7月どー。もう夏さいがー。夏の暑さんまいまきん(暑さにも負けない)、くま・かまどー。
読むと すだすーすだーす(涼しーく)なると評判です。(たぶんよ)。 vol.79スタート!
みんなで指笛を吹こう
クイチャーマン(下地町出身)
「あなたは指笛が吹けますか」と私の職場の男性17人に聞いてみた。「はい、 吹けます」と答えたのは私を含めて4人(23.5%)だけだった。4人のうち2人は 50歳代、あとの2人も40歳代で、若い人ほど吹けない傾向がある。このまま では指笛を吹ける人がいなくなるかもしれない。
私が指笛を吹けるようになったのは、小学校高学年のころである。周囲に吹 ける先輩や大人がいて、その音色に魅せられ、自分も出来るようになりたいと、 遊びの中で教えてもらった。集中的に練習し、吐き気を催しながら2時間ほど で何とか音が出たと記憶している。当時は右手の人差し指で修得したが、現在 は右手の小指を使っている。おもにクイチャーを踊りながら囃子(はやし)の ところで吹いているが、人差し指よりも小指の方が高音が出せて、ビブラート を効かせてリズムに乗せるのに適している。指笛のメリットは、カチャーシー やエイサー、クイチャーの踊りの鳴り物として雰囲気を盛り上げることのほか、 遠くにいる人を呼び止めたり、タクシーを後ろから呼び止めたり、何かの合図 として生活の中に活かせる点にある。
30年ほど前、沖縄刑務所を慰問公演したとき、クイチャーを踊って指笛を 吹いたあと、司会を兼ねていた私が受刑者の皆さんに「指笛が出来る方は手を 挙げてみてください」と言ったら誰も挙手しないので「じゃ、私が教えましょ うね、指をこうやって・・・」と話しかけると、舞台の袖から刑務官が飛んで きて「困ります!ここでは禁じられています」と耳打ちした。「そうですか、 ここではだめだそうですね。すみませんでした」と受刑者にお詫びした思い出 がある。その昔、集団脱走の合図として指笛が使われたことがあり、ご法度に なったのだと、後で聞かされた。
ところで、この原稿を書くために、ものは試しとインターネットで「指笛」 を検索してみて感激した。口笛の会のホームページが峯村純夫さんという方に よって立ち上げられており、「指笛の吹き方&解説」など、実に細やか、かつ 丁寧に気配りされた情報、峯村さんの地道で旺盛な研究、実演の歩みなどが整 理されている。『くま・かま』読者の皆さんも覗いて見てください。指笛の演 奏家である田村大三さんの「指笛音楽70周年記念コンサート」が7月10日に 練馬区文化センターで開かれるとも紹介されている。
クイチャーの囃子に添える指笛が吹ける程度で満足していた私は、いま静か に好奇心と闘志を燃やし始めている。クイチャーと同様に、指笛は実に奥深い のだ。峯村さんたちに学んで、沖縄でも指笛を普及し、演奏会が出来るまでに 持っていきたいものだ・・・と。
ちなみに与那覇の方言では指笛のことを「てぃびー」という。「てぃ」は手 のことで「びー」が笛である。指は方言で「ういび」なので「ういびびー」と 言いそうなものだが、そうなってない点が面白い。
ちー きゅうや うぐなーり てぃびーばふき あっぱ いら
(さあ きょうは あつまって 指笛を吹いて 遊ぼうよ)
ばんたがやーぬつかふ 4」城辺町新城(あらぐすく)
さどやませいこ(城辺町出身)
1950年代、アメリカの統治下にあった沖縄宮古。パンダル(鼻水)垂らして 裸足でナウサ(砂利)道をかけずり回る山猿たちは、あまり食べる物もないと いうのにガンズゥー(元気)だった。私はその年の6月、城辺町字新城、カナ ガマヤーの次女として生まれた。その時の話を母は「保良の先の海に貨物船サ ントウマルが沈んで、おまえのお祝いには白いおにぎりがいっぱい来たよ。だ からおまえはウプーウプ(大きく)なったさあ」と、そればかり言う。当時は お米が食べられるのは裕福な方で、出産祝いといっても海でとってきた魚のマ ースゥニー(塩煮)とか、自家製の豆腐のようなものだったようだ。実は白い おにぎりは、船から流れ着いた米だった。
新城部落は、福嶺学区の中にあり、当時は5つの部落(他に保良、吉野、七 又、皆福)の中でも人口が多く、活気のあるスマだった。因みに福嶺小学校は 学年ごとに4〜5クラスあり、複式になろうとしている今では考えられない。 実は私は福嶺小学校中退なのだ。6年の2学期に北小学校に転校したからだ。 私の3年の時にサラ台風があり、続いてコラと大型台風に打ちのめされて、農 家の人たちは街に転出する家族が多く、私の身内もほとんど平良や那覇に出た。 今では一軒の親戚も残っておらず、とても寂しい。でも、福嶺小学校だけは私 にとって思い出のたくさん詰まった宝物だ。
話は、新城部落に戻る。うちは、マッチャアガマ(雑貨屋)をしていて、父 と母が畑に行っている間、おばあが店番をしていた。私も学校から帰ったらお ばあといっしょに店番をした。ある日、隣のおばあが私を呼んで、「ハーイ、 バンタガ ルミチャンガ ブンヌ アメダマガマゥ、カイクウ(ねぇ、うちの るみちゃんの分の飴玉を買っておいで)」と10セントのお金を渡した。私は、 んー(はい)と言って飛び出したが勢い余ってお金を落としてしまった。とこ ろが芝生に落ちたはずのお金は見つからずと言って手ぶらでは戻れないので、 こっそりお店に忍び込み、うちのおばあが鼻から提灯を出して寝ている隙に、 大きなガラス瓶からあめ玉を袋にいっぱい入れて行った。そして「おばあ、こ れはお釣り」と、左手には金庫から持ち出してきた5円玉が握られていた。だ から、カナガマヤー商店はつぶれたんだ。
そうそう、小学1年の時、大きな地震があって、校庭や運動場に亀裂ができ たことを鮮明に覚えている。ちょうど、1時間目が始まる前で、私は友だちと 下敷きを脇で擦って摩擦を起こし、頭の髪の毛を立たせる遊び(その頃流行っ ていた)をしていた。すると、先生の大きな声が聞こえ、みんながドヤドヤと 外に出ていく。そのうち校舎がグラグラと動いてきた。後で、運動場にできた 大きな亀裂を見て、大変な地震だったことを知った。でも今思い出すのは下敷 き遊びのことだ。
小学校高学年になると、十五夜(旧暦8月15日のこと)は隣近所の子供たち が広場で演芸大会を楽しんだ。内容ははっきり覚えていないが、お芝居をした り、踊ったりと今で言えば俄脚本家や演出家がごろごろいた。当時はテレビも ラジオもないし、自分たちで遊びを作らなければならなかった。だから、創造 性豊かな子が多かったかも知れない。当時の感性が今甦ったら、有名になれた ハズなのに。そう言えば大人たちは、綱引きをしていた。西の組と東の組に分 かれ、それは賑やかだった。うちはちょうどその境目にあり、家の前で部落中 の人たちがわいわい騒いでいた。私が気に要らなかったのは、みんな、うちの 庭に入って来て勝手に水を飲んで行くことだ。その頃は水道はなく、約500 メートル離れた共同井戸で水汲みをしていた。綱引きの翌日はネーネーがぶー ぶー言いながら井戸に通うのを見るのが辛かった。
春先には、ポー(クロイゲ)や野いちご、ザウカニ(グミ)採りに。アルミ の弁当箱を持って。そのうちショウタツがかわいい袋状の花をつけると、それ を口の中でズーズーいわせて遊び、夏には海へ。白い砂浜に隠れている蛤捕り に。泳いだ後はプズキャー(泉)に行って、体を洗い、ついでに洗濯も。隣の 囲いではおじさんが馬を洗っていたりする。今は無くなってしまったカーズク (沼)でもよく遊んだ。アメンボやメダカ、オタマジャクシ、ゲンゴロウ、遊 んでくれる生き物たちがたくさんいた。学校から帰っても干からびた芋しかな かったけど、おばあがやさしい声をかけてくれるし、心はいつも満たされてい た。ウスカ。(おしまい)
おいよ!
神童(平良市出身)
所用で那覇に出かけた。職場の同僚3名で。ゆさらび(夕方)の6時に用事 をすませ、ぶがりのーし(疲れ直し)に飲むことにした。3名ではオトーリの 人数が少ないので取引先の担当に声をかけた。ホテルでチェックインを済ませ、 パレット久茂地の地下居酒屋で同僚と待ち合わせをした。待ち合わせの居酒屋 は潰れていて、携帯の連絡により待ち合わせ場所がパレット前広場に変更され た。
待ち合わせ場所で同僚と合流した。すると、職場の同僚メリケン木場が彼氏 のデーブ君と二人信号待ちの車内から声をかけてきたとのこと。メリケン木場 はアメリカ人の彼氏デーブとめでたくゴールインして1週間の休みを取ってア メリカに居るはずの女の子だ。こいつらは、宮古も日本の一部なのにアメリカ から追いかけてきたデーブがよりによって職場まで押し掛け、衆人環視のなか でプロポーズを行ったカップルだ。結局、メリケン夫妻を加えた5名で居酒屋 に入った。
4名掛けのテーブルでとりあえず乾杯だ。夫妻によると昨日、アメリカ領事 館で婚姻の届けを行い、法律的に夫婦となったらしい。幸せいっぱいの国際結 婚カップルにあてられっぱなしのその他3名。しかーし、幸せなカップルはそ う長居をしないのだ。そうに決まってる。保険をかけよう。取引先からもう1 名呼ぼう。2人呼べば1人くらいは顔を出すだろう。
たばこが切れたので外にでた。ここで、なんと、他機関へ出向している先輩 が娘と二人国際通りから歩いてくる。「まーつぁきぃ ぬまぁ(一緒に飲もう) 」メンバーが7名になった。4人テーブルに7名だ。しかし、間の悪いことに 取引先の出席率が100%になってしまった。4人テーブルに9名だ。困った。 他のテーブルに移動しようにも既に満席状態だ。しかし、4人掛に9名は間抜 けだ。正面を向いてすわれないからみんな斜に構えて宴会が進行される。ダー クダックスが円状に並んでるようだ。一番の問題はオトーリを回すのがとてつ もなく難儀なことだ。「おいよ 誰か 帰れよ」
宮古も狭いけど那覇も大してかわらん。
のーにゃーんが!(どうってことない)
んきゃーんぬ ぱなす(昔の話)(投稿)
名古屋在住 砂川さんより
今日は60歳を過ぎたおばさんが少し話します。
まずは現在の平和(生活の豊かな幸福な世の中)に心から感謝します。おば さんが生まれた昭和10年は貧乏と金持ちの差が大きかったです。戦争をあまり 知らない私ですが、終戦を迎え物心ついた時は、アメリカの支配地でありまし た。アメリカの配給の小麦粉(小さなカブトムシの様な虫のわいた小麦粉)を ふるいにかけて食べたり、子供達は、主食をイモで それも薪が不足の時代で したから、砂糖きびの葉っぱやアダンの葉で大きななべに1日分のいもをたき ましたネ。それを給食がなかったからイモだけ弁当に持っていったよ。
夕方にはイモはいつも糸をひき それでも食に飢えてた子供達はおいしいと 頂いていた。今の子供達のように太って栄養がいってる人はいなくて、お腹が 背中にくっついているようなガリガリの子がほとんどだったなあ。雨が降ると かたつむりやアフリカマイマイを取って来てたべたり、ンギャナやノビル、フ ツナトルナをとって食べたりした。すすきの葉を取ってきて綱をぬって売った り、男の子はにわとりを飼ってたまごを生ませてこづかい稼ぎをしていたよ。
幸い宮古島は海にかこまれているため海の幸は今の子があまり食べたことの ない物もたくさん頂いたネ。子供は風邪をひいてもお腹が痛くなっても病院に も行かず、ほとんどと言っていいほど青ばな(はなだれの事)をたらして上着 の袖でふいて 袖が固くなりカチカチになっていたネ。水も井戸水で、夏には、 つぼやかめ、タンクをきれいに洗わないとボーフラがわいたネ。
そうそう、おばさんの小学校5年の時は学校も自分達で砂利と砂を運んでつ くるのてつだったネ。正月だけはお米(田米)といって宮古島でとれたお米を 親はたいてくれた。とってもおいしかった。男の子は、お年玉がもらえるが女 の子は、正月は人の家に行ってはいけないとの慣わしがあったため、お年玉が もらえなかった。だからおばさんは、子供や孫にお年玉あげるのはとてもうれ しく大好きです。
アイロンも炭をアイロンの中へ入れてかけました。スカートは少しぬらして ふとんの下にひいて寝たヨ。トイレはブタ小屋が だいたいの家がトイレでし た。石垣が積んであって、ブタの鼻がでるような所に囲いをして便はしてまし た。それを ブタが食べて堆肥として畑にまいて畑のイモや野菜にやってた。 イモや野菜を食べた子供は大きなさなぎ虫を便からだしていた。ウンチじゃな くて虫が出てきましたよ!
昔はタタミやふとんがあまりなく、おばあさんの着物を二人でかけてねてい たヨ。鉄くずもよく拾いに行ったネ。ビンも子供達はこづかい稼ぎでした。酒 屋さんに売りにいった夏はアイスケーキ(アイスキャンディ)を買って売りに 回ったものです。子供も上から順に子守をしてた。いつも背中はびしょぬれで、 おんぶしたまま遊んだ。(おんぶひもはサラシでした) 子供の仕事はランプ のそうじと油入れだった。ほやランプや4面のランプのガラス拭きは、とても 大変でした。今のように良い布もなく、ティッシュもないため苦労しました。 髪を洗う時も自分達で山からねんどを取って来て、とかして洗ったヨ。今のリ ンスをした髪よりやわらかきれいでした。今はそのねんどは美容パックとして エステで使われています。
子供のあそび
石蹴りや輪ゴムあそび めんこやお手玉 そして陣取りあそび かじゅまる の木の下で暑い時はかじゅまるの葉を取ってぼうしを作ってかぶったヨ。かじ ゅまるの木を石でたたいて汁を出し それを手のひらにとりガムも作ったネ。 いつも裸足の子が多く 自分達であだんの葉のぞーりを作りそれをはいてたネ。 男の子は、にわとりを飼い おすのにわとり同士けんかをさせて1番2番になる のに一生懸命育てていたよ。負けるトリはトサカがちぎれ血が出てとてもかわ いそうだった。タカもよくとった。穀物を干している時はつめを切って、すず めがこないように番をさせていました。そして最後はタカ雑炊でたべたよ。お いしかったなあ・・・。
※砂川さん、貴重な ぱなすっす たんでぃがーたんでぃ。んなまぬ(今の)豊かな時代からは、想像もつかない生活ですよね。でも、んきゃーんぬ生活があって、今の生活があるということ、ばっしだなうらでぃ。(忘れずにいたいと思います)。
お便りコーナー
宜野湾市在住 イラウピンザさんより)
今度(vol.78)のくまかまは素晴らしかった。
その中で、一服の清涼剤になったのが、ひさぼーさんの「ミヤークフツ講座」 でした。ヤマト暮らしを経験した方なら誰しも身に覚えがある失敗談を面白お かしく活字にすると独りでに噴出してしまう。正しい日本語を知らない国語の 先生を憎むべきか、それとも感謝すべきかは、見解の分かれるところでしょう が、兎に角、数々の失敗談を持っているものにとっては楽しい読み物でした。 特に、「雨ふり」のミヤークフツ版を口ずさんでみて、おかしくなって腹を抱 えて笑ってしまいました。これからは宴会の席の持ち歌にしたいと思います。 有り難うございました。
※イラウピンザさん、ぷからす感想、たんでぃがーたんでぃ。 ひさぼうは、「こういう反応があると、風呂屋の煙突にだって登りたい」と話していました。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
vol.79のーしがやたーがらー(いかがでしたかー)?
クイチャーマンさんの指笛は、ばやー、しらいん(私はできません)。女の 人もできたら、カッコイイよね。ピーピーッ!(小指の音)
ばんたがやーぬつかふ4回目は、せいこさんの新城。難破した船からお米が 流れてきてそれでお祝いをしたという信じられないような まーんてぃぬぱな すなど、時代と場所は、いろいろな物語を生みますね。
神童の人数の数え方、宮古では何名という数え方が普通。して、場合によっ ては、何人という言い方もする。だから、名と人がまんちゃーくんちゃー(混 ぜこぜ)になる。
砂川さんの投稿は、名古屋にお住まいのくま・かまの読者、んみゃあちおじ さんに大変お世話になりました。たんでぃがーたんでぃ。
先週の土曜日のこと。関東在住のくま・かまのライター5人で、宮古出身で 今年90歳になるツルさんという素晴らしい大先輩にお会いしてきました。6 歳で宮古を離れながら、みゃーくふつの発音も完璧。とてもとても90歳とは 思えない、かくしゃくとしたお姿に私達は驚くばかり。マツカニ、ざうかにの 三線で宮古民謡も楽しみ、上等な時間を過ごしたのでした。ツルさんのことは、 近いうちに詳しく紹介したいと思っています。お楽しみに。
ミャークフツ講座はお休みいたしました。
ご意見、ご感想、投稿、いつーまい まちうんどー(いつでもお待ちしてい ます)。
次号は、7月15日(木)発行予定です。あつかー、またいらー。
暑い中、皆さん、お体大切に〜。