こんにちは〜。きゅうから2月。
沖縄では桜が咲いて、東京では梅の花。 もうすぐ春ですね〜。
でも、きょうは全国的に冷え込む予想だとか。 ぬふーぬふ(あったかーく)して読んでくださいね。
ばんたがやーぬつかふ15
R(平良西里)
− 坂の風景 −
沖縄が祖国復帰をした年の翌年(1973年)、父と母は、沖縄本島からUターン組として宮古島に戻ってきた。
当時、私は小学4年生で、その後、高校卒業までの9年間、宮古島の住人であった。9年という時間では宮古出身とはいい難いかもしれないが、その心地よさから、会社では、宮古出身として通している。
父は、海上土木の仕事をしていたため当時の平良港(漲水港)の近くに居を構えた。港は、市役所前のマクラム通りの坂を下りきった所にあった。
私が「ばんたがやーぬつかふ」として思い出されたのは、その道をはじめとする坂道の風景である。
マクラム通りの坂道は、小学校の登下校で毎日登り下りした。近くには同じ年頃の友達が少なく、また、転校生ということもあってか、学校へのこの道は「難儀な道」というイメージが残っている。
港へ荷物を運ぶ荷馬車がまだ一般的だった。重い荷物を載せた荷車を引く馬はひたすら道を見つめて歩いていた。あの潤んだ瞳が忘れられないなー。
(馬が道路に残した糞は誰が片付けていたのだろう?)
一方、家から夕飯の買い物のため家族と市場を目指して登った、通称イーザト(飲み屋さんがたくさん集まる場所)に抜ける坂道も想い出の道だ。学校での出来事を家族に聞いてもらいながら毎日、市場に通ったものだ。坂道はきつくても楽しい時間を過ごせた道だった。
ここは、伊良部島にまだ高校がなかったため、毎朝、伊良部島から通う高校生のニーニー・ネーネーがガジャガジャ(わさわさ)と通り抜けた道でもある。
マクラム通りの坂道もイーザトに抜ける坂道も港を利用する人が行き交う大変賑やかな通りだった。
ところが、社会人になって宮古に戻った時、伊良部島に高校ができたことにより すとぅむてぃ(朝)の風景が変わり、また、港が移動したことにより人の流れが変わっていた。
あんなにきつかったと思っていたはずの坂道が大人の足ではほんの数分で登りきれる道であったことがわかった。
変化には嬉しい変化とそうでない変化があるが、この変化は私にとって寂しかったなー。
坂道を登りきったところにあった郵便局の隣に畳屋を営んでいる友達のMの家があったが、道路拡張でどこかに移ったようだ。彼女は、今頃どうしているのだろう。
おまけの坂道は、パイナガマビーチへ抜ける道。
草の生い茂る細い道の途中に屠殺場があり、その前は、屠殺場を見ないふりをして とぅばして(走って)行った。その道を通るのが怖くて、泳ぎにはあまり行かなかった。 だからだ、私が泳げないのは。
「ばんたがやーぬつかふ」の坂道の風景は、脳裏に残る行き交う人々の声とともに今は亡き両親の様子を再現させ、私を小学生の頃に戻してくれる気がする。
ザトウクジラの季節
あば本舗(下地出身)
沖縄の海には10数年位前から、ザトウクジラが現われるようになった。 毎年今頃の時期になると、慶良間諸島に次々やってくる。出産と育児のために暖かい亜熱帯の近海に現われ、4月頃になると北へ戻っていくのだそうである。
やがて沖縄のホエールウオッチング熱は年々盛んになり、今やクジラを見るために全国から大勢の観光客が訪れるようになった。
数年前、私も海のデカイ生物を間近で見てみたくなり、友人らとともに座間味村のホエールウオッチングツアーに参加した。
最初は那覇の港から大型のフェリーで座間味まで行き、島に着いたあとは数人単位で小さな船に乗り込みクジラの近くまで行く。
ところが、当日の海は大荒れ!!小さな船が揺れること揺れること〜〜。
実は自分が船に弱いということをすっかり忘れていた私は、最初からクジラどころの騒ぎじゃなかった・・・。海を直視することすらできずに船の中に引っ込み、右に揺れ左に揺れながらビニール袋にひたすらゲロっていた。
一緒に行った友人は、わぁ〜あっちで潮を吹いているよ〜。こっちでブリージングしているよ〜。早く見においでー!と大騒ぎ。あぁそれなのに私は・・・せっかく時間とお金を費やしてここまでやってきたのに、とてもとても動ける状態ではない。あまりの船酔いのひどさに、意識朦朧とした状態になってしまっていた。
のーがらー いんぬかまーたん っふぉーぬむぬぬ むゆきうっすがかりがどぅ くじらびゃーいー?てぃーうむぅがつなまい びらきかいりんにゃんなりうたぁ(何か 海の遠くで黒いものが動いているけれど、あれがクジラなの?と思いながらも ぶっ倒れちゃって凄く大変だった)
あまがーにゃーん クジラぉみーがてぃ きしってぃ のーゆまいみゅーだなしー ふにぬなかん うすぅんきちゃーなうてぃ のーすかがき゜たーがら っすさるん(わざわざクジラを見に来て、何にも見ないで船の中でうつむいているだけなんて、一体何しに来たのか分らない)
この体験がすっかりトラウマになってしまった私は、毎年この時期になって「今年もクジラがやってきました!」というニュースを耳にするたびに、あの時の船酔いを思い出し眩暈がしてくるのである。
かじぬとぅりうっかー 船酔いゆばー すぅだなしーうらでぃびゃ〜?んな一回いきみゅーでぃびゃーいら?あんすぅが ふにんぬーす゜ゆばー うとるすむぬゆ〜(風が静かだったら、船酔いはしないだろうか?もう一回行ってみようか?だけど船に乗るのは怖いよ〜)
クジラには会いたいけれど、船酔いへの恐怖心で揺れている私である。
やーぬなー(家の名前)とがっこうなー(学校名)
松谷初美(下地町出身)
宮古では昭和の始めのころまで(あるいは昭和の中ごろまで)、子どもが生まれると やーぬなーをつけていた。
昔むかしは戸籍がなかったので やーぬなーだけで良かったが、明治に戸籍法ができて戸籍に載せる名前をつけるようになった。その戸籍の名前を学校なーと呼ぶ。(学校では、やーぬなーではなく、戸籍の名前を使っていた)
私が子どものころには、もう やーぬなーをつけるのは珍しくなっていたが、小学生(昭和40年代)のころ、親戚の子のやーぬなーをつけるのを見た覚えがある。
やーぬなーには、ヤマ、カマド、マツ、カウサ、ボウズ、ムサ、カニ、マツカニ、ミガンサ、ユヌスメガ、マトゥなどがある。この名前の後に「ちゃん」をつけたり「がま」をつけたりする。
生後4日、8日、10日のいずれかの吉日に親や親戚の人が集まって、あやかりたい名前をいくつか紙に書き、それをお盆の上に載せて、振り落とす。お盆から落ちた名前がその子の やーぬなーになる。何回か振って回数の多い名前にする場合もあるそうだ。
地元の御嶽の神様の名前をとったり、神棚の前で、名前を選らんだりするので「かんぬなー(神の名前)」とも言うそうである。
お盆から落ちた名前がその子の名前になるので、親や兄弟で同じ名前というのも結構あったようだ。(長男の場合は、父親の名前を踏襲することも多かったようである。そのときは、お盆は振らない)
ちなみに、うちのおばぁのやらびなーは「カウサガマ」で、学校なーは、「カナ」である。おばぁのあんが(お姉さん)のやらびなーは「ボウズガマ」と言う。
平良市史第七巻には、名前をつけるとき
「赤ん坊には ナーツキギム(名つけ衣)という白木綿の着物を「キンなヨーカリ、ドウヤツウカリ(衣は弱く、体は強く)」と呪いを唱えて着せる。・・・・・・・祖神やかまどの神に命名報告したあと、名フィーヨズの祝宴にうつる。」とある。
名前をつけることがとても大切な行事だったことが分かる。
やーぬなーの名残りなのか、私たちの世代には、名前の後に「ちゃん」や「坊」を付けて呼ぶことが多い。せいちゃん、こうちゃん、まっちゃん、のり坊、なー坊、ひさ坊、かつ坊など。ずーっと年をとっても変わらずそう呼ばれる。80歳のこうちゃん、90歳のかつ坊、100歳のひさ坊、だいずカッコイイね!
私には、残念ながら やーぬなーはない。おばぁのをあやをかりて「カウサガマ」と自分でつけようかねー。
あなたには、やーぬなーがありますか?
#参考資料:『平良市史 第七巻 資料編5(民俗・歌謡)』
根間の主 どぅかってぃ解説
マツカニ(上野出身)
宮古民謡の大きな特徴は、歴史的な英雄を唄ったものが数多いことだそうです。確かに私が知っているだけでも数曲あるし、物の本によると、一般に知られていないものも数多い。これは他所ではあまり見られないらしく、宮古人の気質の現れなのかも知れない。
さて今回の「どぅかってぃ解説」は その中から「根間の主」をとりあげました。(ちなみに「根間の娘」とは関係ない悪しからず)宮古読みは「にーまぬ しゅう」です。
「根間の主」 1.ヤイサユ にーまぬ しゅうがよ サーサー ぬーらみうに ヒヤルガヒー サーサー しゅうぬまいがよ サーサー ぬーらみうによ カリウシャホイ ヒヤルガヒー カナガマ ヤウドオ ドゥヌスミャ ヤウドオ ユーヤナウレ (カタカナ部分はハヤシ。以下省略) (根間の主が お乗りになるお船 お殿様が お乗りになるお船) 2.ふにがまどよ やりゃあまい みすぅがまどよ やりゃあまい (小さい船ではありますが 小船ではありますが) 3.いでぃがかずよ ぱるだてぃ ぬうす゜がかずよ そうせんよ (出航するたび春立船 首里昇りのたびに早船でございます) 4.いきまざき゜よ いき゜ばな ぱなりざき゜よ まあす゜ばなよ (池間島の岬を行く頃 離れ島崎を回る頃には) 5.おうぎ゜やとぅりよ まぬかでぃ かなみやとぅりよ しぬかでぃよ (扇をとって(航海安全を)招きましょう扇の要をとって(航海の難を)凌ぎましょう)
(解説)
根間の主が首里昇りの際、愛するカナガマが見送っている様子が唄われています。軽快に演奏され、三線名人で高名な登川誠仁の「美ら弾き」という名盤でも取り上げられ、広く知られ唄われている一曲です。
CDなどでは5番まで唄われるのが通常ですが、ネフスキーや慶世村恒任の本などでは16番まであり、最後まできれいな対句になっています。
5番以降の内容は 航海の途中雨や風が吹くことと思いますが、それは私の吐息や涙だと思って下さい。沖縄までは糸や布の上を行くが如く平穏な船旅で無事国王にお会いできるようにと唄われています。
三線は早や弾きで、歌詞は伸ばして唄うので「工工四」を覚えるのに一苦労します。三線弾いて唄えるまでは時間を必要とする難曲です。
宮古の歌い手と登川流とを聞き比べるのもおもしろいと思います。
それではまた。
#参考:新里幸昭「宮古の歌謡」
編集後記
松谷初美(下地町出身)
今年は、まーんてぃ暖冬ですねー。そのせいか、杉花粉の飛散も早い!?ここ数日、くしゃみが出るのですがういびゃーやー(それかしらん)?
さて、vol.141、のーしがやたーがらやー?
三人目の新しいライターRさん。坂のある風景が家族とともに、思い出に刻まれているのが伝わってきましたね。Rさんは、これまでくま・かまのことをたくさん応援してくださっていました。今度からライターとして登場です。よろしくお願いします。
[ R ] 1962年那覇生まれ(両親が宮古出身)、沖縄本島在住
ハンドルネームの「R」というのは、名前の頭文字であることと、高校生の頃、リーガルの靴にはまったことに由来しているそうですよ。Rさんから今後どんなお話しが聞けるか、楽しみですね。ご期待下さい。
ザトウクジラみーぶすむぬやー(見てみたいですねー)今が、その ずぶん(季節)なんですね。あば本舗さんの上地方言がまたあずーあずで(味わい深くて)、気持ちがよく伝わってきましたねー。あなたも、ホエールウオッチングはいかがでしょうか?
「根間の主」は、よく知られた民謡ですねー。私はハヤシの ♪カナガマ ヤウドオ ドゥヌスミャ ヤウドオユーヤナウレの部分が特に好きですね〜。マツカニさんの訳は、他の方の訳とはちょっと違う視点で捉えられたりもしています。実際に歌を聞きながら解説も一緒に読む、というのもいいですね。
平良市史の第七巻 資料編5(民俗・歌謡)を最近よく読む。衣食住から行事、祭祀、民謡や童歌などが詳しく載っていて、だいず面白い。一般的に市史などは、手にする人は少ないんじゃないかーと思うと、とてももったいないなーと思う。機会があったらぜひ!
今号の感想も下記までぜひぜひお寄せくださいね〜。お待ちしています!
5月の「子どもの日」ままーずに子どものころにやったお手伝いについての特集をしたいなーと思っています。「お茶碗洗い」「肩たたき」「朝、新聞を取ってくること」など、小さいお手伝いから「ぶーぎ(キビ)を運んだ」など大きなお手伝いまで、あなたがやったお手伝いをおしえてくださいね〜。〆切は4月の中旬です。よろしくお願いします。
次回は、2月15日(木)発行予定です。
宮古料理のレシピも紹介しますよー。お楽しみに!
次回まで がんずぅやーしーうらあちよー(お元気でー)きゅうまい かぎぴかず(きょうも良き日!)あつかー、またいら〜。