こんにちは〜。アッと言う間の師走ですね。 がんづぅかりうらまずなー(お元気ですかー)?
みやこ〜、みやこのvol.353 お楽しみくださいね〜。
んきゃーんの みゃーくぬ 餅つき(昔の宮古の餅つき)
大和の宮古人(城辺・長南出身)
んきゃーんな みゃーくまい むつうどぅ つふぅたーゆ。(昔は宮古でも餅をつくっていたよ)んなまんしいや、のうゆまいてぃや売っていなかった(今のように何でも売っていなかった)殆ど手作りした。(平良では餅屋さんが有ったかも知れませんが)
雑煮の習慣の無い宮古にはのし餅はなかった。すべて丸餅だった。餡入り餅が殆どで餡なしは砂糖を練りこんだものが有った気がする。我が家の餡はこし餡だけで市販のこし餡の粉に水と砂糖を混ぜ、煮詰めて餡にしていた。(こし餡しか食べたことがないので今でもお饅頭やお餅類はこし餡派です)
宮古の餅作りは少し変わっていた。その頃は不思議にも思わなかったが嫁ぎ先の餅つきを目にしたときにアレッ?と思った。
うちでは2日かけて餅を作っていた。1日目の夕方はもち米を洗い一晩水につけて置く。2日目はつけた水ごとひき臼で挽くと白く濁った液体になる。
余談です。挽き臼は石で出来ており穀物を粉にするときに使う。豆腐作りに使用する事が多かったが、餅作りにも使用していた。高さが20センチ位、直径が30センチ位の丸い石が上下に2つ重って1対。石の重なる部分には内側から外に向かって浅い溝が入っていた。上の石には片側の端に穴があき棒が差し込んであった。
この棒を持って臼を回転させる。反対側にはやや内側に穀物を入れて挽くための直径5センチくらいのやはり丸い穴が空いていた。片手で棒を持って回しながら方手ではもち米を少量の水とともに入れなると重なる部分から砕かれたものが出てくるのだ。餅の場合は水も一緒に入るので液体となる。
石臼はかなりの重量が有った。乾燥している物なら敷物の上に直接置いて挽くが、水分が有ると台と受け皿が必要になる。
最近では宮古でもあまり見る事が無くなったが昔はジェラルミン製のタライが有った。私にはジェラルミンの材質は解りませんが硬くて重く丈夫なものだった。それが受け皿となった。石臼を乗せてもグラグラしないようにタライのサイズに合わせた角材が十字に組み込んであった。十字の部分に臼を固定して挽く。(タライと角材は豆腐作りにも活躍した)
餅作りに戻ります。白く濁った液体をメリケン袋(綿の袋 昔はメリケン袋と云った)に入れて口をしっかり結び角材の十字の部分に袋を置き上から臼を重石として載せ一晩かけて水分を抜くと白いなめらかな物が残る。
元旦の早朝に柔らかくなるまでこねて小分けにして蒸しに入る。蒸しもセイロの様な立派なものは無い。普段はサツマイモをふかす鍋にお湯を沸かし竹で編んだ盆ザルに綿の布を敷いたものが蒸し器のかわりとなった。
蒸しあがった物は石臼に入れ男の人、2人か3人で向かい合って搗いていた。2人でも大変そうなのに3人は見事だった。ピッタリ呼吸を合わせリズムよく「あがいたんでぃ」等、掛声が出ていた。
搗き終わると次は女性の仕事だ。出来あがった餅は、もちとり粉が広げられた紙の上に取り、適度に千切って中に餡を入れて丸める。私も手伝いましたがデコボコで不細工な餅だった。不細工でも味には変わりなかったが。
当日中はやわらかくて甘くて、だいず んま〜んま(大変美味しい)。翌日には硬くなるので囲炉裏の灰の中に入れて焼くが時には餡がはみ出て灰が付いていても平気で食べていた。
お供え餅を作っていた覚えが無いが数日後に硬くなった大きな餅を小さく砕いて(我が家はフライパンが無かった)油をひいた鍋に入れこまめにひっくり返して焼き、やわらかくなった所に醤油を回しかけて食べた記憶があるので作っていたのだろう。
又余談ですが。今では考えられないでしょうが、宮古でも昔は囲炉裏や火鉢があった。暖かい宮古で囲炉裏?と思うかもしれませんが冬の風は冷たく寒かった。買えなかった事もあるが厚着の習慣が無いので年寄りのいる家には囲炉裏が必要だったのでは。
3番座と3番裏座の間に2畳ほどの板の間があり角に半畳ほどの囲炉裏が出来ていて天井の横木に金属製の自在鈎なるものが垂れ下りいつも薬缶がかかっていた煤で黒くなっていたと思うが時々バナナの枯葉を丸めて磨いていた。
義母(八丈島在)が元気な頃は毎年12月30日に餅つきの手伝いに主人の実家に行った。5〜6軒で各自もち米持参で、作っていたがその時に初めて宮古と異なっている事に気がついた。こちらではふやかしたもち米を水切りしセイロで蒸して臼で搗いていた。挽き臼の工程が無い。今でも不思議に思っている。
宮古は現在、粉にした餅粉が市販されているが“ふかぎ”しか作っていないような気がする。餅に限らず何でも買える現代では苦労して作る必要が無いから。ただ淋しい気もする。重労働だし面倒ではあるが隣近所仲良く力を合わせる事が少なくなって来た。
(八丈の臼は木製で杵は丁(下の棒が右による)の形です。宮古は臼が石製で杵は砂時計のような形で真ん中がくびれていた。くびれた所がつかむ場所だった。)
『新里(あらだてぃ)のクイチャー』どぅかってぃ解説
マツカニ(上野・高田出身)
宮古の民俗芸能の筆頭は、なんと言ってもクイチャーではないでしょうか。雨乞いや豊年祈願からはじまり、様々な歌詞がつけられて、現在残っているクイチャーは、島中に相当数あると思います。明治・大正の頃の一番華やかし頃から比べれば、大分寂しくなっているようです。
戦後下火になって、だんだん踊る人も少なくなったと聞きましたが、最近クイチャーフェスティバルなどで盛り上がってきています。そんな中で、今回は上野の新里部落に伝わるクイチャーを紹介したいと思います。
新里(あらだてぃ)のクイチャー 1あらだてぃ や すまがま どぅ やりばまい よ ヤイヤヌ (新里は 小さい島ではあるけれど) ヨーイマーヌユー やりばまい よ 2うやすぅだつ しゅうすぅだつ すまやりば よ ヤイヤヌ (親育つ 主育つ しまだから) ヨーイマーヌユー すぅまやりば よ 3うぷずまとぅ ゆんすぅいどぅ たきどぅ いき゜よ ヤイヤヌ (大きい島に 数えられるだけの 価値がある) ヨーイマーヌユー たきどぅいき゜よ 4うぷきだき すまうすい しゅうがなす よ ヤイヤヌ (大木のように島を覆い見守ってください 主がなす) ヨーイマーヌユー しゅーがなす よ 5たかきだき むらうすぅい ずとぅぬしゅうよ ヤイヤヌ (高い木のように村を覆い 地頭の主様) ヨーイマーヌユー ずとぅぬ しゅう よ 6うぷきーんな とぅらがまや ゆどぅさんてぃな よ ヤイヤヌ (大木には 虎は ゆっくりしないんだってよ) ヨーイマーヌユー ゆどぅさんてぃな よ 7たかきーんな まちゃがまや とぅまらんていな よ ヤイヤヌ (高い木には すずめは 泊まらないんだってよ) ヨーイマーヌーユー とぅまらんてぃな よ
※クイチャーの間には次のようなハヤシがはいります。
・ぶどぅりゅうす゜きゃあぬ みやく (踊っているうちの宮古)
・にせたが ぶどぅらばなー しゅうまんな すぅざ(青年達が踊ったら 興奮しない?お兄さん)
・てぃしや まぬかしよう ぱぎ゜しや とぅぬげ(手では 招いて 足では踏み鳴らせ)
・あんがたが どぅやうぬ かぎさ(お姉さん達の 柔肌の 美しさ)
・うっつあ みいがまよう き゜むやん みいがま(うずらは ちっちゃい目だよ 悩める ちっちゃい目)
・びきだつ にしゃいやよ ゆまたぬ ばんど (独身の 若者はよ 四辻の 番だ) 等など
【解説】
新里の年輩に聞くところによると、昔は綱引きだったり、棒踊りだったり、何か事あるたびにクイチャーを踊ったそうです。新里(あらだてぃ)のクイチャーも仕立てる人(はじめる人)によって唄の組み合わせがちがったようです。例えば、「新里の綱引きあーぐ」や「東川根盛加後(あがす゜がーにむす゜かぐす)」などとメドレーになったりします。
男女が揃うと夜どおし即興で掛け合いの唄を作り、曲をかえながら歌い踊ったそうです。クイチャーの歌詞に「あやぐや かい いちゅにや かい ちゅうらさでぃよ(唄を替え、メロディーを替え 力強くするよ)」というのがありますが、まさに唄を替えメロディーを替えてだんだんと盛り上がっていったようです。
踊りはタイミングのとりずらい手の振り方で足では強烈に地面を踏み鳴らして勇壮に踊り、女性は柔らかくしなやかに控えめに踊られます。
#参考資料:『新里誌』新里誌編集委員会 1995年発行
きぅ”す(煙)
松谷初美(下地・高千穂出身)
最近、きぅ”す(煙)を見ることは少なくなったが(製糖工場の煙突から出る きぅ”すくらいか?)やらびぱだ(子どもの頃)は、きぅ”すの出る風景は当たり前にあった。
実家は農家。昔は焼畑をよくやっていた。私は手伝ったことはなかったが、兄たちはよくかり出されていた。横一列にだんだんと焼けていく畑からは、きぅ”すが立ち込め、遠くからもよく見えた。ほとんどの農家がやっていたので、立ち上がる きぅ”すを見て、きょうはどこそこの家の畑でやっているねーと親たちは話していた。最近は見かけることもなくなった。
40〜50年前の冬、宮古は今より、ぴしーぴしで(寒くて)家でお風呂を焚いていた。(今風呂おけがない家が多いが、昔は、結構お風呂に入っていたと思う)
ボイラーで薪を使って焚いていたので、きばがりること、きばがりること(煙がもうもうとしている様)。特に、最初に火が燃えやすいようにとあふたと言われる松の木の葉の煙はすごかった。それから、だんだんと太い木をくべていくと きぅ”すは、落ち着いていった。
朝早い、とーうわ(台所)では、おばあと母ちゃんが芋を煮るために、たむぬ(薪)をくべる。だいばん(大きな)鍋に、マカヤで作った、なびふた(鍋蓋)をして、芋を煮た。かまどの入口からは、きぅ”すが出て、なびふたからは、白い湯気があがっていた。
私が小さい頃の とーうわ(台所)は、あかがーら(赤瓦)でできていたが、母が嫁に来た頃は、茅葺だったそうだ。煙突はなかったと思うからきぅ”す(煙)は、茅葺の屋根から外に出ていたのかもしれない。
以前、新里教室(宮古方言研究会 講師:新里博先生)で、けぶ(煙)/キゥ”/は、戸数を数える数詞に付けると習った。ぴとぅきぅ”(1軒)、ふたきぅ”(2軒)の きぅ”である。昔は、一軒、一軒から きぅ” す(煙)が出ていたんですよね。だいず 目からウロコ。納得のいく話であった。
また、煙いことを「きぅ”ーきぅ”」と言うが、これも、煙/キゥ” からきていて、なるほど!である。煙を使う、戸数の数え方は『常陸風土記』にも載っているとのこと。(『宮古古諺音義』P153)、宮古では、今もなおその言葉を使っている。
宮古は、つい最近まで、気温が30度近くまである夏のような天気だったが、一時ぴしーぴしになった。昔のような寒さは、もうあまりないかもしれないが、きばがりながらでも、たむぬ(薪)で焚いたお風呂に入ってみたいなーと思う。なかなかオツなものはずよ。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
今月から、製糖工場は操業が始まるとのことで、早くもキビ刈をする姿が見え始めました。ばらん(穂)も咲いて、冬らしい景色が広がっていますが、昨日は気温が28度まであがり、天気の神様(?)が何かを、ばっぱいて(間違えて)いるよう。
11月は行事が やまかさ(たくさん)ある宮古ですが、第10回宮古島市民総合文化祭 一般の部(主催:宮古島市・宮古島市教育員会・宮古島市文化協会)の発表部門「こどもシアター」と「音楽祭1部」が11月29日にありました。
「こどもシアター」は、九州各地にある、人形劇の団体のみなさんが集まって「第52回九州人形劇フェスティバルin宮古島」と銘打って開催。会場いっぱいに子どもたちが集まり、楽しい人形劇にくぎ付けになっていました。私は、人形劇もさることながら、子どもたちの生き生きとした表情にくぎ付けでした。(笑)
「音楽祭1部」は、合唱団のコーラスや独唱、ブラスバンド、オカリナ、ギターの演奏、オペラなど、盛りだくさんの内容。レベルも高く、見応え、聞きごたえがありました。来年の1月16日には「音楽祭2部」がマティダ市民劇場であります。興味のある方はぜひお出かけくださいね。
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
12月に入ったとたん、スーパーでは、正月飾りやお餅などが並べられ始めましたね。餅は、我が家も作っていました。して、大和の宮古人さんのを読んで思い出しました。あの作り方!ふきんに包んで水を切って。懐かしい!それにしてもどうしてあの作り方だったのでしょう。何かご存知の方は、ならあしふぃーさまちよ(教えてくださいね)。石臼も懐かしい!
あの話をもう一度は、11月1日に「第14回クイチャーフェスティバル」がありましたので、くま・かまでもと、マツカニさん解説「新里のクイチャー」をお届けしました。「新里のクイチャー」は、そんなにメジャーではありませんが、あずーあずの(味わい深い)内容ですね。んーなうがなーり(皆集まって)にぎやかな様子まで伝わってきました。
たむぬ(薪)でお風呂を沸かした話は、以前にも書いていますが、今回は、きぅ”す(煙)側(?)から書いてみました。煙のある風景がなくなってしまうと「きぅ”す」という言葉も消えてしまうかもしれませんね。残していきた言葉のひとつだなーと思います。
貴方は、どんなふうに読まれましたかー?ぜひ、感想を きかしふぃーさまちよー(お聞かせてくださいね)。
掲示板での感想もお待ちしています。
きゅうまい、しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー!
(今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました!)
次号は12月17日(木)発行予定です。
今年も残りわずか。がんずぅ(元気)でいきましょう! あつかー、またや〜。