みなさん、こんにちは〜。きょうは大寒ですねー。感冒などしていませんかー?
今回も中身ぎっしり。うむっしさ満載どー。そう、そしてアレの発表もあるわけさー。
しょうじぎぃ(相思樹:ソウシジュ)への思い入れ
宮国勉(城辺町出身)
宮古島は隆起サンゴ礁に表土が浅く被る痩せた土地柄のため大木が育ちにくい。そのうえ年に5、6回はやって来る台風で高い樹も少ない。2003年9月の14号台風後まもなくして帰郷した。
松や、モクマオウはまだ赤茶けて台風の傷跡が痛々しい。しかし、いち早く新芽をだし、萌葱色をして台風の傷跡にやさしく緑を添える しょうじぎぃ(相思樹)があった。台風や干魃の多い宮古島に適した生命力に溢れる樹、そんな、しょうじぎぃが時の人ならぬ、時の樹に思えた。
しょうじぎぃは子供の頃から身近にある樹で、細い枝も目が詰まっていて丈夫で、色々な物に利用した。原産地はフィリピン・台湾で、沖縄には1906年に防風林用に台湾から持ってこられたそうだ。和名を調べているうちに分かったことだが、私は今まで宮古島の在来種だと疑いもしなかった。
しょうじぎぃの呼称は透けて見えるような(全部丸見え)樹姿から、正直の意かと思っていたが全く関係なかった。葉が表裏の別がないことから相思となるらしい。その葉に見えるのは実は葉柄だそうだ。え〜、パーガラ? あらん(いいえ)、ようへいと読むのです。ぶーぎぃぬ ぱーがらてぃーや ういからどぅ きすたーべーや〜(サトウキビの葉っぱの、ぱーがらはそこからきたのかね〜)。裏山にはすだーすきなり(涼しげな)、あちこちに あだんぎぃ(たこの木)に混じって生えている。
昔は畑の地境や、ぬー(はらっぱ)などに生えて真夏の焼けつくような暑さを和らげてくれていた。小鳥も好んで止まり、んーばとぅ(きじばと)、みぱぎびぃゆま(ひよどり)などが留まり木にしていた。山の方に入っていくと、わーぶ(上)の枝で、くがにまちゃ(メジロ)が飛び跳ね、喋りまくっていた。
少し本題とずれてしまうが、私が今住んでいる埼玉県あたりでは1、2月頃の寒い時期に、くがにまちゃが100羽ぐらい群れで飛んでくる。そして、ぴーぬふさらんきゃー(瞬く間に)飛んでいくのだが、ぴるますむぬ(ふしぎ)。宮古では殆どがつがいで木々を渡り団体は見かけない。梅に鶯と云うが、しょうじぎぃに くがにまちゃはよく似合う。葉の色と同じようで、みーぐりぐり(あまり目立たない)だが動きで確認できる。それから、くがにまちゃも棲息する地域により姿格好が多少違うらしい。
子どもの頃、ぐむかん(ゴムカン、ぱちんこ)と云う物騒な道具を作り野鳥を撃つのが遊びの一つであった。二又の木の枝にゴムを取り付けゴムの先端に革を付けて、小石を革にくるみ、ゴムを目一杯張りつめ解放して飛ばし野鳥などに命中させる。其のぐむかんぎぃ(ゴムカンの台木)にするために、しょうじぎぃの二又の枝を毎日、暇がある限り探し歩いた。枝の太さがちょうど良く、Y字部の又の開き具合が気に入り、左右の枝の太さがほぼ同じ物を求めた。やっと妥協して枝を切りそれを削って、ぐむかんぎぃとした。ゴムにはトラックのチューブを適当な幅に切り裂いて使った。石をくるむ所にはスパイクなどの革を使うと馴染みがよい。木とゴムの取り付け部はきちんと溝を掘り、縛り方にも細心の注意を払い、力の限り締め付けて結わえた。自分が完成させた、ぐむかんを自慢げに頸に掛けて、きじばと、ひよどり、がいちん(せっか)等を追いかけ狩猟民族になった。捕って焼いて食べたその味は、んなままいばっしらいん(今でも忘れられない)。
<宮古:しょうじぎぃ 和名:ソウシジュ(相思樹) 学名:Acacia confusaMerr マメ科アカシア属の亜熱帯常緑高木。高さ六〜九メートル。花は黄色で球状に集まって咲く。台湾・フィリピンの原産。熱帯各地で街路樹・生垣とする。材は薪炭材・家具材となる。広辞苑より>
狂ったギター
アモイ(平良市出身)
正月に宮古島に帰省した。家の下駄箱の脚が壊れてぐらついているというので、脚だけ直せばいいと思いながら見ていると、ふちぬとぅかなまいあり(朽ちた所もあり)買い換えたほうが好いという結論になった。他の用事もかねて兄貴達とホーム用品の店に買いにいった。そこには下駄箱は一個しか置いてない。しかし、暮れだしこれから家具屋へ行っても営業している確立は低い。ぴーった、いみふとぅあーすぅが、ういしーじょうぶんやー(ちょっと小さいけどこれでいいか)と言ってそれを買う事にした。しかし、置いてあるのは見本で箱にキットのように入っているものを買わされるのである。家に帰ってから組立て始めたのだが、大晦日も迫った時間には気持ちにゆとりがなかったのだが、なんとか説明書を読みながら組み立てて仕上げてよしよし組み立て成功OKだ。組立ての途中で脚の部分に固定用のボンドをつけて差し込みながら、昔の失敗を思い出していた。
あれは中学校2年生の時だった。親戚の兄貴がギターをもっていて懐メロを何曲か弾いて聴かせてくれたが、何故かナツメロの中に一曲だけ「朝日の当たる家」というアニマルズの歌があり、すごいなーと感激したものだ。後で思ったがコードも知らない人がメロディーのようにAM〜C〜D〜E7・・とアルペジオで弾いていたのだった。それを聴かされてからギターが欲しくてたまらなくなっていた。
普通のギターは高くて手が届かない、しかし、方法はあった。その頃『平凡』とか『明星』とか漫画本の公告のページを賑わしていた通信販売だ。「エキスパンダー」や「ブルーワーカー」や「背の伸びる体操法や薬」などに混じって組立てギターの広告もあり、先輩の中には既に購入して組み立てて一人前のギターとして弾いている人もいたのでその存在は知っていた。価格が1500円位だったと記憶しているが、その頃はドル使用なので換算して送金するのだった。これならそれほど高くもないので、なんとか親や姉とか兄貴達からの小遣いを足して間に合った。
その頃(1960年代)は琉球政府で、沖縄は日本からは外国であった。その為注文してから届くまで2週間以上かかるのだった。なかなか待てないのだ。鏡原中学2年の頃は教室が離れの二階建ての一階で郵便配達が教室の前の通路を通っていくのだった。その郵便が通る時間になると、ばがギターゆばーむちくーんべ、にゃーんさいが、あちゃばかーすべーやー?(俺のギターもってないかな、もってないな、明日くらいかな?)と思いながら、きすぬーつきみーゆーたーさ(眼をそらさず注意深くみたものだ)。しかし、今考えるとその郵便の配達エリアーには自分の家は入ってなかったと思う。その時は郵便を見るたびに後ろのカゴの大きさを確かめたものだった。
3週間近くたって、ギターは学校から帰ると届いていた。やっと来たか〜。よし直ぐに組み立てよう。説明書を読まずともなにが何処についてるかは判っているのだ。早く弾きたいばかりに急いで組み立てた。できた。しかし、ボンドしーたばらす(ボンドで貼り付ける)ところが有った。ブリッジという部分でギターのボディーに貼り付けて弦の根元を固定する部分だ。ボンドが乾くまで数時間以上待ってから弦を付けると書いてあったと思うが、おそらく一晩くらい寝かした方がよかったのだろう。
しかし、もう待ちきれない、そろそろ乾いただろうな、よしよし、とギターの弦(ナイロン弦)を張って、6弦から♪ディ〜〜〜ン、ディ〜ーン、ディーン、と糸巻きを締めてよしよし、いい音になったOKだ、簡単だな。学校から帰ってその日のうちに組みあがった。よし覚えたての懐メロを引いてみよう。んん・・・、上手く弾けないけどそのうち上手くなろう。心がうきうきしていた。
それから2〜3日位たった頃だったと思うが、気分よく弾いていたギターがなにやらミシミシ、と言ったかと思ったら ばんまてぃー、(バリッと)ブリッジが一気に剥がれてしまったでは無いか。あがーい、と言った後は、弦が糸巻きから垂れてさがって、だりにゃーん(ガックリしてしまった)
ボンドの待ち時間か? んぞーさー、かーらきすきゃーぬ時間がもーまたったん、(いやまいったな、乾くまでのわずかな時間を待てばよかったのに・・)今なら即効性のボンドもあるが、その頃の木工用ボンドは乾きが遅いのだった。やはり待つ時は待たねば成らないんだよな。その時誰か友達が一緒に居たと思うのだが誰だか覚えてないのはショックの為かもしれない。
その後は悲惨だった。剥がれた部分に再度ボンドをつけようとしても付きにくいのだ。面が汚くなっているし、残ったボンドが綺麗に取れなくて、その後も何度か剥がれた。苦肉の策で位置をずらしてなんとかつけたのだが、明らかに音が狂っているのだ、のーしぬ 音を くるいぬ やりギターりゃー(どうしてこのギターは音が狂ってるか)と弾いた人に言われると、ぴゃーしからどぅ あんちゅうーゆ、(最初からそうなんだよ)と負け惜しみのような下手な言い訳をしている自分がいるのであった。
ミャークフツ講座 『宮古 スマフツ辞典』について
ひさぼう(平良市西仲出身)
「・・・今後、版を重ねて改訂できればと思います。」 まえがきで、こう述べている著者の与那覇ユヌスさんが、発刊早々といってもいいくらいに、アタマン テイー(急に)旅立たれてしまった(2004.11.28)。
宮古島の遺跡のほとんどは、13世紀以降のものだという。そんな中で、唯一、宮古の歴史始まって以来、存在し、且つ、今もって受け継がれている“文化遺産”がある。ミャークフツ(宮古方言)である。これは、人から人へ、話し言葉として伝わるものだけに、形ある物ではない。それを、およそ一万語、学者でもなんでもない宮古の、ただのアザガマ、シュウガマが、10年がかりで書き上げたというのは、画期的な事であり、おそらくミャークフツに関しては、前人未到のことだと思う。お蔭で、ばんたー(我々は)ミャークフツを、これから、“目に見える文化遺産”とすることができる。
「琉球語の祖語はヤマトウ フツ(日本語)であると言われているが、その中でも宮古方言は、半分以上どこかサニガーズ(種違い)言語のような気がする。」と書いているユヌスさんが、最後に、後に続く人間に託しているのは、ミヤークフツの存続と、そのルーツ解明、という遠い目標であるように思われる。
だいたい、辞典というのは、その都度引くものである。けれど、ユヌスさんの辞典に関しては、通読している。「ン」のことば全部とか、「ア」から始まることば全部とか、という具合にである。以下、ユヌスさんを偲びながら・・。
1.先ず、辞典というのは、通読すると、作り手の人柄なり、仕事ぶり、あるいは生活観というようなものまで、滲み出てくるものだということがわかった。これは、新しい発見であった。そうすると、はからずも宮古の人間の生活ぶり、家庭とか職場、あるいは隣近所の付き合い方などが、辞書の行間から感じとられ、また思い出されて、思わず笑い出してしまった、ということが度々であった。
2.例えば「アガイー」「アガーイ」「アガイタンデイ」「アガイタンデイガマ」「アガイタンデイ ヨーイ」「アガイ マーン」などというミャークフツは、それが話される場面とか、物の言い具合、話し方の様子などが同時に思い浮かべられないと、なかなか理解できない。「ンツタガ ンツタ テイ(重い荷物を運んだり・・するときに息が詰まりそうになること・またそのときの唸り声)」「ンッツ ンッツテイ ジシフィール(講演会場等で、人の間隔をもっと縮めるように頼むこと)」「ンムツアー ンムツア(子どもが期待以上にやっているさま)」「ウツー ウツ(とても親しいこと)」などは、なんどか口に出してみて、やっとがま、あ〜 とわかった。(こういう時は、不思議に母親のしゃべり口が思い出される。自分の言葉の原点は、母親だということか。)それにしても、やっぱりミャークフツの表記は難しい。書く方も大変だったろうけど、書かれたミャークフツを“解凍”してもとに戻して理解するのも、けっこう時間がかかる。長く宮古を離れていると、なおさらである。
3.「アナンカイ ブリンカシ(穴の中に押し倒せ)」「ターヴヴァシ(殴って目眩させろ)」「ミンギ ナラーシ(殴って教育しろ)」「ダミ ビラカシ(仰向けになるまで殴りたおすこと)」「スナシ トウラシ(殺してやれ)」こういう激しい表現もミャークフツの特徴に挙げていいだろうか。子供時分、「スナッ スウガ(殺してやるぞ)」みたいなコトバはしょっちゅう使っていた。ただ、これは表現が粗野というか洗練されていないだけで、気持ちまでそうだとは言わない。例えば、ウチに来た人に食事を勧める場合は「ファイ」と言うわけだけれど、これも直訳すれば「食え」である。ただし、「ンキャギ サマチ(召し上がって下さい。平良では、ンキギ サマチ)」という敬語はある。
ユヌスさんの辞典では、この「ファイ」は、次のようになっている。「ファイ 食べろ。飯を食え。アサムヌ(朝食)、アシ(昼食)、ユス゜(晩めし)を食えと勧めること。」 この辺り、沖縄本島の首里の方言が、身分、上下関係その他で言葉づかいが丁寧に使い分けられているのと対照的である。あちらは王朝文化、こっちは、常民文化である。(・・人頭税時代の、宮古士族のコトバ使いは、ミャークフツとして、残っているのだろうか。)
4.この辞典は、全部、城辺方面の方言であるが、平良市西仲宗根で育った私が読んでみて、全然違うというコトバは、ほとんどなかった。 ナス゜グマタ → ナス゜ガマタ、ナス゜チカー → ナス゜ツカー というような違いだけである。こういう違いというのは、本家、分家という分け方をすると、平良がやっぱり、本家かと思う。アカ(赤)をアハ(伊良部)、と言ったり、バッシライン(忘れられない)を、バッシレーン(久松)などと言うのは、もと(本家)から変化(分家)したものといって“間違いない”。
余談ながら、今から1000年前、平安末期の日本の人口は、650万人くらいと推計されるらしい。単純計算すると、その当時、宮古島の人口は、2,900人である。いちばん関心あるのは、最初に宮古島にたどり着いた人間は、何人だっただろうか、ということである。ミャークフツは、そこから始まった。
5.「広辞林」などの国語辞典と比較してみると、次のようなことがわかる。
(1)ラリルレロから始まる言葉が少ないか殆んどないのは、共通している。
(2)五十音図のエ行とオ行が少ないか全くないのは、いわゆる「琉球語」の特徴。
(3)「ン」の付くコトバが多いのは、国語辞典との決定的な違いである。
そこで、「スマフツ辞典」をめくって、コトバの数が多い順から並べると、ウ、ス、ア、カ、ハそれから、フ、タ、ンになっている。ここで、ンとか、ウ、ス、アという発音は、身体そのものが発する声のように思われる。例えば「ウン とも スンとも言わない」とか「ウン も スウもなく」という慣用語がある。あるいは、「ン?」とか「ンンン」とか。これは、“人間の原始的な発声”を意味してないだろうか。このように身体的というか、洗練されていないコトバが、ミャークフには多い。ちなみに、国語辞典でコトバの数が多い順から並べると、シ、カ、コ、キ、ハ、そして、ア、タ、イである
6.最後に、「スマフツ辞典」に「標準語索引」が付いていれば、標準語からミャークフツが調べられていいと思う。私的には、「衣・食・住」、「行事・祭事」、「動物・植物」、「道具類」、「人物批評」などの項目ごとに「索引」を作れば、「私家版 ミャークフツ辞典」ができる。
ばんたがやーぬつかふ11(後編)(投稿)
平良市西仲 武島玄正
後編は、ばっしらいん(忘れられない)かー(井戸)と ぱり(畑)について書きます。
「ヤマトゥガー(大和井)」
「ヤマトゥガー」の案内板には、国指定 史跡 王府から派遣された在番専用だったとある。小学4年に学童疎開から帰ってから6年までこの井戸と「ブトゥラガー」から水を汲んだ。どちらも階段を下りて汲む井戸だが階段の数が少なかった。「ブトゥラガー」は「ヤマトゥガー」より近くにあったが水量が少なくなることがあったので「ヤマトゥガー」へも行った。
生家から東に行くとT字路になり、南へ行くと祥雲寺へ、北へ行くと下崎へ行く道になる。下崎方向へダラダラと坂を登って保里峰の切り通しまで行く。左(西)に青年会所(ぶんみゃー番所)、東に んむぬしゅーうたき(芋の主御嶽ーサツマイモの苗を中国からもたらした産業三恩人の一人砂川親雲上旨屋をまつる御嶽)がある。
切り通しを過ぎてすぐに井戸に向けて下る道に分かれる。この道は北小の東から来た道と交差する。交差する前の道の東側に、『書けば宮古』に書いた「がんぴんざ」の飾りのついた「がん」の格納庫があり(現在なし)、西に「宮古毎日新聞」で報道された うぷかー(大川)があった。交差点を北へ行くと「ブトゥラガー」があり、さらに進むと「ヤマトゥガー(大和井)」だった。「ブトゥラガー」については「宮古旧記」に修理した記録があるが「ヤマトゥガー」については構築された記録も何も残っていないとのこと。(宮古旧記並史歌集解)
「ムズカ ガー(盛加川)」
なかやーむつ(仲屋通りー北市場の四辻)を東に直進NTTの塔の近くに北へ向かう道があり、その道沿いに「ムズカガー」がある。小学校6年から高校2年までお世話になった井戸だ。大きな あぶ(陥没地形、横穴は、がまという)で直径が24メートルあるとのこと(「宮古の史跡を訪ねて」)。深さは階段が103段あるから1段20センチとして20m、30センチとして30メートル大体その半分と見てよいと思う。この井戸は2万5千分の1地形図には表示されていない。表示されているのは「大和井」と「友利あま井」の2つだけである。
兄が自分用に大きな たぐ(桶)を買ってあったので弟と2人で1つのタグを担ぎ上げた。階段が急で後棒は たぐがだんだん下へ移動し水をかぶることになり、先棒は後ろへ引っ張られ身が反り返ることになる。多くの人が上下して階段はツルツルになり、はじの方は苔むして滑りやすく危険だった。
弟は遊び盛りで水汲みをとても嫌がるので、私が追い回していたら、7つ違いのおばの娘は私が恐ろしい人に見えたらしい。私の下の子がまだ小さいころ帰郷した時「あがい まさあざ あんちどぅ ふふぉばあだきなー」(あれ まさ兄さん 子どもをそんなに大事に抱くのか)と驚きの声を上げた。
来間島の「クリマガー」は100段(「下地町の文化財」より)、佐良浜の「サバウツガー」は123段(「案内板」)。いずれも北側の海岸の岸壁の中腹に泉がある。「ムズカガー」の水汲みも厳しいけど、北風の岸壁はほんとに同情する。
地図を作る時、境界や地名の表示について自治体に問い合わせをすると読んだことがある。宮古島の地形図には鳥居マークが くぼ地や井戸マークに比べて圧倒的に多い。鳥居マークの場所がたとえば「大阿母」に礼拝を義務づけたという基準に当てはまるとも思えない。自治体は意見を求められた時は現地をよく知っている郷土史研究会あたりへ問い合わせてもらうことを切望する。
ぱり(畑)
我が家は5反百姓で2筆になっていて、上の畑が2反、下の畑が3反だった。上の畑には大きな岩があり、がずまぎー(ガジュマル)がへばりつき、なた豆がそれに絡み付いていた。学童疎開から帰った小学校4年、次の年5年までは父が作った作物があり翌年から やーっすぅ(飢餓)が始まった。兄は現金を得るために船大工になり残った私たち3人が畑に出た。
この畑仕事で忘れられないのは、日射病にかかったことである。小学校6年の夏休みは粟の草取りを幾日もかかってやった。ぱりから帰り道に暑いし、くたびれたので道沿いにある がま(横穴)で一休みして人事不省になり、通りかかりの人に見つけられ家に担ぎこまれた。あがんにゃー(東隣)の かまあんな(かま母さん)が大切な ばそーぎー(ばななのき)を切り倒して熱を冷まし私は生き返った。この かまあんなには、さっふぃ(浜の名前)で壊れた舟艇で足のウラを切って大怪我をした時、傷口にヤギのアブラを挟み古草履を患部に当てることを繰り返し治癒させてもらったことも忘れられない。
「ぱり」については中学、高校の時、どのようにかかわったのか記憶がない。「君が学校に連れてきた山羊を焼いて食べたいと思った。あの頃は安月給だったからな」と中学2年の受験組担任から高校まで持ち上がった先生に言われたことがある。
「ぱりから んまかみ(畑から芋の入った ばーき(籠)を頭に乗せ)あがずがーに(東川根)まで行くのは、ほんとに大変だったサー。首が痛くなるので よその石垣にそっと乗せたのはいいけど、また頭に乗せるのが大変だったサー」と姉は覚えていた。
雑草で苦労したのは、まかや(ちがや)で地下茎が深いのでいい加減に耕すとたちまちはびこった。やぱたん(むらさきかたばみ)、かむぬしいぐ(グラジオラス)は内地では寒さで問題にならないが、親イモにくっついて小さい玉が出来その1つ1つが芽を出して大変だった。
畑の三方は石垣であり、北側は境にくさとべら(ウラがやわらかくちび(尻)をふいた)が防風垣として植えられていた。人手に渡ったが現状を知りたいと思って いずばり(西原)へ行く道を記憶をたどってダラダラ上って行ったが沿線は住宅地になっていて ぱりへの入り口が見つからなかった。道の東側にあった想思樹の林は確認できたが、いずばりへ降りる切り通しまで行ってあきらめ引き返した。
みゃーく&みゃーくふつクイズの答え
出題者が用意した答えを最初に、その他の地域の言い方や別の言い方を
( )に記しました。( )の中の答えでも もちろんOKです。
(1)平良市、城辺町、伊良部町、下地町、上野村、多良間村
(2)やまかさ
(3)マムヤ
(4)佐和田の浜
(5)たから
(6)(c)
(7)豊年のあやぐ
(8)多良間島
(9)稲石
(10)2002年4月
(11)池田矼
(12)1771年
(13)キャーン
(14)ミャークヅツ
(15)1959年
(16)お面
(17)知念かおり
(18)野原岳
(19)ミネラル
(20)うぷかー(大川)
(21)イキャーン(タラーン、ンカーイン、イカーン、)
(22)ンーサムヌ(ユヌグームヌ、ンーツァムヌ)
(23)もっと多めに
(24)パスコーパスコー(パスカウ パスカウ、コーコー、コーパズ)
(25)ンミカミバラ(ナカバラ、ンナカバラ、ンナハバラ)
(26)ブイカターキ(パタラキィグナ、ジンマウキグナ、ジンパタラキャ)
(27)ウフタリ、ウフタリャ(プンダイ、フガマシャ、ドウカッティ、ガーズゥー)
(28)うす味党、から味党(あま口、辛口)
宮古ではうす味のことをあま口とも言う
(39)ンナツキ(杵)。(こん棒)
説明:ニーは根っこ、スゥラは先っぽ、ブッタは丸っこい
(30)ピサ (ピスサ(〔ス〕は小文字))
(31)バラン(ブー、プー、バラ、ブバナ、ブバラン、ブーバラン、ブバナン)
(32)ツキダキ(チキダキ)
(33)ジャング ジャング
(34)ウッス(ウッソ)
(35)ツカフ(マイ、マイガマ、アッツァ)
(36)(a)
(37)大嘘、真っ赤な嘘
(38)引っ込み思案
(39)スバ
(40)あそこ、あちら
#答え:21〜29 ひさぼう(平良市西仲出身)
#その他 松谷初美(下地町高千穂出身)
編集後記
松谷初美(下地町出身)
宮古は、ぴしーぴしだったり、ぬふーぬふだったりと気温の差が激しいようですねー。ぶーき゜なき゜(キビ倒し)も始まったようで、農家にとっては、ぱんたーぱんたな(忙しい)日々になりますねー。
さて、メインライターになって初登場、宮国勉さんの「しょうじぎー」のぱなす(話)、いかがでしたかー?身近な木だけど、知らないことが多いなーと実感。ぐむかんや鳥の方言名も懐かしく思いだされた方も多かったと思います。
ばんたがやらびぱだ(私達が子どものころ)は、雑誌で紹介される商品はあこがれでもありました。親に内緒でこっそり通信販売をしていた人は、やまかさ(たくさん)いたはずよー。以前、のど自慢の話も書いたアモイさん、ギターというのは、納得ですねー。ああー、でもボンドがぁぁー!
宮古毎日新聞で「与那覇ユヌス」さんの訃報を目にしたときは、まーんてぃ(本当に)うどぅるき゜たー(驚きました)。ひとつの辞典から見えることはやまかさ(たくさん)あるんですね。ひさぼうの解説の深さには脱帽です。五十音順でとても使いやすい『宮古スマフツ辞典』。大事に使っていきたいですね。ユヌスさんのご冥福を心からお祈りします。
武島玄正さんの「ばんたがやーぬつかふ」。当時、かー(井戸)も、ぱり(畑)も、生きていくうえでどんなに大切な場所だったかが分かりますね。そこから得たものを今も大切に思っている武島さんの気持ちやふるさとが変わっていくことの哀しみが伝わってきました。武島さん、投稿たんでぃがーたんでぃでした。
誰でも ばっしらいん やーぬつかふぬ風景、出来事、あると思います。うわが(あなたの)「ばんたがやーぬつかふ」も ぜひおしえてください。投稿お待ちしています。
前号のクイズは、のーしがやたーがらー(いかがでしたかー)?ご応募いただいた10名(二桁だー!バンザイ!まじで しわ(心配)していたわけさー)の皆さん、たんでぃがーたんでぃでした。
難しかったという声も やまかさありましたが、いい勉強の機会になった、楽しかったという声もあり、やって良かったなーと思っています。他にも、くま・かまのバックナンバーを全部読みましたという方や、隣りに住んでいるおじい、おばあに聞きに走りましたという方もいました。ぷからすむぬやー。それにしてもみゃーくふつクイズの解答の種類の多さには、びっくり。こんなにも地域によって言い方が違うものかと改めてみゃーくふつの広さを感じました。私達もとても良い勉強になりました。
さて、いよいよ当選者の発表〜です!
一位:ア、イラブyouさん(全問正解)
二位:みやこビトさん (39問正解)
三位:ビートルズ世代のサラリーマンさん(35問正解)
おめでとうございま〜す!皆さん、すごいです。宮古についての問題は、三人とも全問正解。それにしても宮古出身じゃないみやこビトさんの健闘にはイギャン(感嘆)!うばいが うばい。お三方さんには近いうちに賞品をお送りしまーす。どうぞお楽しみに。
さて、今号、お楽しみいただけましたかー?
きゅうや んにゃ しまい(きょうはここまで)。ご意見、ご感想をお待ちしています。
次号は、2月3日(木)発行予定。あ、節分の日さいが。お楽しみに〜!
あつかーまたいら。