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くまから・かまから vol. 173

2021 5/05
メールマガジン
2008年6月5日2021年5月5日

こんにちは〜。 がんずぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?
今回のくま・かまは、今月15日の父の日にちなんで、「父の日特集」をお送りします。5名のライターの父への想い。ゆみふぃーさまちよー。

目次

父と うんぬてぃー(鬼の手)

ビートルズ世代のサラリーマン(平良下里出身)

父が亡くなってから早いものでもう7年にもなる。3回忌で帰島した際、父の書棚から数冊の本を持ち帰った。その中の一つに沖縄の民具や農具を紹介した本があり、パラパラとめくっていると「うんぬてぃー(鬼の手)」の写真を見つけた。

「うんぬてぃー(鬼の手)」とは、高さ30cmほどの徳利状の厚く頑丈に焼締められた焼き物で、昔、「江戸上り」の献上品として泡盛の入った大きな酒がめ等を運ぶ際、壷の緩衝材としてシュロ縄などで巻かれ、酒がめの隙間に大量に詰め込まれたものらしい。また、当時の海賊(倭寇)の襲撃を受けた際、中に火薬を詰めて火を付けて投じ、武器として使用したといわれている。今では、なかなか手に入らない貴重な焼き物である。

この「うんぬてぃー(鬼の手)」には、父との思い出がある。

島を出て10年間大和で暮らしていた私は、結婚を機に島に戻り、5年間父の下で働いていた時期がある。当時、父は昔の民具や農具が好きで、特に、古い焼物(南蛮がめや嘉瓶(ゆしびん))を集めていた。どこそこに古いかめがあるという噂を聞くと仕事の合間にすっとんで見に行ったものだ。私も何度と無く父の車に同乗して見に行った。

ある日、場所は今では定かでないが、ある農家に古い南蛮焼きが有るということで見に行くことにした。もちろん私も同行だ。キビ畑の中にあるアバラ小屋に案内された父は早速値段の交渉を始めたが、予想以上に高値をふっかけられた。こういう時は、交渉決裂のふりをして一旦帰りかける。案の定、相手は折れて適正価格で無事入手した。

車に戻りかけた父は、アバラ小屋の引き窓につっかえ棒の代わりに使用されている奇妙なものを見て驚く。なんと、あの「うんぬてぃー」が無造作に挟まれているではないか。父は相手に驚いた表情を悟られないように、極めて何食わない調子で相手に話しかける。

「おじい この やどぅばす(戸)を 押さえているものを 私に ゆずらんか。これで もっと きちんとした 棒を買いなさいね〜」と千円差し出す父。

「あがい 適当なものが無かったから しょうがなく これがまを つかっていたさー。千円も貰ったら 上等な棒を買っても お釣りがくるさ」と笑う相手。「残りは あんたの 煙草代にすればいいさ〜」と明るく笑う父。

帰りの車の中で、興奮さめやらぬ父は「うんぬてぃー」についてのうんちくを得意げにそして熱く語った。

今でも時々、「うんぬてぃー」を眺めながら酒を飲んでいた父の姿を思い出す時がある。子供達が皆、島を ぱずでぃ(離れ)ていった寂しさを好きな焼き物を眺めることで紛らわしていた父の胸中を思うと、もっと父の側に居てあげれば良かったなと後悔する。

遠く内地に住み、何一つ親の面倒を見てあげられなかった親不孝の私だが、今となっては、父と過ごしたあの濃密な5年間が最大の親孝行だったのかなと自分勝手に思い込んでいる。

今度、宮古に帰ったら「うんぬてぃー」を眺めながら、神棚の父とまーつき(一緒に)酒でも飲んでみようと思っている。

味方

R(平良出身)

大正生まれの頑固者。父を一言で表すとそうかな、これは私の印象です。

6人きょうだいの なすきしゃ(末っ子)の私は、父と遊んだ記憶がありません。6番目ともなると子どもに対する関心もなくなっているんだな、とずっと思っていました。また、友達のお父さんと比べると年寄りに感じたのも事実で、私はお父を避けていました。

大人になって理解できたことですが、その頃、父の兄さん(伯父さん)と一緒に経営していたサルベージ会社が傾き始めていた時期で仕事・仕事で家にあまりいませんでした。家族は沖縄本島に置き、自分は単身、主に宮古の海を仕事場としていました。

たまに帰って来た父が口を開くのは叱る時だけだったので、小さい時は、父は「うとぅるす(怖い)人」でした。私たちが観ているテレビのチャンネルを父は帰ってくるなり「ニュースにかえれ」といつも言うので、心の中で「帰って来なければいいのに・・・」と何度もつぶやいたものです。

私は父の娘であるから父の全てを当然知っていると思っていましたが、父が逝ってしまってから、父の事を何も分かっていなかったことに気付きました。

5月29日は、父の みーにつ(命日)でした。亡くなって6年が経ちました。私の中で父は「うとぅるす(怖い)人」のまま生き続けていますが、叱かってくれた思い出を残してくれたことに今は感謝しています。

父の最期の2週間、宮古の実家に家族が揃い、体験したことの細かな事は時間の経過とともに忘れて来ましたが、あの時「私はこれまで何を見て、何を感じてきたのか」という宿題をもらったように思い、ずっと自分に問い掛け続けています。

父は、癌のため胃・腎臓・胆嚢の摘出手術を受けた5年後に肺へも癌が現れ、医者からは1年の余命と言われました。自宅での闘病生活は2年になりました。視力・聴力が殆んどなくなっても自分の生まれた土地に最後までこだわり、んきゃーん(昔)の生活を残したいと趣味の民具作りを続けました。既に子どもたちは独立し、宮古島で住む者は誰もいなくなっていましたので、近所の青年が父の木工のいいパートナーになってくれていました。

「くすぬど やむ(腰が痛い)、びじうらいん(座っていられない)」と言って病院に行った際には背骨へ転移した癌のためそのまま入院。1週間後、意識レベルが低下し、酸素マスクや点滴を施されたが、父が拒否。病院側の言うことをきかないと夜中ベッドに縛られることになり父の屈辱に耐えた何とも言えない表情を見て、最期は家で過ごすことを決め、病院へは二度と戻らないことを承知で一時帰宅。

家に着くなり、病院では身動きできなかった父が担架の上で上半身を起こし、自慢の庭を見て、笑顔になり、安堵の涙を流しました。父は家で5日間過ごしました。

2日目の晩、父は起き上がり、見守る家族の中で正座をして家の天井の四隅に向かい、笑顔で丁寧におじぎをしてまわりました。まるで誰かと楽しく話しているようにも見えました。この世の全てに「ありがとう」と声を掛けていたのかもしれません。

3日目の昼過ぎ、近所の青年が自分の畑で収穫されたとうもろこしを持って見舞いに来てくれました。畑からまっすぐに来たことがその格好でわかりました。遠慮している彼に「是非に」と私は声を掛け家に上がってもらいました。彼が父の側に座ると父は静かに目を開け、じっと彼を見つめました。既に口は開くことはできなくなっていましたが、彼は「大丈夫だから。大丈夫だから。」と何度も父に声を掛けていました。父が目を開けたのは、この時が最後です。

4日目に沖縄本島から長男・次女が到着。この日子どもたちがみんな揃いました。枕もとで流していた宮古民謡のテープから流れる「クイチャー」の歌に合わせ手足を動かしたのは、まさしくクイチャーの踊りで、それは全ての意思を伝える手段を無くした時に示した父の嬉しさの感情表現だったんだと思います。

5日目の午前中、父の手を握っていた長女が電気のようなものが走ったといって思わず手を離したのがその瞬間となりました。享年80歳でした。

青年が言った「大丈夫だから」の意味・・・
青年は、その昔、大きな罪を犯した過去がありました。その経緯を私は詳しく知りませんが、その事件の後も青年とその家族は故郷に住み続けました。近所で付き合ってくれる人はいなくなっていたことは容易に想像がつきます。年は大いに違った父が彼の唯一の「友」であり「味方」と言えたかもしれません。その父がいなくなる前に彼に向けた視線は彼への「一人で大丈夫か?」という心配の言葉であり、「頑張れよ」という励ましの言葉でもあったのでしょう。

思い出しました。

出産の際に危ない状態で生まれた孫娘の結婚式に病気で参列できない父が見えない目にメガネをかけ一所懸命書いて送った手紙のこと。

野球一家に生まれ、兄ちゃん二人は順調に野球少年になったもののそのセンスにめぐまれず「空手をしたい」と言った孫(三男)にすぐに空手着を買ってあげたこと。

高校生の時から両親の経済的援助を受けられない孫が作ったサラ金の借金を何の文句も言わず おじー(父)が返したこと。

「眠れない」と言った母ちゃんに たかだい(高級)布団を買ってあげたこと。

知的障害を持つ男性に庭の掃除の仕事をお願いし、小遣いをあげていたこと。

放浪しているオーストラリア人を家に泊めたこと。

人生に悩み宮古島に辿りついた本土の男性に「仕事を手伝え」と言い、食事・眠る場所を提供したこと。

母やきょうだいに猛反対を受けた私の結婚を父だけが賛成してくれたこと。

思い出しました。

以前、私が宮古に帰った時に「目が見えなくなってきたさー。耳も聞こえなくなってきたさー。」と淋しい笑みを浮かべ語った父に何も言葉を返せない自分だったことを。

父は、強い立場の人は相手にしませんでした。弱い者、除け者にされる者の「味方」であることを常に心がけて行動していたことを初めて理解することとなりました。父の行動に賛否両論あることは分かりますが、「私は父を信じる」とその時、決めました。

2年という時間が長かったか、短かったか。父は、「癌でよかった。いろいろ準備する時間をもらえたよ。」と言っていたそうです。また、「子どもに頼られなくなったということは、もう親の務めが終わったということさー。」とも言っていたそうです。

父が亡くなった晩、本島に住む孫は、自分は煙草を吸わないのに、おじーがいつも吸っていた煙草「KENT」を手にして火を点けたと後日聞きました。

父の行いを思い出し、できるだけ近づきたいと願っているのは私だけではないのかもしれません。

おとうが一行詩

松谷初美(下地町出身)

☆さきゆぬみ おとうがうぷぐい んざがみまい
(酒を飲み 父の大声 どこまでも)

☆びゅういうず おとうがねどこー まいぬぱり
(酔っ払い お父の寝床 前の畑)

※酔っ払って外に出て行ったお父が帰ってこない。探しに行くと、前の んーぎーばり(芋畑)で寝ていた。お父よー、気持ち良さそうだけど、そこは寝床じゃないよ・・・

☆すとむてぃぬ たちょうゆっす おとう
(朝の茶の供えをする 父)

※おばぁが亡くなってからというもの、お父が たちょう(朝一番に神様(仏壇)にお茶を供えること)をするようになったそうだ。今までそういう姿を見たことがなかっただけに、変わりようにびっくり。

☆んまがぬ まいんな やぱみぱな
(孫の前では えびす顔)

※特に、たいちゃん(兄の次男。今年2歳)に対するものは特別でこれが、あの父かと思わせるほど相好をくずす。メロメロという言葉が父の姿にもあるとは!

☆おとうがさんしん じょうずぁあらんすが なだぬいでぃ
(父の三線 上手くないけれど 涙あふれ)

※親の弾く三線の音色は、子どもにとって特別なものでしょうか。自己流で弾く父親の三線は上手くないけれど、私の魂をゆさぶる。

うや(おとう)

カニ(平良西里出身)

「うや のうてぃが うやー あまいうりゃー」(おとう、何故おとうは笑っているのか?)

カニは今から33年ぐらい前でしょうか、本土に出てきて一度自分を見失いそうになったことがありました。その時に野原に寝転んで夜空をみていると、夜空いっぱいに、カニの うや(おとう)の笑顔が広がっていました。カニは驚き喜びました。うや(おとう)はカニを古里・宮古島から見守っているのだと、すっかり安心し嬉しくなり、「さあ、明日から頑張るか」「くよくよしても始まらない」と、悩みも吹っ飛び、自然に「いず(元気)」が出たことがありました。

そのとき、うや(おとう)はカニにこう言いました。

「カニ ぶがりちかー いつがみまい ゆくずうり」(カニ、疲れたら、いつまでも休んでおれ)

「にっう”ぃうり」(寝ておれ)

今思えば有難い うや(おとう)の言葉でした。
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カニの うや(おとう)は明治43年生まれです。昼間は無口で黙々と仕事などこなしていましたが、夜になるとまるで人間が180度変わりました。酒のせいです。酒を飲み、酔い始めると、だんだんと陽気になり、あーぐを歌い、「みゃーくぬぴとぅぁー んーな うつざさい(宮古の人は皆親戚だよ)」とか言い出し、気持ちが大きくなり、「うぷぼらふきゃ(大嘘つき)」に変わり、うぷだらかちゃーん あいじあびりうずたむさい(大嘘ばかり言っていました)。

酔うと気前もよくなりました。このときばかりと、カニはこういいました。「うやー じんゆ ふぃーる」(お父さん、お金をくれ)「あがいあずむぬぁー んーな むちぴり」(あ〜有るものはみなもっていけ)「いーばー」「いーば」(良かった、良かった)
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そんな調子でカニは酔った うや(おとう)から時々金を貰っていました。あすがどぅ、すとぅむてぃん なずちかー かんちぬくとぅ あびりうたずじゅー(しかし、朝になるとこんなことを叫んでいました)・・・。

「んにゃ じんぬどぅ にゃーんふなりうず ばやーんざんが うつくたずべーや」(大変だ、お金がなくなってる、私はどこに置いたかな)「んにゃ ばーや のーがすーでぃ」(大変だ、どうしよう)

ばやー(カニャー) あんなとぅ いーひが あーはがてぃ ばたぶにぬ ぶりんすきゃーあまいうたずじゅー・・・(私は母と腹の骨が折れそうになるまで笑っていました)

そんなことなどよく思い出します。
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カニの うや(おとう)は中学校の英語の先生でした。毎朝、小さな1・5畳ほどの自分の部屋で声をだして英語の書を読んでいました。決して流暢ではありませんでしたが、しかし、大きな声で部屋中に響きわたっていました。

最近になって あんな(母)から次のような話を聞きました。

日本が戦争に負けた直後、米軍が宮古島に上陸してきました。宮古島の人たちは皆、「鬼畜米兵」と言い聞かされていましたので、米兵に捕まって殺されたらどうしようかと不安におののいていたそうです。その時、カニの父が英語の通訳として外人との狭間に立ち、うまく英語でやりとりをし、米国人と宮古島の住民との壁を取り除いたそうです。「この人たちは宮古島の人を殺すことはないよ」と宮古島の住民に伝えました。その言葉で多くの住民は安心したそうです。

その話を聞いてから、「知は力なり」と思いました。日頃、英語の書を、大きな声を出し読んでいた うや(おとう)が誇らしく思え、今でもカニも「うや(おとう)に習え」で宮古方言をなるべく大きく声を出して読むようにしています。

カニの うや(おとう)は、宮古じゅうの学校で教鞭をとっていました。下地小学校、佐良浜小学校、福嶺中学校、来間小中学校、宮古高校定時部、砂川中学校など・・・、そうして定年は鏡原中学校だったようです。

カニが覚えているのは、砂川中学校勤務時代と、鏡原中学校勤務時代です。何故、記憶しているかというと、宿直の日に一緒に学校へ連れて行って貰い、そこで うや(おとう)と一緒に泊まったからです。

バスで砂川中学校へ行く途中の風景など、よく覚えています。砂川中学校時代に うや(おとう)はしばしば「むいがー」を訪れていたようです。「断崖の隙間から真水が音をたてて『ごーごー』と湧き出てくる、素晴らしいところだ。」そんな話を聞かされたことを覚えています。

鏡原中学校は「あこうふぐ」と呼ばれる地にあり、いわゆる「やまのみ」でした。周囲は生い茂る森でしたので、よく大きな「ぱう”(蛇)」が宿直室に出現しました。

一度、こういうことがあったそうです。いつものように宿直室で寝ていて目が覚めると何匹もの「ぱう”(蛇)」が うや(おとう)の周囲を取り囲んでいたそうです。うや(おとう)は吃驚し、体全身の毛が逆立ち、恐怖に体中が縮こみ、冷や汗を掻きながら蛇を追い払ったそうです。これからというもの、時々、蛇の夢を見て、「あがい かまんかいぴり」(え〜い、あそこへいけ)と夢の中でうなり、足をばたばたさせていました。

時々早朝に、いつものように大声で「あがい あがい かまんかい ぴり」(え〜い、え〜い、あそこへいけ)と叫び、足をばたばたさせているので、目が覚めてから うや(おとう)に聞きました。

「のーばしがなりうず」(どうなっているの)

「のーぬがうくりうずな」(何が起こっているのか)

「あがい、ぱう”ぬどぅ ばぬぬ どうんかい まきゅうたむゆ」
(大変さ、蛇が私の体に巻きついていたよ)

「まんてぃ だいず  ばやー あがい うとぅるす いみうどぅ みーうたむさい」(本当に大変だ、私は何と恐ろしい夢を見ていたのだよ)

1年に2回ほど、「すとぅむてぃしゃーか」(夜が明ける白かる頃)から、このようなことにカニと あんな(母)は起こされていました。最初は吃驚しましたが、後になって、「またどぅ ぱう”ぬいみゆ みーうずぱずや」(また、蛇の夢をみているんだろうね)、「まんてぃ うとぅるすぱず」(本当に怖いだろうね)と同情していました。
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カニの うや(おとう)はカニが中学校の頃に定年していたと思います。復帰前のことです。退職金が千ドルだったことを記憶しています。定年後はこれといった趣味もない中で、朝は自転車でサイクリング、午後からは囲碁、そうして夕方からは「酒」を飲む・・・そんな感じで1日を過ごしていました。

子育てが夢であり、すべてだった うや(おとう)らの世代の人間、自分の趣味を楽しむという不慣れなことは到底できないようでした。日頃から趣味を持っていたら定年後は充実したのに・・・などと、うやあんな(両親)の姿にカニはそんなことを感じていました。

サイクリングは結構遠くまで行くらしく、鏡原の野原越、城辺の長間、比嘉あたりで うや(おとう)の自転車に乗り回している姿をみたという話を何度も聞きました。

後で分かったことですが、増原にある「飛鳥神社」に毎日手を合わせにいっているようでした。家を出ていった、島を出て行った子供らの健康や安全、夢の達成などを祈っていたようでした。

その願いは「短歌」の形で一冊のノートに綴ってありました。カニは大事に うや(おとう)の形見として持っています。

「子ら皆を とわに愛せん 天空は 命をかけて行事つとめん」
「ひたすらに 子らとむつみし幾年ぞ 我はめぐらん 養育の道」

カニあてに創った短歌もありました。

「ますらおは 栄ある前途歩み行く 使命果たして 恩に報いよ」
「たくましく おのこになれと祈りけん 初志通して 神にこたえよ」
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毎日、自転車で「飛鳥御嶽」まで行くのが日課だったことを知ったのはうや(おとう)が天国に旅立つ数ヶ月前でした。その頃、カニは西表島で勤務していました。もう今から20年近く前のことです。うや(おとう)が呆けて、食事もしなくなったとの電話が あんな(母)から入りました。

親孝行しようと思い、西表島に呼びました。もちろん石垣島の空港に迎えに行き、船で一緒に西表島に渡りました。空気のよい自然環境の素晴らしい西表島でのんびりと休養したら元気になるかもしれない、などと秘かな期待もありました。

西表に着いた うや(おとう)は相当喜び、若き頃に1人旅で西表島に来たことなど懐かしそうに語っていました。ところが2日目の朝、起きると、うや(おとう)の姿が見当たりません。足腰は弱っていましたので、そう遠くへはいけないと思い、祖納の森に入ったものと、祖納部落の人たちに連絡し、部落総出で探しに行きました。

こんな深い森の中で迷子になったら見つけることは難しいな・・・と思っていましたら、10km離れた浦内川の橋の下で一人の老人が座っていた、との情報が入りました。急いで駆けつけると うや(おとう)でした。

「うや、のうてぃが くまんかい きしうずぬが」(何故ここに来ているのか)「ばやー 飛鳥(とぅびぃとず)ぬ御嶽うどぅ とぅみあずきまーりうたずじゅ」(私は飛鳥御嶽を探し歩いていたんだよ)

うや(おとう)には西表島の景色が、どうやら宮古島の増原の景色と重なって見えているようでした。カニは宮古島に戻ってから飛鳥御嶽近くを訪れて、うや(おとう)が迷ったことが理解できるような気がしました。飛鳥御嶽から眺める景色は昔ここに田んぼがあったことを彷彿させます。確かに西表島の風景に似ているのです。

うや(おとう)は、西表島に来ても、朝の日課(飛鳥御嶽に拝むこと)を忘れずにいたのです。何を考え、誰にどんなことをお祈りしているのか・・・よく解りません。が、しかし、うや(おとう)の書き綴った小さな帳面にある短歌からは、島を出て行った子供らの健康や家族の幸せだったことが解ってきます。

近くにいくらでも御嶽はあるのに、わざわざ増原の飛鳥御嶽まで行ったのは何故でしょうか・・・カニは時々そんなことを考え、飛鳥御嶽に祭られている神を調べてみました。神の名は「真徳金」という名でした。地元の方たちは「まとぅふがに」とも呼んでいました。どんな人物だろうか・・・調べてみました。

色々と調べる中で、飛鳥御嶽のある地は、昔は「西銘村」と呼ばれていて、ここには「炭焼太郎」と呼ばれるある一族の長老が住んでいたとのことです。その一族の娘と昔から宮古島にいた原住民・保里一族の子孫・真徳金が結婚して宮古島を治める長として、飛鳥主となって、宮古の島をまとめていたとのことのようです。飛鳥主は宮古中の人から尊敬されたていたとのことです。よく知られている宮古島の主・豊見親とは違う宮古島の主がいます。カニらの知らないところに豊見親と異なる「宮古の主」「飛鳥主」が存在していたとの話です。
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そんなことがぼんやりと解ってきて、うや(おとう)はあの時、何を考え、飛鳥御嶽まで毎日行っていたのだろうか、と思いを馳せるこの頃です。

「父の日」・・・カニの脳裏に残っているのは、うや(おとう)の笑い顔です。夜空に広がったあの うや(おとう)の笑顔がカニをいつも勇気づけ、見守っていました。時折、太陽の照りつける暑い日に、飛鳥御嶽まで宮原・増原の坂道を自転車に乗りせっせとこぐ うや(おとう)の姿を思い浮かべるときに胸があつくなります。

「うや(おとう) ばんまい いつがみまい がんずーしーうずどー」 (父よ 私はいつまでも元気だからね)
「うや てぃんぬ わーびんかい いきってまい さきゆ むちぃくぅてぃ ちゃーん あずうずぬがー」(父よ 天の上に行ってもお酒を持って来いとばかり言ってるのか・・)
「なまから ばがどぅ むちいきばどぅ まちうらーいよ」(今から私が持って行きますから待ってらっしゃい)

お父への手紙

菜の花(伊良部町出身)

 お父、今どこにいるか〜? なにをしているか〜?

私は、いつもお父のことを思い出すけど、お父からは私のことが見えているかぁ?

6月はね、「父の日」なんだよ。そして、私がお父と母ちゃんの子供として、この世に生まれてきた月でもあるよ。言葉にして、私の思いをお父に伝えられたらどんなにいいか・・・。いつもそう思う。でも、伝えるべきお父はもういないから、だから手紙に書くね。

4月にはお父の十三回忌をやったよ。お父が かぬゆー(あの世)に逝ってから十三年経ったってよ。ぴゃーむぬ だね(早いものだね)。たくさんの人が来てくれたんだよ。お父がこの世からいなくなって、こんなにも時間が経っているのに、島の人たちはお父のことを忘れないでいたよ。ありがたい〜と思った。嬉しかったよ。お父もきっと、そう思っているよね。大和からも、沖縄からも、お父の子どもや、孫や、親戚が揃って、賑やかな法事になったけど・・・これがお父のお祝いだったら、どんなに、どんなに良かったかさ〜・・・。

仏壇の横には古酒の入っていた酒甕が置いてあるけど、あれはお父が元気だったとき、自分の古希祝いのために買っておいたものだったんだよね。お父の葬儀の日、母ちゃんは泣きながら 「よーずぬ ぬすまい すにーにいんにば のーまいしらいん(祝いの主も死んでしまってもういない。酒甕を置いておいても どうすることもできない)」と、甕の蓋を開けてみんなにお父との別れの杯として振舞ったんだよ。私も飲んだよ。

お父が自分の古希祝いの日に、みんなに振舞うはずのお酒が、まさか、別れの杯になるとは夢にも思わんかった。初めて口にした古酒の味・・・あの哀しい味を、私は生涯忘れないと思うよ。

それから、私はお父に謝りたいことがあるんだ・・・。

お父が入院していたとき、付き添いで病院に泊まった夜、「僕は君に言わなきゃならんことがある」と言ったでしょう?!あの時「なぁに?」と聞いても何も答えてくれなかったね。

お父が何を言いたかったのか聞けないまま、また大和に戻ってしまったけど、お父が亡くなったあと、母ちゃんにも「あの子に言わなきゃならんことがある」と話していたけど、何を言いたかったのか誰も聞けなかった、と言われたよ。

言いたいことを受け取らないまま、お父を見送ってしまって、私の心にはいつもお父のこの言葉が居座っているよ。でもね、この頃お父が何を言いたかったのか、私にはわかる気がする。わかるからいっぱい後悔する。

お父が言いたいことがあると言った日、お父はすぐには言えないほどの思いでそう口にしたんだよね。誰にでも軽く言えないほど大切なお父の気持だったはず。そう思っていながら、「ありがとう」も「お父の子どもでよかったよ」の一言も返してあげられなかった。自分の死が近づいていることを知って、ようやく口にしたお父の気持をわかってあげられなくて、私は まーんてぃぬ ぷりむぬ(本当の馬鹿者)です。お父、ほんとうにごめんね。

私の誕生日ももうすぐくるよ。私と同じ歳のとき、お父はどんなだったかな〜と思うことがあるよ。お父は集落のおじぃやおばぁに頼まれては、手紙の代筆をしたり、証文の代筆をしたりしていたね。何をするにもひたすらに、全身全霊を込めて。そんな場面がいっぱい浮かぶ。

呆れるくらいに母ちゃんをも大切にしていたよね。今でも母ちゃんは、私の友だちにお父とのおのろけ話をするってよ。母ちゃんは一人暮らしでも、いつもお父が傍にいてくれていると信じているから、だからやっていけるんだよ。絶対、母ちゃんの傍にいるよね。

世の中には、偉い人も、すごい人もいっぱいいるけど、私が一番偉いと思う人、尊敬する人は、やっぱり、お父。お父だよ!私がお父を誇りに思うように、私もお父から誇りに思ってもらえる娘になりたい。

お父の子供でよかったよ。ほんとにありがとう。

お父の娘より

お便りコーナー

前号(vol.172)への感想・お便りを紹介します。

めいさん(埼玉出身)

■172号もとってもよかったです!

最初にもくじを見た時に「あば!」と目を引いたのは「宮古の自然と文化 第2集」によせて、です。

というのは、私 第1集を読んだんですよ!!おととしの10月に勇さんのライブのために那覇に行った時に、本屋さんで偶然見つけて、「これはすごいの見つけたっ!」って、即購入したんです。もう増刷はしていないんですか。。。いやー、運命を感じますね(笑)

第1集では地下ダムやさとうきび、サシバの話がとても印象的で、島の自然や風土を活かしつつ発展させてきた宮古人のアララガマ精神をかいま見ました。人頭税廃止運動に尽力した方々の証言はリアルで、いかに大変なことだったか容易に想像がつきます。今週末、勇さんの3%ツアー那覇ファイナルに行くので、また同じ本屋さんで買ってこようと思います!!

「うすんきゃむぬぬ弊害」
私も実は小学校2年生くらいまでは「うすんきゃー」でした。(私も嘘つけ!と言われますが。。笑)でも宮国さんのお話を読むと、ん?どこが弊害?って思っちゃいましたよ。”宮古方言を話し、方言で考え行動してきた生活を変えるには相当のエネルギーを要した” んー、まさに「男は度胸=男はエネルギー」ですね!言葉の壁を感じたことのない私には、想像できない気苦労があったんでしょうね。でも今は「くまかま」の仲間と出会えて人生が楽しく潤いのあるものになりつつある、というなんとも素敵なお話でした〜。

初美さんが、たくさんの「うすんきゃー」の方々に勇気を与えているんだと思いますよ〜!

「海人の島と海の生き物」
カニさんの宮古・沖縄の自然を愛する姿勢には、ほんと、感動します!「大きなものだけを見ようとする。なかなか近くを見ない。自分が立っている地をみようとしない。小さなものをみようとしない」という言葉、考えさせられます。何事もまず自分の足元・根を忘れずにということなんですね。また、平良さんのおかあさんの言葉や格言は、まさに黄金くとぅばですね!私もこの本が読んでみたくなりました。

さー、いよいよあさってから那覇です。初美さんの分も勇さん&3%バンドに声援おくってきますね〜!(5月19日)

※めいさん、今回もていねいな感想メールたんでぃがーたんでぃでした。ライターのみなさんも励みになってうれしく読んだと思います。勇さんのファイナルライブもだいず盛り上がったようですね〜。今後のスケジュールもいろいろ発表され楽しみですね。

編集後記

松谷初美(下地町出身)

6月になりましたねー。東京も梅雨入りしました。すぷーすぷ(湿っぽく)しています。

去った5月24日に、関東南秀同窓会が東京の代々木であり、菜の花とまーつき(一緒に)参加してきましたー。関東の うまかまから(あちこちから)約70名ばかーず(くらい)の人が参加して、楽しいひとときを過ごしました。先輩が多かったですが、みなさんの いず(活力)は、すごかったです。総会の後は、南秀くらぶ混声合唱団による美しい歌声が披露されたり、菜の花と私は、みゃーくふつはうむっしと題して(新里博先生から習ったことを織り交ぜながら)話(漫才?)をしました。その後、菜の花は、三線を弾き「なりやまあやぐ」や「豊年の歌」などを歌いましたよ。(菜の花ソロデビュー!)だいず喜ばれました。そして最後は、みんなでクイチャー踊ってお開きとなりました。会では若い人の参加も呼びかけていましたよ。やーにまい(来年も)ありますので、宮古高校出身の方は、ぜひご参加ください。

さて、父の日特集は、のーしがやたーがらやー(いかがでしたかー)?母親と違って、父親はちょっと距離のある存在だったりしますね。各ライターの話には、父親を知ろうとする気持ちがあふれているように思いました。そして思い出をとても大切にしていることも。

うわが感想ゆまい きかしふぃーさまちよ〜。(あなたの感想もお聞かせくださいね〜) 

しまいぎー ゆみふぃーさまい(最後まで読んでくださって)たんでぃがーたんでぃでした。

次号は、6月19日(木)発行予定です。どうぞお楽しみに〜。
きゅうまい、上等の一日でありますように!あつかー、またいら〜。

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