みなさん、こんにちは〜。 ぱだーぱだ うらまずなー(お元気ですかー)。
もう6月。ぴゃーむぬ いら〜(早いですね〜)。
さて、新しく「初めて物語」というシリーズが始まりまーす。
今回は、アモイさんの「初めて物語」が登場です。その他にも良い味そろえてのご提供、最後までお楽しみください〜。
初めて乗ったバス
アモイ(平良市出身)
私がはじめてバスに乗ったのは、5〜6歳の頃だったろうか? 親父に連れられて、平良へいった時だった。ぴさらんかいぬ 服―きし、するするてぃかーしー、すぅがりがまーしーバス停がみ あいきいきすたーさー。(平良行きの服をきて、おしゃれしてバス停まで向かった訳さ)
我々農家の人が平良へ行くときは、まず洋服が違うのだ。普段は、やーんきす服てぃ やりだだーてぃぬ 服ーきし すぷたすぎ かっこーやーしい うりってぃまい(家で着る服といって、ぼろでつぎはぎだらけの洋服の格好をしていても)平良へ行くとなると、みどぅんあんがぬきゃーや、おしろいがもーつきってぃ かばすーかばすぬ かざがまーしー すこーり ハイヒールがもーふみ さなーかふう゛ぃ(大人の女性達は、おしろいをつけて、いい香りをさせ、身だしなみを整え、ハイヒールを履いて、日よけの傘を差し)出かけるのが定番だった。
だから、平良へ出かける母親が準備にかかるだけで子供達はそれをすぐに察知できるのだった。甘えんぼうは っすぅすさしー、かーちゃんを だまがらすたーさいが(自分も行きたいとだだをこねてお母さんを困らせたもんだ。)
バスに乗る前のアモイ小僧は、ワクワクドキドキしていたような気がする。しかし親父と一緒なので安心感があったのだろう。バスに乗って、車掌の発車オーライの合図でバスが動き出した。窓から外を眺めていたアモイ小僧は、びっくりしていた。あれ、外の木が後ろへ動いているではないか?バスが走っているんじゃなくて、外の景色が後ろへ後ろへと移動していくのだ。親父に話そうと思ったのだが、内気なアモイ小僧は自分がバスに乗るのが初めてというのを他人に知られたくない気がして話さなかった。みんな平気な顔しているのでバスに乗ると言う事はこんなものなんだ、と言い聞かせた。
遠くの木はゆっくりと後ろへ流れ、近くの木は近づいてきたか思うとアッという間に見えなくなるのだ。その不思議な違和感はそれまで感じた事はなく、ずーっと外の景色が前から後ろへ移動していくのを繰り返し繰り返し追いかけて飽きる事がなかった。
車を運転する人なら経験があるだろうか、片側2車線の道路で渋滞で止まっている時に、ぼんやりした感覚で隣の車をみていて、思わずびっくりして思い切りブレーキを踏んでしまう。しかし、尚も自分の車がバックして行くので、はっとして前方を見ると、すぐに隣の車の列が流れている状況に気づ付く事があるものだ。
今、宮古島ではバスに乗る人が少なくて路線バスを維持していくのが大変なようだが、その昔は、高校生はもちろん、一般の人々もバスを良く利用していたものだ。私も高校2年の途中まではバス通学で、城辺線の更竹のバス停を利用したものだ。その時代は高校生がすごく多くて、バスはほとんど満員状態だった。更竹バス停を通るのは「城辺町営バス」と「城辺協栄バス」の2社だ。主に協栄バスを利用した。協栄バスの方が民間経営で本数も多く、いいバスが多かったからだ。
始発や遠くから乗ってくる人は後部座席の方に座っている。しかし、なぜか後ろの方に座るのは男子学生がほとんどで女子学生は前の方にいる。宮古工業高校の生徒は、一番先に降りるが、後ろ側の人は前からは降りられず、後ろのドアーを開けてもらって降りる、乗車券は前のドアー付近に立っている女子学生を通して運転手に渡すのだった。それでも乗車券で不正をしている人を見たことがなかったので、その当時のバス通学の学生はほんとに正直だったなと思う。その乗車券を受けとった女子学生が可愛い子だと気分がよかったものだ。
バスに乗っている男子学生達は何を考えていたのか?人それぞれではあろうが、巷でのある会話、「“中休み”の停留所から ぬーりきす(乗ってくる)高校生ぬどぅ可愛いがまや、」「あらん(ちがう)七原停留所ぬ農高生ぬどぅ可愛いだら、」「てぇ、工業生ぬどぅ ぞうぎ(きれい)だら、」「あらんかいりゃー制服しどぅだましゅー、(ちがうあれは制服でごまかしているさ)」
帰りのバスは、必ず後ろの方に先輩や生意気で喧嘩のつよい学生が、我が物顔で乗っていた。バスに乗るときだけは、遠くから来ている人の方が偉く思えて、ある意味羨ましささえ感じていたものだ。
学生の時に乗ったバスの中からは、動いていく景色はみえず、しっかりバスが道路を走ってっており、もう初めてバスに乗ったときの感覚はすっかり消えていた。
しかし、高校卒業して、平良桟橋から希望に胸膨らせて宮古丸に乗って本土を目指して出航する時にもまた同じような感覚が襲ってきた。汽笛がボーッと鳴って出航したはずなのに、船は止まったままだ。見送りのテープがプツンプツンと切れていって、家族や友人や親戚の人達の方が「蛍の光」の音楽とともに自分だけを残して去っていくように思えてなんとも言えない寂しさを感じたのだった。
それは、初めてバスに乗ったときのあの感じとそっくりだった。いま思えば、しっかり前をみていないと自分を見失うぞ、という戒めだったような気もする。
兄を想って書いた詩7
ワタリマリ(上野村出身)
この詩は、脳性マヒの あざ(兄)を想って書いたものです。
「家庭訪問」 この時期、学校の家庭訪問はそろそろ始まるのだろうか ボクは学校の義務教育は受けてないから ボクの先生が、ボクのために、ボクの家にきた という経験を持つことなく一生を終えた だけど妹たちの家庭訪問は、まるで自分のことのように嬉しかった ボクはそわそわした どきどきした 向こうのほうから子供たちの声が聞こえてきたら次はボクの家だ 奇声を発して、かあちゃんに知らせる で、怒られる 「しんしいが きいちかあ すなあきしいう」と (先生が来たら おとなしくしていなさい) 静かにするなんて、できっこない どんな先生だろう・・・ 子供たちと一緒に先生がやってきた 一番座で、母ちゃんが迎える また今年も台湾ちゃあ(お茶)と アーサ(アオサ)の玉子焼きでおもてなし ボクはそっと戸の陰からのぞく 本当は、僕も一緒に迎えたい だが、ほらやっぱり、悲しくもボクはいつも裏座に隠されてしまうのだ 妹たちにしてみれば ボクのようなニイニイがいることが恥ずかしいようだ 毎年のことながら、ボクはやっぱり裏座に追いやられた ボクはそのことに抗議する 思い切り大きな声を出し、先生のいる座敷に這いずっていった 妹たちも負けてはいない またボクを引っ張る うまんうり(そこにいなさい)とボクをにらみつけ 力ずくめで僕を静かにさせようとする 舞台から引き摺り下ろされているようだった 何度か繰り返されて、さすがのボクも疲れて無抵抗になる が 腹の怒りは収まらない 先生が帰った後、ボクはそこらじゅうのものを蹴っては 怒りをぶつけ、破壊した 大きな声でも泣いた 叫んだ 着ているものも全部脱いで裸になった 自分で自分を守る唯一の方法でみんなを怒った どうしてボクはいつも裏座なんだと 話の邪魔をするわけでもない ただどんな先生か、会ってみたいと思うのが普通だろう いいさ わかっていた 妹たちの気持ちも 痛いほどわかっていた ボクを決して隠しているわけではないこと ボクがいることを認めていないわけではないこと・・・わかっていた 妹たちはボクに「ごめんね」との気持ちでいっぱいなんだってこと 妹たちはまだ幼すぎて 恥ずかしい気持ちを乗り越えられるほど成長してないってことも そう思うと、やがてボクの怒りも落ち着いてくるのだった ボクと妹たちの舞台裏の喧騒が気になる先生に 母ちゃんは苦笑いしながら ボクが「いる」ことを話したそうだ その頃というのは 人権がどうのこうのと 難しく考える時代ではなかった 少なくともボクの身近ではね だが、とてもいい先生もいた 隠す必要はありません、という どうぞ、どうぞとボクに表に出るよう、声を掛けてもらった そんなことを決してしてはいけません と妹たちにいう 多分人権を、重んじる先生だったのだろう 母ちゃんは泣いている 救われた思いがしたのだろうか? ボクは、堂々と一番座に上がりこんで、学校の話を聞いていた 妹がほめられれば嬉しくなり そうでなければ、奇声を発して妹をかばった 逆の先生はどうだろうか? ボクの やどぅゆん(大声)をききつけ、ちらっと奥をのぞく 好奇の目でボクを見る にこりともしない ・・・次がありますので・・・ ほら、もう やどぅうつ(玄関)におりている 母ちゃんはため息をつく にんぎん みーゆ ばあ すうん(人間とはみていない) もちろんボクのことさ 家庭訪問はボクと、ボクの家族との葛藤の日でもあった いい先生に出会うたびに、ボクは存在が認められる 妹たちも考える 考えながら成長した妹たちは ある年からボクを裏座へ引きずることもしなくなった ボクは、先生が帰った後の アーサ(アオサ)の玉子焼きのお残りを頂き 母ちゃんの 言葉を待った くぅとぅしぬ しんしいや 上等 ぬ しんしいさあ (今年の先生は良い先生さー) その言葉次第で、玉子焼きは、おいしくもなり、まずくもなるのだった 妹は家庭訪問の時期になると そんなボクのことを思い出して泣くのだそうだ こちらではもう、家庭訪問はありません
心に残っている言葉編
ざうかに(平良市宮原出身)
やらびぱだ(子どものころ)、あさんま(両親)からよく言われた言葉で今
でも、ばっしらいん(忘れられない)ものがあります。そういうのをいくつか。
●やぱーやぱぬ しゅうが まいんな いき゜な やっう”い しゅうが まいんかい いき゜
直訳:優しいおじいのところへは行くな 恐いおじいのところへ行け
意味:優しい人よりも厳しくしてくれる人の方が自分の為になるよ
●どぅが さみゃーつん かかいだなっしってぃ ぴとぅぬ さみゃー かかいん
直訳:自分の湿疹さえもかけないのに、人の湿疹はかけない
意味:自分のことさえしっかりできないのに 人の世話はできないよ
●どぅすっさ どぅすどぅ ふぉー
直訳:友達は、友達を食べる
意味:友達といえども、あまり深く付き合い過ぎると嫌な思いもするよ
●ちびるん どぅす
直訳:おしり友達
意味:いつもくっついてばっかりの仲の良い友達
●かいが ちびゆ なんみ くー
直訳:あいつのお尻をなめてこい
意味:「爪の垢でも煎じて飲め」と同じ意味
●うう”あ ギターゆ ぴかだかー んざぬがやん まずがーまず
直訳:お前はギターを弾かないと、どこが痛いんだ まったくもう
意味:そんなギターばっかり弾いていないで ちゃんとしろ
んなまい(今も)甦る、あさんまぬ(両親の)言葉。あの頃は、ただうるさ
いと思っていたけど、今は気持ちが分かるさねー。
ナビガースぬ ぱに(蝉の羽)(投稿)
平良市在住 カニさんより
は〜い あざがまた〜 あにがまた〜 カニどーや(はーい、お兄さん、お姉さんたちー カニですよー)。カニゃー すとむてぴゃーし うきどぅど〜(カニは、朝早く起きていますよー)
きゅうや「ナビガース ぬ ぱに」てぃぬ ぱなすうどぅ しーみーてぃどうむいうーすが きすきふぃさーちよ〜(きょうは、「蝉の羽」という話をしてみようと思っていますが、聞いてくださいねー)
かなーがい ばーや ともずぬ 公民館ぬ まうきゃーぬ んつゆど あす゜きーま〜りどぅ うたす゜(この前、私は、友利の公民館の前の道を歩いて回っていたんだ)
公民館ぬ みなかんな うぱ〜たぬ ういぴとぅぬきゃーぬど うぐなーりゲートボールゆどぅ し〜どぅたす゜(公民館の庭には、たくさんのお年寄りたちが集まってゲートボールをしていたんだ)
うぬなかんな ばがししどう しゅうがまぬど うたす゜(その中には、私の知っている おじいがいたんだ)
「はーい カニ うう”ぁまい ばんたとぅ あすぱでぃな」
(おーい、カニ あんたも 私たちと遊ぶかい)
「あがい、ぷからすむぬ たんでぃがー たんでぃ」てぃど ばーや ゲートボールゆしー あすぴどうたす゜(「ああ、うれしいねー どうもありがとう」と私は、ゲートボールをして遊んだんだ)
とむずぬ ういぴとぬきゃーや うすーうすぬ ぴらーぴらーぬ「ウィンドブレーカー」ゆど きしどぅたす゜(友利のお年寄りたちは、とても薄くて、ピラピラした「ウィンドブレーカー」を着ていたんだ)
「はい、しゅうんまがぬきゃ〜 じょうとうぬ ユニフォームゆど きしうーや」てぃ あいじばど(「はい、おじいおばあたちは カッコイイ ユニフォームを着ているねー」と言うと)
「カニー うぬ ユニフォームゆ ばんたーういぴとぅ ナビガースぬ ぱにてぃ あびりど うす゜どー」(カニよー この ユニフォームを 私たち年寄りは、蝉の羽と呼んでいるんだよー)
「のーしー ナビカースぬ ぱにてぃど あずがら〜」(なんで 蝉の羽と言うんですかー)
「あがーい カニ ナビガースてぃぬ いき゜むすや 1日ぬ んぬつしかにゃーん あってぃ ナビガースや うぬ うすーうすぬ ぱにゆど バタバタてぃ ふーらし あららがまわいてぃ いずゆいだし いきどぅ いき゜むすど〜や」(あれー、カニ 蝉という生き物は、1日の命しか ないでしょう そして 蝉はその薄い羽をバタバタと振って一生懸命元気を出している生き物なんだよ)
「カニー ばんたー ういぴとぅまい ナビガースとぅ ゆぬぐー くくるしー 1日1日ゆど あららがまわいてぃどぅ いきどうどーや まんてぃどーカニー」(カニよー 私たち年寄りも 蝉と同じ気持ちで1日1日を一生懸命生きているんだよ 本当だよ カニー」
「あが〜い あんちーぬ くくるしー うぬ ウインドブレーカー ゆど きしうたす゜なー ともずぬ しゅうんまた〜ぬきゃ〜」
(ああ、そういう気持ちでそのウィンドブレーカーを着ていたんだねー、友利のおじい、おばあたちは)
「あがーい たんでぃ みゃーくぬ ういぴとぬ かぎくくる〜」
(ああ、すごいねー 宮古のお年寄りの きれいな心〜)
「はい、ともずぬ ういぴとぬきゃ〜 いつ〜がみまい かまぎたぶにぬ ゆがんすきゃ〜がみまい ばたぶにぬ ばりんすきゃ〜がみまい あまいばらいぬ んつゆど ま〜つき あずきふぃさまちよ〜い」(はい、友利の老人達よいつまでも 下顎骨の歪むまで腹骨(ソ〜キ骨)の折れるほどまで 甘い笑いの人生を 一緒に歩んで下さりますように)
「ナビガースぬ ぱに」てぃぬ ぱなすどやーたす゜
(「蝉の羽」というお話でした)
すぅとむてぃ ボンマてぃ だいばん ぴす゜ゆ ぴすた〜 カニより
(朝、ボンマと大きなオナラを放ったカニより)
※自分たちが着ている「ウィンドブレーカー」を、蝉の羽に例えるとは、深い比喩ですね〜。センスの良さと想いが染みました。ばんまい あんちぬ ういぴとぅんかい なずぶすむぬ〜(私もそういう年寄りになりたいものだー)
「編集後記
松谷初美(下地町出身)
夏のような、あつーあつの日があったかと思ったら、あば、ぴしーぴしなずなず(寒くなったりと)不安定な東京です。宮古の梅雨は、くとっぅっさ(今年)は、のーしーがらー(どうでしょうか)?
前号の100号発行後、ホームページの掲示板では、お祝いのメッセージが、だいずやまかさ(すごくたくさん)書き込まれ、またメールやグリーティングカードが届いたりと、改めて、多くの方に大事にしてもらっているんだなーとぷからすーとなりました。心から、たんでぃがーたんでぃ〜〜。
さぁ、また皆さんの気持ちを心の糧に 次んかい てぃぬ ばーさーやー(次へと いうことさーねー)。今回は新しいシリーズや、新しい方の登場などありましたが、のーしが やたーがらやー(いかがでしたかねー)。
「初めて物語」は、“家に初めてテレビが来た日”とか、“初めてラッパズボンをはいた時”(←古いか?)、“初めてスパゲッティを食べた時”など、初めて経験することを書いてみようというシリーズです。(「神童」発案)宮古ならではの時代的な話もあると思いますので、楽しみにしていてくださいね〜。
アモイさんの「初めて物語」は、バスでしたねー。私が利用したのは、上野線でしたが、学生バス(通学時間帯のバスのこと。ちなみに、映画が終る頃に出る「映画バス」というのもあった)の中の状況は、ぬゆぐー(同じ)でしたねー。そして、とっても幼い頃にも関わらず、初めてのバスでの経験、感覚というのは、印象深く残っているんですねー。
ワタリマリの あざ(お兄さん)を想っての詩、7回目となりました。お兄さんと妹たちの気持ちが、痛いほど伝わってきますね。内地の学校で、家庭訪問は、今は、ほとんどなくなってきているようです。宮古では、今もあるのでしょうか。
ざうかにさんの、心に残る言葉は、あさんま(両親)からの言葉でしたねー。昔の人は、話の端々に ことわざなどがスラスラとでてきていましたよねー。「あすぅが どぅが っふぁんな なんずぅ あんざいんゆ(でも、自分の子供には、なかなか言えないんだよー)」と、ざうかにさんは話していました。あがい、ばんまい さいがー(私もだー)
「ナビガースぬ ぱに」を投稿してくださったカニさんは、とっても ゆがいな(面白い)方で、掲示板でいつもいろいろな話題を提供してくれています。今回の話も、掲示板で書かれたものをメールマガジン用にさせていただきました。カニさん、たんでぃがーたんでぃ〜。
みなさんもどうぞ、掲示板(BBS)に、あすぷが んみゃーちよー。
新しいシリーズの「初めて物語」も「ばんたがやーぬつかふ」も、それ以外のお話でも、読者のみなさんからの投稿を どんない(たくさん)お待ちしています。お気軽にお寄せくださいね〜。
それから、今回のvol.101の感想も、くびやーながーながしー まちうんどー。(首を長くしてお待ちしていますよー)。
次号は、6月16日(木)発行予定です。きっと きゅうや かぎぴかず(きっと きょうは良き日)。がんずぅやしーうらあちよー(元気でお過ごしくださいねー)。あつかー、またいら!