みなさん、こんにちは〜。 さー、今回は「伊良部特集」どー(ですよー)。あんちぬぱなす かんちぬぱなす てぃ(あんな話、こんな話と)やまかさやりば(たくさんなので)、じっくり楽しんでくださいねー。
始めに伊良部の大まかなこと
松谷初美(下地町出身)
まずは、伊良部の大まかなこと調べてみました。
伊良部町は、伊良部島(周囲26.6キロ)と下地島(周囲17、5キロ)からなり、宮古本島から7キロ余り離れている(でも最短は4キロ弱とか)。平良港から高速船で15分でいくことができる。人口は6710名(2004年12月現在)。主な産業は漁業(カツオ、マグロ、グルクンが主で一昨年は、合わせて1.200トン余りの水揚げあった)と農業(主にサトーキビ。製糖工場も島にあり、昨年は約58.000トンの収穫があった)である。
集落は佐良浜と呼ばれる北部(池間添、前里添)と伊良部と呼ばれる南部(伊良部、国仲、仲地、長浜、佐和田)に別れている。学校は、5つ(伊良部小・中学校、佐良浜小・中学校、伊良部高校)。大きなスーパーが4つ。酒造会社2軒、宿泊施設は10、信号は4つ ある。
毎年渡り鳥のサシバが多く飛来することでも有名。また佐和田の浜や、渡口の浜など、いんぬかぎさ(海の美しさ)も抜群の伊良部だ。
さ、この他の伊良部も語っていただきましょう。伊良部特集、始まり、始まり〜。
佐良浜桟橋
ア、イラブyou(伊良部町佐和田出身)
んなまぬ 佐良浜ぬ さんばしゃーあ、んきゃーんな、いんどぅ あたいど(今の佐良浜の桟橋は海でした)。んきゃーんぬ さんばしゃーあ、佐良浜石油から、あがいんかい幅あ4mばかーい、長さまい30mばかーいぬ簡単なむぬがまーひーどぅ、そぅぬひーったあ、ふにゃーちゅんまちきらいん、やぐみやっかいな、とぅくなどあたいど(昔の桟橋は佐良浜石油から東に幅4m、長さ30m位の簡単な造りで、干潮になると船が接岸できず厄介な場所でした)。
Aコープから、はいばらぬ、んみんかいぬ、んちまいにゃーだ、バスさ伊波まっちゃぬ、かどぅまがりー、新生タクシーぬ、まいから、はいぬすまーたみー、はりーうたいど(Aコープから南に伸びる坂道も無くて、バスは伊波商店の角を曲がって新生タクシーの前から南区目指して走行していました)。
んっちゃ、なうさんっちゃひーどぅ、あみぬ ふーったー、がーらあひきー、やぐみ やなんちあたいど(道路は石紛舗装の為、雨が降ったら大水に流されて凄いでこぼこ道になったものでした)。
さらはまぬひとぅ、ふにからうりったー、しかくたが納屋ぬ まいやとぅーりー、じゃーがまから、わーらーたみーいきー、なかまちまっちゃぬまいからさんぬはなーたみー、あいきー、ぬーいたいだらよ(佐良浜の方々は船から降りたら、しかくさん家の鰹工場の前を通り、拝所から上に向かい仲松商店の前から頂を目指して歩いて上ったものでした)。
うずまきパン
菜の花(伊良部町出身)</p
「伊良部」といったら、うずまきパンも忘れちゃいけない。観光客や、沖縄本島に住む親戚へのお土産としても人気のパンだ。今では宮古空港でも売られているけど、うずまきパンの「出身地」は伊良部だと思うよー。
なんで、うずまきパンと言うかって?ズバリ!うずまきパンだからさー。ざらめの入った白いクリームをたっぷり塗ったロールケーキの形をしたパンと言えば想像つくかねー。ね!渦巻きでしょ?最近では言葉を縮めて言うのが流行っているらしいけど、それでも、渦パンとは言わんよ。「うずまきパン」とちゃーんと言うさー。
一口大にちぎって食べてよし。ちぎってからクリームをサンドするように中合わせに重ねて食べてもよし。どんな食べ方をしても味は変わらんはずなのに、子供の頃はどの食べ方が一番おいしいかと、がー(言い合い)をしていたさー。
うずまきパンは、きび刈に、やーふつに(家を建てる)、御願にと島のいろんな行事の ちょーき(おやつ)に使われていたから、元祖「愛されるパン」の代表選手、花形スターの素質十分。しっとりした甘みのある生地に、ざらめのジャリジャリ感のある真っ白いクリーム・・・他のパンでは味わえない食感だわけ。復帰前は5セントだったから、子どもでも買えるおやつだったし・・・。焼きたてのうずまきパンを買えた時はあーんまりおいしくて、あたらすー(大事に)と食べようと思ってもすぐに食べ終わっていたさー。
今日も誰かに「おいしい」と言わせているとしか思えないうずまきパンだから、今にきっと伊良部島名誉賞を贈られるかも知れんね。間違いなく、そうだはず。
サバ沖井戸
ア、イラブyou(伊良部町佐和田出身)
Aコープから、いーかたんかい300メートルばかーい、いふばどぅ、さんぬあいよ(Aコープから西方へ曲がって300メートルほど行くと崖の淵がある)。
うまから したんかいやひー、やぐみ さかまんあい120段あまいぬ階段ぬ、うりーいふったー、かーぬどぅあい。うまぬどぅ、さばうつがーだらよ。 (そこから下方に向かって急傾斜の崖を縫うようにして架けられている120段余もある階段を下りていくと井戸がある。そこがサバ沖井戸です。)
佐良浜ずまぬひとぅ んみゃー 水道ぬ いでぃきゃたーひゃー、200年まい うまからどぅ みっちゃふみー ちかいーうたいちゃ(佐良浜集落の方々は上水道が整備されるまで200年以上もの間、そこから水を汲んで生活していました)。
あっそがどぅ、うまー、いんばたーひい、そぅぬんちったー、うくそぅぬはいりーちかーいんば、みじふんま、そぅぬひきーうい、とぅきゃんちゃーかひー、みどぅんやらびたー、やぐみ、なんっちゃひーうたいどー(しかしそこは海岸べりに近く満潮になると海水が入り込み使い物にならなかったので、水汲みは干潮時を見計らって行われ、婦女子にとっては大変な重労働でした)。
やーやーぬかーっちゃ、天水タンクまい ありー うたいそぅがど、夏のひゃーいん、ないったー、みっちゃ、にゃーんふないば、はいぬすまびとぅんみぬ、馬車ん、みっちゃちみー、ういーまーりーうたいど(各家庭では天水を受ける水がめも用意されていたが、夏場の旱魃になると底をつくので、南区の方々が馬車に水を積んで売り歩いたものでした)。
佐良浜校のみじタンクん、みじぬ、にゃーんふないったー、はいぬすましいとやらんみぬ、うながーたまたま、くぴんー、みっちゃいりー5キロぬ、んっちゅ、あいきーむちーっちーい、ふぃたいど(佐良浜学校の水タンクも空になると南区の生徒達が思い思いの瓶に水を入れて5キロの道程をテクテク歩いて運んでくれたものでした)。
いみーっちゃぬ、やらんみぬ、一升瓶ぬ、ばったん、っふぁひー、佐良浜がみ、あいちてぃーぬくとぅ、やぐみ、くーむぬあたいんむがら、んちなかがみあいきーや、くぴんな、うとひー、すきゃーひー、なふやらんみまいどぅ、うたいちゃ(幼い子供達が一升瓶を小脇に抱えての佐良浜までの道程は、とても険しく、中には途中で落っことして瓶を割ってしまい泣き出す子もいたようです)。
上水道が整備された今日、島の人々は「サバ沖井戸」を見るたびに昔を思い出し、水の有難さを実感する。今では史跡に指定されて観光名所になっています。伊良部町のホームページや「サバ沖井戸」を検索すると写真が見えます。
通り池
かい(伊良部町出身)
伊良部は、正確には伊良部本島と下地島からなっている。下地島は、訓練飛行場が島の大半を占め人は住んでいない島だ。その下地島西海岸に、大きな2つの池が並んである。北東側の池が、直径55m水深約40m。南東側が、直径75m水深50m。2つの池は、地下で海とつながっていて、青々とした水を湛え潮の干潮で水面が変化する。「通り池」とはこの2つの池をまとめて呼ぶ。
しかし、不思議だ。いつの頃から「通り池」と呼ばれたかは知らないが、どうして昔の人は、この2つの池が中で繋がっていることを知っていたのだろうか?海まで繋がっていることも知っていた?単純に水位の変化を観察するだけで分かったのだろうか。それとも、素潜りで地下の天然橋を渡った人がいた?もし、昔の人が通り池に落ちたら、きっと這い上がれないし、きっとそれは死を意味したことだろう。
それにしても、「自然というのはどうしてこうも神秘的で美しいものを造り上げるのか」通り池を見るほどにそう思う。地質学的にその成り立ちを説明してみよう。この池は、もともとは海と通じる鍾乳洞だった。波の力でどんどん鍾乳洞が削られていき、洞くつが大きくなったある時、天井が崩れ、2カ所で陥没が起きた。そして、天然橋で結ばれる2つの池となった。ちなみに、鍾乳洞だったということは、以前は通り池は陸上にあったということらしい。(鍾乳洞は陸上でしか出来ない)。
最近、通り池はダイビングのスポットにもなっていて人気がある。何でも、通り池は下は海と繋がっているから海水で、池の水面近くは淡水になっている。海水から淡水に変わるオレンジ層があるとかで、これは通り池特有の、外では見られないものらしい。
正確には覚えていないが、私が大学生の頃、通り池にテレビカメラが入った。それまで通り池は神秘的で、畏怖を感じさせるものだった。下地島空港が出来るまでは、松林の中を通って行かなくてはならず、車の無い時代にはそうそう足を踏み入れる所では無かった。私達も学校の遠足とか、そういう時くらいしか行ったことがなかった。柵も無く、のぞき込むのはとても うとぅるす(怖い)ところだ。岩はごつごつしていて、シートを下に敷いて座っても、痛みがシートを突き破ってくる。走り回って遊ぶには危険 極まりないし、ただ座って池を見てお弁当を食べるだけの遠足だった。遠足には向いていない所と思ったが、伊良部には外に行くところがなかった。
科学的なメスが入ったことで、通り池は昔ほど怖いところではなくなった。今では、休憩所も出来ているし、近くの通称「なべ」までも遊歩道が出来ている。「なべ」とは、ウミヘビが産卵に来るところだとかで、形が鍋底に似ているからついた名前だと聞いている。
通り池には、2つの伝説がある。
1つが「よないたま伝説」。
昔、下地島には人が住んでいて村があった。ある日、村の漁師が人間に似た魚を釣ってきた。変わった魚なので、明日まで村人たちにも見せてから皆で食べようということになった。
その夜、ある家の子が夜泣きして「伊良部に行きたい、伊良部に行こう」と大声で泣き出した。母親がもう遅いからと、いくらなだめすかしても子どもは泣きやまない。仕方なく母親は、子どもを連れて伊良部島に向かった。橋を渡ろうとしたその時、遠い沖の方から「よないたまー、よないたまー。どうして帰りが遅いのか」と呼ぶ声が聞こえてきた。これに答えて「お母さん。私は人間に捕まってしまい、明日には食べられてしまう。どうか助けて」という子どもの声も聞こえてきた。
親子は怖くなって急いで伊良部に渡った。そして次の日の朝、下地島の村に戻ってみると、一夜のうちに村ごと無くなってしまっていた。よないたまのお母さんが大津波を起こして子どもを助け出したのだという。
その時に村の辺りが陥没して通り池ができたそうだ。
*長浜などの方言では、ジュゴンのことを「ユナイタマ 」という。
伝説の2つ目は「継子台(ままこだい)伝説」
昔、継母が先妻の子を殺す計画を立てた。夕方になって潮干狩りに行こうと言い、自分の子と継子を通り池に連れ出した。遅くなったので通り池で一晩明かすことにする。
継母は、我が子は滑り落ちないようにごつごつした岩の上に寝かせ、継子は滑り落ちやすいようになめらかな池の縁近くに寝かせた。そして夜中に、池の縁に寝ていた子を通り池に突き落としたのだ。ところが、子どもたちは継母が知らない内に寝床を入れ替わっていた。そうとは知らない継母は、自分の可愛い子を突き落としてしまっていたのだった。朝になってそのことに気がついた継母は気も狂わんばかりに泣き叫び、自分も池に飛び込んで死んでしまった。
宮古島に行く機会があったら、伊良部島にも渡ろう。伊良部に行く機会があったら、是非「通り池」に行こう。 行くべき !!
いらうふつ講座
ア、イラブyou(伊良部町佐和田出身)
伊良部には大きく分けて東区(伊良部、仲地)、国仲、西区(佐和田、長浜、北区(佐良浜)と、4種類の言葉があります。その区域の中でも微妙に違ったりしますが、今回は、区域によって違う言葉を紹介しましょう。
「兄」
あざ | 西区 |
あだ | 国仲 |
あざ | 東区 |
あじゃ | 北区 |
「良い天気」
ざうわーつつ | 西区 |
だうわーつつ | 国仲 |
ぞーわーつつ | 東区 |
じゃうわーつつ | 北区 |
「ざうわーつつ」で思い出しました。内地の人を観光案内した伊良部のAさん、あまりの天気のよさに「あがいんみゃ きゅうや だいずな ざうわーつつやいば(ああ、きょうはすごく良い天気だなー)」との思いを共通語で伝えたいのだが、「ざう」までは何とか分かるが、「わーつつ」をなんと言っていいのか分からない。そこではたと思いついたAさん。そうだ、わーは豚でつつは月だから「あー今日は、大変ないいぶたつきだなー」と、のたまったそうな。
次は「ぶらいん」
伊良部町北区の佐良浜で「ぶらいん」とは何?と訊くと「ブライン凍結」という答えが返ってくる。そう、佐良浜では魚の鮮度を保持する為に海水を利用した急速冷凍のことを「braine凍結」と言うのです。
ところが、東区の伊良部仲地で「ぶらいん」とは?と訊くと「飲まだー ぶらいん やらー」と、なる東区では、何々せずにおれない、ということは「ぶらいん」で「飲まだー ぶらいん」は「飲まずにおれない」ということである。
例えば、おとーりを廻す時、前口上で挨拶をしてから廻すんですが、挨拶の〆に「...と言う事でおと―りを廻します」と言うと間髪を入れずに周りの人が片膝を立て、一斉に右手拳を高く突き上げながらセーノに続いて「飲まだーぶらいん」との、大唱和の声と共に酒座が一層盛り上がる、という趣向である。(これには挨拶が素晴らしいので「飲まずにおれない」という話し手に対する評価も含まっている)
北区、佐良浜では英語のブライン。東区の伊良部仲地ではおれないのブライン。どちらが正しい?どっちも正しいサアヨー。
それからこんな言い方もします。
「待っていて」
マチー ウリ | 北区、西区 |
マッチ ブリ | 東区 |
「待っておれない」
マチーヤ ウライン | 北区、西区 |
マッチャー ブライン | 東区 |
「食べずにおれない」
ファーダー ウライン | 北区、西区 |
ファーダー ブライン | 東区 |
「折れない」
ブライン | 北区、西区 |
ブライン | 東区 |
今度は3区とも別の言い方
「早くおいでよ」
ひゃーかりくーよー | 北区 |
ぷっちぃてぃーくーよー | 西区 |
いそがーてぃーくーよー | 東区 |
「走っておいでよ」
はいっちーくーよー | 北区 |
そーう”ぃーくーよー | 西区 |
がらみっちくーよー | 東区 |
「くーよー」は遠近法でいうと遠いところにいる時の呼びかけで、眼前の近いところの場合は、「くーらー」になります。手招きで呼べるところにいる時などは「ぷっちーくーらー」などで、寒いときでもクーラー。それの直訳で子供達は「早くと、おいでラー」が主流です。
字別対抗の陸上競技会では「走れ走れ」で応援しますが「そうう”ぃ そうう”ぃ、がらみき がらみき、はいっち はいっち」又は「そうう”ぁだ そうう”ぁだ、がらみはだ がらみはだ、はいっちゃだ はいっちゃだ」の応援合戦が繰り広げられます。
未来予想図(おとうがぱなず 父の話)
菜の花(伊良部町出身)
下地島訓練飛行場の管制塔が仕上がった時、あんな(母)と うとぅ(弟)と あー(私)は おとうに そーいぴりゃい(連れられて)管制塔のらせん階段を登った。
すたーらんな(眼下には)いんかい(海に)んかいじ(向って)真っすぐにのびる滑走路が みーらーい(見え)、うぬぱすんな(その先には)おーおーぬ(青い)てぃん(空)と いん(海)が水平線で結ばれていた。
ぱずみー みい゜(初めて見る)管制塔からの風景に見入る私の ゆかーら(横)で、うんたーき むぬい゜ざん おとう(それまで黙っていた父)が「この飛行場は君ら(島の若者)のものだ」と一言ふつ(口)にした。おとうが みーんな(父の目には)滑走路の遥か先の未来に、あたかも賑わう飛行場が見えているようだとなぜかそう思ったことを んなみまい(今でも)憶えている。
父は下地島訓練飛行場の建設工事の ぱずまい゜から しまいたーき(始めから終わりまで)関わった たうきー(一人)である。当時小学6年生(1972年)だった私が高校2年生(1978年)の時ようやく飛行場は完成した。その間父は現場で指揮をとり、やーんな(家では)くる日もくる日も図面を広げ、おびただしい数の測量写真を厳しい表情で眺めていたことだけが思い出される。
私は折々に工事現場に父と同行することを許され見学にいったことがある。埋め立ての様子も見た。32トンダンプカーが何十台も列をなして土砂を運搬する様子は、やらび(子ども)の私には衝撃的ですらあった。ぱたらつ ばはむぬてぃが(働く若者達の)気合を ちゃーすくい(掛け合う声)、活き活きとしたみぱなまい(表情も)鮮明に記憶に残っている。会社や現場には事故防止の看板が いふつまい(いくつも)そびえていた。その中でも「ケガするな!家で子が待つ、母が待つ」という標語がすぐ浮かぶ。
滑走路工事が終わり、管制塔の測量をする頃になると、父の仕事は昼夜に及んだ。管制塔の測量は つつぅのにーん(月ない)ふらよーん(闇夜)か新月の ゆなは(深夜)に、にぬふぁぶす(北斗七星)を中心に行われた。くぬとぅきゃんな(この時は)母も父のために あつーあつぬ ちゃー(熱いお茶)と まい゜ぬい゜(おにぎり)をむっち(持って)同行した。ずーぬむぬぉあらん(地上のものではない)てぃんぬぷす(天の星)を元に測量をするということは、父にとっても体験したことのない すぐぅとぅ(仕事)だった。
当時の父はとり憑かれたように働いていた。にーむぬゆん(寝言)も仕事のぱなす(話)だった。無口になり、むぬまいふぁーん(食事もしない)ことが多くなった。夜中突然起きだして、そのまま みなは(庭)にでて夜空を見上げていることが何度もあった。思春期を迎えた私にはそんな父が近寄りがたく、遠かった。
いつだったか、私は父になぜ飛行場が下地島に必要か聞いたことがある。「島にはこれといった産業がない。飛行場が出来ればそれに関連した仕事が増える。観光客も来る。島の未来が変われば君ら(島の若者)の未来も変わる。大和で勉強したら帰って来れる。島の優秀な子からはパイロットがでるかも知れん」と意気揚々と語った・・・それが父の答えだった。
どぅがっふぁ(我が子)の未来、すまの ばはむぬ(島の若者)の未来、島の未来へとおとうが みー(父の目)は、ひたすらに未来に向いていた。私もっふぁ(子)を持ち、すぐぅとぅ(仕事)を持ち、かぬとぅきゃぬ(あの時の)父の とぅす(年齢)に つかふなす゜んなみやりばどぅ(近くなった今こそ)父が のーゆ(何を)思っていたかが分かる気がする。
うりかー(あれから)何年もの時間が過ぎた。一度は旅客線となったこともあったが、んなみゃー(今では)ジャンボ機の飛行訓練の他、米軍機が着陸したとのニュースがたまに流れる。父はあの世でこの様子をどう見ているのだろう。複雑な思いで「下地島訓練飛行場」という ずー(文字)を目にする中、父の書棚から「郷友会誌いらぶ」と書かれた20年余前の本を見つけた。
うぬ(その)なはんな(中に)「下地島の松中野原(まつなかぬー)に「黄金の番父がま(くがにのばんうやがま)」という人がいて、連日連夜灯りをともし黄金の番をしていた。その灯りは、佐和田の浜に漁りに行く晩には、よく見られたという事である。(中略)この黄金は伊良部島の為、役立ててもらう為に番をしているということであった。この位置は現在の下地島訓練飛行場の滑走路真中あたりという。伊良部島の人達は昔の松中野原の黄金の番父の灯りは今飛行場(黄金)の灯りと変わっている。昔からの言い伝えは本当の事であった。と話している」(以後略)
「郷友会誌いらぶ」昭和57年発行 P99 下地島の伝説:松中野原(まつなかぬー)・黄金(こがに)の番父がまの話佐和田カニより収録
この伝説が本当なら、島の未来への遺産として黄金の灯りをともし続けられる飛行場であって欲しいと願う。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
ふぅー、一口に「伊良部」と言っても、奥が深いですねー。小さな集落の間でさえも言葉もこんなに違うのだから、びっくりしてしまう。
今回、知っているようで案外知らないことの多い、伊良部について、出身者をメインに特集を組みました。地元の人じゃないと書けないことが載せられたんじゃないかと思っています。
のーしがやたーがら いー(いかがでしたかー)? (佐良浜風)
ア、イラブyouさんは、ハンドルネームにあるように、伊良部をこよなく愛していることが分かりますね。「佐良浜桟橋」と「サバ沖井戸」は、佐良浜ふつで書かれていて、音声まで聞えるような感じです。
ア、イラブyouさんによると「サバ沖井戸」の「サバ」とは、「鱶(ふか)」のことで「さばうつがー」というのが本来の呼び名だそうです。鱶の口に地形が似ていることから名づけられたようだとのことでした。
オトーリのときの大唱和の様子は、さすが伊良部!一度見てみたい光景です。
やらびぱだから(子どもの頃)から、通り池の「継子台伝説」の話は、よーく聞かされていた。宮古の民話の中でも上位にあげられるほどよく知られた話だ。伊良部といえば、「通り池」というくらい、んきゃーん(昔)からの観光スポットで、神秘的な場所だ。だから、「よないたま」の話も、本当にあり得る感じがしますね。「なべ」のことは っすさったんー(知らなかった)。今度ぜひ行ってみよう。
下地島空港を作った側から書かれた文をこれまで ゆんたーくとおー にゃあったん(読んだことはなかった)。離島ゆえ、就職先が少ない若者のために、そして、伊良部の将来のためにと、作っていたことが分かりますね。今いろいろ問題が出ているなかで、やはり、作った人たちの思い、原点を っばっしゃーならんてぃ うむう(忘れてはいけないと思います)。
うずまきパンへの想いは、誰にも負けないと自負していたけど、伊良部の人たちの想いには負けそうだなー。
伊良部には、なんか目に見えないエネルギーが詰っているような気がしますね。人もバイタリティがあり、頭脳明晰の人が多い。(かいも菜の花も高校の同級生だけど、私と違って、ふたりは本当に頭が良く成績優秀だったよ)。すごいです。伊良部。
まだまだ他にも魅力が だう(たくさん)ある伊良部です。今度は、地元じゃない人から見た「伊良部」もやりたいですね。うぬとぅきゃんな(その時は)ぜひ皆さん、投稿してくださいねー。
今回、伊良部のことを調べるのに、伊良部町役場の方に大変お世話になりました。ぴっちゃ ぷとぅぷとぅ(少しドキドキ)としながら電話をしたのですが、とっても、親切な対応でした。特に商工観光課の儀間さん、嫌な顔もせず(見えてないけど)、いろいろ調べてくださり、たんでぃがーたんでぃでした。水産課の方も、農業振興課の方も大変お世話さまでした。
みなさん、伊良部のことを知りたい時は、ぜひ、伊良部町役場へ。親切におしえてくれますよー。そしてぜひ伊良部へ足を運んでみてください。
伊良部特集へのご感想、まちうんどー(お待ちしています)。
次号は、3月3日(木)発行予定。お、ひなまつりさいが。あつかーまたいら〜。感冒にはお気をつけて。