こんにちは〜。
小春日和の気持ちのいい天気が続いている東京です。あなたの住んでいるところは、のーしーがらやー?
今回も話題豊富なくまかまですよ。お楽しみくださいね〜。
宮古島の水田
大和の宮古人(城辺長南(ながなん)出身)
私の小さい頃(昭和30年の初め頃)、ばんたがやーでは(私の家では)水田で稲作をしていました。宮古でいう山(?、丘)と山の谷間に細長く田んぼがあり畦道で何箇所にも区切られた小さな田んぼが段段に並んでいて、畦道の一部が少し削られ、上から順に一番下まで水が流れる様に作られていました。(田んぼの辺りには湧き水がでているところがあり、水はそこから引いていたようです)
最初は馬と鋤で耕して田植えをしていましたが、耕運機なる文明の利器の登場により、みゃーすーみゃーす(楽に)仕事が出来たようです。
宮古の田植えは1月に始まり、7月・8月に収穫となる早稲でした。(秋ですと台風が多くなるからでしょうか)
水の張ってある水田に畦道から適当な間隔で早苗を放り投げて置きます。皆で横一列になり後方へと進みながら、押し込んで行きます。やらび(子供)の私達も、田植えの真似事がしたくて田んぼに入りましたが、大嫌いな生物が棲んでいるのが分かってからは絶対に たーんかいや(田んぼには)入らなかった。(人間の血を吸う蛭がいたからです)気持ちが悪いので説明しませんが。
7月か8月に収穫が始まります。平らな高台に筵を広げ、稲が飛び散らないように硬い布で覆った脱穀機を置きます。一株ずつ鎌で切り取った稲を集めて脱穀機の横に運び込みます。脱穀機を足踏みで回転させながら一掴みの稲を両手でしっかり持ち左右に反転させて脱穀します、藁から籾殻つきの米が離れると(?)片手で藁を後ろに放り投げながら次の稲の束を受け取り同じようにします。稲を渡す人、受け取って脱穀する人、藁を束ねる人、脱穀された米を俵に入れる人と、人手も必要でしたね。
でも一番大変なことは、台風が近づいた時ですね。
その時は脱穀機も2人同時に動かしますから渡す人も2人必要になります。(1台に2人並んで踏んでいきます。早かったですよ。それと皆の息の合った所にリズム感があってね、思い出すとその頃の色々な物音が聞こえてくるようです)子供でも手伝えますが稲には細いイガイガが沢山あり身体に付くと痒くなりますので余り手伝わせて貰えませんでした。
脱穀された籾殻つき米は、俵に入れられて家に運ばれ1番座、2番座、3番座と部屋中に米俵が置かれ、座る場所が無く食事も寝るのも庭でした。(やらびたちは米俵の間でかくれんぼしたり飛び降りたりして遊んで身体中をポリポリ掻いていました。)
翌日からは庭の筵に米を広げ乾燥させます全部乾燥させるには1日に何度も入れ替えをしても4日5日もかかり、曾おばーは庭に出て鶏に食べられないように見張っていました。
でも手間はかかりますが、新米はすごく、んまーんまでした(魚沼産より美味しかったかも)
大勢の家族でしたが一年間は十分足りる程の米が出来ましたし、余った分は小学生の私がバスで売りに行かされました。電話も何も無い時分にどんな連絡方法が有ったか分かりませんが、バスで降りるとおじさんが平良の城辺停留場で待っていて引き取ってくれました。(お米をバスに乗せるには昔のバスは車掌さんが乗っていて乗せてくれたさね)お米は、沖縄まで送ったりもしていたようです。
精米しに行くのも私の仕事でしたよ。売りに行くときと同じで平良に着くと精米所まで走ってお米もって来たことと、どのバスで帰るよと伝えると精米所の方が全て運んでくれ、私はと言うと横でボーとしていただけかもしれません。
何処の家にも田んぼはあると思っていたから、皆さんが宮古に水田があったの?との話に正直、この年になってとっても驚きました。
先日、母とその話をしました。母のおばーやにも田んぼがなく、おばーやの近くの ぱり(畑)に行くときは、新米を やますか(沢山)おにぎりにして持って行き、おばーが遠慮するといけないからと、弁当が余ったから食べてねと置いてきたさー。どうしてお米を届けなかったの?聞いたところ、米は高級品だったさー、特に長間の米は美味しいから高く売れたよ、家族の食べる分以外は売って小遣いにしていたよ、姑たちに悪いから届けられなかったさ。(おばーやーのおじい、おばあ御免ね)
でもその美味しいお米もサトウキビには負けた様です。エニシオ(間違っているかしら、昔の記憶なので自身がありません)と言う品種のキビが出回ると長間の粘土質の畑でも作れるようになりキビに変わりました。(長南の畑は粘土質の為にそれまでのキビは育たなかったそうです)それからは美味しいお米は食べられなかったですね。
余談ですが、私は今でもその頃の夢を時々見ます。畦道の水の流れる所が広がって渡れず、皆は家に帰るのに私だけ取り残されて焦っている夢です。自分でもどうして同じ夢を見るのか不思議です。
それと、田んぼには田螺(淡水の巻貝)や、蝗(いなご)がいました。蝗は食べた事はありませんが、田螺は味噌汁の具として食べました。美味しかったかどうかは記憶にありません。
宮古旅行記 〜母娘2人旅をして来ました!〜
さとみ(東京出身・在)
10/25〜28日まで、3泊4日で宮古&那覇に行って来ました!今回は、いつもの1人旅ではなく、母娘2人旅。
私は、宮古・沖縄が大好きで、通い始めて早20年が経ち、今年の9月で宮古歴21年目に突入しました。手付かずの自然が残り、情緒豊かな島の風景写真を撮るのが大好きで、島へ出かけては、あちこち写真を撮り歩いてます。
今まで数え切れないくらい宮古や沖縄に行ってるものの両親はまだ一度も宮古にも沖縄にも行った事がなかったので、以前から一度でいいから宮古ブルーの かぎいん(綺麗な海)を見せたい!!と思っていたものの、なかなか実現出来ずにいたのですが、今回やっと母と行く事が出来ました。(残念ながら父は行けませんでしたが…)
当初は両親と3人で行く予定でしたが、叔母(母の妹)も便乗したいとの事で、では、4人で行こう!と話を進めていたのですが、諸事情で父が行けなくなり、続いて叔母も行けなくなり、4人の予定が結局2人になってしまい、今回も危うく見送り?になりそうでしたが、今まで延び延びになり過ぎてたので、今回ばかりは行ける時に行こう!と母娘2人で行く事になったのです。
そこで、気になるのがお天気!
折角だからベストコンディションの宮古を見せたいし、出来る事なら穏やかで綺麗な海を見せたかった。でも、今年は例年より新北風も早かったと聞いていたし、何より週間予報がイマイチだったので、やはり日頃の行いか…と行く前は、かなり落ち込んでいましたが、期待していなかった割にはどうにかお天気にも恵まれ?穏やかな美ら海も見る事が出来ました。
陽が照るとやはりまだまだ夏を感じさせる暑さで、何処に行ってもクーラーガンガン!東京との違いにさすがに母も驚いておりました(笑)私達が泊まったホテルの目の前には、私の大好きな前浜ビーチがあり、行った日はちょうど大潮で、昼間の干潮。干潮時の前浜はピカイチ!個人的には、前浜が見せる表情の中でも特に好きな表情の一つなので、ずっと見せたかったその風景を見せる事が出来て、本当に嬉しかった!!
母は新潟生まれの新潟育ちで、いつも身近に海を感じて育ったものの、何てったって日本海!こんな南国の かぎいんを見るのは勿論初めてだったので、ついつい童心に帰って?ズボンをまくり、一人でドンドン沖へ…。ただただ小さくなる母の後姿をデジカメズームで追っかける私でしたが、そんな母の姿を見て、ぷからすむぬ〜でした。2人して、水着を持って来れば良かったね〜と後悔しきり(笑)
2日目は強風の影響で、場所によっては海が時化時化でしたが、お天気は良かったので、島内一周して来ました。いつも以上に東平安名も風が強かったのですが、そんな中、折角なので、灯台のてっぺんまで登って来ました!と言うか登らせてしまいました(笑)
私は、何処と勘違いしたのか、てっきり階段以外にエレベーターがあったと思い込んでいて、エレベーターもあるから楽に登れるさ〜と券を買った後、エレベーターの入り口を探せども、それらしき物が見つからず、恐る恐る券販のねーねーに聞いてみると…
階段しかありませんが、大丈夫ですかぁ?と(苦笑)どーする?と母に尋ねると折角来たし、大丈夫!と言うので、100段弱の階段を一緒に登って来ました。有り難い事に、年の割には元気だし、去年まで自転車通勤で働いてただけあって、まだまだ足腰は丈夫な方なので、助かりました(笑)
しかーし、さすがに強風!綺麗な景色をずっと眺めていたいのは山々だったのですが、飛ばされそうだし、まともに目を開けてられない!?風で瞼がブルブル〜と震えてしまって思わず、笑ってしまいました(笑)夜、ホテルに帰ってTVをつけてみて、オゴエー!!いつの間にか台風20号が発生していたんですね〜(@@)どうりで、風が強く時化時化だった訳だ!と妙に納得してしまいました(^^;
翌日の昼過ぎには、後ろ髪を引かれながらも那覇へ移動。あまり時間がなかったので、首里城と国際通りくらいしか行けませんでしたが、のどかな宮古とは違い、ビルが立ち並び交通量の多い那覇の都会さにも母は驚いておりました。
あっと言う間の4日間だったので、冗談ながらも母も延泊したいね〜と言ってたくらいでした(笑)今まで私が、どんなに切々と?宮古や沖縄の魅力を語ってもいまひとつわかってもらえなかったのですが、「百聞は一見にしかず!」今回の旅で、やっと私が宮古や沖縄に足繁く通う理由もわかってくれた様ですし、大好きな宮古を見せる事が出来て何より嬉しかった。
短いながらも充実した旅が出来て本当に良かったです!たまには、こんな旅もいいなぁ〜と思ったし、機会があれば、またいつか一緒に行ってみたいです。
南極老人星−ながいぬつぬぷす(長寿星)−カノ−プス
カニ(平良出身)
ピシ−ピシヌ(寒い)ニスカジ(北風)が吹くようになってきた。だんだんと宮古の秋は深まっていく。宮古島の晩秋だ。11月の東の夜空にはオリオン座が上がるようになってきた。今日(11月5日)は、夜遅く10時過ぎてから散歩に出かけた。なかなかこんな時間にならないと時間が空かないものだ。6年前だったか、11月の終わり頃、このオリオン座を見つけ、さらに南の水平線の上に煌々と姿を現す「南極老人星」を見つけた時には、感激した。この星との思い出は深い。
カニにこの「南極老人星−ながいぬつぬぷす」を教えてくれたのは、3名の方々だった。1名は職場の同僚、1名は東京から宮古島に移ってきた植物好きな老先生、そしてもう1名はある書物で出会った方からで、多良間島出身の垣花良香氏の書に登場する平山良明氏であった。垣花良香氏の「老人星」という名前の書の中に、このカノ−プスの話しが登場してくる。少し紹介しよう。平山良明氏の美しい文章で始まる書である。
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天の河は北天よりも南天の方が明るくて美しい。沖縄の乙女たちの瞳が美しいのは、南国の星座を日常のものとしているからであります。
その天の河の南の端に名高い南十字星があります。日本本土からはほとんど見えません。
昔から南方へ航海する人々は、この南十字星に憧れ、一度この星を見たら、生涯胸の中にその美しさを秘めもつといわれる詩情豊かな星であります。
その南十字星の西側に美しい恒星群があり、その中に竜骨座という奇妙な変光星が星雲につつまれて光っています。
竜骨座の主星はカノ−プスを呼ばれ、シリウスに次いで全天第二の明るい星だと云われております。
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中国では南極星、南極老人星だとか寿星と呼ばれており、人間を見守っている星だとされております。
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大体このような内容で始まる、昭和63年に書かれた「老人星」という名前の歌集である。
この「南極老人星」は別名、「ながいぬつぬぷす」「長寿星」「カノ−プス」とも呼ばれ、中国ではこの星を見ると長生きができると云われ、とても縁起の良い星であり、星の愛好家達からは一度は見たいと云われる素敵な星なのである。
日本の国では仙台より緯度の高い北の国では、見たくても見ることのできない星で、また関東や関西でも南の水平線すれすれに出現しているので、見つけることが困難な星である。この「南極老人星」が今11月頃になると、宮古島では南の夜空のいつもほぼ同じ場所に煌々と輝いている。カママミネ公園から眺めると来間島の真上にある。
この星の思い出を語ろう。
今から5年前だった。5年前の4月の10日の夕方頃に、カニは多良間島でその星を眺めていた。その時カニは、もう11月の晩秋が来るまでは逢えないだろうと、老人星にしばらくの別れを告げた。
宮古島で見たのは3月31日頃が最後だった。しばらく会えないと諦めていたときに、多良間島に出張に行き、そこで見ることができたので、密かに1人喜んでいたのだ。宮古島よりも多良間島の方が夜空は綺麗で暗闇だった。満天の星空だった。そうだから4月になっても多良間島では煌々と輝き、再び老人星を見ることができたのだ。そう考えた。
宮古島では、11月の夜の10時頃から、東の空にはオリオン座(ツギャ−プズ)が姿を見せてくる。その時からカノ−プスははっきりと南の空に確認できる。そうしてしばらく南の空に煌々と輝き続ける。そうして4月の初めには夜空から姿が消えるのである。
カニは11月の終わり頃から4月の10日頃まで、南極老人星を見ることができるのだと思った。そしてその季節になるといつもこの星を探し、見つけたときには心の中はいつも宝物を見るかの如く、幸せな気分に浸ることが出来たのであった。幸せの一時はこうして生まれていた。
カニはいつもこの老人星を見る場所を決めて見ていた。ニャ−ツの二重越の丘、添道のキビ畑道、腰原の畑道、それに家の近くの広場であった。この星はいつも大概同じ場所に煌々と静かな厳かな雰囲気で輝いていた。北の北極星(ニヌパブス)に似ていた。この星を中心として周囲の星たちが回っているようにも見えた。
4年前だった。嬉しいことが起きた。この星との出会いが早くなった。忘れもしない10月15日、真夜中に目覚め、みなかんいでぃ(庭に出て)、てぃんゆ、あぱなき、みゃーぎりばどぅ(天を見上げると)、オリオン座が出ていて、そして「南極老人星」が煌々と南の水平線の上の方に輝いていたのだった。そうなんだ、皆が眠る夜中にも星が出ているんだ、そのことを強く意識した。
すぐにいつもの4箇所の場所に行き確認した。嬉しかった。夜中だったので1人で祝った。そして両親や妻、子供、兄弟、そしてこれまでお世話になった多くの人たちの健康を祈願した。「南極老人星」、この星の存在を知ってからカニは「祈り」が多くなった。
さらに翌年、つまり3年前だった。夜中の長寿星を見つけたときに、もっと夜中の遅い時間、つまり明け方にこの星は出ているだろうと計算してみた。出かけてみた。そうしてカニは9月15日・4時頃の早朝にも実はこの「老人星」に出会うことができた。さらに喜びが大きくなった。再び頭の中で考えてみた。
そうして今はこう考えている。8月の中旬ごろの明け方5時頃にも東平安名崎に行けば、あるいは、あがずぬ いむぬぱなむつ(東の海の断崖)に行けば、素敵な南極星−南極老人星−長寿星−カノ−プス、そして「ながいぬつぬぷす」に出会うことが出来るだろうと・・・。カニの老人星との長い付き合いから生まれた考えなのである。
今日(平成19年11月5日)の夜は久しぶりの星空であった。いつものように「長寿星」に興味がいった。そして南天に輝く素敵な星を眺めた。カニは、5,6年前にこの星と出会えた喜びを思い出し、その時から今日までその星を見続けてきた、追ってきた。今日はそのことを噛みしめながら語り綴ってみた。
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南の国の夜空は楽しいものだ。寂しい時や辛いときにはこの星から何だか元気が貰えるような、そんな気がする。この「南極老人星」は・・・いつのまにか私自身の「こころの星」となっている・・・。
まゆがま(猫ちゃん)日記 パート4 ゆむぬぅ っふぃき゜すなゆ〜(鼠をくわえてこないでよ〜)の巻
あば本舗(下地出身)
猫を飼ったことのある人ならお分りだと思うが、彼らは狩りが出来るようになると、飼い主のもとに獲物を運んでくるようになる。我が家のまゆがま(猫ちゃん)にもご多分にもれず、その時期がやってきた。
ある日の夜。テレビを見ていた母が突如叫んだ。
あがーぃ!のーがらぴんなぎむぬぅどぅ っふぁいき゜しうす゜〜!
(きゃぁー、何か変なものをくわえてきているよ!)
何事かと二階から降りていってみると、ハナが口にくわえているのは、いみーぬ ゆむぬぬ っふぁがま(小さなネズミの子供)だった。その日を境に我が家は、ハナのこの行動に悩まされる事になる。
彼女が得意気にくわえてくるのは、ネズミやスズメの子供、ゴキブリ、バッタなどなど。あがぃんにゃ だいず!(あぁ、大変!)そのたびに家中をひっくり返したような騒ぎになる。しかもくわえてきた獲物が家の中で逃げ出すことが多く、探し出すのは、だいず至難の業だ。
片付け役の母は、すっかり困り果てている。
あにゃーむぬー ぴがす゜まゆがまゆー まーんてぃ!てぃ うぐりちゃーなうたー(全くとんでもない猫だよ!と、怒ってばかりいた)
この騒動を、笑いをこらえて見ていた私だったがふと不思議に思った。何故に犬はやらないのに、猫はこういう行動をとるのか?そこで、本を調べてみる事にした。
『雑学・ネコと気持ちが通じあうちょっとしたコツ』永岡修一著には、こういう事が書いてある。
「猫の狩りは、食する目的より狩猟本能を満たすための行動。獲物をわざわざ家に持ち帰ることは、自分の仲間に対して収穫をアピールするため。飼い主へのお土産でありプレゼントのつもりなのである」なんだそうな。
そうか。ハナは母や私への つとぅ(お土産)のつもりで、ネズミやゴキブリをせっせと運んでいたのか。
早速、母にその話をした。
ハナぁ母ちゃんから まいにつ んまむぬぅ むらいうりば、たんでがーたんでぃてぃぬ ばーやしーやーんかい ゆむぬぅとりきしうす゜っちゃ(ハナは、母ちゃんから毎日美味しいご馳走をもらっているから、有難うという意味でネズミを取ってきているんだってサ)
すると、怒っていた顔が急に緩んだ。
いー また あんしぬばー?(あら、そうだったわけ?)かんしぬ いき゜むすがまぁしってぃ うんぎゆ ばっすだなしーまいふかさいが(こんな小さな生き物なのに、恩義を忘れないとは偉いね)
そんなわけで、今日もハナの つとぅ(お土産)に振り回されている我が家なのである。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
実りの秋ですね〜。
店先には、柿やりんごやみかんなどいろいろな秋が並んでいますねー。そして、新米の季節。つやつやに輝いて かばすーかばすの(香ばしい)新米は、まーんてぃ んまむぬやー(本当においしいですね)。でも、私が新米なるものを初めて食べたのは、内地にきてから。宮古にいるときは、ふぉーたーくとー にゃーったん(食べたことはありませんでした)
昔は、宮古でもお米を作っていたと聞いたことはあっても、実際に見たことがないので、ぜんぜんイメージができずにいました。
そんな折、大和の宮古人さんが掲示板に、自分の家で作ったお米を売りに行った話しを書いてくれました。初めて知ることでしたので大変興味深く、もっと詳しくおしえてほしくて、今回原稿をお願いしました。
田植えの様子や家の中に やまかさ(たくさんの)米俵があったこと、平良に精米に行った話しなど、へぇと思うことがいっぱいでした。宮古でお米が作られていたことが時代とそこで働く大人たちとともにリアルに伝わってきましたね。大和の宮古人さん、大変貴重なお話し、ありがとうございました。
さとみさんも掲示板にお母さんとの旅の様子を写真付きで書き込みしてくれました。親子旅の様子がすごく楽しそうで、メルマガでも紹介させていただきたく、お願いしました。こんな風に、ずっと宮古を気に入ってくれて、そして、親子の思い出の1ページに刻んでもらえるのは、まーんてぃ ぷからすむぬやー(ホントにうれしいことですね)さとみさん、ありがとうございました。
カニさんのまなざしは、宮古をいろいろな角度から見て、照射してくれますねー。教えられることがすごく多いです。「ながいぬつぬぷす」の話も大変興味深かったですね。こんな素敵な星が宮古の南の空に輝いていたとは、すさったん(知らなかった)。いつか、ぜひ見てみたいです。
あば本舗さんのまゆがま日記には、毎回ほのぼのさせられますねー。それにしても、猫がエサを持ってくるのは、飼い主への つとぅ(土産)だったとは すっさったん(知らなかったー)。でもなるほどーですね。お母さんの感激の言葉から猫ちゃんへの愛情がいっぱい伝わってきました。パート5は、またどんな話が出てくるでしょう。どうぞ、お楽しみに。
今回、あなたはどんな感想を持ちましたかー?ぜひ、感想をお寄せくださいね。まちうんどー(待っていますよー)
それから、お正月号(1月3日発行)で、みゃーくふつで作る、一行詩(あるいは、みゃーくふつ川柳)の特集を予定しています。(忘れられているかもしれませんが、メルマガでは何度かやっているんですよお)あなたもぜひみゃーくふつで、一行詩や川柳を作ってみませんか?〆切は12月27日ままーず(あたり)です。ぜひ挑戦してみて下さいね。やまかさ(たくさん)の投稿をお待ちしています!
では、次回は三週間後の12月6日(木)です。
それまで、がんずぅやしー うらあちよー(お元気でー)あつかー、またいら!