こんにちは〜。きょうは全国的にぴしーぴしの(寒い)一日になりそうですね。
がんずぅかりうらまずなー(お元気ですかー)
vol.184 お楽しみくださいね〜。
ミュージカル『貢布織女の歌』、来春沖縄公演へ
クイチャーマン(下地町那覇出身)
宮古島市民歌舞団「きずな」(代表・佐渡山力さん)が、平成17年5月にマティダ市民劇場で上演して好評を得たミュージカル「貢布織女の歌(こうふおりめのうた)」の沖縄本島での公演が来春、2月15日(日曜)夜、浦添市てだこホールと決まった(入場券:前売り2千円)。
その公演の成功を目指して実行委員会(委員長・友利敏子さん)が9月6日に発足し、私は事務局長を引き受け、ぱんたーしー うーてぃーぬばーさーい(多忙になっているわけさ)。
脚本の作者・花城武彦さん(大阪在住。佐渡山さんと同じ宮古高校4期生)は、このミュージカルについて次のように述べている。
「今から150年ほど前、宮古島にこのうえない台風と旱魃(かんばつ)と伝染病がおそいかかりました。その上過酷な人頭税が課され、人々は生き地獄に突き落とされます。そのような中で、若い二人の男女の愛を中心に、宮古上布を織る女性たちのたくましく生き、この苦境を乗りきる様をえがこうと試みたものです」(後述のプレ公演に寄せたメッセージより)。
物語は18世紀の中ごろの人頭税時代。ヒロインの織女・ミガには一ヵ月後に祝言を予定しているカマという恋人がいるが、首里から宮古島に派遣された役人・目差主(みざすしゅう)はそのミガを現地妻にしようと執拗に迫る(民謡「豆が花」をミガの母親・アンナと歌い合う)。アンナはミガをかばい、カマも目差主と対峙するが、カマは追われて伊良部島に逃げる。その後のミガとカマの運命やいかに・・・。
あんしぬ ばーやっすぅが、んにゃ んなまー うすか。しまいがみ ぱなすっかー、とーめー みーがー くーんぱっちゃりばいら。(そういうことなのだが、もう、今はここまで。最後まで話すと、誰も見には来ないはずだからね)
みーとぅかなー(見どころは)ミガとカマはプロの声楽家で、豊かな歌唱力の持ち主であること、織女たちが貧しくも明るくたくましい「宮古の女」たちの姿を、みゃーくふつ(宮古の方言)を ばんみかして(轟かせて)表現すること、全編を通して宮古島のわらべ歌、民謡、花城さんのオリジナル曲など、すてきな楽曲が少年少女および女声コーラスも加わって披露されること、などである。宮古テレビで「冴子おばぁのよもやま話」を担当している与那覇冴子さんも、存在感のある「お婆」役で出演する。
本番の2月公演を控えて、去る11月9日に、プレ公演が本番と同じ会場で開かれ、演出の宮国敏弘さん(久松中教頭)、佐渡山さん、出演者代表らによるトークショーと、ミガ役の仲里広江さん、カマ役の田里直樹さんらの独唱などがあり盛り上がった。本番では、沖縄本島の宮古関係者の心に、大きな感動を届けることだろう。
事務局めー、んなまからどぅ まさり ぱんたふなーぱっちゃりゃーめー わいてぃー すきゃくってぃー うむいゆーばーだら。(事務局も、これからいっそう忙しくなるはずだが、元気を出して、取り組んでいきたいと思っているところだよ)
『沖縄ドキュメンタリー映画祭』の ぱなす(話)
Motoca(平良出身)
法政大学沖縄文化研究所の主催で9月から10月の週末と祝日を使って行われた「沖縄ドキュメンタリー映画祭」。
全8日程のうち、私は10月5日(日)の【海外への移民】、10月11日(土)の【宮古・八重山の祭祀】、10月12日(日)の【沖縄戦】の3日程10作品を観てきました。そのうち、10月11日【宮古・八重山の祭祀】について、遅ればせながら感想を書いてみます。
全体の感想をひと言で言えば、だいずショックでした。自分の、宮古や沖縄への向き合い方を、全部ガザーッと表に出してはじめからすべて整理し直したい、そんな衝動に駆られました。
何かをやりたい、感じたことをどうにかアウトプットしたい思うのだけれど、ひと月以上経過した今になっても、全然まとまらない。脳内すきゃーりまっちゃ(散らかし屋さん)の片付けられない女です。開き直って今書けるだけのことを、書いてみることにしました。
まずは観た映像について、ざっと概略を紹介します。放映順とは異なるけれど、先に八重山の二つの祭りから。
■種子取祭(竹富島)■
これは島をあげて10日間行われる、ユークイ(世乞い)の祭り。祭りに参加する男性はみな黒の紋付き袴、女性はみな紺の絣の着物、という揃いの出で立ちが印象深い。また、この祭りにおける男女別の役割がそれぞれ厳密に定められているのが興味深い。
祭りの時しか扉を開けられない、ミルク(弥勒)神の面が納められた奉安殿。扉を開けることが許される人も限られている。扉の中から出てくる、白い大きな、穏やかな表情の仮面。この弥勒神に奉納する奉納芸能が、祭りの7日目と8日目に行われるのだが、それがまた鮮やかだ。黒の紋付き袴と紺の絣から一転して、色とりどりの衣装での、舞踊、キョンギン(狂言)の数々。厳かで、神々しくも感じる一方、賑やかで情熱的でもある。竹富の人々の生活の中心にこの祭りがあることを感じる。
■マユンガナシ(石垣島川平集落)■
放映時には旧暦の年末行事という風に解釈してしまったが、後で調べたら農耕暦の新年、旧暦9月ごろの行事だそうで、やはりこれも豊饒祈願の祭りとなる。
マユンガナシは、来訪神で、字を充てると「真世の愛し」。「愛し(かなし)」とは尊いもの、つまり神のことだ。全身をクバの葉で覆い、目深にクバ笠をかぶり、背よりも長い杖を持っている。地面にも届く長いクバの葉の先を、ガザ―、ガザ―と引きずりながら歩く。
集落を一軒一軒訪れ、それぞれの家の軒先で農作業の手順や豊饒を説く。右に左にと体を揺らしながら唱えられるその カンフツ(神口=神の言葉)は、一回唱え終わるのに45分かかるという。マユンガナシは、戌年生の青年たち数人が扮し、手分けして集落を回るのだそうだが、それにしても何と丁寧な祭りだろう。集落内のすべての家を回りきる頃は、日が昇り始める。『千と千尋の神隠し』の世界に出てきそうな、異世界の雰囲気が漂う神様だった。
さて、今度は宮古のユークイとウヤーンについて。
■西原のユークイ■
ナレーションもなく字幕解説もほとんど入っていない映像作品。限りなく原音のままの祈りの風景。説明がない分、解釈は観た者の感性に任されるが、映像ひとつひとつのインパクトが強い。聞こえるのは、ユークインマ(神職の女性)たちのおしゃべりと、祈りの歌声、緑深いウタキを歩く音。ヨーンテル、ヨーンテル(世を満てろ、世を満てろ)のメロディーが頭に残る。
西原のンマたちの声は、力強い。祈りの準備をするときの、ンマたちの明るいおしゃべりの声、祈りの場の静けさ、祈りの表情、重ね合わさる声、すべての行事を終えたときの涙、神職を引退するンマたちの祝いの晴れ着と踊り。すべてが鮮明で、音にも動作や表情のひとつひとつにも心惹かれた。
■池間のユークイ■
ユークインマの引き受け手がなかったために、1985年から12年間の祭祀の中断期間があった。この日に放映されたユークイの映像は、1974年、断絶前に記録された貴重な映像なのである。
気がついたのは、「ヨーンテル、ヨーンテル」と歌う声の高さ。先に聞いた2000年代の西原のユークイのそれよりも、全体的にキーが高いんじゃないかと思う。メロディーで言えば、最初の一小節が違うだけなのだが、その違いは、音の上下の幅なのだ。張り上げているわけでもなく、バミキて(わめいて)いるわけでもない、自然で、高い声。以前観たことのある、久高島のイザイホーの映像を思い出した(多分2年ほど前の、法政大学の公開講座で観たのだと思う)。イザイホーで歌う女性たちの声も、異様なぐらいに高かった。祈りの中の、一種の特別な精神状態で出てくる声なんじゃないか、と勝手に思っている。
■佐良浜のユークイ■
1998年から4年間の断絶を経て復活するまでのドキュメント。ユークイを含め、ユークインマたちがこなす年間行事の数の多さに驚いた。一人でも欠けるとその行事が滞ってしまう。後任者の選任がうまくいかず、それで迎えてしまった儀式一切の中断、という事態だった。神職をつとめることは大変だ、なんだかんだと言いながら、再開が決まったときの佐良浜の女性たちの晴れやかな表情が印象的。
■狩俣のウヤーン■
集落の神女たちが、数日間、神山と呼ばれる小高い森の、ウタキにこもって数日間祈り、祖神をつれて集落へ降りてくる儀式。「ウヤーン」とは「祖神(おやがみ)」のことだという。
神女たちのいでたちは、不謹慎な表現だが、葉を巻き上げて作ったアフロヘアのような丸い冠が印象的だ。紺の絣の上に白いエプロンのようなものを羽織り、足は裸足のままで、細長い木の枝を杖にして一列に神山から下りてきて、ぐるぐると輪になって歌う。その独特の祈りもまた、現役の神女の高齢化と、後継者の不足により存続が危ういのだという。その現状をリポートした映像だった。
<映像の感想>
宮古・八重山両諸島の祭祀は、よくぞこの小さな地域に、と感心するほど、祭りのあり方が豊富だ。この日観た映像すべて、豊饒祈願の祭りなのだが、「世を乞う」という祈りの儀式そのものが、それぞれの地域の感性から自然に生まれ、受け継がれてきたものだと思うと、その個性的な存在感がとても愛おしく思える。
そして改めて、私は自分の住んでいる島にある祭祀を のーまいすさっだん(何も知らなかった)ということを思い知った。私にとってのウタキは、ふるさとの風景の一部ではあるけれど、生活の一部ではなかったから、これだけウタキが生活に密着した祭祀のようすを観るのは、初めてのことだ。
恥ずかしながら、私が「ユークイ」という行事のことを知ったのは、ほんの数年前だ。しかも、新聞記事でしか見たことのなかったその行事を、西原、池間、佐良浜の3地域それぞれ、映像として観ることができたのは貴重な機会だったと思う。
しかし、それらの祭祀の存続が難しくなってきたことも同時に知り、ショックを受けた。私の中で、方言と伝統文化の保存率は宮古の中でもダントツ一番だと勝手に思っていた佐良浜にあっても、その継続が難しくなってきているという現実。驚きとともに、少し悲しくもなる。
正直に、「もったいない」と思う。宮古の中であってもユークイもウヤーンもない場所で育った私が、それらの集落の行事を手伝うことは本質的に不可能だし、まして今東京に住んでいる私に、祭祀を続けてくれという資格なんかない。
でも手伝えるのなら手伝いたいし、続けてくれとお願いできるのならそうしたい。映像を見てからますます強く思うのだ。そして、そうやって引き継げるものを何も持たない自分の、手元の寂しさを感じる。
■シンポジウム■
そして、放映の後には5人のパネリストによるシンポジウムがおこなわれた。【変わりゆく島−祭祀の記録から】というテーマで勧められたこのシンポジウムは、祭祀を記録したり研究したりすることの意義、祭祀への思いをパネリストがそれぞれ語り、その意見の違いが白熱した議論を生んだ。
どれぐらい白熱したかというと、終了時間が近づいても、司会者が何も言えないぐらいに。濃すぎて誰もあそこに口を挟めない。みんなあまりに情熱的なのだ。どうやってシンポジウムが終了になったのか、思い出せない。きっと最後まで、白熱しっぱなしだったのだ。、
<シンポジウムの感想>
シンポジウムの途中から、私も悶々と考えてしまう。たとえば「映像に記録して残す」という方法は、祭祀を存続させるために有効か。
神へ祈るための儀式は、その神秘性ゆえに、目に見える形では記録されにくい。ユークイにしてもウヤーンにしても、祭祀の途中に神職であるツカサやユークインマを正面から見ることが禁忌であったり、聖域には通常の人が立ち入ることを許されていなかったり、といった制限があるせいでもある。
しかしさらには、祈る側にとっても記録する側にとっても、祈る対象への畏敬の念があり、それを撮影される/撮影することへのたいそうな覚悟がいるのではないか。
シンポジウムのパネリストでもあった宮国優子さんが、vol.182で「他人のパンツを見るよりも難しい」と表現されたのは、その覚悟をたとえたのだと思う。
しかし、記録者と、その記録を見る側にはまた、別の感情がある。先ほどの「人のパンツを見る」の例で言えば(すみません!)、我々はきっと、そのパンツが赤のフンドシであることを期待している。…つまり、驚くような展開があることを。
記録する側にとっても、その記録を見る側にとっても、好奇心は否めない。しかしその好奇心が、祭祀の神聖な領域に踏み行ってはならない。どこまで踏み込んでいいのか、どこからが立ち入ってはいけない領域か。その共通認識を、記録する側、記録される側、記録を見る側という間にきちんと成り立たせることの必要性を感じた。それに関してはまだまだ、話し合いも理解もメディア教育も足りていない。この共通理解が、お互いに納得できる形で成り立つのなら、映像記録は有効だと、私は思う。
<さいごに>
映画祭全体を通してのテーマは「世(ユー)を見る、繋ぐ」だった。さあ。世(ユー)を祈る、貴重な映像の数々を見せてもらった私たちは、何を繋いでいけばいいだろう。
世(ユー)とは時代であり豊饒であるという。私たちが生きる、ンナマユー(今の世)の豊饒とは何だろう。たくさんの宿題をもらった。時間をかけて、少しずつ、答えを探して行けたらいいなと、今はぼんやり考えている。
※参考文献・サイト※
『別冊太陽 祭礼―神と人との饗宴』平凡社 2006年
「沖縄ドキュメンタリー映画祭プログラム」法政大学沖縄文化研究所
「’08沖縄ドキュメンタリー映画祭」公式サイト
http://www.hosei.ac.jp/fujimi/okiken/top/top-index.html
「全国竹富島文化協会」
http://www.napcoti.com/index.html
ハンセン病家族の苦悩
大和の宮古人(城辺長南出身)
今年伯父が84歳で天国に旅立ちました。
私は、後2〜3年で還暦を迎えます。でも伯父に逢ったのはこれまでたったの1回しかありません。最近までこの伯父が生存して居ること。この伯父が生を受けた事も知りませんでした。
これは伯父の妹である私の母の72年間の苦悩です。
あざ(兄)がハンセン病を発症したのは小学校6年生の時。学校の身体検査で見つかった。その翌日から学校には いかいったんゆ(行けなかった)。
その頃ハンセン病は、らい病と言われ原因も治療法も分からない病気で周りの皆から恐れられ嫌われていた。
1年間ほど一歩も外に出る事もなく自宅の裏座に隔離されて、一日中薄暗い所に座っている姿が つんだらーす つんだらーす(すごく可哀想)で思い出すと今でも涙が出てくる。
長兄が出征する事になり宮古南静園に入所させた。(以前は名前が違っていたが此処では南静園と書かせて頂きます)
入所してからは2か月に1回位の割合で面会に行ったが、戦争の激しい2年間ぐらいは宮古島にも兵隊が大勢いたので行かなかった。うとぅるすむぬだったよ(怖かったよ)
その頃の宮古島は車も殆ど にゃったん(無かった)。んざーん かいまい(何処に行くにも)歩きさ。道路も穴ぼこだらけでガタガタか、有ればいいほうだった。
知り合いに会わないようにする為に道路は歩かないで畑の畔道や山中のケモノ道のような所を通った。片道3〜4時間以上はかかるさ。往復に大野山林での休憩が待ちどうしかった。
あんな(母)と二人で行くけど、行く日は すとむてぃ ぴゃあしんから(朝早くから)やまかさ(沢山)の荷物を頭に載せて出かける。(昔の宮古の女の人は何でも頭に載せて運んだ。手拭いやキビの葉をドーナツ状に丸めて頭に載せてその上に荷物を載せると安定して手で支えなくても歩ける。)
持って行く物は殆どが食べ物。んんむ(さつま芋)、揚げ豆腐、お米、味噌、鶏や豚の煮つけ。(療養所では自給自足していたので米や味噌も持って行ったし きざす°(年行事)にはその時に合った料理も作って行った)
あんな(母)は強い人でどんなに重い物でも平気だった。でも やらび(子供)の私は頭が痛くて何度も音を上げそうになる。でも あんなの事を思うと言えんかった。
やっとぅがま(ようやく)辿り着いて南静園の入り口で面会を申し込む入り口を入ってすぐ横に小さな小屋が(茅葺)あった。今で言う面会室だ。小屋に入る前に全身にスプレーで消毒液を吹き掛けてから中に入って待つ。
門は高台にあるので係りの人がラッパを吹き、うぷぐいで(大声で)○○さん面会と呼ぶと暫くしてから あざが上がって来る。
小一時間位は持参した物を食べさせながら家の事等、世間話を。その頃には あざの手指は関節が曲がっていた。あんなはいつも あざの手を取って両手で撫でながら「んぞうさ。うわがてぃがまー あんちんなり」(残念だね あんたの手はこんなになって)と呟いているのを かなすかなすしぃみいうーたーゆ。(悲しく思いながら見ていたよ)
あんなは翌日からは次に行く日の為に豊かではない生活の中から少しずつ米や味噌を取り分け大きなお芋を掘り上げたら土の中に戻し小遣いを作るために蚕を養ったりして苦労していたよ。(宮古で養蚕していたとは。見た様な気もするけど)(娘談)自分の子供の事だから苦労には感じなかったでしょうね。黙々と働いていたから。
こうして南静園に何年間も通った。嫁いでからは主人以外の婚家の人は、あざのことは知らなかったので うむがーにゃんな ならったん。(自由に出来なかった)主人が運転免許を取ってからは、だいず楽だったよ。
上手に言えないけどハンセン病の患者さんが虐げられ差別されて来た事は本当に悲しい事だと思う。でも一番虐げて来たのは自分たち身内ではないかとの思いで居たたまれない。
昔は病気の原因が分からなかったから仕方がなかったけど、良い薬が出て感染しないことが判明してからも長い年月が経つ。
最近は園内でゲートボール大会やグランド大会、或いは慰問で踊りに行く事もあったけど、あざが入っているとは親戚にも言えなかったし、仲間にも知られたくないと思った。
こっそりと売店に行き、飲み物と「仲間と一緒だから今日は寄れないよ、また来るから」と手紙を書いて頼んだりもした。あざも見たい時もあったと思う。でも私に気を使い表に出てこなかった。残酷なことをしたと後悔するが亡くなってしまった今は心の中で詫びることしか出来ない。
それでも亡くなるちょっと前に一度だけ踊りを見に来た事がある。その日も飲み物と手紙を売店の方にお願いした。私達の番になり舞台に上がった。アバ!あざが一番前列に座っているさいが。あがいたんでぃ、つんだらーさ(あらーかわいそうに)。涙が出そうになったけど頑張って踊ったさー。あざはジーと見ていたよ。一言も声は掛けて来なかったけど。後にも先にも私たちの踊りを見たのは、その時だけだった。
最近まで子供や孫にも話せないできた。兄が80才を過ぎてから皆に打ち明けて逢わせた。突然連れて行ったので兄がどう感じたかは、分からないが ぱずかすきなり(恥ずかしそうに)していた。
亡くなる前から自分が死んだら園の中の納骨堂に納めてほしいと言い続けていた。友達、先輩ほとんどの方が納められているからと。ここで一生を終えたいからと。本人の希望通りにして来たが、今後の事を思うと考えさせられる。
母は、そのうちに実家の墓に兄を入れたいと思っているようである。私たち子どもにも言わず、どんなに苦しかっただろうと思うと、胸が痛くなる。1回しか会えなかった伯父であるが、私はこの伯父のことをずっと忘れずにいたいと思っている。
編集後記
松谷初美(下地町高千穂出身)
今月9日、東京上野で「第35回関東宮古ふるさとまつり」が行われました。新聞や宮古テレビなどのニュースで みーたーぴとまい だう ぱずやー(見た人も多いことでしょうね)。ばんまい あんちー(私もそうです)
ふるさとまつりは、宮古市村会(宮古島市と多良間村)と関東宮古郷友連合会(平良、伊良部、上野、城辺、下地、多良間の各郷友会が集まった会)が主催してやっているもので、毎回各郷友会からの出し物やゲストの出演で盛り上がります。
今年も家族連れや、あぐ(友人)同士、郷友同士、宮古が大好きという内地の人たちが うがなーり(集まり)、親交を深めながら、宮古の芸能をたっぷり楽しんだ様子が報道されていましたね。上野の森は、宮古の かざ(匂い)でいっぱいだったはず〜。
ふるさとまつりは当初(35年前)、宮古を離れ、内地で頑張っている若者たちを励まそうと宮古市町村会が主催したのが、始まりだそうです。それが時代と共に変化し、今は、逆に内地にいる側が、生まれ育った宮古を誇りに思い、感謝し、宮古を盛り上げようという感じになっていますね。
連合会では、早速、来年の話が出ていますよ。またみんなで うがなーり楽しみましょうね〜。
さて、今回のくま・かまぁ のーしがやたーがらやー。
クイチャーマンさん紹介のミュージカル「貢布織女の歌」は、宮古が舞台で、方言やわらべ歌なども歌われ、そしてプロの声楽家も出演とのこと。みーぶすぶす(見てみたい)ですね。実行委員のみなさんの熱い想いも伝わってきました。来年、公演間近には掲示板で詳細を書いてくださるということですので、要チェックですよ〜。
Motocaさんは映画祭の後、掲示板に自分で書いた「マユンガナシ」のスケッチを載せてくれましたが、すごく上手で、映画を見る細かさにだいずびっくりでした。今回の内容も、Motocaさんの五感がフルに発動して、感じている様子が分かりますね。答えはすぐに出ずともこうやって考えることが大切!と感じました。
大和の宮古人さんの「ハンセン病家族の苦悩」の話は、胸にせまるものがありますね。息子に食べさせたい一心で やまかさ(たくさん)の食べ物を持っていき、手をなでる様子に、なだ(涙)が出ました。お母さんからこの話を聞いたという大和の宮古人さんの気持ちも伝わってきましたね。ここに書ききれないいろいろなことが他にもあったようで、悩みながら書いてくださったようです。大和の宮古人さん、ありがとうございました。
今回もしまいがみ ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃ〜。
(最後まで読んでくださり、ありがとうございました〜)
あなたの感想も きかしふぃーさまちよー(聞かせてくださいね)
次号は、12月4日(木)の予定です。
感冒しないようにしましょうね〜。あつかー、またいら!