こんにちは〜。3週間ぶりのくま・かまです。 がんづぅかり うらまずたーなー(お元気でしたかー)?
宮古島パーントゥがユネスコの無形文化遺産に登録されることを記念して、14年前に神童が書いた、ぱーんとぅの話を急遽再掲載いたします。再掲載はカニさんの味わい深いお話も。
まずは、郁乃さんの図書館のお話からです。ぬか〜ぬか(ゆっくり)お楽しみください〜。
バイバイ、ばんたが北分館
根間(幸地)郁乃(平良・久貝出身)
くとぅす(今年)2018年の個人的十大ニュースの筆頭は、丸4年勤めた宮古島市立平良図書館北分館が閉館したことです。前身である沖縄県立図書館宮古分館時代を含め、長年地域に親しまれてきた施設でした。
2017年末に閉める直前、「バイバイ、ばんたが(我々の)北分館」と題して、ささやかな閉館イベントを行いました。宮古分館の元館長・砂川幸夫さんの解説を聞きながらの館内ツアー、館のお向かいに住むブラジル人みゃーくむく(宮古婿)ゴメスさんと妻・美智子さんによるパーカッション演奏など。壁面に設けた寄せ書きコーナーには、たくさんの利用者がメッセージを書いてくださいました。その後3月までの間は荷造りと引っ越し。県立図書館時代から引き継がれてきた分と平良図書館から移転した分を合わせ、約4万冊の郷土資料を蔵書点検し、箱詰めして搬出しました。
北分館はもともと、北学区の地主の方々のご厚意で1960年代の初めに敷地をご提供いただき沖縄県が建てた図書館です。1979年に建て替えられた後も、約40年間、無償で貸していただいていました。2018年秋の貸借契約完了に伴い更地にして返還する必要があるため、今年5月には閉館式を行い、再び県に管理をお任せしました。10月の下旬から解体工事が始まる前に、最後に一度入館して建物内の写真を撮りました。それからひと月後、外壁や塀なども全て解体されて更地になった跡を見ると ぴっちゃ(少し)寂しくなりました。
さて、北分館から搬出した郷土資料はというと、来年(2019年)7月にオープン予定の、図書館と中央公民館を併設した「未来創造センター」ができるまでの間、しっかりと保管されています。一部の宮古関連資料は現在、城辺図書館に移してあり、閲覧や貸出等が可能になっています。私も今年6月から城辺館に配置換えとなり管理をしています。古い資料の整理・補修だけでなく、新たな資料の登録や調べものの対応もしています。(北分館の資料は城辺館では2019年2月末まで利用可能で、3月以降、7月の未来創造センター開館までは引っ越し作業のため、一時期利用できなくなります)
そんな中、本土の大学の講師たちが宮古のあることをテーマに研究するため、来島前に必要な資料をリストアップしていらっしゃいました。宮古島市に合併する前の旧市町村の広報誌、公立学校の記念誌など、館に完全には揃っていないものもいくつか。それならと先日、城辺や伊良部などの支所を回り集めてきました。市町村合併後、さびれてきた各支所の倉庫の中には、見たことのない資料もありました。各支所ともに、これらの資料がもっと活用されるためにはどうしたらよいか課題のようです。
また先日は「ブックパーリーOKINAWA」というイベントの一環として沖縄本島各地の図書館や書店を巡るバスツアーに参加しましたが、そこで乗り合わせた方のご家族が宮古出身で本を書いているが書店などへまだ販売していないということなので、思わず名乗り出て、本を購入することになりました。宜野湾市に住む元教員で文化財ガイドの下地昭榮(あきよし)さんが5年前に発刊した『世界へはばたけ! ねたての黄金察度王』です。この本も現在、城辺図書館で貸出することができます。
郷土の本は、全国的に流通する本に比べ、部数も少なく簡単には入手できません。図書館に揃えていくには、人とのつながりが大切だということを、この仕事を始めて実感しています。また、自分史なども地域の貴重な財産です。
新しい図書館に向け、こうした郷土資料をもっと使いやすく整理してインターネット検索にも対応する登録情報を増やしていきたいです。先人から受け継いだものと新しいものを、たくさんの方に役立てていただけるよう、楽しかった北分館での日々を思い出しながら、がんばっているところです。
追伸:北分館では、ずっと清掃を担当してきた心優しい武富文子さんが、館の周りに花を絶やすことはありませんでした。いま、その花壇にあったミニバラなどが、城辺館の上司の手によって世話され、再び花を咲かせています。
◇あの話をもう一度
神童(平良・島尻出身)
「ぱーんとぅ・ぷなか」 vol.86 2004/10/21
酷暑の夏が終わりを告げ、風が北よりの季節風に変わり、タカーが渡りを始める頃に、「ぱーんとぅ」が行われる。平良市島尻の行事だ。日程は集落の長老達が決定する。宮古方言で「ぴかずをとる(お日柄を選ぶ)」ということだな。だから、来年はいつ頃にするんだよ!と言えないんだな。コンピュータの時代と思えないのどかさだ。
神童幼少の頃は、狩俣学区の運動会が終了したその日に、いきなり「ぱーんとぅ」が始まったりして、狩俣からの帰り道がわくわくどきどきしたのを憶えている。
「ぱーんとぅ」の起源は、砂浜に流れ着いた仮面にあると言われている。クバの葉につつまれた仮面が流れ着いた砂浜を「クバ浜」転じて「クバマ」と呼んでいる。島尻の原住民居住区は漁港近くの海岸ぺりの高台にある「むとぅずま」だ。むとぅずまは東側に城壁のような石垣がめぐらされ、弓矢を射るような穴が穿たれている。
「ぱーんとぅ」は全身に「きゃーん」という蔓草をまとい泥を塗りたくった妖怪だ。ぱーんとぅの泥は、神経痛、成人病、不惑の年代に羽目を外す不埒な大人等に対する薬効がほとんど期待できない。厄よけの意味があるのみだ。広い意味で驚くほどの効用だな。びっくりだ!ぱーんとぅは三体だ。正式には三匹だ。人間じゃないので数え方も動物扱いだ。それぞれ「うやぱーんとぅ、なかぱーんとぅ、っふぁぱーんとぅ」と呼ぶ。(親、中、子)だ。
仮面は祭り行事以外は、むとぅずま御獄に安置されている。安置されているのは うや(親)の面だけ。「なか(中)」と「っふぁ(子)」の面は古老の自宅にそれぞれ預けられている。
行事に先立って、「すまふさり」という儀式が行われる。粗めになった ばら綱に豚の骨を付けて集落の主要な道路に縄が張られる。結界だな。「ぱーんとぅ」は集落の厄災を結界のそとに追い払うということと、住民に泥を まみる(なすりつける)こと、新築や出産の家庭に出向いて泥をまみることが仕事だ。
「ぱーんとぅ」は傍若無人を信条としており、泥だらけの土足で住宅に侵入し老若男女の別なく泥をつける。「ぱーんとぅ」に扮しているのは青年会の韋駄天野郎だ。ま、年頃なので若い女性に泥を付けた場合、痕跡として胸部を中心に手形が付いていることがままある。違うな!若い女性の場合は手形の位置がほぼ胸部周辺だな。若いからしょうがないのだ。許してくれ。というか許す前に諦めてくれ!ぱーんとぅは神の化身なので腹を立てることは御法度なのだ。
さて、本題に入ろう。
「ぱーんとぅ」は青年が扮して行う。特に人選はない。先着順だったりする。二日間なので計6人のぱーんとぅ青年が誕生する。たいていは足の速い青年が名乗りをあげる。制作は当日の午後3時頃から始まる。集められた きゃーんを青年に巻き付け泥を塗っていく。泥は何でもよい訳ではなくて集落の北側にある んまりがー(生まれ井戸)で行う。少し離れて、もう一つ井戸がある。その井戸は死に水に使用する井戸だ。間違えると大変なことになる。集落から離れている井戸が んまりがーだ。25年前くらいまでは、きゃーんを集めるのは中学生以下の子供達だった。今は青年が行っている。
んまりがーは、沢の下にあり腐葉土が堆積し淀んだ井戸で熟成される。淀んでいるため独特の臭いを放ちながら。今年は んまりがーから大きなウナギが泥とともに引き上げられた。多分、打ち上げの蒲焼きになっているだろう。
「ぱーんとぅ」は青年達の手により、丹念に泥をコーティングされる。重量にすると25〜30kgある。夕方の登場の際は、泥が重くてまともに走れない。仕方なく杖で ボーチラヤラビ(腕白坊主)を すぅふぃたり(叩いたり)する。泥は、投げる。仕方ないんだ。重いから。
初日の「ぱーんとぅ」は、制作終了後、むとぅずまと遠見台のウタキを詣でて神への報告をしなけらばならない。報告終了後、集落内を きぎゃーりて(かき回して)まわる。今年、二日目の「ぱーんとぅ」は、体力のなさを露呈し、なんとママチャリで住民をおいまわしていた。うるぅらっ! 終了は午後9時頃。集落のスピーカからぱーんとぅに終了するようアナウンスされる。25年前までは、午前0時をまわることも珍しくなかった。その頃の「ぱーんとぅ」は、中の青年を3回くらい入れ替えて疲労することなく子供達を追い回していたのだった。
「ぱーんとぅ」は泥がなくなると、購買店裏にストックしている泥を付き人に補給してもらう。泥は一斗缶に2杯ほど、んまりがーから運んである。
「ぱーんとぅ」は、終了後、身にまとったきゃーんを海岸から海へ流し、海水で体を洗って終了する。臭いは一週間取れない。でも、深夜までしなくなって悲しい限りだ。事件があったんだ。顛末は書かない。
「なかやまぶなりゃー と しゃーがむ」 vol.281 2012/12/6
カニ(平良・西里出身)
はいよ〜 カニど〜
長年疑問に思っていたことが実は3年程前にほぼ解けたので皆さんにお伝えします。
「なかやまぶなりゃー」というア−グがあるのを皆さんはご存知ですか?もちろん宮古のアーグです。古謡に近いともいえます。また大衆的な歌ともいえます。その民謡の素晴らしさは歌えば自ずと解ってきます。心を打つほどの素晴らしい歌なのです。ちょっと紹介します。
1.なかや ま〜ぶ とぅゆむ しゅーが (仲屋のま〜ぶさんは 仲屋という有名な主の) まぶなりゃ〜 よ〜い しゃーがむなよ (かなす娘さんだよ) ふんにんさ〜や ふんにんさ〜や (囃子) 2.いつな〜しが む〜ゆなしが (5番目に生まれたのも女の子 そうして6番目もね女の子だったんだよ その6番目の女の子がね) まぶなりゃ よ〜い しゃーがむなよ (本当に気立てのよい かなす娘さんなんだよ) ふんにんさ〜や ふんにんさ〜や (囃子)
昔は旧暦5月のハーリーの際にも舟を漕ぐときの掛け声にも使っていたそうです。そうなんです・・・力が湧き出る歌なんです。
また城辺地方では、粟の収穫の際にもこの歌を歌い、粟の脱穀用の叩く板(2つに分かれている)を叩き降ろす時の掛け声にもこの歌を歌っていたようです。
何故知っているかというと、私がこの歌を知っていることに吃驚した90歳なる翁が、ある日私を訪ねてきて昔、粟の収穫の時に、この「なかやまぶなりゃー」を親父や近所のオジサンらが歌っていたのを思い出した。それでとても嬉しくなり、明治生まれの頃の人間らが歌っていた歌を、カニさんはよくも歌ってくれた・・・と感動し伝えてきたのです。
その時はカニも嬉しくなり、宮古の古謡などを調べていて本当に良かったと思ったものです。
前置きはそれぐらいにして、いよいよ本題に入ります。
この「なかやまぶなりゃー」の歌のかけ声に「しゃーがむや〜よ」という文句が出てきます。この「しゃーがむや〜よ」のなかの「しゃーがむ」が疑問の言葉なんです。
この「しゃーがむ」は実は宮古・平良の「いーざと」と呼ばれる街並みで隠語として使用されていたのです。このことは「西里(いーざと)の民族」(羽地栄氏著)という書物に出てきます。ただし、詳しい意味のことは伏せてあります。
カニはこの「しゃーがむ」と言葉の意味合いをずっと調べたり、考えたりしていたのです。ヒントは隠語でいーざとに存在していたとのことです。
昔、いーざとには男の遊ぶ場所がありました。「さかなやー」と呼ばれていました。「さかなやー」には「じゅり」と呼ばれる男を相手する女性(遊女)が働いていました。
男らは金を出し、この「じゅり」と一夜を楽しんでいました。多分そのころのお金持ちらでしょう。また那覇から出張で来られたお役人らが多かったことでしょう。その中から結構深い恋愛に陥ることもあったようです。
男と女の関係といえば、妊娠です。昔は避妊する知識など持ち合わせていません。間違って子供ができることもしばしばあったのです。そうして「じゅり」と呼ばれる女の人らの中に妊娠したのが出てきてもおかしくはありません。何故、妊娠したかがわかったかというと下腹部のふくらみです。妊娠初期の女性の下腹部はちょっと膨らむのです。いくら隠してもだんだんと隠すことができなくなります。下腹部の膨らんだ「じゅり」らが「いーざと」の街をあるくのです。
「はい、かぬじゅりゃぁ、しゃがむしーうずさいが、あがいたんでぃ」(はい、あの女性は妊娠しているさいが)
普通ならばこういうはずです。
「はい、かぬじゅりゃぁ ぱらみうずさいが」(はい、あの女性は妊娠しているさいが)
そうしてこんな言葉をでてきたのです。
「またど あかさっふぁぬど んまりきすぱず・・・」(また私生児が生まれてくるはずだよ)
「妊娠している」=「ぱらむ」=「しゃーがむ」なんです。
何故「しゃーがむ」が「妊娠」なのでしょうか?
そこには深い洞察と知識も必要でした。カニは知人の画家がなくなり、その方から、沖縄の芸術の歴史の書を頂きました。14世紀ごろの琉球王国の話なども出てきました。その中に「泡盛甕」の話もありました。
14世紀といえば琉球王国は航海術を持って南はインドシナ半島まで交易をしていました。沖縄県知事の応接室には琉球王朝時代に貿易によって栄えた内容の話が漢詩で掲げられています。歴代の県知事らは平和の象徴として勇敢に世界と交易して栄えていた琉球王国を誇りとして心の片隅に宝のようにしのばせているのです。それが県知事の応接室にある漢詩の意味なのだと考えます。
その琉球王国時代に琉球の国は当時「しゃむ」と呼ばれた現在の「タイ」との交易もふんだんにされていました。泡盛の作り方、泡盛の保存の仕方などもそのひとつです。
その泡盛の保存に用いられたのが「タイ酒甕」なのです。つまりタイの国から持ち込まれたこの当時の南蛮甕のことを「しゃむがむ」と呼んでいたことがわかります。
「しゃむがむ」を調べてみました。まさに妊娠初期の女性の下腹部にも見えてきます。南蛮甕にもいろいろな形がありますが、妊娠初期を形を思わせるやや長めのふくらみもほどほどのものもあることがわかります。
これこそ、「しゃむがむ」→「しゃーがむ」だったのです。
平成19年の頃にこのことを調べていました。柳田國男氏の書からもヒントを得たりして、タカラガイ(子安貝)のこと。お産の意として「しら」と呼ばれる言葉があること。小石を積んだのを「しゃーら」として神聖化していること。草刈した草を重ねていくと「ふさじら」になり土を盛り上げることを方言で「しゃーがる」というなど。色々と調べてきましたが、カニの頭の中ではどうやら決着がついたようです。
そんなこんなで疑問を持ち続けることは、色々なものに対して閾値が下がり、ふとしたことが気づきに繋がるんだなぁと人間の認識の在り方などにも興味をもっているところなんです。
今日は夜中に起きて久しぶりの星の観察をした後、そういえば「しゃーがむ」のこと皆さんにも伝えないとなぁと思いこうしてくまかまにうちこみましたよ〜。
夜中の長寿星は真南に煌々と輝いていました。冬の6角形もくっきりと出ていました。春の三角形も顔を見せ始めています。北斗七星は立っています。もう少ししてくると南の方に南十字星も出てきます。冬の星座は空気が澄んでいるせいか本当にきれいにみえますよ。
ちあきなおみの歌「冬隣」を歌いながら星座観察をしました・・・。
(11月21日記)
方言サミットと方言大会チャンピオン大会
松谷初美(下地・高千穂出身)
「平成30年度危機的な状況にある言語・方言サミット(宮古島大会)」(主催:文化庁、沖縄県、宮古島市、宮古島市教育委員会等)が先月24日、マティダ市民劇場(宮古島市文化ホール)で開催されました。サミット関係者他、島内外から約400名が参加し、危機的な状況にある言語・方言の現況報告や基調講演、継承のための事例報告、方言の聞き比べなどに熱心に耳を傾けました。
宮古の事例報告では、宮古地区中学校文化連盟の方言パフォーマンスの実演や方言大会の実演も行われました。また、今回はアイヌ語、ノルウェーの南サーミ語のそれぞれの話者や宮古からは宮古高校三年生の砂川姫奈多さんが参加し、10代による協議も行われました。
それから、開会宣言は久松中学校の狩俣良眞君が久松方言で。大会宣言は、西辺小学校の花城唯さんと唯さんのおじいちゃん仲間忠さんが方言で「すまぬ方言むにゃーんふならんようん ひぃーいかでぃ(地域の方言がなくならないようにしていきたい)」など西辺の方言で話しました。共通語訳の大会宣言は、砂川姫奈多さんが朗読。方言も共通語もとても良い宣言だったという声がたくさんありました。
また、大会終了後には、特別プログラムとして、宮古民謡や古謡、方言漫才、方言落語が披露され大好評でした。
翌25日は、方言サミット関連イベントとして「鳴りとぅゆんみゃ〜く方言大会歴代チャンピオン大会」(主催:(一社)宮古島市文化協会)を開催。これまでのチャンピオンの中から8名が あずーあず だすーだすの(味わい深い)方言でお話しをされました。今回は、ゲストスピーカーとしてアイヌ語の話者(関根摩耶)さん、南サーミ語の話者(トーベ・ブルスタット)さんもそれぞれの現状をお話しくださいました。宮古の人にとってこの機会でなければ聞くことができなかったと思いますので、お話ししてくださったお二人に感謝です。二部は、下地イサムさんのコンサート。イサムさんは、みゃーくふつのあーぐ(宮古方言の歌)8曲披露。みゃーくふつの表現の奥深さに改めて感動しました。
マティダの892席ある会場は満席で、取材をされていたあるテレビ局の方は、たくさんの来場者に「危機的な状況にあるとは思えない」というようなことを話されていたそうです。確かに。(笑)でも、方言が話せる人は、確実に いきゃらふなって(減少して)いるんですよね。方言大会を見に来る人は50代以上がほとんどです。若い人たちにもこの方言の良さを分かってもらいたいと節に思います。どうやって繋いでいくか大きな課題ですが、10年後も20年後も人気の大会であるように努力をしていかなくてはと今回、特に ちゅーく(強く)思いました。
サミットに参加された、危機的な状況にあるとされている8地域の皆さんから宮古の取り組みについて素晴らしいという声をたくさん頂きました。また、宮古から9地域の話者も聞き比べに参加しましたが、他の地域の皆さんから大いに刺激を受けたとのことで、参加して良かったと課題や展望などいろいろな話が出ていました。
来年度の方言サミットの開催地も決まりつつあるようです。興味のある方は、ぜひ、参加されてみてはいかがでしょうか。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
12月に入ったというのに、ぴしさー んざんかいが ぴずたーがら(寒さはどこに行ったのやら)。まーんてぃ ぴんなぎ わーつき゜やー(本当に変な気候ですね)。体調崩さないように気を付けましょう。
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
北分館には私も大変お世話になりました。郷土資料がとても充実していました。郁乃さんのような素晴らしい図書館員がいるからですね。郁乃さんの図書館への想いもいっぱい伝わってきました。城辺図書館にもぜひ行きたいと思います。
宮古島のパーントゥ(島尻のパーントゥと野原のサティパロウ)が男鹿のナマハゲ等とともに、ユネスコの無形文化遺産に登録!ぷらかすニュースでした。パーントゥをやる側からのお話はいかがでしたでしょうか。久しぶりの神童節もいいですね。
カニさんのお話も、この時季にぜひと思い、再掲載をいたしました。民謡の中のひとつの言葉を探求していくとまた、いろいろな背景が見えてきますね。文化は言葉から・・・まさにと思います。
方言サミットは、本当に有意義なものでした。8地域の皆さん、関係者の皆さんとの交流も楽しい時間でした。くまかまライターのクイチャーマンさん、菜の花も来ていましたよ〜。お疲れ様でした。
貴方の感想もぜひお寄せくださいね。投稿まい まち うんどー(待っていますよ〜)
きゅうまい、しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今日も、最後まで お読みくださり ありがとうございました!)
次号は、12月20日(木)発行予定です。
ぱだーぱだ うらあちよー(お元気でー)! あつかー、またいら〜。