こんにちは〜。 11月になりましたねー。
きょうは、秋には長い読み物がにぴったり。 読み応えのあるみつぁーずがぱなっすぅ(三人の話し)お届けしますよ〜。
ぬかーぬか(ゆっくり)どうぞ〜。
上海沖縄直行便の話
アモイ(平良市出身)
1996年に私が中国に赴任した頃は日本から中国への旅客は少なかった。現在の上海空港での日本人客の多さや混雑ぶりからすると日本から中国への渡航者は格段に増えた事になり、比例して航空各社の定期航空便の増便も、かなりの力の入れようである。
日本と中国の定期航空便が増える中では中国航空会社各社が日本の地方都市への乗り入れを増やすというのも多い。沖縄→上海便もその中のひとつであった。故郷が宮古島である私にとっては願っても無いことであった。
沖縄便が就航する前に家(神奈川)に寄らず、ダイレクトに帰省するルートとして、上海→福岡→那覇→宮古が多かったが、ある時は便が取れずに、上海→香港→沖縄→宮古島、その帰りの便は台湾経由となり、宮古島→那覇→台湾→香港→上海と一日に4便を乗り継いで上海まで戻ったものだった。
直行便が沖縄へ最初に就航したのは西北航空の臨時便だった。97年の10月頃だと記憶しているが定かではない。現在は上海東方航空に吸収合併されて定期便も受け継がれている。
最初に沖縄に直行したときはほんとにうれしかったものだった。しかし、初期の頃は上海沖縄便は、利用客が少なく、一時休止も有り、このまま廃線になるのかと心配だったが、県知事などが北京まで就航再開を要請したりして、台湾人が沖縄経由で中国を行き来する事などを視野に入れ、客数を確保し現在は一日一便で運行されている。以前とちがい連休のある時期などはなかなかチケットがとれない状況で、以前とは逆な現象となっている。
その直行便では、ちょっとした面白い事もあったものだ。
(その1)
上海で出国手続き終えて搭乗待合室で待っている時、人がいなくて間違いでは?と心配したものだ。那覇に着いて出迎えのバスの中で、知らない乗客同士で目を合わせ全部で6人か?と確認しあったものだった。
(その2)
那覇から上海へ向かうときの乗客がほとんどアメリカ人だったのだ。沖縄の基地にいる人達が中国ツアーに繰り出したのであった。自分以外は日本人が見当たらず、まだ行ったことのないアメリカへでも旅立つような気分になったものだ。
(その3)
那覇空港で出国手続きを終えて売店の店員達と話し込んだりしながら待合室で待っていると急に放送が聞こえてきた。「那覇から上海行きのアモイ様、搭乗口までおいでください。」あれ、何だろう?と思いながら行ってみると、「ビジネスクラスの席が空きましたので座席変更いたします」との事。
へーー何度も利用しているとこういうサービスもあるもんだなーと思ったりしながら、気分よく乗り込んだものだった。浮きうきして誰かに話しかけたい気分だ。しかし隣に座った人は、金持ちそうな若い男で、俺は寝るぞ、話は聞かないぞ、という雰囲気だ。
西北航空は客寄せの為に乗客全員にネクタイなどのプレゼントをしていて、スチュワーデスが配りに来た。もらったあと箱をあけてネクタイの柄を見ると以前にもらったものと一緒だ。スチュワーデスの席はビジネスクラスのすぐ前だ。手招きで呼んでこれこれしかじかで交換してくださいといって交換してもらった。そして乏しい中国語を駆使して会話を楽しんだものだった。
スチュワーデスはマニュアルに書いてある日本語をみながらマイク兼用の受話器を使って機内放送をしている。「まもなく上海に到着します。おざしぇきのベルトをおしめになてください」と放送したあと、なかなか着陸しないのだった。
何だろう?と思っていると、スチュワーデスが私の席にあゆみよるや、中国語で私に今の状況を必死で説明しています。分かるところをつないで、全体を理解すると、現在上海地方の天気が大荒れで飛行機の着陸ができないので、南京に着陸します。それであなたがこれを日本語で放送してください。
「ニーミンバイマ?来来」(判りましたか?来て来て)「好・・!」(はい)と言ってどうしゃべろうか考えようとすると、いきなり受話器を渡されて、「請!」(どうぞ)いきなり機内放送の開始です。
「あれ、ええーーみーなさまにお・・しらせいたします・・ただいま、上海地方は天気が悪く飛行機が着陸できないので、南京に着陸します。くりかえします。ただ今・・・・」あば、ばーや日本語まい かんちなーどぅぴたなー?(あれ、俺は日本語もこんなにへただったのか?)と思うほどへたな放送だった。しかし、乗ってる人はほとんどが沖縄からの旅行者であり、下手の日本語でも意味は通じたのだった。
ツアーコンダクターや何人かの人が私のところにかけより、矢継ぎ早に質問を始めます。「南京から上海までバスは用意するんですか?電車ですか?」片言の中国語で通訳の役目になりスチュワーデスの説明を何とか伝える。
「南京に着陸しても税関がないので降りることはできません。天気が回復したら上海に戻りますのでそのままで待っててください。」ほどなくして飛行機は南京に着陸した。隣でだんまりを決め込んでいたにせい(青年)も私に話しかけてきた。アモイまで墓石を買い付けに行くんですが、相手と上海で待ち合わせしてるんで連絡しないとなー、こまったなー。
アモイ?俺もアモイだよ、知るわけないか、「電話番号わかるなら、私の携帯電話を使ってください」と携帯を貸してあげたりして、にわか通訳をする事になったのだが、それも、乗るときにエコノミークラスからビジネスクラスに席替えにならなかったら、スチュワーデスと話をする事もなかったと思うと、偶然とはいえ不思議でした。ちなみにハンドルネームはアモイですが、住んでる所は<江蘇省>というところです。
そのあと、1時間もしないうちに上海の天気が回復し、無事に上海に向けて引き返しました。引き返すときのスチュワーデスはマニュアルを素早くめくりめくりしながら、案内を始めましたが、「南京から上海まで3000キロで30分です」と間違った放送をするので、目で合図して違うよといって、「300キロだよ」言い直させたりしました。上海着の時間は午前1時近くたっていましたが、あの時の乗客のみなさんは大丈夫だったのかなーと心配しならが会社の迎えの車に乗り込みました。
(その4)
上海空港でバスが迎えにきて、到着口へ向かうバスの中でミャークフツが、ぶす゜ぶす゜(ぼそぼそ)と聞こえてきたときは、思わず「あざたーみゃーくなー?」(お兄さんたちは宮古?)と訊き「あば、あざまいなー」(あれ、お兄さんも)と言ってミャークフツでの感激の会話がはじまったものでした。
竜舌蘭
神童(平良市出身)
8月末、林業教室という高校生向けのような研修会に参加した。巷話題の履修問題とは全然関係ない!
まず月曜日に那覇着。旅程は木曜日まで。余裕で夕方から宴会。翌日、研修は午前9時開始。大事をとって8時に宿舎を出発する。8時25分。ゆいレール終点の首里駅で下車。タクシーを拾い行先を知っているか、聞いてみる。「沖縄県森林組合連合会解りますか?」二つ返事。早速乗車。連合会職員の話ではワンメーターで到着するとの説明。9時には間に合うな!
しかし、タクシーが到着したのは「南部林業事務所」おーいっ!「林」しか合ってないぞ。それから、迷子が始まった。運ちゃんは無線で確かめることもなくそこいら中をかっとんでいく。9時10分前だ。「解らないんなら会社に無線で問い合わせろよ!」しぶしぶ、無線で問い合わせる運ちゃん。対応にでた無線機の女性の回答が素晴らしい。「解らないから近くで聞いて!」
結局、9時を回った時点で捜索を断念。先の林業事務所で降りる。ワンメーターどころか。1,300円も取られた。林業事務所に入り「宮古島から来たんですけど迷子になりました。森林組合連合会まで連れていってくれませんか?」事務所の黒塗りの所長車で研修会場に送ってもらった。
遅刻することとなった林業教室。今回の那覇での目的はこの林業教室。てっきり、上手な樹木の栽培の仕方とか、超簡単製材術なんてものを期待してたらあんた、森を活用した森林の保全がメイン。これを2日間に渡って講義をするんだと。
こちとら家業が石材業。小学校までは木工所もあったので木材の製材加工についてはある程度の知識と経験がある。かたや、同僚のK.takanoriは家業が木材の製材業。製材のプロだ。森林資源の活用より隣接している木材加工所の施設内容が気になる。
施設を紹介しよう。
まず帯鋸(おびのこ)。大寸法の木材を切り出すことができる。次に万能木工機。切断、鉋掛け、溝突きが1台でできる優れものだ。続いてほぞ切り機。大型プレス機。(集成材を縦にプレスできる)自動鉋機2台。60cm幅までの木材の鉋掛けが可能だ。他にも集成材の接合部の仕口をこしらえる特殊機械。
コンピュータを内蔵した大型ルーター。このルーターが素晴らしい。コンピュータ操作で文字が書ける。幅1.5mくらいまでなら鉋掛けも可能。値段はいくらするんだ?いったい!極めつけは、乾燥及び防腐剤を加圧注入処理するチャンバー。(宮古島に無い)凄い施設だ。講義はいいから、機器の説明及び実習をしてくんないかな?
午後5時に初日の日程が終了した。
受講生の顔ぶれは、森林組合職員、緑化のNPO法人関係者、公務員等20名。懇親会と称して宴会が始まった。講師を含めて30余名の宴会は午後9時まで続き、生き残ったメンバー5名で南風原にある居酒屋へ移動。地元沖縄の木材、琉球松をふんだんに使用した木の香り溢れる店。床・壁・天井はもちろんテーブル、椅子にいたるまで全て木材。やっぱり落ち着くね。木材は。
11時にお開きとなり宿舎に到着したのは日付も変わろうかという時間。シンデレラなら靴を放り投げている頃だ。実は昨日(月曜日)、宿舎の周囲を散歩しながら、さがりばな及び竜舌蘭の花が満開の場所を発見した。さがりばなは開花期が夜間のみという、行儀正しい早寝の子供を馬鹿にした樹木だ。また、竜舌蘭に至っては、開花はまれで、開花後の株は枯死してしまう。
馬鹿なおっさん二人は宿舎へ向かわず、とりあえずさがりばなの木に向かう。花を愛でるためだ!ちがうね。種を取るのだ。満開のさがりばな。さぞ大量の種が採取できると思ったら1粒も取れない。なぜか結実していない。さがりばなを諦め竜舌蘭に向かう。竜舌蘭を切り倒してテキーラを造るのだ。どうせ枯れるんだ。有効利用しよう。違いますね。これも種を採取するためだ。
竜舌蘭は奇妙な木で開花後、種および小さな株の2種類を樹冠に載せている。開花はある日突然株の真ん中からタケノコのような芯が伸び始め、あれよあれよと言う間に地上5mに成長し、先端に花をつける。開花すると一部は3cmほどの種になり、他は子株になる。子株が10cmほどに成長すると親株が枯死するため倒れて5mほど先で活着する。目を付けた竜舌蘭は高さ約3mほど。持ち帰るため、芯の部分をへし折ることにする。7cmほどの芯だ。簡単に折れると思いきや意外と固い。で、芯の周囲に棘がある。速攻で諦め宿舎へ戻る。
フロントで係のお姉さんを呼び出しノコギリを所望する。置いていないという。あんちがみゃーさい!かんじゃーやーや あらんむぬやー!(そりゃーそうだ。金物屋じゃないしね。)あら、かたなー貸らし!(じゃー包丁貸して!)包丁のないホテルは世の中に存在しないさーね。すると係のお姉さん。今度は貸さないと言い出す。別にその包丁を持って暴れるわけじゃない。
お姉さんの言い分はこうだ。にーかん かたなー貸らしてぃぬ くぅとぅぬどぅ まずぴるますかー。(まず夜中に包丁を貸せというのが怪しい)しってぃ うわたー ふたーい すんびゅーいさいが。(次におっさん2名は十分に酔っぱらっている。)てぃぬ ばーやしぃ 貸らさじゃーんっつぁ!(なので貸し出せない。ってよ!)仕方ない。じゃー剪定鋏ならあるだろ!係のお姉さん。しぶしぶ剪定鋏を貸してくれた。
急ぎ現場に戻り剪定鋏を竜舌蘭に当てる。しかし、7cmもある芯を挟めない。剪定鋏は挟むことに命をかけている道具だ。挟めないんじゃー話にならない。ちょっとずつ少しずつ ぴっちゃがまなー芯を傷つけて行く。国道沿いの街灯に照らされ悪戦苦闘するおっさん2名。通り過ぎるドライバーの不審な目つき。進まない作業。
ある程度傷つけたところで二人でへし折る。ばきっ!意外と大きな音を立てて竜舌蘭は人間に敗北した。くぬぅ かたぱがま!びゅーいまい さまいぶすき すかま。(この馬鹿野郎!酔いも覚めるような作業だぜ。)へし折った竜舌蘭は約1.5m。竜舌蘭を抱えて意気揚々とホテルに凱旋した。
剪定鋏を返却し、ルームキーを受け取ってエレベータに向かうおっさんの背後から係のお姉さんが呼びかける。剪定鋏のお礼はしただろ!「お客様。それをお部屋に持ち込まれるんですか?」「んな!風呂タンクんかい みっずぁたみぃー あすてぃがみ つきぃうかでぃ。さりっかー んにゃやーばよ!」(「そうよ!バスタブに水貯めて木曜日の朝まで浸けとくべき。枯れると困るさーね!」)「お部屋に持ち込まれると困ります!」
がっこーぬ しんしーぬが?うわぁー!(学校の先生か?お前は!)かりゃー っしゃならん。くいまい だみ!かたなー 貸らさじゃーん。とぅんびゃんな むたさじゃーん。(あれしちゃいけない。これしちゃーいけない。包丁は貸さない。竜舌蘭は持ち込まさない。)原子爆弾びゃー?むちぃ ぱいりゃーまい じょーぶんだらっすぅ?(核じゃないんだ。持ち込んだっていいだろ?)
結局、フロントで預かってもらうことにした。諸注意を促す。まず、木曜日まで枯れないように水に浸けておくこと。子株が落ちるので濡れた新聞紙でくるんで保管すること。可哀想にお姉さん。メモ取ってるし!
翌日、腿の辺りの痛みで起床した。上にばかり気を取られていて足下の竜舌蘭の棘に気づかなかったんだな。8時に宿舎を出発した。玄関を出るとタイルの上に植物らしきものが・・・。竜舌蘭の子株だ。犯行現場からホテルまで延々と続いている。大急ぎでホテル近くの十字路まで子株を拾う。証拠隠滅せんと!
昨日の失敗を繰り返さないため、県の職員の車に便乗する作戦だ。タクシーの運ちゃんも解らないような場所に建物を造るのがいけないんだ。
待ち合わせの8時30分。県の職員の車に乗車する。朝の挨拶を終えて今日の日程の説明が始まった。今日は恩納村にある「沖縄県民の森」での講義になるとのこと。ちょっとまて。おい!今日は島尻の同級生が同窓会をしてくれることになってるんだぞ。5時に終了して那覇に7時までに戻れるのか?ま、高速を飛ばせば大丈夫だな。
今日の日程は午前中は日本国内(北海道)及び外国(オーストラリア)の森林活用の事例を学んだ後、県民の森でフィールドワーク。
昼食を済ませ午後の講義が始まった。午後は実地に県民の森に入り森林を活用した活動を行うというもの。地球温暖化抑止のため森の大切さを国民に訴える様々な方法を探してこいってさ!
登山コース、渓流コース、公園コースの3班が編成されおのおの目的地に向かう。当方の選んだコースは登山コース。兎に角、高いとこに行くのだ。トレッキングしながら樹木の種類、昆虫、鳥類等ありとあらゆるものを観察して戻り次第発表しないといけない。簡単なメモのみを持たされ、解らないことは戻り次第、辞典で名前を確認すれっつぁ。手段はメモにとるか、でなければ覚えておくかだ。
うっそうとしげる森の樹木全部覚えてられるか。しかし、何のことはない。登山道入り口の樹木こそ表示がなかったものの10mも進むと樹木に名前が書かれている。それも樹皮にペンキ書き。辞典、要らないじゃん!
50mほど高さを稼いだところで枯れ木を発見。今にも倒壊しそうだ。子供が歩いているときに倒れると危険だ。へし折ろう。国頭森林組合の職員と2名で10cmほどの幹を揺する。しぶといぞ!揺する揺する。ばきっ!5mほどの枯れ木は折れた。折れたのは樹冠から2m部分の枝だ。ゆだや すたーらん きーゆ ゆすぷりゅー ふたーいが かなまいんかい だだみきぃ。むなー うまーいんてぃ っすきゃー だみらい!痛んさ!(枝は下で幹を揺する2名の頭部を直撃。衝撃で意識がとぶくらいぶっ叩かれて。痛い!)
山の中腹まできたところで「きーーんっ」という音が聞こえる。宮古に生息しないオオシマゼミ。早速メモる。間断なく鳴き続けるオオシマゼミに混じって「ダダダッ」「ダダダダッ」「どーーんっ」と音が響く。米軍の実弾射撃訓練だ。観光客に聞かせてやりたいぜ。内地では経験できないだろ。鉄砲と大砲の音を間近で聞くなんて。
講義が終了したのは夕刻6時。7時の同窓会に間に合わない。幹事の久誌に遅れる旨連絡する。電話を取らない久誌。ま、会場も解るからいいか。松山のぐるくん!
金武で沖縄自動車道に乗り那覇へ向かう。右側には広大な米軍基地。大砲の射爆場となった山肌が赤く夕日に染まっている。右側に看板が見えてきた。
「グリーンベレー実弾射撃訓練中。流れ弾注意!」高速道路ぬ ぴんぎぃとぅかまーにゃーん道(んつ)んなかん のーばいぬ注意ゆ っすぅてぃ?マトリクスびゃー。鉄砲ぬ弾ぬ注意しらいでぃが!あがてぃ うむぅまどぅとぅんにゃーだ すんたー がばおばーがとぅかまんかいだら。落石注意ゆいっざぁ 意味ぬ っすぁいん看板よ!(高速道路の逃げ場のない場所でどうやって注意しろと?マトリクスかよ?銃弾が注意できるもんか! 痛っ、と思う暇もなく亡くなったおばあのところにいくね。落石注意より意味が解らない看板だ!)
宿舎に到着したのが8時。シャワーを使っていると電話が鳴った。遅れることを詫びようと電話に出たら、久誌の伝言ミスで会場は前島のチンボウラ。久誌は携帯が電池切れで1km離れた松山のぐるくんまで当方を探すため走って往復したらしい。結局、当方の自宅に電話を入れてやっとのことでホテルにいる当方と連絡がとれたとのこと。久誌よっ!
現在の宮古島は竜舌蘭が絶滅の危機だ。農地の基盤整備が進み荒れ地がなくなることから竜舌蘭が激減。池間島のフナクスにあった群落も4〜5年前に絶滅してしまった。宮古島に戻り早速鉢上げ。500株もあったぜ!宮古島に竜舌蘭を増やすのだ。那覇の竜舌蘭の持ち主よ。許してくれ
苗トレイ5個に移植された竜舌蘭の子株430株。70株は8〜10cm程に成長しているのでビニールポットに鉢上げ。実は移植後、5日目にして苗トレイの底から根っこが外に伸びている。驚くほどの成長速度。
歩道に落としてきた子株は、植樹桝に捨てたので犯行現場からホテル玄関まで点々と竜舌蘭が生えてくるかも知れない。わくわくするね!
ミャークフツ講座ミャークフツの始まり編(3)
ひさぼう(平良市西仲出身)
この表題で一番理想的な形は、今から三千、四千年前の古くから宮古島には人が住んでいて、連綿とミャークフツを今に語り継いでいるという展開である。そうすれば日本列島に成立した最も古い日本語、“縄文語”をお聞きになりたい方は宮古島へどうぞということになる。ところがそうは問屋がおろさないハードルがいくつもある。
1. そもそも“縄文時代のことば”というのは想像の世界でしかない。いくら宮古方言は縄文語の生き残りだと言ってみても仕方がない
2.また、日本列島に住む人間のしゃべることばが「日本語」として成立したのはいつか、地理的にはどのあたりかという問題については、おそらくそれを解決する手立ては無い。
3.さらには肝心の宮古島に昔から今までずっと絶えることなく人間が集団で住んでいたという考古学的証拠があるわけではない。上野の野原で見つかったピンザアブ人が26,000年前の旧石器時代人、それからいきなり2万年以上とんで本土の時代区分で縄文・弥生時代の遺跡が5カ所(多良間1、城辺4)、さらに千年以上経って12、3世紀以降のものが80数カ所というのが現状らしい(仲宗根将二さんの「宮古の歴史」)。
しかも生活様式が11世紀まで自然採集、そこにあるものを採って食べる生活である。そんな中で2千年も3千年もミャークフツを語り継ぐ人口を維持していけたかという問題である。いくらなんでも宮古島は自然採集で2千年も生活するには狭すぎる。宮古島を畳一畳とすると沖縄本島は畳八畳である。さらに全国まで拡げると沖縄全島の面積は日本全国の面積の0.6%にしかならない。
4.その沖縄本島も10〜11世紀まで生活様式は「貝塚時代」であり、人類学者や考古学者が言うのにはそれ以降のいわゆる「グスク時代」の人間と「貝塚時代」の人間が同じだという証拠は今のところ見つかっていない。なお且つ本土の縄文人と「貝塚時代」人とは同じではないらしい。要するに今の沖縄人のルーツが連続している証拠は未だない。宮古島より桁違いに遺跡数の多い本島でさえこんな状況である。
5.さらに生活文化の違いがある。奄美・沖縄本島には本土の縄文・弥生文化の影響が認められるのに対し、宮古・八重山諸島にはそれがない、むしろフィリピンなどの南洋諸島の文化に近いという。そうすると最悪の場合(?)宮古・八重山人は南洋人ということにもなる。
余談ながら宮古方言を聞いたという最古の記録が中国の「元史」・「温州府志」にあり、これが1317年のできごと。これには「宮古人」が「密牙古人」(保良の人?)と書かれているらしい。当時、沖縄本島は統一王朝ができる前段階で宮古島の与那覇勢頭豊見親が中山王に朝貢したという記録が1390年。このあたりから宮古・八重山の文化はやっと本島文化と交流を始めたらしい。
以上のハードルのうち、実感としてやはり無理かと思えるのは「島で住み続けること」の厳しさである。平穏な時ならまだしも孤立した状態で、台風、地震、津波、マラリア等に襲われてはどうしようもない。やはり縄文時代から途絶えることなく同じ系統の人たちが生き続けたとするのには無理があるように思えてくる。
確かに人は住んでいた。しかしこれらの人間が今に続いているという確証はない。
そうすると、古い時代から宮古島に居たのではなくて、古いことばをもってより新しい時代に島に渡って来たと考えるしかなくなってくる。
日本語
1.本土方言
2.琉球方言
- 奄美方言
- 沖縄方言
- 宮古方言
- 八重山方言
- 与那国方言
“日本語は列島各地の方言の中から育ってきた。そして未だに古い日本語、祖語に近いことばを残しているのは琉球方言であり、中でも宮古方言は音韻、文法、語彙いずれにおいても日本語の最も古い姿を保持している”と、これが正しい、としてそれではなぜ宮古方言がそうなったのか。
これを考える土台として、外間守善さんが書かれた『沖縄の歴史と文化』(中公新書)を読むと、次のように書いてある。
「沖縄語のあゆみについて、私は次のように考えている。歴史的出発をほぼ二、三世紀から六、七世紀頃、方言化への傾斜を十一、二世紀頃、沖縄語と文字との接触を十三世紀頃、文字による表記法の確立を十五世紀末頃、そして十五、六世紀に文献時代に入る、というとらえ方である。
これは、服部四郎による言語年代学的研究やオモロ語を中心とする古語の比較研究、隣接諸科学の研究成果を援用しながらの仮説作業である。このような手だてで探り得た範囲では、今のところ、二、三世紀から六、七世紀頃にかけて、日本祖語から本土に広がっていく日本語と、九州を経て南の島々に渡っていく沖縄語に分岐したのであろう、というふうに考えられる。・・・十一、二世紀頃になって沖縄の言葉は、初めて「方言化への傾斜」を始めることになったわけで、それまでは日本語と沖縄語はほとんど同一か、それに近い姿をもっていたであろう、と思われる。」
この中で気になるところが「・・・十一、二世紀頃になって沖縄の言葉は、初めて「方言化への傾斜」を始めることになったわけで、それまでは日本語と沖縄語はほとんど同一か、それに近い姿をもっていたであろう」というところである。
ここで「沖縄の言葉」および「沖縄語」を「琉球方言」と読み替えると「宮古方言」は「琉球方言」のグループに入るから、この考えだと「宮古方言」は平安・鎌倉時代の十一、二世紀頃まで「日本語」とほとんど同じだったということになる。これはおかしいからここでいう「日本語」とは「琉球語」と分岐した二、三世紀ないしは六、七世紀頃の「本土方言」ということであろう。さらに「方言化への傾斜」というのは「琉球語」が「日本語」からだんだん遠くなっていった、変わっていったというのではなくて、「中心」の「日本語」はどんどん変わっていったのに「周辺」の「琉球語」は取り残された、変わらなかったということであろう。
同じことが「沖縄方言」と「宮古方言」との関係にもあって、琉球王朝をつくりあげたり、薩摩の直接支配を受けたりした沖縄本島では「沖縄方言」はどんどん変わっていったのに対し、隔絶した孤島の「宮古方言」は取り残された、変わらなかったということであろう。なぜに宮古方言がより古いことばを保持しているかの理由はおそらくこれである。
つぎに今に続くミャークフツを話す人たちはいつ宮古島にやって来たかという問題である。
さきの外間守善さんの記述に出てきた服部四郎さんに『日本語の系統』(1971刊)という著書があってその中で、“「沖縄方言」と「宮古方言」の言語年代学的距離は700年を越える ”と書いてあるという。そうすると、「宮古方言」と「沖縄方言」が分かれたのは計算して13世紀以前ということになる。しかしこれだと前述した与那覇勢頭豊見親が首里の中山王に朝貢したという1390年に既に本島では宮古方言はまったく通じなかったというからこれでは近すぎる。それで試しに1390年から700年さかのぼると690年以前ということになり「宮古方言」と「沖縄方言」は6、7世紀頃に分岐したということになる。
今に続くミャークフツを話す人たちは、宮古島に“農耕をもたらした人たち”ではないかという本もある(『島の先史学』高宮広土著 ボーダインク刊)。しかしこれだと、宮古島の古い人たちは、ヤマトガム(大和神)としてこういう人たちを拝んでいるから、宮古島でクワ、カマを使って農業を始めたころには既にミャークフツは使われていたと思われる。
ところが、クワ(鍬)のことは“FFATSU(っふふぁつ)”、カマ(鎌)のことは“ZZARA(い゜さ゜ら)”と言うこのよその土地の人が聞くと奇妙な発音は12世紀の始めごろには既にあったと思われるけれども、それじゃあこの発音はどこから来たかということになると、やはり農業を宮古人に教えた人たちではないか、農具の名まえは農業といっしょに入ってくるのが普通だろうとも思えてくる。
宮古・八重山は三千年前から11、12世紀まで南方系石器文化圏にあって本土どころか沖縄本島とも交流がなかった。ところが遺伝学や形質人類学によると、今の「琉球人」は沖縄本島だけではなく、宮古・八重山も含めて北方系になるのだという(『沖縄人はどこから来たか』安里進・土肥直美 共著 ボーダインク刊)。そうすると人口が増大する12世紀以前の先史時代の宮古の人たちと北方系すなわち九州から南下した人たちとの混血がこの自分たちかと考えたりする。
ミャークフツの始まり・・・
んなだ のおまい っさいん(未だ全然わからない)。
写真展のおしらせ
松谷初美(下地町出身)
芸術の秋です。文化の日に始まる写真展にでかけてみませんか?
くまかまの読者でもある「さとみ」さんの写真展が明日から宮古で開かれます。さとみさんは内地出身。宮古が大好きで通い始め、今年の9月で20年目に入ったとのこと。
15〜16年の間に撮り貯めたもの大小30点くらい飾る予定だそうです。
さとみさんの写真は、ホントにプロ級です。海の色や雲の形、島のいろいろな風景・・・温度や風まで伝わってきますよ。 ぜひ、いきみーるよー(行ってみてね)
写真展
「心の故郷・アタラカの島〜いつまでも残しておきたい島の風景〜」
日 時 | 2006年11月3日(金)〜11月7日(火) 9時〜18時 最終日は12時まで |
場 所 | うえのドイツ文化村博愛記念館(マルクスブルグ城)1階 |
入 場 | 無料 |
問い合わせ | うえのドイツ文化村 電話76−3771 |
編集後記
松谷初美(下地町出身)
「秋の日はつるべ落とし」。まーんてぃ日が沈むのが ぴゃーふとぅなりうーやー(早くなっていますね)
今年の8月に行われた「第13回鳴りとぅゆんみゃ〜く方言大会」がビデオ、DVDになっているとライターのカニさんにおしえてもらって、早速取り寄せました。扱っているのは、大会を主催している宮古島文化協会(電話:0980−73−3300 ひとつ:3500円)です。
あがんにゃ あてぃどぅ うむっしかー(すごく面白いよー)。出場者、それぞれのスマの言葉も、あずーあずで、見ごたえがあります。まーんてぃ みゃーくふっつあ ばんたが 宝てぃど うむういら。(本当に宮古方言は、私たちの宝だと思いますよね)はい、うわまい、みーみーるよー。(ねぇ、あなたも見てみてね)楽しめること間違いなしです!
それから、先日(29日)、「関東宮古ふるさとまつり」というのが東京の飯田橋であってそれにも参加してきましたー。今年で33回目だそうで、長い歴史を持っている会なんですね。各郷友会からの出し物の歌や踊り、宮古東京の往復チケットがあたるじゃんけん大会など盛り上がりましたよ。33年前のふるさとまつりは のーしがあたーがら?(どんなだったんでしょうね)いつか、その頃の話しも聞いてみたいなーと思いながら楽しみました。
くまかま本も販売させてもらい、(くまかまのことを知らない人が多くぱずみゃー(最初は)苦戦。(笑))でも、いろいろな方のご協力でやまかさ買っていただきました。みなさん、たんでぃがーたんでぃでした!!(まだまだ宣伝もがんばらんといけんねー)
そしておとつい(31日)は下地勇さんの渋谷でのライブに行ってきましたよ。9月に発売されたアルバムに入っている新曲や、おなじみの曲を盛りだくさん聞けました。たくさんのファンでガフとなった会場。すごく盛りあがりました〜。
東京にいても宮古を感じることの多いこのごろです。
さて、vol.135は、のーしがやたーがらやー(いかがでしたか)?今回は、男性ばかり、平良出身の三人でした。それぞれの個性がよく現れている内容だったなーと思いましたね〜。
現在宮古に住んでいて、仕事でよく沖縄に出張する神童(おごえ!今回はまた ものすごいおみやげ)、10年中国で仕事をされているアモイさん(アモイさんならではのエピソードですね。これからしばらくは日本にいそうとのこと)、みゃーくふつの始まりについて、深く探求するひさぼうさん(方言以外の歴史やそのほかのことも勉強になります)たーっぷり、お楽しみいただけかと思います。
みなさんからの感想、どんないお待ちしていますよ〜。掲示板のほうに書かれる感想も多いので、まだ掲示板を見たことがないとおっしゃる方、ぜひ、こちらもごらんくださいね。
もちろん、メールでも受け付けていますよー。よろしくお願いします。
それから、来年のくまかまは、どんなふうにしようかねーと かんがいやーみーみー(考えてはみたり)しています。
「思い出の歌」、「やらびぱだぬ やーぬ(子どものころの家の)手伝い」「宮古&みゃーくふつクイズ 第二弾」などなど企画中。
書けそうというのがありましたら、ぜひ、投稿してくださいね。引き続き「ばんたがやーぬふかふ(うちの家の近く)」「初めて物語」なども募集中です〜。どうぞ、よろしくお願いします。
さぁ、今年も残り二ヶ月、がんずぅ(元気)でいきましょうね〜。
ゆみふぃーさまい、たんでぃがーたんでぃでした。
次号は、11月16日(木)の予定です。あつかーまたやー。