くまから・かまから vol. 116

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 こんにちは〜。1月も早19日。明日は大寒ですね。 寒さにも負けない、くま・かまですよ〜。
 vol.116お楽しみください〜。

ぴしーぴしーや〜(寒いね〜)

宮国優子(平良市出身)

 寒さのあまり、宮古では魚が仮死状態で浮いている。そんな季節、皆様のーしーりゃー。(いかがお過ごしですか?)ばやー ぬちぬちてぃ むぬうむいうーさー。(私はノロノロといろいろ物考えしています)

 毎年、年が明けるとダイズ淋しくなる。それは郷愁をともなって。宮古で学生生活を過ごした方はなんとなくわかりますよね。そう、卒業式、別れのクライマックスが近づいてくるから。学校だけじゃなくて、宮古とも「さようなら」だからだと思う。

 18年間そこにいるのが当たり前だったから違和感はひとしおだった。そして自動車練習所、略して「自連」に通う高校生が増える。皆授業を休んで免許をとるために必死だった。受験に行くものも多いし、授業中も空席が目立ってすきま風が吹いていた。

 春にほとんどの卒業生が上京。度々皆で集まる。でも、学生、社会人、浪人生、フリーターと立場が違うと時間帯もずれる。疎遠ってこういうことなのだよね。電車に乗るのは不慣れだし、1時間も電車に乗るのは旅のようだ。友人の家に着くまで何度も泣きそうになる。内地の4月は宮古の2月みたいに寒い。

「んまやー(実家)だと思って遊びに来てね」といってくれた宮古の女性がいた。「お母さんが宮古ソバ送ってきたから一緒に食べん?」と言った女友達。「おまえ、元気かーと思ってさぁ」いきなりアパートの前で待っていたぶーりゃ(同級生)。

 今、私も上京する宮古人のために、んまやーになりたいなぁと思う。そして一緒に宮古ソバもたまには食べたい。元気かーと言ってたまには訪ねてもみたい。宮古に帰らないと宮古への妄想とあこがれが肥大化する。
 
 でも今住んでいるところも新しい家族との故郷だ。宮古風の人間関係を作ろう。宮古ではクヨクヨすると、叱咤激励のうえに詰め寄られることも多い。でも好きさー・・・・あんなーこんなー考えていると、少し温かくなりました!

 今年もわいどー。そしてよろしく。

続 はじめての銭湯

ざうかに(平良市宮原出身)

 すべてを見られた僕は、もうどうする事できない。ただ、はずかしさだけが頭にあるそうゆう状況で、恐る恐る洗い場へ入った。

 湯船のなかには何人かの人が入っていたので僕は入るのはやめた。なんだか汚い感じがしたからだ。さっさと洗って出る事に決めた。ところが、水、お湯の出し方がわからない。しようがないのでしばらく隣を伺い、見様見真似でなんとか出せる事ができた。

 一通り洗い終わった僕は、きれいに流しほっとした。が、となりの人の石鹸が、きれいな僕のからだにかかるではないか。ばたふさりむぬがあ(腹立つなー)と思いながらまた洗いながした。いよいよ脱衣所だ。番台が気になる。今度こそ見られまいと思い、タオルでしっかり隠し神技のごとく着替えた。そして番台を見る事なく脱出した。

 あがいたんで 二度と銭湯なんて行くまいと思い、しばらくの間は、台所で行水をして暮らしました。

 だから、いまだに人のせんとうには立てません。おしまい。

宝物

松谷初美(下地町出身)

 やらびぱだ(子どもの頃)、大事にしていた宝物がいろいろあった。
 
 最初の宝物は、幼稚園の頃、おじいが那覇から買ってきてくれた「セルロイドの人形」だった。大きな人形で、当時、横にすると目をつぶるという流行のものだった。いつも抱っこして、来る人来る人に、寝かせては目をつぶるところを見せていたと思う。おじいは、その頃、胃潰瘍で那覇の病院に長く入院いしていて、退院するときにおみやげとして買ってきてくれたものだった。
 
 小学校の低学年のころ、なんでか分からないが、道に落ちている、ガラスだま(というか、破片なんだけど、すでに角がとれて丸くなっていた)に夢中になった。あの頃のナフサ道には、青や赤、緑といったガラスだまがところどころ落ちていて、太陽の光をあびてきれーいだった。幼馴染のS子と学校帰り、うすみてガラス球を拾い帰った。家に持って帰ると捨てられそうだったので、袋に入れて、近くの道の端に埋めておくことにした。拾ってきては、そこに埋め、あるときは、広げて、きれいだねーと眺めるのだった。今思えば、何が楽しかったんだ!?と思うのだが、息子も木の破片を大事にしていたので、子どもは、変なものが好きなのだな。
 
 同じころ、うちの近所の松林の前の畑にお金が埋まっていた。それは、からぱず(灰)の下にあった。ぐまじん(細かいお金)が、ひとつ、ふたつの話ではない。当時は、ドルの時代だったから、1¢硬貨から10¢、25¢、だいばん(大きな)50¢硬貨まで、じゃらじゃらとあったのだ。びっくりである。誰が探し出したか、すっかり記憶は落ちているが、近所の子どもたちは、ほとんど知っていたと思う。あそこには、お金があるよーと。大人に告げるものは誰もいなかったのか、しばらくの間、そこからお金をもらっていた。(全額誰かが取るのではなく、みんな少しずつもらうのが、かわいいがまである)。いつしかそれもなくなり、そんなことがあったことも忘れていった。
 
 それから、ままごとが大好きでよく遊んだ。石を三個、三角に並べ、かまどを作って、物を煮る にゃーび(真似)をしたり、本物のカミソリを使って、アカバナを刻んだりした。道具は、家の中にあるものやその辺に落ちているようなものであったが、あるとき、ままごと道具を買ってもらった。小さな鍋とお釜だった。お釜は、胴体が白く、ふたが黒いものだった。あまりにうれしくて、一生の宝物にすると思った。しかし、いつまでもそれを持っているのは、恥ずかしいという気持ちになったのか、高学年になったころ、畑の石垣の穴のところに隠しておくことにした。
 
 宝物は、見せびらかしたいのと、隠しておきたいという、両方の素質を持っているものらしい。
 
 中学生になった頃、あの石は、どうなっただろうと急に思い出してS子と見にいったことがあった。確かにここだという場所を探したが、結局見つけることはできなかった。お釜は、ひとりで見つけに行った。石垣の中だったから絶対あるはずと思っていたが、これもなかった。お金の話は、大人になるまですっかり忘れていた。ある時、思い出してS子や兄に聞いたら、ちゃんと覚えていてその話で盛り上がった。

 あれから幾年月。最近のことはすぐ忘れるが、やらびぱだ(子どもの頃)のことは、鮮やかに思い出すこのごろである。

バイキンイユよ ありがとう

アモイ(平良市出身)

 私が小学生の頃(昭和40年前後)、私の実家の裏の※「バダ」にはメダカがたくさんいた。童謡に歌われているようにメダカの学校が開校しており、水面はメダカ達がそれこそクイチャーの踊りのように賑やに泳ぎ回っていた。
 
 底の方にいるフナを釣ろうとシミンフクル(セメント袋)の糸に安全ピンで作った釣り針を縛り、ミーミズ(ミミズ)の餌をつけて水面に投げ入れるとメダカ達が一斉に餌にむかって食いつき、釣り針が下へ沈まないうちに餌がなくなってしまうのだった。まったくなんという邪魔なメダカたちだろう。その時、我々はメダカの事を「バイキンイユ」と呼んでいたので、ほんとにばい菌みたいなイユ(魚)だからバイキンイユというんだろうなーとずっと思っていたものだ。
 
 大正の終わりから第2次世界大戦を経て戦後15年頃まで、宮古、八重山の人々はマラリアやフィラリアに悩まされたようであった。八重山の方でのマラリア発生の方が早くてひどかったようで、大正9年3月に「宮島幹夫」という医学博士が八重山のマラリア発生の調査に行く途中に宮古にたちより調査をしたが、宮古ではマラリアの発生は一ヶ月に25人とまだ少なかったそうだ。
 
 その後、どの位の速さかわからないが、宮古でも次第にマラリア発病患者が増えていったようである。マラリアは蚊を媒介として発生することから蚊が多い地域に流行する。湿地帯で水がよどんでいてボウフラが生息しやすい場所だ。宮原地区はその条件を満たしている場所が多く、宮古島の中でもマラリアの発生が比較的多かったのだそうだ。※「土底(んたすぅく)」や ※「田ーまた(たーまた)」、そしてバダ等がその条件を満たす場所だったのだ。
 
 宮古保健所の資料を引用した「広報みやはら」によると、昭和2年8月に「宮古郡マラリア防圧所」を宮支庁内に設置し、その時からマラリア防圧として蚊の発生を防ぐ色々な対策をしたとある。先島のマラリアについてネットで検索してみると、篠原武夫さんと言う方が「八重山の各部隊、戦闘準備のため住民をマラリア地帯へ強制疎開させる」という歴史を知って、慰謝事業費として沖縄開発庁予算で総額3億円を計上させた、との記事もあり、八重山のマラリア発生は戦争との関わりも深かったようである。
 
 湿地帯で水がよどんでいたバダ地区を、蚊の発生防止対策として、下水溝を掘り排水溝をつなぎ水が海まで流れるようにしたのだった。現在のバダは蚊の発生防止の為につなぎ合わせた排水路だったのだ。そして年に2回は浚渫を行ったり、たまり水に廃油をまいたり、蚊の多いところにDDTを散布したりと蚊の発生源をなくす為に当事者達は色々と苦労したようであった。私も子供の頃、水溜りに灯油を垂らして回った事を覚えている。
 
 そして子供の頃フナ釣りの時に悩まされたバイキンイユもこのマラリア防圧対策の為に放流され、マラリア防圧に著しい効果を発揮したそうである。その事を知ったのは平成12年に発行された「宮原広報」読んでからであり、驚きであったが、それまで何も知らなかった事はもっと驚きであった。ボウフラを食べる魚としてバイキンイユが人工的に放流されたのである。
 
 バイキンイユの事をメダカと書いたのだが、正式には「蚊だやし」又は「タップミノー」というのだそうで、グッピーの仲間で外来種だそうだ。ばい菌類を食べてくれる事から、あだ名ふぃー上手ぬ(あだ名付け上手な)みゃーくぅぴすとぅ(宮古の人)のうまいネーミングだったのだ。事情を知らない我々が勝手にばい菌のようだと思い込んでいたのだった。
 
 ずっと昔から宮古産でバイキンのように逞しく生きていると思ったバイキンイユは、我々両親世代の方達がマラリアとの戦いの中でのマラリア撲滅対策で放流したその名の通り蚊絶やしであったのだ。
 
 もともとバダにも古来のメダカが生息していたのかどうか?また蚊だやしの放流によってその生態系への影響があったのかどうかはよく知りません。しかし、なにも知らずにばい菌扱いしていた、バイキンイユに今度面会するときは遅まきながら、ごめんなさい、そして、タンディガータンディ(ありがとう)と言ってあげたいと思うのである。
 
 ※「バダ」:ここでは宮原地区の瓦原部落からサガーニ部落迄人工的に作られた場所を指す
 ※「土底」:部落名
 ※「田ーまた」:とび鳥神社付近の湿地帯(当事は稲作地帯、現在はキビ畑 となっている)  
 
 #参考資料:「宮原広報」「第40回沖縄タイムス賞受賞者紹介」

編集後記

松谷初美(下地町出身)

 宮古では、ぶーき゜のばらん(サトウキビの穂)が、ふわふわと風にゆれ、ぶーき゜なき゜(キビ倒し)の風景があちこちに見られる ずぶん(季節)ですねー。今年は、豊作が見込まれているそうで、ぷからすむぬやー。

 さて、vol.116は、のーしがやたーがらー(いかがでしたかー)?

 この時期はぴしーぴしなので、宮古に帰りたい病は、特に悪化しますねー。優子さんの「んまやー」のような家。上等だはず〜。こっちでアポなしで行ける家は、ほとんどないからねー。私も学生のころほしかったなー。

 ざうかにさんの「続 はじめての銭湯」の話は、05年11月3発行のvol.111で紹介した「初めて物語」の中の「銭湯」の話の続きとなっています。(バックナンバーで見られますよ〜)神業のごとく着替えるというのが、その恥ずかしさを物語っていますね。

 アモイさんの「バダ」の話は、歴史が感じられますねー。子どもの頃、何気なく使っていた「バイキンイユ」にそんな由来があったとは、まーんてぃ うどぅるき゜たーぱずやー(本当にびっくりしたことでしょうねー)。「バダ」の話は、vol.42(02年12月19日)とvol.45(03年2月6日)にもあります。豊かな川のお話で読み応えあり。すでに読んだ方もあわせてぜひ〜。

 きゅうまい しまいぎー ゆみふぃーさまい たんでぃがーたんでぃいら〜。
 (きょうも最後まで読んでくださり ありがとうございました〜)

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 次号は、2月2日(木)発行予定です。あつかー またいらー。
 きょうも一日、上等な日でありますように!