こんにちは〜。
きゅうからから8月やー(ですねー)。夏真っ盛りですが、いかがお過ごしですかー?
今回もコアな話をたっぷりと。どうぞ、お楽しみください!
宮古島の『ラハイナ・ヌーン』
Jetzt(三重県・鈴鹿出身)
私は埼玉に住んでいるが、15年前に宮古島に魅せられ、これまで20回ほど訪れている。
今回(6月28日)は、昼頃に真上に来る太陽が見たくて来ましたと、宮古空港に毎回迎えに来てもらっているレンタカーショップのおかみさんに話をした。すると、彼女は「夏はいつも真上にあるような気がしますけどねぇ」とけげんな顔をされた。
随分と前に訪れた夏の宮古。昼頃にあたりの景色が急に変わったように思った。日の光が強調されて、すべてのものが鋭く空に向かって直立している、と。その時、足下に落ちる自分の影がほとんどないことに気付いた。周りのものにも影はほとんどなく、それは暗い部分が極限まで減った光景であった。
太陽が真南にきた時の時刻が南中時刻であり、その時の太陽の高さが南中高度である。南中高度が90°であれば、太陽は完全に真上に位置し、物体に影がなくなる。南中高度が最大になる夏至、6月21日にそれを見に行きたかったのだが、実際に行けたのはその1週間後だった。
東平安名崎灯台は、北緯24°43’10” 東経125°28’7”に位置する。そこでの南中時刻と南中高度を、国立天文台のサイトで求めると、6月21日には12:39:51に南中高度が88.7°、29日は12:41:32に88.5°となることが分る。90°からのわずかなズレは肉眼では分からない。この角度では、直立する1mの棒にできる影の長さは2.5cm位である。関東では、それが20cm以上となる。国立天文台のサイト(http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/)
翌29日、多くの観光客が行き交う中、私は灯台の近くでペットボトルを日時計替わりにし、その影が段々と短くなっていく様子を眺めていた。予報通りに12時30分頃、いつもは白く明るく輝く東平安名崎灯台が、灯台上部の作る影の中にすっぽり入った。先頭部分は真上にある太陽光を反射して輝き、澄み切った青空とあの海を背景にしつつ、灯台本体は大げさに言えば薄墨色に見える。影の中に入った灯台本体の地面に近いところは、地上のコンクリートの照り返しをスポットライトのように浴びてやや明るい。
東屋の近くにある球状のモニュメントも、上半分にだけ光が当たり下半分は暗い。その境界線は海の水平線と重なり、見事な調和を見せている。手すりはその影を真下に落としている。すべてのものの影が最小となり日の当たる所が強調されている。この光景が見たかった。しかし、夢の中のような景色も長くは続かない。13時頃にはまた灯台にも日が当たりはじめ、段々と景色は影を取り戻し、見慣れたそれになっていった。
地球は地軸をおよそ23.4°傾けて、太陽の周りを公転している。見かけ上、太陽は夏には北緯23°26’22”の北回帰線上に到達し、冬には南回帰線まで移動する。この間に位置する地域では、年2回、太陽が完全に真上を通過し、ハワイではそれをラハイナ・ヌーンと呼び観光客にアピールしているようである。宮古島は北回帰線より1.3°ほど北に位置するため、最大の南中高度が88.7°となる。ちなみに、波照間島では、89.4°である。
改めて宮古での南中高度を計算してみると、5月下旬から2ヶ月ほどの間、南中高度は実に85°以上である。感覚的にはほとんど真上である。レンタカーショップのおかみさんの意見はまことに正しいことがよく分かった。宮古では見慣れた光景でも、しかし、時々しか訪れることのできない私にはとても新鮮な光景に見えるのである。
◇あの話をもう一度
ワタリマリ(上野・宮国出身)
「思いでの“つな しいどぅ(綱生徒)”」(vol.107 2005/9/1)
私の生まれ育った宮国では盆の最終日に大綱引きが行われる。
1771年の明和の大津波以降が開始時期といわれ、その目的は干ばつの雨乞いだったとされている。宮国公民館前の道路で東組と、西組に分かれて行われる伝統行事である。(「上野村誌」1988年発行より)だいず んきゃあんからどぅ あーさいが(ずいぶん大昔からあるのね)。
この大綱引きの中心的な役割を担うのが「つな しいどぅ(綱生徒)」と呼ばれる すま(集落)内の中学2年の生徒たちである。綱引きに使われる綱は、キャーン(植物で蔓の一種 和名:シイノキカズラ)で作られる。それを採集することから始め、綱(約直径50センチ、長さ20メートル)が出来るまでの行程をリードする役目だった。それを誰かが任命するのでもなく、当たり前に中2になったら「つな しいどぅ」という意識のなかで、育てられている。代々続いてきた役割分担のひとつで、地域社会参加へのデビューともいえるのでしょうか。
「うりゃあ いふつりゃあ(その子おいくつ?)」と聞かれれば、「つなしいどぅ さあ」「あっかあ 来年な 受験さぁ」との会話が成り立つくらいに宮国ではメジャーな呼び方であり、新1年生と同じくらい特別な存在だった。もちろん私も「つな しいどぅ」を経験して地域に育てられたられた一人である。
中学2年生、思春期の夏は、男子はキャーンを採り、女子は採集現場への飲料水やアイスケーキ(アイスキャンデー)、おやつなどの差し入れで忙しかった。いや最高に面白かった。楽しみながら遊びながら、労力を惜しまずに働いた。
ここだけの話、父だか、伯父だかのバイクを無断拝借して無免許運転をするという悪さもこの「綱しいどぅ」でおぼえた。というのも、採集現場は海の近くのトラパーチン(石の名前だが、地元では場所の名前にもなっていた。現在、プールやら、ゴルフ場がある所)という、そのころでは遠い遠い山だったんだから。アイスが溶けてしまうので自転車よりもバイクのほうがいいのだ。
それに飲料水を入れた「すいかん(水タンク)」の重さだって半端じゃない。無免許で悪いことをしているという意識はこれっぽっちもなかった。ただ、無謀な運転をする友のバイクが、その後ろで、すいかんをささえて乗っていた私ごとひっくり返り、借り物のすいかんに穴が空き、こっぴどく怒られたことはあったが・・・。今でも同窓が集まるとその話題で盛り上がる。
また恥じらいの年頃でもあり、キャーンの採集に一生懸命の男子生徒に差し入れという形で近づくのは、どきどきでうれしくもあった。差し入れを直接手渡したので、あの子とあの子はできちゃった・・・なんてからかわれて顔を赤らませるうぶな友も確かいたような。うんがぴゃさ びきぶりゅうばあすうん(そんなに早く男の子に夢中にならんよー)大人たちの心配はそこにもあったが、もちろん冗談で、半分本気の親心だろう。
キャーンの採集には女子も加わったが、その後の大綱引きまでの流れは、ほぼ男子生徒に任されいた。採集したキャーンを干し、敵組がキャーンを盗みに来ないように夜な夜な見張りをする。そして大人たちの中に入り、いよいよ立派な つなかき(綱つくり)をし、つなぴきぶどぅい(綱引き踊り)を見よう見まねで踊りながら公民館前まで綱を運ぶ。そこでメス綱(西組)とオス綱(東組)をつなぎ合わせ綱の引き合いが始まる。
「つな しいどぅ」のおかげで 宮国の人たちは、年に一回の うぷつなぴき(大綱引き)を大いに楽しむことができるが、楽しんでいる大人たちもまたかつては「立派な つな しいどぅ」だったのだ。ちなみに東が勝つと豊作、西が勝つと干ばつといわれているが何の根拠もない。
14、5歳の思春期真っ只中の少年少女たちは、こうして村から与えられた任務を無事に終え達成感と責任感に喜びを感じていた。「つな しいどぅ」は、これだけ大きくなった成長の証でもある。綱引きが終わった綱の頭は「つな しいどぅ」によって切り落とされ、それぞれの組の御嶽に祭られるのだが、その儀式の意味を違った視点から考えれば、それは「つな しいどぅ」の子供から青年期(大人)への脱皮の儀式でもあるように思えてくる。
つなしいどぅワールドを経験した私たち同級生の絆は他の部落のそれよりはきっと強くて深いと思う。「つな しいどぅ」なるものを存在させた昔々の人たちは、現代よりも子供の心と体の発達をより深く把握していたのかもしれない。
現在では、一日だけの行事になり、一連の流れに女子生徒も加わっているが、これもまたご時世でしょう。少子化で子供の役割もだんだん小さくなってきているが、どんな形にせよ、この大綱引きの行事がいつまでも引き継がれていくことを願っている。
伊良部島・仲地集落の やーのなー(家の名、幼名)について
菜の花(伊良部町仲地出身)
伊良部島では古くは やーのやー(あざなとも言う)(幼名のこと)を付ける風習があり、私の知る限りでも、祖母や母、または年配の方が やーのなーで呼ばれる場面に出会うことが多々あった。
伊良部島の仲地出身である母親から、やーのなーについて聞いたところ、昭和20年代頃までは、やらび(子供)が生まれると やーのなーをつけていたようである。しかし、時代の流れと共に やーのなーをつける風習が途絶えていったとのことである。残念ながら私も やーのなーのない一人である。
母から聞いたところによると、やーのなーをつける日を とこあぎ(床あげ)、または、なーつき(名付け)と言って、子どもが生まれてから10日目辺りの善き日を選び「名付け祝い」をしたとのこと。
やーのなーのつけ方は、御盆の手前に まーす(真塩)・御盆の左右にあらいばな(洗った米)・御盆真ん中に あはごめ(洗わない米で、千俵・万俵を表すとのこと)・干小魚・御盆の右に一合瓶酒・一対の ふむちゃばん(酒入り器)・御盆の左に一対の水の入ったコップ・ほんの少し切った赤児の髪(髪を切るまねをすることもあった)を載せ、家内の東方、または東座(東側にある部屋)で神願いをする。別の御盆には、出生した集落の うたき(御嶽)の名、または先祖の名を書いた紙を小さくたたみ、神願いをしながら御盆を揺すり、御盆から落ちた紙に書いてある名がその児の やーのなーとして名つけられるとのことであった。
では、幼名にはどのような名があったのか、母から聞いた幼名を下記にしるす。
カナ、マツミガ、カニシュウ、マツガニ、タマミガ、ウヤンマ、モースカウサ、ミガ、カーミ、カマド、ヤマシュウ、カマシュウ、カニミガ、タマハニ、ウシ、カメ、カマ
*「ウヤンマ」とは女子の意でも使うとのこと。
「ンザヌ ウヤンマガ(どこの女の子か)」と訊ねるときにつかう。
ちなみに、母の やーのなーは「アハサ」(私生児・拾いっ子の意)である。母が小学校に通うようになると、この やーのなーは級友のからかいの的になったという。
母親(私にとっては祖母にあたる)に「のーしーが ぴんな なーゆつきたーが?(なぜこんな変な やーのなーをつけたのか?)」と泣きながら訴えたところ、祖母はニコニコと笑って「ぞーなーだら(いい名前でしょう)くぬ なーの うかぎ やー、がんずやしーぶい゛だら(この名前のお陰で お前は、こうして丈夫でいられるんだよ)」と諭したと言う。
母の出生前、祖母は男児を出産したが産まれて間もなく亡くなったそうである。集落でも生まれ子が育たず亡くなることが多かったそうである。そこで、祖母は母の やーのなーを「アハサ」と付け、「この子は私が産んだ子ではありません、貰い子、拾い子ですよ。だから(あの世に)連れていかないでください。」と願ったそうである。
母は伊良部のアダンニウタキで行われる だつます(※参照)も6歳になってからやってもらったと言う。生まれ年に だつますが出来なかった子は、のびにがい(延び願い)といって、だつますを後年にやってもよかったそうである。母は嬉しくて「あー だつます やりば(吾のだつますだよ)」と親族や近所に声をかけて回った記憶があると話した。
祖母から母が産まれ、その母から私が産まれ、私も娘と息子を産んで母となった。
「縁起」とは縦と横の関係があり、自分がこの世に在るということは、実に百万人以上もの先祖から受け継がれた生であることを思いながら胸が熱くなった。
母から幼名の話を聞いた同じ頃、私の勤める介護老人施設で、ある老婆から大変興味深い話を聞いた。老婆は富山県川上村新川群の生まれである。
老婆の話によると、村で子供が生まれ外に出して良い頃になると、「子どもを捨てるよ〜。」と子の家の者が村中にふれまわり、母親は子を連れて寺に行き、村の住民が見ている前で寺の床に置いていくそうである。お坊さんは「赤ん坊を拾ったぞ〜。」と、声高に言いながら抱き上げて奥へ連れていくそうである。その後で母親にこっそり子を返すとのことであった。
なぜ、そのようなことをするのか訊ねると、「昔は子供が育たないで死んでいくもんだから、自分が産んだ子じゃなくて、貰い子だから大事に育てるとの意味があったんじゃないの?!子どもに何事もなく大きくなってほしいもんだからさ。」と。
富山県と遠く離れた伊良部島とで、同じような精神世界があったことに驚いた。
今回、やーのなー(幼名)についての聞き取りは、日頃ゆっくりと話すことの少ない母といろんな話ができる機会であり、古の人々の思想や文化を垣間見る良い機会であった。
過去の時間を生きた者だけが知り得る過去の出来事を、拾い集めておくことの大切さを改めて実感するばかりである。
※「だつます」
だつとは抱くの意で妊娠することであり、ますとは酒、肴の意で、お産が無事に終わった悦びを感謝し、子供の成長を願う祭祀のこと。昔は全集落で行われていたが、今では伊良部・仲地だけに残っている。
(参考:伊良部村史)
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
宮古は雨が降らず、干ばつが心配されていますね。キビ畑にかん水作業が行われていると宮古毎日新聞に出ていました。片や内地のほうでは、うかーす(ものすごい)雨が降って被害がでたり・・・。なんとも ぴんなぎ(変な)天候ですね。
旧盆で、8月16日から宮古に帰ります〜。17日(土)に恒例のオフ会を「和風レストラン たまよせ」で予定していますので、ご都合がつく方はぜひご参加くださいね〜。今年は、関東組から菜の花、宮国優子さん、Motocaさんも帰省します。宮古在のライターももちろん参加しますよ〜。希望される方は、松谷(携帯:kuma-kama-@ezweb.ne.jp パソコンからのメールは受けられませんので携帯からお願いしますね)まで。たくさんのご参加お待ちしています!
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
先月、Jetztさんから、影のない写真が届き、びっくり!ぜひメルマでも紹介させていただきたいと投稿をお願いしました。宮古の夏至の頃にはこういう現象が起きるんですね。すっさったん(知らなかった)!Jetztさんの詳しい説明になるほどです!ハワイでは、観光にもいかしているとのこと。この珍しい現象、宮古でも上等なアピールになるのではないでしょうか。掲示板にて写真を掲載しますので、ぜひ、ご覧くださいね。
「あの話をもう一度」は旧盆が近いこともあり、ワタリマリの「つな しいどぅ」をお送りしました。お盆の行事は各地にいろいろありますが、「つな しいどぅ」のようなのは聞かないですよね。この年頃に地域の一員としての役割があるというこは、本当に素晴らしい事だと思います。同級生の絆の深さに、納得!「つな しいどぅ」いつーがみまい(いつまでも)続いてほしいですね。
菜の花の「やーのなー」の話は、宮古方言研究会(新里教室)で取り上げられ、くま・かまでも紹介となりました。「やーのなー」には、いろいろな名前がありますが、「アハサ」(下地では(アカサ)と言います)という名前にはびっくり。それは親の想いが詰まった名前だったんですね。富山にも似たような風習があることにもびっくりでした。一口に「やーのなー」と言っても、奥が深いですね。
宮古は、小さいようでいて、その実、広くて知らないことが多いと今回も実感。
貴方の感想もぜひお気軽にお寄せくださいね〜。
くま・かま掲示板での書き込みもお待ちしています〜。
今回も しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今回も 最後まで お読みくださり ありがとうございました!)
次号は、8月15日(木)発行予定です。どうぞ、その時まで、がんずぅ(お元気)で!
あつかー、またや〜。