こんにちは〜。梅雨の明けきらない東京です。 宮古は、暑い日が続いているようですねー。
さ、きょうのくま・かまも、いろいろな話がやまかさどー。 最初は、「とぅんからや〜」からいきましょうね〜。 「とぅんからや〜」とは、いったい??
お楽しみください〜。
とぅんからや〜
みしん(池間出身)
「とぅんからや〜」とは、寝泊りにいく家のこと。毎日でなくても定期的に泊りに行く家です。私の同年代がとぅんからや〜にしていた家はほとんどがおばあや〜でした。(私の母ちゃんたちの子どものころ(昭和の初め)は、友達の家が とぅんからや〜になっていたことが多いようです。一緒に寝る友達のことを「とぅんから あぐ」と言います。)
私のとぅんからや〜もおばあや〜。実家で夕食を済ませると、寝巻きに着替えてそのままおばあや〜へ。子供が夜、寝巻き姿で歩きまわるのが普通?だった平穏な時。
おばあや〜と言っても、私の祖母の家ではなく、私が生まれる前に私の父がおじい(おばあや〜の)のかつお船の乗り組み員になったのをきっかけに、家族ぐるみのつきあいが始まったそうです。私はおばあの子供のように育ったといってもいいくらいです。
とぅんからや〜には着替えがおいてあって、母に海に泳いでいいか聞いてダメだといわれたら、とぅんからや〜のおばあにOKをもらい、泳いだ後はとうんからや〜でお風呂にはいるという、悪知恵をはたらかせたり、親から怒られそうなときは とぅんからや〜へ。とぅんからや〜は逃げ場所でもありました。
しばらく とぅんから(泊り)にいかないと、おばあは「きゅうや、おばあたが やーんかい とぅんからしにくい はい」(今日はおばあの家に泊りにきなさいよ)
今でも忘れられない出来事がひとつ。
7、8歳の頃のクリスマスイブの夜に とぅんから。翌日のプレゼントはなにか期待しながら寝ました。クリスマス当日の朝に早起きした私の前には、プレゼントがなかった・・・。ショックのあまり、おばあにはバイバイも言わずに実家へ戻って日記をつけたそうです。「おばあの家には、プレゼントがなかった」ふてくされて布団をかぶっているとおばあが心配してやったきました。日記を読んだおばあは、「ばーや、っさんあたい。んなまから うぶぃ〜うかんとぅ〜 ならん」(私はしらなかった。今から覚ておこうね)
おばあは後で、ブーツ型にはいったお菓子のセットを持ってきてくれたのです。おばあがクリスマスを知っているわけでもないのに、大迷惑な子供に怒ることなくやさしいおばあ。
里帰りの時、子供たちとおばあや〜にとぅんからしました。25年ぶりのとぅんからの感想は?
カーテンも畳も新しくなったけど、昔と変わらない愛いっぱいのとぅんからや〜でした。
宮古民謡どぅかってぃ解説 平安名のマチャガマ
マツカニ(上野出身)
その昔 宮古の平安名村というところに マチャガマというあぱらぎで(美人で)すなかぎ(品のいい)女性がいました。彼女は村中の男性の憧れを一身に集めたマドンナでした。マチャガマは ぶんみゃー(旧藩時代の番所。宮古上布を織らされた場所でもある)の役人達にも人気があり、役人達は先を争ってくどいていました。それに嫉妬した村の青年達(今の高校生くらい?)が、高嶺の花になり、手が届かなくなりそうなマチャガマをあること無い事噂をし、からかっている様子が歌われています。
平安名のマチャガマ 1ハーレー マチャガマや んざんかいてぃが ずまんかいてぃが からずば きっち き゜んば き゜し すぅがりうす゜が (マチャガマは どこへ出かけるつもりで 髪をとかして 晴れ着を着て おしゃれをしてるんだろう? スゥーリ スゥリヌ ヒヤルガヒー(ハヤシ 以下省略) 2ハーレー マチャガマや ぶんみゃんかいてぃどぅ しゅがやんかいてぃどぅ からずば きっち き゜んばき゜し すぅがりうす゜っつあ (マチャガマは ぶんみゃーへと 役人のところへと 髪をとかして 晴れ着を着て おしゃれしてるんだってさ) 3ハーレー マチャガマが いたんむばら かぎむぬびゃんてぃどぅ ちゅらむぬびゃんてぃどぅ うむいやうたす゜すぅが (マチャガマの 下着は きれいなものだと 美しいものだと 思っていたいたんだけど) 4ハーレー あがす゜ぬ いんうてぃ ばりゅたす゜ふにぬ あかもうしんぬどぅ てぃびす゜あぬ ぷい ういびぬ ぷい うすぅいまありゅす゜っつあ (東の海で 割れた舟の 赤い敷物を手のひらの大きさ 指の大きさ 覆っているんだってさ) 5ハーレー マチャガマが いたんぬ ぶうゆば ぬぬぶうびゃんてぃど いちゅぶうびゃんていどぅ うむいやうたす゜すぅが (マチャガマの 下着の紐は 布の紐か 糸の紐だと 思っていたんだけど) 6ハーレー あがす゜ぬ いんぬ ぱまかっつぁうどぅ にぃすぅいすぅいすぅい ぱあすぅいすぅいすぅい なないやまき やいやまき からみまありゅす゜っつあ (東の海の 浜かずらを 根っこごと 葉っぱも添えたまま 七重八重に巻きからめているんだって) 7ハーレー マチャガマや あぱらぎかいばどぅ すなかぎかいばどぅ ぶんみゃぬ しゅうたあん うぷうやしゅうたあん たらさりうす゜っつあ (マチャガマは 美人で品がいいので ぶんみゃーの役人達に 口説かれて いるんだってさ)
宮古民謡では変拍子の曲が多いんですが、この、マチャガマは変拍子のオンパレードで、何拍子の唄なんだか僕にもわかりません。メロディは、1・2・4・7が同じ、3・5がおなじ、6番は字余り、メロディあまりになっております。・・・っとここまで書くと、ものすごい難曲のように思われそうですが、流れがすごく自然な感じになっていて、それほど違和感が感じられません。三線は2揚げ調子で、ポジションの移動が多く、うまく流れができるまでは練習が必要だと思います。
この平安名のマチャガマには、本調子の歌もあります。2揚げ調子が大正演歌に通じるような曲調であるのに対し、本調子は、いかにも宮古民謡らしい曲になっています。内容はほとんど一緒です。調子のちがう2曲があるなんて、マチャガマがいかにモテたかがわかりますね。
それでは、くまかまのマチャガマ達、次回まで。
僕の青春記(出会い)
ざうかに(平良市宮原出身)
あれは、僕が高校生の頃だと記憶にある。
祖国復帰(1972年)を果たし島全体が活気にあふれ、音楽もフォークソング、ロックといったぐあいに若者たちをとりこにしていた時代である。
夏になると、沖縄本島からいろいろなバンドが来島して、僕達を楽しませていた。見るも、聴くも初めての僕は、あまりのショックにこう考えた。「ロックミュージシャンになろう」なんとも単純である。
ロックブームはその後もいきおいを増し、島の若者たちもバンドをつくり各地の公民館等で演奏を始め、若い娘たちにモテはやされていた。
ある時、市民会館で、地元の高校生達の手作りフォークコンサートが開かれた。その時のゲストバンドが、沖縄本島からきたジーザスロードというロックバンドであった。このバンドはハードロックの専門で、ディープパープル、サンタナ、レッドゼッペリン、CCRなどのコピーをしていた。
聞くとギタリストは、宮古島出身というではないか。僕は、なりふりかまわず近寄って話しかけた。年は僕に1つ上、実家は下地のカザンミ、現在は沖縄本島に住んでいるという。しばらくは、実家のカザンミに居るというので、僕は、学校が終わるとすぐにカザンミにバイクを走らせる日々が続いた。
ロックについての話、沖縄本島での話などいろいろな事を教えてくれた。その人とは、のちに、宮古島で一世を風靡したジーザスロードのリーダーこうちゃんである。宮古の若者たちの間では超有名で、とみや会館などでライブをすると、いつーまい(いつも)満杯であった。
彼こそが、僕の青春に欠かす事のできない人物なのである。そして、僕と彼は、波乱万丈の青春を歩んでいくわけである。
その先の話は、機会があれば書いていきたいと思います。
ばんたがや−ぬ つかふ 平良字西里
カニ(平良出身)
ばんたがや−や ぴさらにしざと んどぅ あず
(我が家は平良西里にあります)
ばや− くまん んまり くまんどぅ ぷどぃうたむ
(私は、ここで生まれ、ここで育ちました)
昭和32年の1月生まれです。みゃ−くふつでは「なすきしゃ」=「末っ子」といい、忘れた頃に予定外に間違って作られた子供のようです。父が50歳を過ぎてから出来た子どもです。従って、カニが見たのは、老けた親父と老けた母でした。授業参観の時や少年野球の時、友達の両親は若いのに、カニのところはそうではありませんでした。特に親父は爺さんと間違えられて、「カニのとこは爺さんが応援にきているね」とか云われていました。
ばんたが や−ぬ と−りぬ な−や 「っしなむど−り」てぃ あずようかむ。(カニの家の通りは、「尻並通り」と言うようです)うりゃ−またいつふぬ 武島玄正あざがど くずんどぅ なら−しふぃ−たむ(そのことは、武島玄正さんに教えていただきました)ばや− うぬときゃ−んにゃ まんてぃ ぷからす−ぷからす−し−うたむ(私はそのとき、とてもうれしい気持ちになりました)
自分の家の通りに名前があるなんて、何と素敵なことでしょうか。カニはこのことがとても嬉しくなり、最近は「ばや−っしなむんまりぬカニど−や(私は、尻並通り生まれのカニですよ)」と、が−り(威張って)自己紹介しています。昔の人は「しりなむ」と云う地名でどこらあたりかすぐに解るようです。
カニの通り会は下屋町内会と云われていました。我らが通り会は、ぼーちら(腕白坊主)集団でした。カニの家の前の屋敷内には、城辺・花切の方が住んでいました。その隣には多良間からの方たちが住んでいました。また同じ屋敷内に石嶺という家があり、そこには「カウサムマ」がいました。このカウサムマはカンカカリャのような顔つきで怒ってばかりいて怖かったことをよく覚えています。
花切の家にはよく長間の方たちや花切の親戚らが遊びにきていて、カニは城辺方言の感覚はここで覚えました。隣の垣花という多良間から移ってきた方の家には、いつでも多良間島から来た親戚の方々の宿泊所になっていました。その中で垣花春良爺さんが来るとカニはその家にしばしば遊びに行きました。特に春良爺さんは多良間島の教育長などをしていて、昔の郷土に伝わる手作りの遊びをよく知っていて、特に「か−ぷや(簡単な小さな菱形の凧」「かびすとぅず(宮古凧)」の作り方などを習いました。
カニの家は赤瓦屋で、こじんまりとした家でした。4つの部屋(一番座、二番座、裏座が2つ)しかなくて、裏座に子ども4名机を並べて勉強しました。風呂はないので、夏は太陽熱で熱くなったお湯をジュラルミンのたらいに入れて、そのまま みなか(庭)で風呂を浴びました。
冬になると、時々は ゆーふる屋(風呂屋)にも連れていって貰いました。近くに「きな ゆーふる屋」がありました。新垣屋のすぐ後ろにありました。今は西里大通りにある平良金物店の裏当たりになります。ワルガキ連中は、この ゆーふる屋を覗こうと企み、しばしばカニも加わり、塀に上り、女風呂を小さな窓の隙間から覗いていて ゆーふる屋の主人に見つかり、逃げようと塀から ぶどぅんき(飛び降り)て、足をくじいたことも今は懐かしい思い出です。
カニの家の東隣には山中倉庫がありました。ここは山中商店の倉庫で、製糖工場で生産した黒砂糖の出荷前の貯蔵庫の役割もしていたようでした。いつもは樽に生産された粉の黒糖(薄茶色)を入れて積み上げていましたが、時には検査で不合格した粉の黒糖がそのまま山積みになっている場合もありました。その場合には格別とりたての黒糖の良い香りが流れてきて、時々、カニは「い−ばがま(うれしい)」と云って、手のひら一杯、その粉の黒糖を貰うことができました。この味が格別美味しかったことが今でもカニの脳裏には焼き付いています。
また、山中倉庫の空き地は、下地や城辺から漲水港までヌーマ(馬)に荷を運ばせ引いてきて、帰りにここでヌーマを一息つかせる場所でもありました。山中倉庫の近くに、ヌーマの蹄を修理する宮里つめすぎやーもあり、ヌーマの蹄を直して貰っていました。カニは繋がれているヌーマの顔を撫でたり、しっぽを触ったりして遊びました。ヌーマの尻尾はカッツァ(バッタ)を採るときなどにも使いました。忘れられないのは休んでいるヌーマが暴れ出し、カニはその暴れたヌーマの後ろ足で蹴られ、宙に浮き、落ちたところに地面から飛び出した鉄筋があり、その鉄筋がそのまま口に刺さり、口の中が血だらけになり、ち−ご−ご−で(血を流して)病院に運ばれました。一つ間違えば大事になったんだな−と振り返るとそう思います。
さらに覚えているのは馬に荷馬車を引かせ家路に帰る農夫や叔父さんらにお願いし、少し荷馬車に乗せて貰ったことでした。荷馬車にはブ−ギのぱーがら(藁)とか あかんた(赤土)がくっついており、何だか暮らしの匂いがしてカニはとても好きでした。カニは小さい頃から戦争の話をよく聞かされました。食べるものがなくて、鏡原の地盛や七原まで、※ふさぬいむ(草の芋)を貰いに行ったことをよく聞かされました。その時にカニは農業している人が一番だ、と思いました。自らの土地があり、その土地で自らの食べるものを作ることが一番偉いのだ、と思い、農業をしている農夫を見ると尊敬の念がいつも起こっていました。
※「ふさぬいむ」:「草の芋」とは、芋の収穫を済んだ畑から僅かな残った芋が出てくるのをそう呼んでいるそうです。戦前、戦後は食料が少ないときに平良の畑のない人達は収穫を終えた芋畑に出かけ 草の芋を分けて貰っていたそうです。
今でもそうですが、自分で自分が食べるものを作っている人が、カニは一番だと思います。パリ(畑)で楽しそうに仕事をしている農夫をみると、カニは凄く誇らしげにみえてなりません。このことは凄いことだと思います。
カニの家の通りには、ぼーちら(腕白坊主)が沢山いました。ガキ大将もいて、その仲間の一番年下がカニだったわけです。カニは古き良き時代の最後の騎手だったんです。集団で行動しました。遠いところは大野山林、パイナガマ、長崎、サッフィ・ポ−崎、砂山ビ−チまで、遊びに行きました。
大野山林には、当時大野トンネルがあり、ガキ大将のガラスヤ−のタケボ−あざ(兄)がリ−ダとなり、袖山を越え、底原の道を走り、大野山林の中に列を組んでいきました。大野トンネルの穴は人が1人入るぐらいの広さで、暗いトンネルの中を手探りしながら、冷たい水に浸りながら、進みました。
その当時、そのトンネルは小川が流れておりました。トンネルを越えると、そこは白川田(っさかだ−)といい、カニの記憶ではまだ田んぼが残っていました。凄い牧歌的な景色で白川田の浜でも皆で泳ぎ、帰りには湧き水で潮水を落とし、また平良まで歩いて帰りました。今考えると、そんなに遠いところまでよくも子供らだけで遊びにいったものだ、と感心しています。帰る途中などにバンチキロウの実がなっていて、その実をもぎとり食べながら帰りました。
カニはそのころは小学生の5年頃だったと覚えています。何故かというと、カニの手には大野山林で大きなケガをしたときの傷跡が残っているからです。この傷は小学6年の1月の誕生日に引き起こした大傷で、大野トンネルで遊んだのは、その前だったからです。この時も病院へ運ばれ、10針縫われました。動脈が切れるほどの大きなケガでした。今では懐かしいばかりです。
カニは、水泳はサッフィで覚え、パイナガマで鍛えました。小学の頃、悪ガキ集団でしばしばサッフィに行きました。最初は泳げないので足の届かないところまで行くのはしませんでしたが、泳げる仲間に沖の深いところまで連れて行かれ、そのまま投げ出されました。必死になって泳ぎました。なんとか岩場まで到着することができたときには、カニはどこでも泳げるんだという自信がつきました。
パイナガマは、昔は砂丘のようになっていました。平一小学校時代は夏の水泳実習はパイナガマでした。小学生の頃でした。観光客の女性が大きな手を広げ、平泳ぎで沖まであっという間に泳ぎました。カニはそれをみて感動しました。そして練習しました。だんだんと上手になりました。パイナガマの沖は珊瑚礁のリ−フがあり、そのリ−フから砂浜まではイノ−(内海)になっていました。そのイノ−の中にテ−ブル珊瑚があり、満潮の時には、このテ−ブル珊瑚までくると足がつくので一息できました。
パイナガマの西側にある長崎まで泳ぐには200mぐらいは泳がなければなりません。カニはいつも満潮の時には、そのイノ−のテ−ブル珊瑚を中継基地に使い、長崎まで泳ぎました。そのテ−ブル珊瑚はカニが見つけた秘密の海の基地だったのです。今はこの珊瑚はきっと無くなっているでしょう。
カニの家の墓は宮古農林高校の裏にある小さな嶺を切り崩して穴を掘りできた洞窟墓でした。そこはヤマガマという地名で呼ばれ、そこのヤマガマ部落を通り抜けると、井上造船所などがあるパサマ造船所と呼ばれる場所がありました。その造船所の海岸端に小さな砂浜がありました。パサマの浜と呼ばれていました。その砂浜で着替えをし、長崎を目指して泳いだことがあります。高校生の頃でした。この頃は体を鍛えておくことに力を注いでいました。確かジャンプ力をつけるために、足のバネをつけるために、こんなことをしていたのでしょう・・・。本当に懐かしいパイナガマの思い出です。
まだまだ書いておきたい話が山ほどあります。例えば、ムイカガ−、イザガ−、ンマリガ−などのカ−の話、それから琉米文化センタ−のこと、3軒隣には島豆腐屋があって朝早起きしてユシド−フをしばしば買いにいったこと、北小学校校庭で本土復帰運動の行進が始まり親父と一緒に参加したこと、映画館のこと、ソ−メン工場があったこと、赤嶺パン工場があったこと、儀保商店のこと(アイスケ−キ屋があった)、砂山ビ−チ近くの麻古山で迷子になったこと、釣りをした漲水港のこと、長崎岬での釣りの話、町内会の十五夜行事のこと、城辺線のバス停留所のこと、内山珠算学校のこと、庭のガズマギ−(ガジュマルの木)の上に基地を作ったこと、夜遅くまで通り会で ぱしりみゃー(走り競争)をしたことなど・・・多くのことが走馬燈のように頭の中を駆け巡っていきます。
辛いことや悲しいこともただありましたが、今こうして振り返ると昔は遊びが一杯あって幸せだったんだな、と思います。カニより一世代前の方達は戦争で青春を謳歌することができなくなり、さらには身近な人をなくし、友人らを失い、ないないずくしの貧乏からはい上がってきています。そんなことを考えるとカニはいい時代に生まれて良かったんだな、と思います。その分、精一杯生きようかな、と考えているこの頃です。
ばやー みゃ−くぬ ぴさらにしざと んどぅ んまりたむ
ばやー ぴさらにしざとん んまり くまんどぅ ぷどぃうたむ
ばやー みゃ−くぴとぅ ま−んてぃ みゃ−くぴとぅど−や
おしらせ
松谷初美(下地町出身)
●「宮古アララガマフェスタ 〜あぱらぎミュージック!)〜」
今年も東京上野で「アララガマフェスタ」が行われるそうです〜。
もう、4回目になるんですねー。例年大盛り上がりです。
さぁ、んーなし ずぅ!(みんなで行こう!)
日 時 | 2006年8月27日(日) 午後2時開場 2時半開演 |
場 所 | 上野水上音楽堂(東京) |
料 金 | 前売り:3000円 当日:3500 |
出 演 | アガイダンディーズ、下地暁&パニパニガールズ、前泊徹、 仲本光正&クイチャーパラダイス、長間たかお、パリィクーダ、 かぎ花バンド、宮園優子、国吉源次・義子 |
司 会 | 垣花譲二、金子育子 |
問合先 | アララガマフェスタ実行委員会 琉球センター どぅたっち TEL/FAX 03−5974−1333 |
●「オフ会@宮古」
お盆に合わせて宮古に帰ります〜。オフ会を予定していますので、宮古の読者のみなさん、ぜひ参加してくださいねー。宮古在のライターたちも参加しますよ〜。本の話もあれこれ出るはずね。
参加希望の方は、8月4日(金)までに松谷までメールくださいねー。お待ちしています。
日 時 | 2006年8月5日(土) 午後7時〜 |
場 所 | 和風レストラン「たまよせ」 |
申 込 | 松谷 kumakama@mbp.nifty.com |
編集後記
松谷初美(下地町出身)
八重山商工が春に続いて甲子園出場。うかーす(すごい)快挙ですねー。うばいがうばい。宮古勢も追いつき追い越せ〜。
そして、サントリーカップ全日本バレーボール小学生県大会では「下地クラブ」(女子)が優勝。全国大会へ行くそうです〜。パチパチパチ〜。東京体育館で8月15日から行われる全国大会に出場するとのこと。(宮古毎日新聞より)応援に行きたいですねー。
それから、くま・かま本大変お待たせいたしておりますが、来週24日の週に書店配本(沖縄県内の書店)されるそうです〜。予約の方はその週にはお手元に届けられる予定とのこと。県外の書店でお買い求めの方は、書店に注文してくださいね。よろしくお願いします〜。
さて、vol.128 のーしが やたーがらやー。
「とぅんからやー」というのがあるのを知ったときは、驚きました。私の育ったところ(下地高千穂)にはなかったからです。池間島では、昔からそういう習慣があったんですね。上等習慣だなーとしみじみ思いました。みしんさんが書いているように、子どもの逃げ場所にもなっているというのもいいですよね。子どもが地域の宝として育てられているなーと思いました。
マツカニさん、久しぶりの「どうかってぃ解説」でした。私はあんまりこの歌を聞いたことはないですが、歌の内容の様子が目に浮かぶようです。何番も、必ず対句(例えば「んざんかいてぃが ずまんかいてぃが」など)になっているのも味わい深いですね。
ざうかにさんが書いている人は、知っている人のような・・・(笑)現在は三線を手にしているざうかにさんですが、若い頃は、ギターだったんですね。当時の宮古のロックシーンが見えるようです。続きの波乱万丈な人生も楽しみですね。みなさんどうぞご期待ください。
カニさんの やーぬつかふぬ様子が、やらびぱだ(子ども時代)の姿とともに、イキイキと書かれていますねー。今より自然が豊かな様子や、市街地ならではのエピソードもあって、昔のカニさんのやーぬつかふが想像できました。懐かしいお店の名前も だう(いっぱい)!まだまだ思い出がいっぱいのようですね。これからおいおい書いていただけたらなーと思っています。島の豊かさとともに、みゃーくぴとぅとしての誇り、ジーンと心に染みました。
さて、アララガマフェスタの出演者の中に、アガイダンディーズが入っていたのをごらんになりましたかー?そうです、このvol.128にも登場、ばんたが、ざうかに&マツカニのユニットですよー。今回、晴れてアララガマフェスタに出演です!!ぷからすむぬやー。みなさん、応援よろしくお願いしますね!
アラフェス会場では、くま・かまの本も販売する予定です〜。
次回は、8月3日(木)の予定です。どうぞお楽しみに〜。
がんずぅやしー、またお会いしましょう〜。あつかー、またいら〜。