あがんにゃ げんぼー なー のーてぃが あんちいー うぷぎなーん なりゅう りゃあ
モーシィ:やらびゃあ うぷふ ど なずだら おばあ。いみふ なりみーる あとー みーんふど なずすが
おばぁ :ぷりむぬ ゆんましー うう”ぁあ
モーシィ:あってぃ おばあ や んざんかい が
おばぁ :ひこうじょう ん かい。とうきょう んき あっぷが
モーシィ:おごじゃ。

< 平良なまり普通語による翻訳 >

モーシィ:あば、ミーダツヤー(屋号)のおばあ じゃないか おばあ〜 
おばぁ :うばい、あんたは 誰かと 思ったら ・・・誰か あんたは
モーシィ:オイラだよ。 アンプテイヤー(屋号)の 長男
おばぁ :いー モーシイか 
モーシィ:そうよう 
おばぁ :あがいー もう 年とってからに 何にも わからんさ 
モーシィ:そんなことないさ シャンーとがまーして こんなに元気だのに 
おばぁ :して あんたは どこの子供を 連れてまわっているか 
モーシィ:もう おばあは。オイラの子供だよ 玄坊だよ
おばぁ :あがんにゃ 玄坊か なんで こんなに大きくなっているか
モーシィ:子供は大きくなるさ おばあ。小さくなってみい あと見えなくなるから
おばぁ :ばかなことを言って あんたは
モーシィ:して おばあは どこにか
おばか :飛行場まで。東京行って 遊びに
モーシィ:おごじゃ(びっくり)

アメリカに行った母

與那覇 淳(平良・鏡原出身)

 母が他界して四十九日の法要を無事に済ますことができました。

 正直言って、うむやす(安心)しています。1年間は喪に服すべきか悩むところですが、四十九日の忌明けで喪中を解くという意見も多いようですので、いつがみまい やーんちゃーか くまりまい うらいんやーば(いつまでも家にこもってばかりいるわけにもいかないので)あまり、こだわらないようにしたいと思います。

 母の一生を一言で言い表すと「苦労の連続」、そんな一生でした。割と裕福な家庭に育った母は結婚で一転して貧乏暮らしに。嫁入り道具として持参した茶箱いっぱいの着物に袖を通すこともなく、ほどいて嫁ぎ先の家族用にリメイクしたり生まれた子のおむつにした話を、私は幼いころよく聞かされたものです。

 寡黙で働き者の母は私を含めて三男一女を育て上げましたが、晩年は引きこもりの夫(私の父)の世話に明け暮れる日々でした。父が6年前に他界したあとは日一日と認知症が進み、三年半の間、施設にお世話になりました。

 母が入所した当初、面会に行くと、「ちーちー やーんかい(さあ、一緒に家に帰ろう)」と言う母に「トイレに行ってくるから」と言い残して帰るときは何とももどかしい思いをしたものです。

 時が経つにつれて私の顔も覚えているのだろうかと思うほど、認知が進み死期がもうそう遠くないと感じられるようになった頃、私たち4人の兄弟は「延命治療をしないこと」を申し合わせました。

 食事が呑み込めない、水分を自力で呑み込めず危篤状態となっても、最低限度の栄養と水分は必要であろうと思い、点滴は続けていました。身体は点滴の針を刺すところが見つからないほど傷だらけになり、足はむくみ、覚悟を迫られる状態に。いろいろ調べると老衰で栄養分や水分を処理できない身体になっていて、点滴をむりやり入れない方が本人は楽である、など終末期に点滴を施すことの弊害を知ることになりました。

 そこでほかの3人の兄弟を説得して点滴を外した日の翌日、母は私と妹に見守られながら穏やかな表情で息を引き取りました。

 「うわが あんなー 元気な―(あなたのお母さんは元気ですか)」
 「アメリカん かいどぅ ぴりにゃーん(アメリカに行ってしまったよ)」
 昔、アメリカといえば冥界に例えるほどとてつもない遠い国と捉えられていたのでしょう。

 私がまだ幼い頃、鏡原から母の実家のある「かざんみ(下地字川満の集落・高千穂」まで3キロほどの道のりをよく歩いて通ったものです。母は弟を背中におんぶして、私と妹は歩いて母の実家をめざします。そのうち妹は歩くのがつらくなったのか、ぐずって道端に座り込んでしまいます。母は私と妹を脇に抱えて歩を進めます。母のたくましさと脇に抱えられたときの、あの温もりが今もよみがえります。

 母の四十九日と父の七回忌の法要を合斎して行ないました。生前は喧嘩の絶えない二人でしたが、今ごろ、天の上で二人仲良くグラウンドゴルフに興じているのかもしれません。

編集後記

松谷初美(下地・高千穂出身)

 この夏も 威勢よく鳴いていたナビガース(クマゼミ)でしたが、最近鳴き声があまり聞こえなくなってきました。そろそろ終わりでしょうか。宮古の中では一部でしか生息しないというツマグロゼミをも今年こそは見に行こうと思っていたのですが、もう終わりのようです。残念。

 塀に沿うように植えてあるタマスダレの花が咲きだしました。この花は、台風の後に一斉に咲くことがあり、台風花とも呼ばれるらしいです。確かに昨年の台風の後、一斉に花開いたことがあり驚いたことがあったっけ。まだ、ポツポツと咲く程度ですが、季節がゆるやかに進んでいることを感じます。

 さて、今回のくま・かまぁ のーしがやたーがらやー?

 「あとだまど うぷだま」のことわざから「たまうつ」のことに話は及び方言の奥深さを感じます。そして、昔の人たちの暮らしや精神性まで見えてきますね。菜の花は、新里先生から習ってきたことを少しずつでも紹介していきたいと話していました。今後もお楽しみに〜。

 あの話をもう一度は、久しぶりにひさぼうさんの方言講座でした。もう14年も前になるんですね。でも少しも古びないですね。落語が大好きなひさぼうさんらしいオチのある話でした。「おごじゃ」が何とも味わい深く。

 淳さんのお母さんの話、涙があふれました。淡々と静かに語るような文章も何とも心に響きました。くま・かまは市井の人々の暮らし、個人の歴史も大切にしたいと思いながらやっています。今回、まさにそのようなお話でした。心よりご冥福をお祈りいたします。

 今回まい しまいがみ ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃ〜〜。
 
 次号は、8月16日(木)発行予定です。
 きょう1日も皆さんにとって良い日でありますように!
 あつかー、またいら〜。