こんにちは〜。
梅雨が明け、全国的に猛暑が続いていますががんづぅかりうらまずなー(お元気ですか)?
vol.438お届けです。どうぞ、お楽しみください〜。
サウガーナが訓えてくれるもの
さどやませいこ(城辺・新城出身)
今でも子どもたちにとって蝉取りは、自然と触れ合う夏の風物詩。とはいえ、現実は一斉に鳴かれると、だいずなむぬ(大変なこと)。昔は、あれほど んぎゃますかたぁ(うるさかった)蝉の声が最近あまり聞かれなくなったが、小学生の頃、窓から入る蝉の声は授業の妨害だった。窓ガラスを閉めると暑いし・・・。今思うと、汗ぁ、だだだだと、面白くもない授業を受けていたなぁと、自分を褒めてやりたい気持ちだ。
俳句では「五月蝉」と書いて「うるさい」と読む。そのうるさかったクマゼミも今では、梅雨の終わりごろにご挨拶程度に鳴いて、いつの間に聞こえなくなった。以前は、地域によってその鳴き方も違うといわれた。「ショウショウ」だったり、「ガースガース」だったり、私の生まれ故郷は確か「サウサウ」だった。それで、蝉の呼び方も「サウガーナ」。
幼い頃は、男の子のように鳴いている蝉を捕ることはなかなか出来ないので、「すでぃぐる」(脱け殻)を集めて満足していた。その すでぃぐるが時には、サニン(月桃)葉の裏に三つも四つもくっ付いている時は、ぷとぅぷとぅ(どきどき)しながら、壊れないように、そーっと取ったものだ。
また、脱皮前の蛹を取ってきて トゥンカラ(女友だち)と夜を徹してその誕生を見守ったのも懐かしい思い出。今で言ったら、フィギュアースケートの荒川選手が有名にした「イナバウアー」のように出てくる蝉がかっこよく、歓声をあげて誕生を祝ったものだ。
宮古諸島は、春先にイワサキクサゼミ(ガーラスビ=狩俣)が鳴きだし、次いで固有種のミヤコニイニイ(ムーンガーラ=狩俣)、梅雨期に入ってツマグロゼミ(ヌスピガーラ=新里)、夏を迎えてクマゼミ(ヤーマーラ=狩俣)が出てくる。毎年順番を間違えることはない。それによって私たち人間は季節の移り変わりを判断している。有り難い。蝉の命は短く、地中に潜っている時間のほうが遥かに長いと云われる。全身を震わせ、絶叫する気持ちも解らないではない。しかし、蝉の好きだった シンダンギー(栴檀)も年々少なくなり、選り好み出来ななくなって電信柱にくっ付いている蝉も可哀そうな気がする。
すでぃぐる ばっし ガース。この んきゃーんじゅく(諺)は、直訳すると「脱け殻を忘れた蝉」となる。いわゆる、蝉は脱皮して広い世界に放たれた後、抜け殻のことを思い出すことはないだろう。その意味で人に例えると、生まれた時から多くの周りの人たちに随分とお世話になりながら成長するのに、その人たちのことを忘れていることが多い。この諺の真意は「恩知らず」を戒めるときに使われた。「まーんてぃ」(なるほど)、昔の人の思いは深い。
◇あの話をもう一度
ビートルズ世代のサラリーマン(平良・下里出身)
「江戸上りと朝敏」vol.232 2010/11/18
記録的な猛暑が続いた長い夏がやっと終わり、すだーす(涼しい)秋風が吹き始めた10月のある日、私は深川にある本誓寺というお寺を訪れた。
実はこの本誓寺は、享保3年(1718)江戸上りの一員として江戸を訪れた平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)が、滞在中に仏教や源氏物語、伊勢物語、和歌などを学んだ寺だといわれている。
桜の枝が茂る門をくぐると、いみちゃな(小さな)庭をはさんですぐ本堂がある。現在の本堂はコンクリート造りで関東大震災で被災後、再建したものであり、当時の朝敏達が通った面影は無いがどうしても訪れてみたかったのである。
平敷屋朝敏は、1700年首里の金城村に生まれた。彼は幼い頃から神童の誉れ高く、文才に優れ『若草物語』『苔の下』『貧家記』『萬歳』等の文集と組踊り『手水の縁』を書き著した。琉球の和文学者である。
あすが(しかし)、1734年「平敷屋・友寄事件」により34歳の若さで処刑されている。この事件の詳しい内容は不明だが、言い伝えによると同士である友寄と組み、王府体制を批判した落書(らくしょ)を当時の琉球政務の監督者である薩摩藩史、川西平左衛門邸へ投げ込んだとして、一味15名と共に安謝港にて処刑されている。また、妻と娘は宮城島へ流刑、長男は水納島へ、次男は多良間島へ流刑されるという悲惨なものだった。
朝敏は琉球王第二尚氏、尚真王の流れをくむ子孫であり、二度の江戸上りのメンバーにも選ばれる程のエリートである。そんな彼がこんな悲惨な断罪をうけた落書とは一体 のーしぬ(どんな)内容だったのか、事件の詳細は一切記録されていないという謎に満ちた事件である。
当時の琉球は、中国と冊封関係を維持しながら一方では1609年の薩摩侵攻以来、薩摩の支配下におかれ、二重支配的な状況の下、財政は困窮し加えて大飢饉などにも見舞われ人民とも疲弊していた時代である。
時の三司官蔡温は、後にこのような状況を自らの著書で「朽ちた手縄をもって荒馬を御するが如し(『独物語』)」とその困難さを表現している。尚敬王の信任も厚く次第に政権の中枢に上り詰めて行く三司官蔡温は、このような琉球の行く末を案じ国力の強化を図るべく様々な改革を進めて行くのである。
幼い頃から、人一倍気が強く反骨精神旺盛だった朝敏は、そんな蔡温のやり方に反発していたようだ。次の琉歌にもそんな朝敏の心意気が見える。
(1)四海波たてて 硯水なちも 思事や あまた書きもならん
(2)誰のほれ者の 筆とやい書いちゃが 酒や昔からの 恋の手引き
(3)乱れ髪さばく 世の中のさばき 引きがそこなたら あかもぬがぬ
(1)は、海に見立てた硯の水を、四海を波立たせるようにして書き綴っても、思う事は決して書き尽くせないと憤怒の情が伝わって来るような激しい歌である。もちろん、思事とは施政者に対する批判であろう。
(2)は、飲酒を慎むようにというお触れに対して反論だと思う。くま・かまの読者には「みゃーくふつ」に訳した方がその意味がより鮮明になるだろう。「とうぬ ぷりむんぬが 筆やとぅい かき°たーが さきや んきゃーんから 恋ぬ手引き」(一体どこの馬鹿者がこんな事を書くんだ酒は昔から恋の手引きというじゃないか)。まさに多くの恋愛物語を手がけた朝敏らしい歌です。
(3)は、治世者を乱れ髪を整える櫛に例えてこれまた痛烈に批判している。
朝敏は、正徳4年(1714)、享保3年(1718)の2度も江戸上りに参加している。朝敏15歳、19歳の多感な時期である。当時の江戸は人口約100万の世界有数な巨大都市である。華やかな町人文化が花開き、新しい文化の息吹が満ち溢れこの上ない活気ある大都会だったに違いない。
江戸上りのメンバー達は、公務以外、江戸の街の自由行動は制限されていたというが、朝敏は江戸の街の自由な空気、活気溢れる町人文化を肌で感じ取った筈である。そして、その後の創作活動に大きな影響を与えたのは間違いない。
本誓寺の小さな庭には、朝敏達江戸上りのメンバーが通った痕跡を示すものは何も残っていなかったが、庭の奥に古い五重の石塔が立っていた。台座に当たる四面には仏像が彫られている。もしかしたらこの石塔を朝敏も見ていたかも知れない。若い朝敏はどんな気持ちでこの石塔を見上げていたのだろう。まだこの時、朝敏は自分の身の上に起きる悲劇を知らないのだ。
私はそっと手を伸ばし石塔に触れてみた。300年も前に34歳の若さでこの世を去った朝敏の無念さが伝わって来るような気がした。そして、朝敏のあの唄が思い浮かんだ。
くらさらぬ 忍で来やる 御門に出ぢめしゃうれ 思い語ら
(『手水の縁』)
(じっと一人で居るのは絶えきれず密かにやってきた。外に出てきて思いを語りましょう)
これは、有名な組踊り『手水の縁』のなかの恋人を慕う主人公の唄であるが、私には朝敏があの世から自分の無念を語る為にやって来たんだと叫んでいるように聞こえた。
今、沖縄は普天間問題、尖閣問題と大国の利権の狭間で揺れ動いている。沖縄の置かれている状況というのは、あの朝敏達が生きた時代(唐と大和の間で呻吟し苦しんでいたあの琉球時代)と本質的に変わっていないのかも知れない。
朝敏が今の沖縄を知ったらなんというだろう。きっと、「お前たちは、300年もの間一体何をしていたんだ」と一喝するに違いない。
【参考文献】
真栄田義見 著『蔡温・伝記と思想』1976 月刊沖縄
玉栄清良 著『殉教の文学』1984 島田保
横山學 著『琉球国使節渡来の研究』昭和62 吉川弘文館
平敷屋自治会のホームページ
http://www.okinawajoho.net/heshikiya/index.htm
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
青い空に入道雲、夏らしい天気が続いている宮古です。8月になりましたねー。ぴゃーむぬいら(早いものですね)。
宮古のお盆は、旧暦の7月13日、14日、15日ですが、今年は新暦の8月13日、14日、15日と がふ(ぴったり)と合っていますね。それに合わせて里帰りするくま・かまのライターもいますよ。また楽しい時間が持てたらと思っています。
ライターと言えば、新しいライター ふたーず(2人)が9月後半から登場予定です!ひっさしぶりの新ライターです。(郁乃さんご紹介、たんでぃがーたんでぃいら〜)。どうぞ、楽しみにしていてくださいね。
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
宮古の んきゃーんじゅく(諺)とエッセイを組み合わた、せいこさんのお話。セミの蛹を取るのに、ぷとぅぷとぅしていながら・・・気持ち分かりますね〜。「すでぃぐる ばっし がーす」んきゃーん(昔)の人は、自然の中からうまく表現するなーと思いますね。そうならないように き゜む(心)にしっかりと止めておきたい諺です。
今回の、あの話をもう一度は、B.サラさんの「江戸上りと朝敏」をお届けしました。今年は組踊初演から300年という記念の年だそうです。平敷屋朝敏が組踊「手水の縁」他、いろいろ書いていたというのは、B.サラさんの話で知りました。多良間島では、先月28日、朝敏一門のお墓「里之子墓」で偲ぶ会が行われたということです。
猫を飼うようになって、ざか(リュウキュウジャコウネズミ)を捕ってくることにびっくり。それを見て、子どもの頃やった ゆむぬ とぅずの(ネズミ捕り)の話を思い出し、書いた次第です。子どもの頃、そういえばこんなことしなぁとか、思い出すことがありましたら、ぜひあなたの話も教えてくださいね。
貴方の感想もぜひお寄せくださいね。まちうんどー(待っていますよ〜)
投稿もお気軽にお寄せください。
今回まい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー。
(今回も最後までお読みくださりありがとうございました)
次号は、8月15日(木)の発行予定です。
あつさん まきんようん よーんな よーんな いかやー(暑さに 負けないように ゆっくり ゆっくり いきましょうね)
あつかー、またいら〜。