みなさん、こんにちは。夏真っ盛りですねー。
夏ぁー あつむぬてぃどぅ きまりどぅうー(夏は暑いものと決まっている)。そして、第一、第三木曜日は、くま・くま てぃどぅ 決まり−うーてぃぬばーどー。しまいぎー ゆみふぃーさまちよー(最後まで読んでくださいねー)。
ばんたが やーぬ つかふ 5
菜の花(伊良部町出身)
「ばんたがやーぬつかふ」で思い浮かぶ風景はいろいろあるけど、「ダキフガ ー」のガジュマルは私の心に真っ先に浮かんでくる。(「ダキフガー」とは、 場所の名前で、ダキフは、木が鬱蒼と生い茂った様子を表し、ガーは井戸の意) 伊良部部落の入り口にある駐在所前に在り、自宅から渡口の浜への中間地点だ と子ども心で勘定していた。(実際の距離を測ったことはないが、私の感覚目 安だとそうなる)
ガジュマルは横に伸びた枝が年数を経て幹と化し、そこから茶色の針金を思 わせる根が束になって垂れ下がり、地上まで長く伸びていた。ガジュマルはこ んもりと茂り、外から見るとどれが幹か枝かも見分けがつかない程だった。
ガジュマルの隣には、今では島でも見かけなくなったフクギが数本そびえて いて、ガジュマルを護衛しているかのようにさえ思う。このガジュマルは、一 体いつからここに生えているのだろうか・・・。島のおばあ達に聞いても「む かーしからさー」と言うだけ。おばあのおばあが子どもの頃からあったらしい。 戦争があった時も、島が旱魃で干上がった時も、沢山の子ども達が天然痘で島 から消えていった時も、島がアメリカ世から大和の世(やまとのゆー)に変わ ったことも、そして大きな台風が何度も島の上で暴れていた時も、ガジュマル の樹はそこに在り島の移り変わりを見てきているのだ。
母が小さい頃、この樹は「ヤスルギー」と呼ばれていたと言う。(ヤスルと は1反(300坪)の広さを表す言葉)現在も駐在所前に井戸はあるが、ガジ ュマルの枝はこの井戸をも覆い、道の反対側の敷地をも覆っていたと言う。そ の枝ぶりのみごとさから人々はこの樹を称える意味も込めて「ヤスルギー」と 呼んだと言う。
島に製糖工場が建設された時、サトウキビを運搬する車の邪魔になるため、 かなりの枝が切られ小さくなったらしいが、このガジュマルには威厳があり、 畏怖の念すら抱かずにはいられない。子ども心にこの樹には特別な精霊が宿っ ているのだと信じていた。樹がつくる祠には香炉が置いてあり、拝所になって いることで神秘さを増していたのかも知れない。夏の暑い日でさえ冷気を感じ、 人気のないガジュマルの祠から線香の香りと白い煙がゆらめいてくると、そこ には本当に神が住んでいるのだと身がすくむのだった。
大人になり島を離れたが帰省の度この樹を見に行く。朽ちた枝は切られ地上 に垂れる樹根は以前程ないものの、やはり樹齢数百年とも言われるだけあって 風格はますます強烈だ。
ガジュマルの樹の下に立ち、目を閉じると不思議な感覚に捕らわれる。ガジ ュマルから漂ってくる何かに自分が包まれていくような・・・違う世界にいる ような何とも言えない気持ちになっていくのだ。樹が発するマイナスイオンの せいか、または宿る精霊の業か・・・。
伊良部町を訪れる機会があれば、この樹の下に立って目を閉じてみてくださ い。あなたもこの樹から何かを感じるのかも知れない・・・。
ミャークフツ講座 にゃーん編
naichar-shima(下地町出身))
「にゃーん」には、いろいろな意味がある。「物がない」ことや「〜ではな い」の否定、あるいは、「〜のように」、又は、「〜してしまった」など。用 法は、やまかさ(たくさん)あるどうや。みゃーくふつは音楽に乗せると、ま すます楽しくなるよー。さぁ、次の例文をラップ調しーあっじみーるよー(で 言ってみれね)。ハイ!
・ばやー じんぬどぅ にゃーん(私はお金がなーい)
・バスまい ぴんがし にゃーん(バスにも乗り遅れてしまった)
・まーんてぃ うむっしふぁ にゃーん(ホントに面白くない)
・あすぅが のーっふぁ にゃーん(でも大したことではない)
・かいが にゃーん(あの人のように)
・ぴとぅう みんぎ にゃーん(人を殴ってしまった)
・こーっふぁ にゃーん?(つらくないか?)
・えげー ばがしゃこー にゃーん(全くー 私ほどではないな)
・っしゅう にゃーん(知っているように)
・うむくとぉー にゃーん(知恵がない)
・あしば ばやー のーまい にゃーん(だから私は何もない)
・にゃーん にゃーん いき゜でぃどぅ ます(無いなりに生きるが良い)
ういがどぅ ます(それが良い)
・ニャーン!(ネコの声)
うすか(おしまい)。
松村ツルさん
松谷初美(下地町出身)
「くま・かま」読者である横浜在住の松村義さんから「みゃーくふつを今で も覚えている元気な90歳の母がいます。」というメールをいただき、先月く ま・かまメンバー(ひさぼう、マツカニ、ざうかに、菜の花、初美)でお会い してきた。
横浜MM線終点「元町中華街駅」から5分の待ち合わせ場所、琉球料理店 「うるうるま」へ。そこには小柄で色のすっそーすその(白ーい)とても90 歳には見えないツルさんとメールをくれた義さんが待っていた。あまりにも ばかーばかで(若くて)気品漂うツルさんに私達一同はびっくり。沖縄料理を いただきながら、ツルさんのこれまでの事をお聞きしたり、宮古民謡を歌った りとぷからす(うれしい)時間を過ごした。
松村ツル(旧姓下地)さんは、1914年平良市下里生まれ。税務署吏員をして いた父親の転勤のため6歳で宮古を離れた。学校は石垣島、北大東島、沖縄本 島を転々とした。うれしかったのは、県立第一高女に入学したとき。その年は 石垣、宮古から数名づつ入ったが、宮古組とすぐ仲良くなり、いつも宮古組と 行動し みゃーくふつで話した。(宮古を離れても家ではみゃーくふつを使っ ていたので、すぐなじんだ。)また帰省(石垣へ)の途中には、いつも宮古の 親戚に立ち寄った。みんなに「ツルが来た!ツルが来た!」と歓迎され、ご先祖 様にも てぃやかみ(手を合わせ)帰るのだった。
ツルさんは21歳の時、台湾で教員をしていた松村長勇氏(宮古出身)と結 婚する。6人の子どもに恵まれたが、戦後引き揚げてからは苦労の連続で、住 まいも船橋、名護(沖縄)、久留米、熊本と転々とした。ご主人は15歳頃に 台湾に移り住んだが、当時(昭和の初め)、沖縄の人への差別がひどく、それ を隠すために、みゃーくふつはいっさいしゃべらなかったそうである。家の中 でもそれは同じで二人とも宮古出身ながら、共通語で過ごしたということだ。 それでも幼いときに身に付けた言葉は忘れないのですね。ひさぼうがみゃーく ふつで問いかけると、すかさずみゃーくふつで返す、ツルさんの発音は完璧で、 私達一同は感激したのだった。
ツルさんは、今から4年前に宮古に里帰りした。ドイツ村の方に宿泊したが 宮古の変わりように驚いたと話していた。言葉もずいぶん変わったねとも。今 は、おばあさんのことをみんな おばあと言うけれど、私達の時は「んま」と 言っていたよ。自分のあんな(母)や んま(おばぁ)は「んきぎさまち(お 召し上がりください)」や「んみゃーち(いらっしゃいませ)」という敬語を よく使っていたね。だけど私はあんまり使ったことはなかったさー。
ひとしきり話がはずんだ後、ふいにツルさんが歌を歌いだした。マツカニ、 ざうかにが「あ、アガズザトンナカだ」と歌のタイトルを言い、二人は早速 持ってきた三線を取り出して、一緒に歌った。「この歌はよーく歌ったよ」と ツルさん。その後も「豊年の歌」などをみんなで歌い、ひさぼうが「池間ぬ主」 を、菜の花が「家庭和合」をそれぞれ歌って楽しい時間は過ぎていった。
ツルさんのご主人、長勇さんは、今から14年前に亡くなられたそうだが、亡 くなる少し前にこんなことがあったよと話してくれた。
「ぜんぜんみゃーくふつを使わなかった夫がね、亡くなる少し前、病院に入 院していたとき、(ぼくは、みゃーくふつは話せるよ)と言ったの。(じゃ、 あなたはどこに行くの?と方言で言ってみて)と言ったら(うわー んざんか い?)と言ったんだよ。その後、寂しそうな、哀しそうな顔をしてね、泣いて いたよ。やっぱり、本当は宮古やみゃーくふつが懐かしくて、恋しかったんだ ねぇ。それを聞いて私はうれしかったよ。涙が出たさ」と。聞いていた私達も 目頭が熱くなった。
宮古で過ごしたのはほんのわずかな期間にも関わらず、自分のふるさとや、 母語であるみゃーくふつをずっと誇りに思っているツルさんにお会いして、私 達は感動のしっぱなしであった。
単に意思の疎通を図るだけのものではない言葉というもの。方言、母語の重 み、力強さをしみじみと感じた一日だった。そして、時に母語は、隠しておけ ないほどの人の気持ちを率直に表すものだということも。
昔、苦労したとは思えないほど、やぱーやぱな(柔和な)お顔をしたツルさ ん。ツルさんを静かに見守る、義さん。本当に良い出会いでした。ツルさん、 いつがみまい がんずぅーやしーうらまちよー たんでぃがーたんでぃー。 (いつまでもお元気でお過ごしくださいねー。ありがとうございました。)
道路交通法
神童(平良市出身)
日本がアメリカと戦争し、16対0という大差のコールドで大敗した後、27年 後の1972年、借金のかたに差し出された沖縄が日本に返された。
それからさらに年を経た1980年、宮古島の北部、狩俣・島尻地方は無免許天 国地帯と化していた。中高年層が免許を取得しないまま、オートバイ、自動車 を乗り廻し、優先道路や道路標識の意味を理解しない中高年層は走る凶器と化 し、免許取得者に恐れられていた。畑の中の道路から一時停止もせずに県道へ、 とびゃがりて(飛び出して)来る老人は、お化けやマズムヌ(幽霊)にも増し て善良なドライバーを悩ませていた。中高年無免許者を指導する立場である、 狩俣駐在の若い巡査、仲村渠(ナカンダカリ)は苦悩の日々を送っていた。今に 大事故が発生する。若い巡査の少ない経験と多すぎる無免許運転手の存在が暗 い未来を暗示していた。(プロジェクト エーックス!!)
こうなったら無免許運転の取締りを強化し、常習者はタイホするか、それと も無法地帯に指定し、全く取締りをせず、タスカラン(救いようのない)無免 許者に大事故で死んでもらうしか無い。分母の数を減らす作戦である。しかし、 仲村渠の選んだ方法はそのいずれでもなかった。彼の発見した無免許運転ボク メツ作戦は、画期的なものであった。この手法では確実に無免許運転の発生を 押さえることができた。仲村渠は、その職務である警察官という立場を利用し、 無免許者に免許を交付しようと考えたのである。まさに一発逆転サヨナラホー ムランだ!
その頃の宮古島周辺事情は教習所のない多良間島で建設用機械のショベルロ ーダーで実技試験をパスした免許取得者が酒に酔ってショベルローダーを運転 し、駐在所を破壊するというシャレにならない事件も発生していた。仲村渠は、 とにかく免許を交付すれば少なくとも最悪の飲酒運転を減らせると考えていた。 無免許運転者は免停又は免許取り消しのこわさを知らない。もともと無い免許 を停止したり取り消せないからだ!
仲村渠はまず自治会長に依頼して無免許運転者のリストを作成した。リスト 完成を見計らって、村のスピーカーで中高年層を公民館に集合させた。野良仕 事を早めに切り上げ、公民館に集まった中高年、農薬とアシフサリカザ(汗く さい匂い)でキバガリル(匂いがたちこめる)公民館で仲村渠は今後の日程を 説明した。
説明では、今日から2週間、夕方の1時間を利用して、道路交通法の講習を 行うこと。試験は2週間後の日曜日。交付される免許の種類は原付免許である ことを告げる。2週間後、実技試験の必要がない原付免許の試験が実施された。 仲村渠は、午前、午後の2回の試験を計画していた。もとより、落すための試 験ではない。無理にでも免許の交付を行うための試験である。
午後の試験は午前の不合格者を対象に行い、もちろん試験問題は午前と同じ である。試験は10時に始まった。仲村渠は成績の悪い受験者は是非とも優秀な 受験者の回答をカンニングして欲しいと願っていた。午前の試験では6割近い 受験者が合格した。2週間の講習と暗にカンニングを促した成果である。
合格者を帰宅させ、残った不合格者を対象に午後に実施される敗者復活戦の 傾向と対策を講義する。仲村渠は焦っていた。傾向と対策は直接午後の試験の 解答を伝授するという掟やぶりのアリャーミーン(これまでにない)方式で進 められた。
午後の試験は、仲村渠の安心感とともに始まった。しかし、午後の試験でも なお、3名の不合格者を出す結果となった。仲村渠は、激しく自分を責めた。 結局、3回目の試験を2時間後に実施することを告げて休憩に入った。
手登根ナベは、つかれていた。2年前に突然夫をなくし、これまで徒歩で畑 に通っていた。平良でキナイ(家庭)を持っている長男の時間があるときは畑 まで送迎してもらえるものの、それも毎日のことではない。夫が健在のころは、 畑へ行くのも夫の運転するトラックの助手席に座っているだけで良かった。畑 からは毎年サトウキビがトラック10台は収穫され、現在もその収穫量は変わ っていない。また牛も5頭飼育している。毎日朝夕の牛のエサやりも重労働で ある。(宮古でキビをカウントするときは、何トンと言わずに台数でカウント するさーね。10台の場合は40トン乃至80トンくらいの幅で数字が変動す る。アバウトでいいね!)
手登根ナベは、牛にエサをやるために公民館を抜け出していた。それにして もシガリル(疲労困憊な)1日である。朝から公民館で試験を受けさせられ、 2回も不合格してしまった。試験問題の漢字は読みにくいし、何より字が小さ い。問題もちんぷんかんぷんである。手登根ナベは仲村渠の言葉を無視して自 宅で寝てしまっていた。遅めの昼寝である。
手登根ナベが自宅で寝ていると玄関に来客があった。中村渠だった。仲村渠 はこれから3回目の試験を行うので公民館へ来て欲しいとが告げた。手登根ナ ベは、数少ない不合格者となったことが恥ずかしいことから、3回目の受験を しない旨、仲村渠に告げた。仲村渠の必死の説得にも応じないフスガーズー( 超頑固)な手登根ナベ。仲村渠は手登根ナベの腕をつかんで自宅から引きずり 出し嫌がる手登根ナベを公民館へ連行した。
3回目の試験は午後7時に実施された。仲村渠は、3名の受験者を監視しな がら間違った解答ををする受験者のそばで、咳払い、足踏みなどをしながら受 験者を合格へと導いていた。手登根ナベが2に解答の丸を書きこもうとすると 仲村渠が咳払いをする。鉛筆の先を3に移すとまた咳払いをする。4に移すと 咳払いはない。4に丸をつける。と、まあこんな塩梅だ。晴れて、手登根ナベ は原付免許試験に合格した。
後日、免許証が仲村渠の手により各戸へ配布交付された。喜んだのは手登根 ナベの長男である。これで煩わしい送り迎えをしなくて良い。長男は喜び勇ん で新しい原チャリを購入し、母にプレゼントした。
現在、手登根ナベの長男は、母親の送り迎えを行っている。 手登根ナベは自転車に乗れない!
編集後記
松谷初美(下地町出身)
くま・かまは、おかげさまで、発行80回目となりました。たんでぃがーた んでぃー。今後ともどうぞよろしくお願いします。 さて、今回は、のーしがやたーがらー(いかがでしたかー)? 菜の花の「ばんたがやーぬつかふ」の樹齢数百年といわれるガジュマル。 集落の守り神のようにも感じますね。今度伊良部に行ったら、ぜひ行ってみよ う。 ミャークフツ講座を書いた、naichar-shimaは、久々の登場。とーりゃー? (誰?)と言わんでねー。笑
神童の話は、実話に基づいていますが、出てくる方々の名前は全て仮名とな っております。同名の方を とぅみんようん(探さないように)、よろしくお 願いします。笑 しかし、こんな時代もあったのねん。
もうすぐ、夏休みが始まりますね。今週末、宮古では、宮古まつりにオリオ ンビアフェストがあるさいがー。ばんたが(我々の)下地勇さんまい いでぃ くとぅつあー。(出るそうですよー)。私もそれを目指して やー(家)に帰 るべき!見に行くみなさん、盛り上がりましょうね〜。
そんなわけで(どんなよー)、7月19日(月)に宮古でくま・かまのオフ 会をしようと考えています。簡単に言えば親睦会ですね。場所はまだ決まって いませんが、時間は、だいたい午後7時くらいからということで。参加希望の 方は、私宛メールくださいねー。すたんあー(下にある)ご意見、ご感想の宛 先と同じです。その際、携帯電話の番号(ご自宅の番号でも良いですが)も書 いていただけると助かります。場所は、18日以降に電話したいと思います。 締め切りは、今週の土曜日17日まで。お気軽にご参加くださいね〜。
「ばんたがやーぬつかふ」は、みなさんからの投稿もお待ちしています。小 さい宮古島だけれど、なんだか広いなーと感じることの多い、「ばんたがやー ぬつかふ」です。ぜひ、うわが やーぬつかふぅまい(あなたの家の近くをも) おしえてください。見慣れた風景もよく見ると独特のものだったりしますよね。 まちうんどー。
次号は、8月5日(木)発行予定です。あつかー、またいらー。