こんにちは〜。
暑い日が続いていますが、いかがお過ごしですかー? 今日はお盆の うふずびー(送り日)でもありますね。
私たちの前を歩いた先輩や親のお話をお届けします。ぬかーぬか(ごゆっくり)ゆみふぃーさまち(お読みください)
生き方
菜の花(伊良部町仲地出身)
還暦が近づいたことで「終活」とか「人生の終わり方」という、むぬい(言葉)や ずー(文字)に反応するこの頃。私の働く施設でも年明けから数人の高齢者を看取った。その度、私はどんな生き方をし、どんな人生の最期を送るのだろうか?そう考える。そんな時、思い出されるのが昨年の8月に95歳で他界した新里博先生である。
新里先生と知り合ったのは2006年。「くまから・かまから」の主宰者である初美が、先生が手掛けた『宮古古諺音義』の本を教えてくれたのがきっかけだった。同じ伊良部島出身だったこともあり、先生が話す内容も懐かしかった。その年の12月、くまかま仲間を集めて宮古方言講座を開いたのを機に「宮古方言研究会」愛称「新里教室」は毎月第三日曜日に渋谷で開催されてきた。先生亡き後は二人三脚で歩んできた奥様を中心に、現在も続いている。
新里先生がお元気な頃は、前半90分の講義、休憩15分で後半90分講義と、まるで大学並。よーたぁいぬ(わずかな)休憩時間も あたらきゃてぃ(惜しんで)講義を始める先生の口癖は「僕には時間が無い、もったいない!僕の知識は全部僕の んま っふぁが(子や孫の意。私達受講生を先生はそう呼んだ)に置いていく。命ある限り講義する。これは(講義のこと)僕から君たちへの遺言だ」だった。
ある時期から在宅酸素が必要となった先生は、講義に熱が入ると酸素吸入の管が邪魔だと言っては外してしまうこともあり、アラームの音に受講生が慌てだす。懐かしい一場面が思いだされる。講師料も取らず毎月宮古方言の講義をして下さる先生は「宮古方言は上代語の語源を知る大切な日本の宝である」と繰り返し話していた。先生の宮古方言に対する熱い思いと郷土愛に、参加した受講生は少なからず深い感銘を受けたはず。
時間が無いとの先生の口癖は、90歳を超えた頃から「もうじき人間卒業」との言葉に代わってきた。91歳、92歳・・・一年ごとに先生は確実に年を重ねていった。それでも馴染みの受講生は毎月集まり、先生の講義に耳を傾け、時には宮古談議で盛り上がり、いつも和やかな雰囲気が溢れていた。亡くなる2カ月前まで講義は続けられた。最期まで「凛とした姿」で生きたとしか表現できない。
最後の講義は2018年の5月。講義の後、受講生みんなで先生と奥様がタクシーに乗るのを手伝い「みなさん、どうもありがとう!また来月!」と言う先生を見送った。それが先生との最後の時間であった。その後、先生は心不全で入退院を繰り返し、奥様の懸命な介護の甲斐なく2018年8月9日ご逝去された。
先生が亡くなった日、夜勤から戻った私は先生から名前を呼ばれた気がして、胸騒ぎで落ち着かなかった。奥様がお見舞いから戻る時間に電話をかけたところ、逝ってしまった・・・との返事に驚くばかりであった。
先生が亡くなったあと、生前から先生が死後の準備を細やかにされていたことを知った。「亡くなったら家族だけで見送ること。葬儀の日は雨が降るかも知れない、暑い日かも知れない。参列者には高齢の方も遠方の方もいるので大変な思いをさせてはいけない。年末に喪中の葉書を出せば人間卒業したとの知らせになるから」と。「戒名を見ても誰も僕だと分かる人はいないから、位牌は戒名ではなく本名にしてほしい」と話していたこと。入院中、延命措置について本人に聞いたところ「もういいだろう」と静かに返事したこと。遺骨の一部は生まれ島伊良部の海に散骨してほしいと頼んだこと。最後まで奥様に「ありがとう」と言っていたことなど。その他にも家族に対する愛溢れる細やかな遺言があった。
流石というか、先生らしいというか、胸がいっぱいになった。そしてその通りに先生を見送ったご家族にもまた頭が下がるばかりだ。
人は生まれた瞬間に死と向かい合わせの時間を生きる。誰にも抗う事の出来ない必然の約束である。先生に出会い、宮古方言についてだけでなく、人が生きるということ、人としての在り方向き合い方、人生の最期の仕舞い方まで本当に様々なことを教えて頂いた。先生と奥様には感謝するばかりである。
手元にある新里博先生著の『宮古古諺音義』を開くと、どのページからも講義していた時の先生の朗々とした声が響いてくるようだ。一冊の本の計り知れない重みと深さに胸が熱くなる。できるものなら私も新里先生のように潔く生きたいものだ。人生の最期の仕舞い方も見習いたいものだ。先生から何を習ったか、思い出しつつそう思う。
十数年もの間、毎月渋谷で開催されている宮古方言教室。今年の「鳴りとぅゆんみゃ〜く方言大会」には、教室からも ないちゃー(内地出身)の ばはむぬ(若者)が出場し、審査員特別賞を受賞した。先生が生きていたらどんなに喜び、褒めてくれただろうか。きっとあの世で「まいふかがま(おりこうさん)」と笑って見ているはず。
◇あの話をもう一度
ひさぼう(平良・西仲出身)
「宮古方言は“縄文語”の生き残りか?」 vol.65 2003/12/4
うしろを振りむくと 親である 親のうしろがその親である その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに 親の親の親ばっかりが むかしの奥へとつづいてゐる
これはご存知、山之口獏「喪のある景色」の前段である。この要領で奥へ奥 へと辿って行くと、これは間違いない事実として自分の遠い遠い祖先にめぐり 合う。
私の母は、明治39年生まれで、私はこの母親に100パーセントの宮古方 言で育てられた。この あんな(母)は、純農家の娘だったから、このあんな も又完璧な宮古方言で、そのあんなに育てられたに違いない。このあんなのあ んなはどうかというと、そのあんなも又完璧な宮古方言で、そのあんなのあん なに育てられたに違いない。 そのあんなのあんなの又あんなはその後ろのあ んなにという具合に、宮古方言は、ずっとずっと続いてきた。そうすると、そ の奥の奥へと辿ったその先はどうなっているのだろう。
宮古島には、「ピンザアブ人」という2万年以上前の古代人の骨が見つかっ ている。
ばーやー(私は)ホモ・サピエンスである。そのホモ・サピエンスの生まれ 故郷は、アフリカ大陸だという。新人類に進化した人間は、今から10万年以 上前、アフリカを出て、世界中に広まって行ったのだという。
ばんたー(私達は)、モンゴロイド、黄色人種である。アフリカを出発した 新人類のあるグループが、アジア大陸でモンゴロイドになり、どういう径路で か、日本列島にやって来る。あるいは、はるかシベリアを越えて北アメリカに 渡り、さらに南下して南アメリカの最先端まで行ってしまう。あるいは又、東 南アジアから太平洋の島々に渡り、さらにはオーストラリアまで行き着いてし まう。こうしてモンゴロイドは、アジア、南北アメリカそしてオーストラリア から太平洋の島々の先住民になっていった。
奄美諸島から八重山諸島までを結ぶ線は、琉球弧と呼ばれて、きれいな弧を 描いている。その昔、おお昔、歩いて渡れたらしい。大陸からも、インドネシ アあたりからも歩いて来れたらしい。そのことの証なのか、沖縄本島では「港 川人」という縄文人より古い時代の人骨が見つかり、宮古島の上野では、もっ と古い「ピンザアブ人」が、ぴんざ(山羊)ではなく、鹿の骨といっしょに見 つかっている。ただ、これがそのまま縄文人になったのか、今のオキナワ人に なったのかはわかっていないらしい。
宮古方言は、日本語のひとつである。南北というか、南西から北東に長い日 本列島は、北は北海道から、最西端の与那国まで、その使われている方言は、 それこそ様々だけれども、世界のことばの分類として見る限り、ことばの種類 は、日本語として一つのグループである。そうすると、宮古方言は、その始ま りを考えるにあたっては、宮古島の中だけで、あるいは沖縄諸島の中だけで考 えるわけにはいかない。
日本列島の中の宮古島に、宮古方言を使う人間が、いつ頃から住み始めたか を考えるには、ばんた(我ら)ホモ・サピエンスが、アフリカを出てからアジ ア大陸に進出し、さらには日本列島に辿りつくまでの、はるかな旅路を、その 背景として思い描かなければならない。
本土の縄文時代は、一万年以上続いた。そしてその時代、日本列島の人口は 最大で30万人くらいと推測されるらしい。その30万人がしゃべっていたこ とばを例えば「縄文語」だとすると、今の宮古の方言ですら、地域によってい ろいろな言い方をされているから、その「縄文語」も広範囲な地域に渡って種 々様々な言い方をされていたに違いない。いやそんな程度ではなく、列島には、 北から南から、大陸、半島からと、方々からモンゴロイドはやって来たであろ うから、“多言語状態”だったに違いない。
さて、あんなからあんなへと継承されて来た宮古方言は、一体何代前のあん なの時、海を渡ってやって来たであろうか。仮に一世代を25年とすると、1 00人目あたりは、2千500年前になる。200人だと、5千年前である。
日本列島に、今住んでいる人達を、モンゴロイドとして分類すると、縄文人 系と弥生人系になるという。遺伝子やら血液成分やらを分析してである。それ でどういうのかと言うと、一番先に日本列島にやって来て定住した縄文人系グ ループと、後からやって来て、その縄文人と混血してできた弥生人系グループ とである。ただし、白黒はっきり分かれるというのではなく、その混ざり具合 で濃淡が出てくる。
地図上でその分布を見ると、北九州から山陽、近畿地方を中心に、周囲に拡 がるように弥生人系があり、縄文人系は周辺に濃くなっていく。これで見ると、 ばんた宮古方言族は、縄文人系ということになる。そして、本土方言に対する 琉球方言のなかでも、宮古方言は最も古いことばを残しており、それは「古事 記」「日本書紀」「万葉集」などに散見できるという(後述、新里さんのご本 等)。
ホモ・サピエンスという名前は、知恵あるヒトという意味だそうだけれども、 アフリカ大陸で誕生して以来、全大陸を歩き渡り、海洋上の島々にまで行き着 いているところから、ホモ・モビリタス すなわち、移動するヒトという名前 もあるらしい。
なんのために、又どうやってという湧きあがる疑問もどこへやら、ばんたが 遠い遠いあんなたちは、間違いなく宮古島にたどり着いた。自然の循環に身を まかせ、野生そのままの感覚と“語り継がれたことば”を持って、宮古島にや って来た。
これは、この五月に伊良部ご出身の新里博さんが出版された「宮古古諺音義」 (渋谷書言大学事務局刊 全648ページ)をひと通り読み終り、その中で 「縄文語」ということばを見つけて、啓発され、うむうがにゃあん(思うがま まに)書いたものです。
その他の参考文献:『モンゴロイドの道』(朝日選書523)
母ちゃん
ワタリマリ(上野・宮国出身)
大好きなマンゴーの季節をまたずに母はその生涯を終えた。母の日も、誕生日ももうすぐなのに・・・95歳の大往生。運がいいのか、悪いのか凄まじい人生を送った、一人の女の人生のほんの一部を語りたい。多分お盆でそこらへんにいるだろうし。母ちゃん、笑って聞いてもいいし、泣いてもいいし、怒ってもいいしね。
ある日の いちばんざー(客間・和室)。母と障害のある兄が涼んでいる。兄は雨戸に背を預け、夕暮れ時、庭で遊んでいる妹とその友達をただ見ている。もちろん手では縄をよじらせながら。楽しそうに遊ぶ子供たちとただ縄をよじらせることしかできない兄を見比べて、ため息をつく母ちゃんには兄はもう慣れっこのようだ。
運命や にゃーんふっふぁ んまりやうしい うまくっざす うやくっざす(運命を持ち合わせず、生まれそこなって父や母にばかり苦労かけて)兄は表情ひとつ変えずにひたすら縄をよじる。
はーい、のーちが あんちーぬ んまりう すったーが んーんなからいずっがま ちーがあびらりー うわー ばたふっさりっふぁにゃーん?(ねえ、どうして、そのようなすがたかたちで生まれてきたの?誰からもいず(麻痺のあるひと)とよばれて 悔しくないの?)ここで兄は母に食い掛るように奇声をだす。悔しくないわけないじゃないか!とでも言っているかのように。
あっすが まつがいいら。ばがどぅ あんちい なしにゃーんにばどぅばがどぅ まつがい。(だけど謝らなければならないねえ。私がそんな子に産んでしまったからねー。私こそがごめんなさいだねえ)
「ん(うん)」。んの一文字のな中に文字通り言葉に出せない感情が詰まっているのだろう。自分を責める母ちゃんにはどんな言葉よりも「ん」 とこたえるのがいちばんいい。
ざー、かまんき むぬーふぉーが。きゅうや うわが んちち、ぱんびんぬ むろーたーば。うぱーんなんかい まいふかしいるいら。(さあ行こう、向こうで食べようか?今日はおまえが好きな天ぷらだよ。おばちゃん(大叔母)が持ってきてくれたから感謝してね)
兄は天ぷらには目がない。よじり縄を手から外し飯台の方へ向かう。兄にとっては、さっさとだが、亀よりもおそく亀のように進む。外の子供たちもまた明日ねと言ったか言わんかったかのうちに門を出る。
あさ゜ー役所ぬ ぴとぅぬ き゜ーがまたさー うわうばー のーゆがすう 施設んかいぱい゜やじ?(明日ねえ、役所の方が来るんだけど、どうしたもんだろうね。おまえ施設に入ろうか?)
その日は「んば」と兄が答える。はっきりと。好物の天ぷらがそこでは食べられないし、母ちゃんは毎日会いには来られないだろう。我が家の経済事情はお父の やどぅうん(憂さ晴らし)で大体わかる。「ん」と答える日もある。母ちゃんの介護疲れを気にしているのだろうか。それとも家族以外の人や家の外に興味を持ったのだろうか。
はあー あっすが ばるんな うわう ぴらすうかー むぬぐとぅ うまーるん(はあー、でもそんなことしたら、私は(心配で)何にも考えられないだろうねえ)。天ぷらがのどに詰まったのか兄が「んぐ」と水を要求し、母ちゃんが水飲を口に流しいれる。
しゅわすーな うわうばー んざーんかいまい ぴらさじゃーんにば(心配しなさんな お前のことはどこにもやりゃしないよ)
こんな会話を子供のころは何回聞いただろうか。そのうえ、母の口癖は さーちい すにる いら?(早く逝きなさい ね。)ばんゆうか あとぅんない゜な(私より後になっちゃあダメだよ)だった。
「ん」と素直に答える兄は約束通り母より先にいっちゃった。
「じょうぶんいら んにゃ(もういいね)」そろそろ介護も限界にきていた母ちゃんは 十分に尽くし、最後まで寄り添い見守った障害のある我が子を抱きしめて送った。時には施設にいれてあげた方がよかったか、人間らしい当たり前の扱いができただろうか、あんなことこんなことしてあげればよかったとしばらくは泣いていた。
じょうぶんなあらん(十分じゃない?)と母ちゃんを慰めるのが精いっぱいだった。毎日格闘していたんだから、なり振りかまわず兄を慈しみ、守ったんだから。そんじょそころの母ちゃんとは違うよ、母ちゃんは。
それはまた障害のある子を兄弟姉妹にもつ私たちにも納得のいく(じょうぶんいら)だった。兄がいるのが当たり前であっても、どこかで普通じゃないことにいらだっていたかもしれない私たちに、弱さを乗り越える術を感覚的に刷り込ませたのも母ちゃんと兄であったことは違いない。
母ちゃんが兄に注ぐ愛情を見て育った私たち姉妹にとっても母ちゃんはこの世で一番強い人に見えた。我こそ正義に見えた。慈悲深き母なのだ。
だから母ちゃんにも じょうぶんいら(もういいよね)。母ちゃんが歩いた道は次の人が歩きやすいようにかためられ、標になって孫やひ孫たちが時々通ってくれるから うむうやすやす(心安らかに)ぴりいら(いってね)といって見送った。
案外いい人生だったかもよ、母ちゃんの人生は。
編集後記
松谷初美(下地・高千穂出身)
8月、早くも中盤となりました。台風9号は、宮古の西側を通りぬけて行きましたが、想像していた台風とは異なり、かなり勢力の強いものでした。今度は10号が内地の方に行っていますね。どうぞ、油断することなく台風対策をしっかりしてください。
8月11日は、劇団かなやらびの「碧の涙雨(あおのなださめ)」(作・演出:明石光佐)をマティダ市民劇場で観てきました。かなやらびのミャークファンタジーの第4弾(再演)でしたが、とても感動しました。子どもたちの迫真の演技、内容、照明、音楽。どれもが がふっ(ぴったり)と決まり、心を掴まれました。高校生は卒団となりますが、劇団で鍛えられた皆さんはどこに行っても困難を乗り越えていくことできるでしょう。素晴らしい舞台をたんでぃがーたんでぃ〜。
8月13日は旧盆の んかい(迎え)。今回は、内地の一ヶ月遅れのお盆と同じ日ですね。台風の後のお盆となったので、スーパーなどでは商品が品薄で(船で運べないため)どうなることかと思いましたが、12日には船が入り、お盆の準備をすることができました。良かった、良かった。今日は重箱に料理を詰めて、餅やお菓子もお供えし、紙銭を焼いて、夜、ご先祖様をお送りします。
さて、今回の くま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
菜の花の新里先生との出会い、それが、宮古方言研究会(新里教室)が出来たきっかけでした。私も8年参加しましたが、菜の花が書いている先生の言葉のひとつひとつが頭に残っています。近くで先生や奥さんと深く関わってきた菜の花ならではの視点で新里先生の生き方がよく伝わってきました。本当に素晴らしい先生でした。
*菜の花の話の中に方言大会で審査員特別賞を受賞した教室の仲間の話がありましたが、大会の模様が宮古テレビで放送されます。第26回鳴りとぅゆんみゃ〜く方言大会(主催:(一社)宮古島市文化協会)の模様は、今晩(8月15日)午後7時40分より、宮古テレビで放送されます。ご覧になれる方は是非!また、しばらくしてからDVDの販売もいたしますので、こちらもぜひ!
あの話をもう一度は、ひさぼうさんの宮古方言についてのお話でした。ひさぼうさんは、本当に博識で、また、とても研究熱心でした。山之口獏さんの「喪のある景色」の冒頭は、お盆ということもあってか、今回特に心に響きました。繰り返し、読みたいひさぼうさんの方言講座です。
ワタリマリのお母さんの話、途中から なだ(涙)が止まりませんでした。きれいごとではない、生活。その心情もありのままに記し、だからこそ、その愛情の深さが伝わってきました。天国でお兄さんと再会し、お盆の今は上野の家に帰ってきて、お兄さんは大好きなてんぷらを思う存分食べているかもしれませんね。
貴方の感想もぜひお寄せくださいね。まちうんどー(待っていますよ〜)
投稿もお気軽にお寄せください。
今回まい しまいがみ ゆみふぃーさまい すでぃがふー。
(今回も最後までお読みくださりありがとうございました)
次号は、三週間後9月5日(木)の発行予定です。
うぬときゃがみ がんづうやしー うらあちよー(その時までお元気で)
あつかー、またいら〜。