皆さん、こんにちは。きゅうや 勉強ん なず ぱなす から しんみりする ぱなす、うむっしぱなす までぃ ありどー。(きょうは、勉強になる話からしんみりする話、面白い話まであります。)どうぞお楽しみ下さい。
「パリの恋人」
ひさぼう
那覇市の国際大通りあたりを歩いていると、「海人」と書かれたTシャツに出会う。これは「うみんちゅ」で、よく聞く。なかに「畑人」というのがある。ン?・ ・ ・。 地元の人はこれを「はるさあ」と読む。そう、本島では、畑のことは「はる」とか「はろ」とか言っている。それで、畑仕事をする人は、「はるさあ」である。
宮古では、畑のことは、「ぱり」と言う。「はろ」と「ぱり」、これはもとはいっしょではないか、と思って「古語辞典」を引っぱってみた。すると「はる(墾る)→「開墾する。畑や道を新しく作る」としてある。次に、「沖縄おもしろ方言事典」沖縄雑学倶楽部編 創光出版 を引くと、「ハル→畑、耕地 ?土地の最小区画単位で、現在の沖縄の地名の原点」としてある。ここで地名とは、山原(やんばる)とか、南風原(はえばる)、与那原(よなばる)などであろう。
子供の頃、どうたがやあ(自分ち)の隣近所を呼ぶのに、次のように言っていた。
- 東側のうち → あがんにゃあ
- 西側のうち → いんにゃあ
- 南側のうち → まいばら
- 北側のうち → しばら
ちなみに、東、西、南、北のこと
- 東 → あがず
- 西 → いず
- 南 → ぱい
- 北 → にす
これは、語尾の変化があるだけで、沖縄本島でも同じ言い方をする。ここで、おもしろいことに気が付いた。ある言語学者が、そもそも沖縄人はどこからやって来たのかを説明するのに、次のように言っている。
これによると、今、沖縄のあちこちの島に住んでいる人間は、はるか昔、北の方、すなわち九州あたりから、やって来たことになる。
そこでさっきの話で、自分の家から見て南側のウチを「まい(前)ばら」という言い方は、この説にあうのではないか、ということである。ここで「ばら」とは、地域名を言うとき、あがずばり(東の地)、いずばり(西の地)などと言うときの「ばり」、あるいは本島でいう、山原(やんばる)の「原」である。
タイムマシンに乗って、その昔、宮古島にやって来て、サンゴ礁の荒れた土地を耕し、そこを「ぱり」と呼んだ人たちにインタビューしたとしたら・・。
「うう”ぁたあ んざからが きすたりやあ」
(あんたらは どこから きたか)
「ばんたあ にすから ど うぐなあり きすたあ」
(うちらは 北から集まって やってきた)
と、答えてくれるかどうか。そして、その中にいたであろう ミガがま、だか カマドがま、だかが、どんな言葉をしゃべっていたか、はるかなる想いを廻らせてみるのである。
「宮古のことわざ」
[ 尻焼きぃ あまん ]
チビヤキィ アマン
「あまん」はやどかりのこと。やどかりは尻をあぶられると殻の中から這(は)い出てくる。ここでは人間にたとえて、定まった場所に落ち着かず転々とする風来坊のことをいう。
『んきゃーんじゅく』 佐渡山政子/編 より
「兄を想って書いた兄の詩」
ワタリ マリ
脳性マヒぬ あざぁ いんぬ 好きやたー。やーからみいらい いんぬ まいにつ みぃ いんからぬ かじん くくるう なでぃらりー うたーどおり。
(脳性マヒの兄は、海が好きだった。家から見える海を毎日見て、海からの風に心をなでられていたようだ)
海のこと
ボクは海が好きだ
ボクのうちからは海がはっきり見える
縁側から太平洋が見えるなんて
なんてぜいたくなんだろう
地平線の向こうから船が来た
このままボクのうちまできてほしいのに
船はいつも通り過ぎる
ボクは手を振ることもできないので
見えなくなるまで見続けた
そしてまた海を見る
時々眠くなるときがある
いい気持ちになって夢を見る
ボクは船に乗って地平線の向こうからやって来て
たくさんの荷物を持ってボクの家まで来た
喜んだのは妹たち
お菓子がいっぱいあったからだ
ボクもうれしかった
もっとうれしかったのは
妹たちがボクの口にお菓子をいれてくれたことだった
目が覚めてボクはまたやっぱり海を見ている
今度はどんな船がくるのかと
縁側からボクに見えるのは海だけだった
だからボクは海が好きになった。
「モンゴルのオトーリ 中国旅行記その?」(投稿)
あば本舗さんより
あれは、もう15年前の事にもなりましょうか。昭和63年7月から2週間くらい、ジャイカ(国際協力事業団)の募集に応じて中国の母子保健事情の視察旅行ってなヤツに、参加することになりました。
上海、桂林、内モンゴル、北京、と廻ったけど、なかでも面白かったのが内モンゴル。首都のフホホト市から丸一日バスに乗り、デコボコの道なき道を通って、モンゴルの大草原へ。ひどい揺れにバス酔いし あがい? すなってぃどぅうたあ(死にそうだった)。でも草原は果てしなく広い!おお?野生の馬が走っているぞ?ぉ。
遊び心の少ない漢民族と違って、少数民族は歌や踊りで気持ちを表現する。モンゴル人の歓迎の宴に招待され、即興の朗々とした歌や踊りに大感激!そ?こ?で。民族衣装をつけ、幼子を連れた男女が各席をまわり始めた。どうやら、子供の1歳の誕生祝いでもあるらしい・・。そして、お酒を手にしているではないか!もしかして、これはオトーリ?
各席をまわり、私の所にもやってきた。お調子者の私は、お酒に指をいれ三回ピンとまわりにはねた。(―風の神、地の神、天の神への祈り―)そう、作家で冒険者の開高健のまねをしたのね?。
周りのモンゴル人達は大喜び!これをやると全部呑み干します。という事らしい・・・(冷や汗。。。)まわりの雰囲気からは期待の目、事務局の人は大慌て。とうとう、私は全部飲み干すはめに・・・。それは何と70度の地酒だった・・。呑んだあとの記憶は無いが、皆で大声を張り上げ歌ってたらしい。写真もあるが、うとぅるす(怖い)思い出として、大切にしまってある。
※お酒に気持ちを込めるのは、モンゴルでも ゆぬぐーさいが。(同じですね)その後の打ち解けた様子が目に浮かびます?。
「お便りコーナー」
宮崎県在住 真喜屋隆さんより
アララガマについて
宮古島は昔からバレーボールが盛んだったようで、私の小中高(1960年代)の頃も部落対抗とか至る所で大会が開かれていた。選手や応援の人までもアララガマを連発していていた。勿論、選手は試合に負けそうになったら声を大にアララガマ?と叫んでいた。ミスすると周囲からアララガマー??と叱咤激励が飛んできた。
宮古の人々には胸深くアララガマは染みついていると思うのだが?最近の若者はどうだろうか?私にとっては切っても切れない言葉です、今でも使っています。
特に中学の頃はバレーボールの大会に出るたびに身長の低さを悔やんでいた。チームの要のアタッカーだったので、その思いは余計強かった。でもアララガマ精神?(なにくそ負けてたまるか)のおかげで試合では負けなし、二度宮古代表にもなった。
今、県外に勤務しているが、中には意見の相違の人もいて落ち込む時もありアララガマ精神に助けられる時もあります。この時ばかりは宮古島に生まれて良かったなあと思う。
※選手や応援するおじさんたちの たや(力)のある「アララガマ!」の声は、まーんてぃ(本当に)ずみ(最高)でした。今ではあまり聞かれないのかなー。
「編集後記」
松谷初美
じゅうろくにつ(旧暦の1月16日。あの世のお正月)に合わせて、2月13日?16日まで宮古に帰ってきました。今年のじゅーろくにつは、申(さる)の日にあたり、お墓で祝うことはせず(何でも「申」は「去る」の意にとられ、あまり良い日とはされない為、お墓ではやらない風習があるらしい。最近は、気にしないところも増えているらしいが。)我が家は、っしかた(家の裏)でやりました。親戚が持ち寄る重箱の料理と我が家の料理に舌鼓をうち、十数年ぶりのじゅうろくにつを過ごしたのでした。
お墓の方角に向かい、先祖があの世でもお金に困らないように かひ゜じん(紙をお金に見立てたもの)を焼き、さき(酒)、水を供え、線香(宮古の線香は1センチ幅くらいの板状で黒い)をつけて てぃゆ かみ(手を合わせ)先祖がいい正月を迎えられるよう、また ばんたーゆまい たすきふぃーさまちー(私達をも助けて下さいね)とお願いしました。
その後は、しーむぬ(お吸い物)、いす゜ぬてんぷら(魚のてんぷら)、あぎどうふ(揚げ豆腐)、うぷにずぅ(大根の煮物)、紅白ぬ かまぶく(蒲鉾)赤く染めた いきゃ(イカ)、三枚肉ぬ醤油煮付け、宮古蒲鉾(平たいのだ)の昆布巻き、エビのフライ、むつ(餅)、こうす(お菓子)を ばたんちきゃあ ふぁい(お腹いっぱい食べ)あの世の人と、この世の人と正月を祝ったのでした。天気も良くて、ぞう じゅうろくにつ やたあどー。(いい十六日祭でしたよ)
さて、vol.46 のうしぃがやたーがらやー(いかがでしたでしょうか?)皆さんからのご意見、ご感想、まちうんどー(お待ちしています)どうぞ、お気軽にお寄せください。
半年ぶりの宮古でのこと、次回も書きたいと思います。次回は、3月6日の予定。あつかーまたやー。