こんにちは〜。 んなま、みゃーくんどぅ うーどー。
今回は、宮古からvol.118お送りしますねー。
登場するのは、アメリカ、東京、宮古、宮古に里帰り中のメンバーです。どうぞお楽しみください。
ジュウルクニツ ぬ 料理
松谷初美(下地町出身)
去った、13日は、ジュウルクニツ(十六日祭)だった。この日は、学校も、公的機関も、会社も店も、午後からはほとんど休みだ。
あの世のお正月と言われるこの日は、じゅうばく(重箱)にご馳走を詰めて、墓参りをし、むとぅ(墓)の前で、親戚一同ご馳走を食べる。
今回、この日に合わせて帰省した私は、重箱に詰まった料理に慣わしがあるのを初めて知った。(地域によって違うと思うが、うちの場合の話)
この日は、それぞれが家から重箱に料理を詰めてくる。お重は、だいたいふたつ。ひとつにはいろいろな料理が入っていて、もうひとつには、餅が入っている。
いろいろな料理が入っているほうの重箱の中身は、三列に、料理が きちぎなり(きれーいに)並べられている。一列目には、てんぷら(魚や野菜など)や、あぎどうふ(揚げ豆腐)などの揚げもの。二列目は、紅白かまぶく(かまぼこ)、赤く染めたゆでたまご、赤く染めたイカ、羊羹(寒天の場合もある)など。三列目は、大根、人参、コンニャクの煮物、こんぶ巻きなどである。この並べ方が決まっているというから、びっくりだった。これらは、重箱にきっちりはまるように、サイズが切りそろえてある。そしてその品数は、12品目あるのが良いそうである。
そして、もうひとつの重箱には、12個の餅。「なんで12個かー?」とおばぁに聞くと、「っすさん、のーてぃがらやー(知らない、なんでだろうね)」と話していた。
それから、おばさんたちが、「そういえば昔は、ずまみ(落花生)の実の皮をむいて、あかぐー(赤の染料)で染め、爪楊枝にさしたものもやっていたねー」と話していた。今ではやらなくなった料理もあるんだね。
夫の家の墓参りが終わると、今度は自分の実家へも料理や餅を持っていく。
叔母は、結婚した当初、夫の実家にお菓子だけを持っていったら「うわが、なびしー つふたー むぬー むちきしばどぅ 上等(あなたの鍋で作ったものを持ってくれば、それがいいよ」と言われたそうである。神様は、あなたが作ったものを一番喜ぶというわけだ。それから、叔母は、自分の家で作った、てんぷらや煮物などを持っていくようになったそうだ。
ジュウルクニツの重箱の詰め方を、嬉々として、また当たり前のように話す、おばさんたちを見て、長い年月、それに関わってきたことの、誇りのようなものを感じた。
私もいつか年をとって、宮古に帰ったら、自分の鍋で作ったものを、じゅうばく(重箱)に詰めて、むとぅ(墓)に行きたいものだ。その前に、あぎぱんびん(天ぷら)を上手に揚げられるようにならんとねー。
ミャークフツ講座 ミャークフツの始まり編(2)
ひさぼう(平良市西仲出身)
<今、日本列島に住む日本語民族がその昔、縄文時代にどんな言葉を話していたか知りたい人は、宮古島に行ってミャークフツを聞いてみて下さい>と、こんなことが言えたらいいと思う。
1.「私がこの辞典を公にしたのは、多くの人々に琉球語の本来の姿を知ってもらいたいと思ったからである。そして私がこの辞典を出さなければ大和、奈良、平安時代の言葉から転訛した、共通語や日本各地の方言にもない二千余の貴重な宮古語の正体は勿論、これ迄何人にも解明されていない・・・三千余の沖縄語や八重山語の大半もまた恐らく永久に不可解な琉球語として後世に残るのではないかと考え、病弱な老躯に鞭打って・・・この辞典を出すことにした。」
これは昭和54年(1979)12月に『宮古群島語辞典』を世に出した著者下地一秋の発刊のことばである。そしてこの中で「二千余の貴重な宮古語」について「沖縄語や八重山語にもないヤマト言葉から転訛した宮古語」と説明している。
いわゆる「琉球語」が古代日本語の姿を残していることは、今や多くの学者の認める事実となっている。さらには「琉球王朝下の首里のことば」に最も影響を受けなかったのは宮古語だという言語学者の指摘もある。「琉球語」の中での宮古語の位置づけがこれらの指摘通りだとしたら全国各地の方言のなかで、又、琉球語のなかでミャークフツ(宮古方言)が最古のことばを保持していることになる。
2.縄文時代にどういう言葉が話されていたかは、音声が残っているわけではないからあとは文献に頼るしかない。ところが二千年前には文字の痕跡もないわけだからこれは“想像”するしかない。それでは、たしかな証拠資料でまちがいなく今につながる「日本語」が話されていたと言えるのはいつからかというと「古事記」「日本書紀」「万葉集」などが出てくる8世紀、奈良時代以降ということになる。いわゆる「琉球語」が古代日本語の姿を残していると言われるのもこれらの文献を根拠にしている。
この奈良時代より前の時代、聖徳太子が出てくる飛鳥時代も、“文献による確かな資料”ということになると“想像”の領域に入るらしい。「日本」という国名が使われ、また「日本語」という呼び名もこの時代からということになっている。それ以前の言葉は「日本人」を表わす「倭人」とともに「倭語」と言われている。名付け親は中国である。そして文字による最古の証拠・痕跡は、3世紀の「魏志倭人伝」ということになる。これに書かれている“倭語”は人名、地名など固有名詞だけ50余しかないという。これより前の時代の“倭語“はもう想像・推測の世界になってくる。
3.それでは文献によらないでミャークフツが“縄文語”の生き残りであることを証明する手立てがあるかどうか、少なくとも“根拠のある想像”をするための方法があるかということになると今、宮古島の人たちが話しているミャークフツの音声を他の琉球語と比較してみるとか、また本土で最も古いことばの名残りだと言われている「ズーズー弁」と比較してみる、あるいはまた別の角度から「宮古島の人間はどこからいつ宮古島に辿り着いたか」ということを考古学やら人類学などで確かめる、ということ等が取りあえず考えられる。
4.前述の『宮古群島語辞典』にはさらに次の記述がある。「宮古語は沖縄群島や八重山群島の人々からも、また方言を研究する人々からも、日本列島で一番むつかしい言葉だと言われているが、それは次のことなどに因るものだと思われる」としていくつかの理由が挙げられている。そのなかで<八重山語や沖縄語や共通語、古典語にない音韻>として多くの音韻を列挙している。要するに、言語学者でもない限り発声できないような発音がたくさん出てくることを指摘している。
これは母親にミャークフツ(その中の平良語)で育てられた自分の体験としてもよくわかる。ひとつの例で、中学三年の一学期からオキナワの中学校へ転校したとき、宮古島と違って生徒が学校でも方言を使うものだから、三学期が始まる頃には、中学生の日常会話は那覇の方言で出来るようになっていた。言い回しが楽で呑み込みやすい感じだった。逆の転校生はそうはいかなかったと思う。
それではこの“日本列島で一番むつかしい言葉”の正体はナンだというと<古事記や日本書紀、万葉集その他の古典に用いられている古語から転訛したもの>とのことである。ここで疑問に思うのは、たとえば二千年前に九州から宮古島に渡ったとして、その人たちのことばが、「孤島」の中で他との交流がないなかで“難解”な言葉に変化していくかということである。
逆ではないだろうか。宮古語が二千年前の姿に近くて、それ以上に変化したのは本土・九州のことばではないのか。五十音図の「は行」の発音がp → f → h と変化したのは本土の側で、宮古語は p に止まったままである。(池間島系のことばが h音であるのはここでは措く。また日本列島で一番むつかしい言葉という場合、「アイヌ語」をもってこなければならないけれども今のところ、日本語との関係がよく解明されていないということでこれは一応外すことにする。)
5.<宮古語が日本列島で成立した日本語の一番古い音韻を残している>として、それはいつの時代のことばなのか。 まず、まだ漢字を知らない、文字のない時代であろう。ミャークフツは漢字・ひらがなでは写せない。しかし日本語としての「文法」はきちんと出来上がっている。が、その時代はことばの数は相当少ないし(生活密着語のみ)、話す人口も相当少ない(日本列島全部で20万とか30万人)。
こういう場合ともすれば“現在の姿”で“過去の姿”を考えるけれども、たとえば人間は誰でも過去一度は一個の単細胞であったということを想像できるだろうか。アンナ(母親)とウヤ(父親)との間にできた“一個の受精卵”である。そこを通過したはずである。
日本列島で“日本語”が成立した過程というのはおそらく同じような想像力が必要である。日本列島にはその置かれた地理的条件からして、北から南から又、大陸からと人間が移動してきたであろうことは想像がつく。そんな列島の中で“日本語”は成立したわけである。不思議なのは、方々からやって来て方々の言語を持っていたであろう人間のことばがどうして“外国語”ではなくなり、“倭語・日本語”と呼ばれる言語体系になったのかということである。<混沌>から<秩序>へ、日本列島各地のことばがいつの時期にか学問的には同じ「倭語」として成立したのである。
6.宮古島の遺跡は紀元前に限ると、先史時代前期(約3,800〜2,500年前)が1遺跡(多良間の添道)、後期(約2,500〜1,000年前)が4遺跡(城辺の長間底、クマザ、浦底、アラフ)発見されている。これらの遺跡を残した人間がはたしてミャークフツを話していたかどうか・・・。
考古学者によると、その生活様式は、本土・九州どころか奄美・沖縄とも違っているという。まず土器。奄美・沖縄の土器には本土縄文式土器の系統が認められるのに対し宮古・八重山の土器には文様がなく縄文土器の影響がみられない。また歴史が逆戻りするように先史時代前期にあった土器が後期になると無土器になるのだという。土器に代わってアジクヤ(シャコ貝)を使った道具とか炊事に使ったと思われる焼き石などが出てきて、これらはフィリピンとかマレーシヤあたりの文化と同系のものだという。そうすると、これらの道具を使っていたのはやはり同系の人間になるのでは・・・。これについては文化の違う民族の交代があったかどうかは未解決であるという。
個人的には宮古島を取り囲むサンゴ礁の完成時期が今から約3,000年前というから、遠浅の干瀬を海の畑のようにして生活していれば大型小型の貝類を土器の代わりに使うようになるのは自然のようにも思われる。地球上の氷期が終わる約12,000年から13,000年前に時期を合わせるように縄文時代は始まり、2,000数百年前で縄文時代は終わる。その一万年の間に宮古島は地形も生態も様変わりするわけだけれども、問題はその一万年の間に<ミャークフツを話す人間が宮古島に渡っていたか>ということなのである。
<ミャークフツは一番古い> ということと<二千年以上前に宮古島に住んでいた人間は縄文語を話していた> ということの二つが同時に言えるためには、二千年以上前に宮古島に人間が渡っていなければならない。
ところが考古学上そういう形跡は今のところ見つかっていない。沖縄本島と宮古島を隔てる距離300キロの宮古凹地の存在がある。また紀元前9世紀から交流があったといわれる九州と沖縄本島との間の<貝の道>に宮古・八重山産の貝が参入するのは10世紀以降だという。
さらには宮古島の遺跡のほとんどが12,3世紀以降のものであり、「歴史」が始まるのはこの時代からなのである。考古学上、本土・九州どころか沖縄本島とも10世紀まで交流がなかったと言われるなかで<ミャークフツは一番古い>ということをどうやって考えていけばいいのか・・・。
まーつき、考えてわーみるみる、してみませんか。
(いっしょに考えてみませんか)
なうがら っさいん むぬい〜つながりゆいどう(何かわからないものでつながっているよ)
みしん(池間出身アメリカ在)
郷土愛の深いうちな〜んちゅにかかせないグループ、沖縄県人会が日本全国、世界各地で活動しています。現在、県庁に登録されているアメリカ国内沖縄県人会は37箇所と、アメリカに住む県出身者パワーに驚かされることがたびたびあります。
各州の県人会で交流、情報交換が盛んに行われ、こちらカンザス州もいくつかの県人会とニュースレター、電子メールで交流を行っています。昨年4月、いつものように交流のある県人会から新役員のお知らせのニュースレターが届きました。
宮古出身のA子さんが役員の一人として名前、写真が載っているのではありませんか。あいたい くとうぬ にゃ〜ん(会ったことがない)A子さん、あっしが(なのに)どう見ても「いきまびとうぬ みはな(池間人の顔)」をしている。。
直接、「A子さんは いきまびとうや〜あらんな〜(池間のひとじゃない)?」と聞いて「なにか ふりむんやありゃんな(頭がおかしなひと)」ってぃ あっじらいんまいんかい(と言われる前に)会長さんに連絡してみると、A子さんから電話があり、「両親が池間出身、宮古生まれ、育ったのは那覇」。あっがい!!
島の話、親戚の話、話がはずんだところで A子さん「ここにあと2人宮古のひとがいるよ。中学生の頃まで宮古に住んでいたB子さんと・・・」
私「B子さん!! もしかして下地B子さん!!」
A子さん「そう!下地B子さん。なんでわかる?!!」
B子さんは小学生のころの同級生。あっがいたんでぃ!10年前にアメリカに住んでいるとは聞いていたものの、こんな風に連絡を取れるとは。 みやこびとうにはみやこびとうのなにか分からないものでつながっている。たまがりた(びっくりした)1日でした。
よなくに島3
神童(平良市出身)
(鉄筋腹筋)
昭和60年。与那国島に居た。日航機墜落の年だ。
祖納(ソナイ)、氷川(ヒガワ)、久部良(クブラ)の集落からなる与那国島は、言わずと知れた日本最西端の島。天気のいい日は台湾が見える。与那国から見る台湾は、東シナ海のはるか沖、雲の上に台湾の山肌が見える。そう、東京から見る富士山のような見え方だ。裾野は見えず、雲の上に頂上が見えるようなもんだ。
与那国島には祖納集落に与那国診療所がある。与那国滞在中の3ケ月の間に2回も診療所の世話になった。診療所の医師は後に宮古島トライアスロンにエントリーするアスリートだ。
与那国島での仕事は体育館の建築工事だった。宮古大手の建設会社が受注した久部良小学校屋内運動場新増築工事。現場の作業員、仮枠大工、職人ね。
7月に与那国島へ渡り10月初旬まで工事をしていた。先月まで生活していた場所は長野県松本市。梅雨時の松本は寒く、初夏の山登りをして宮古島へ帰ることとしていたので天気を見ながら1ケ月間、松本に留まっていた。しかし、願いは叶わず、冬並みに吹雪いている上高地へ向かうことはできなかった。
所変わって、与那国島。ぷみきってぃ いんぐりっしゅ!(暑い。暑すぎる。なお、いんぐりっしゅに意味はありません。)仮枠を施工中、配筋されている鉄筋の端部で指を傷つけてしまった。鉄筋の切断部はカミソリのようなもので、うっかりさわると血だらけになってしまう。皮を切る程度なので気にせずに仕事を続ける。翌日、切り口が化膿した。翌々日には腕の付け根のリンパ節が腫れて、発熱を伴い、玄翁(さやふ用語で「トンカチ」のことです。)を持つこともままならなくなった。
与那国診療所の医師が下した診断は「風土病!」助けて!シュバイツァー!なんでも、約6年間、内地で生活していたため免疫力が低下しているのだと!なるほど!免疫の有効期間は6年なのか。
程なく、風土病から快癒。引き続き猛暑と戦うこと3ケ月。秋風が吹き始める10月初旬。型枠工事は終了した。終了当日。久部良小学校の運動場で仲良くなった生徒達と大いにはしゃぐ。飯場に戻り、盛大に慰労会が始まった。
酒は近所の雑貨店から買い付けてきた。雑貨店といえば、隔週払いの給料日前になると、全員が過度の金欠病に陥り、嗜好品の煙草も買えない有様。雑貨店のおばあにはツケで煙草を売ってもらったりして世話になった。
ところで、飯場暮らしでの建築工事の最大の楽しみは食事。しかし、与那国島は猫が多い島で、幾度と無く、まかないのおばさんが準備した夕食のメイン料理を猫に食われる。のーばい やどぅ っふぃやーまい んきゃーーぬ せめんがーらやー。んざがらーんどぅ まゆがまの ぱいふつぬ ありゅーぎ。(戸締まりをするのだが、古いセメント瓦の木造家屋。どこかに猫の通り道があるのだ。)
飯を奪われて餓鬼とか化した職人はある日、にっくき猫を屋内に閉じこめることに成功。皆で取り押さえ袋だたき。なまずん っすきゃー みんがいぬ まゆぁ やーぬ つかふぬ んぎぬみーんかいてぃ っふぃ すてぃらいたー(歩く気力も無くなるまでたたきのめされた猫は、飯場の隣のンギノミー(藪の中)に捨てられた。)
翌日、雑貨店にツケの煙草をもらいに行くと、奥から昨日の猫が。あっちこっちに擦り傷を負って痛々しい。いぶかしげに見守る一同におばあが説明を始めた。
「この子は雄猫で、近所の猫と喧嘩したみたーい!」何より事情を知っている一同。むぬぬ あす゜ぁいん。(返事ができない。)
ということで、慰労会。1週間前まで「与那国」又は「どなん」を飲んできた宮古出身の職人。しかし、今日は菊の露だ。雑貨店のおばあが特別に取り寄せてくれたのだ。
宴会は菊の露の牛乳割りオトーリで始まった。開始後30分。気分が悪くなる。動悸が激しい。息も荒くなってきた。過換気症候群か、もしくはウントゥラの祟り?さりげなく席を外し台所で冷水を飲む。しかし、息は益々激しくなってくる。もはや、犬状態。腹筋が痛い。覚えているのはここまで。とーぅわん びらきゅうたーぎ どーり(台所で倒れていたらしい。)
聞くところによると、台所で虫の息になった当方を同僚が発見。救急車ゆ ゆらび まどぅとん にゃーだ んーなし 車ん つかみ ぬーし 与那国診療所んかいとぅばすたーっつぁ!(救急車を呼ぶ暇もなく、皆でライトバンに抱え込み飲酒運転で与那国診療所に運んだらしい。)未明に与那国診療所で目覚めた。点滴を受けている。医師から理由を聞かされる。
「あなたは急性アルコール中毒で運ばれました!」
腹筋がとてつもなく痛い。鉄筋の次は腹筋かよ!明け方、飯場に戻ると玄関に大量の与那国診療所のスリッパが。 皆、気が動転しているので裸足のまま当方をライトバンに放り込み、診療所までの道中では、ぐったりとなった当方を見て泣きだした先輩もいたらしい。
泡盛に牛乳。かなりやばいよ!
※ウントゥラ:仲宗根豊見親が討伐した与那国の英雄「鬼虎」豊見親は、鬼虎討伐の際、その娘を拉致している。娘は平良袖山の辺りに監禁され、死んだ後も袖山周辺の袖山周辺の集落に祟りをもたらしたと伝えられている。
お知らせコーナー
松谷初美(下地町出身)
◆「gulff」メジャーデビュー!
新聞やテレビなどで、すでにご存知の方も多いと思いますが、宮古出身のNaoki(末広尚希)さんを中心に活動をしている4人組のバンド「gulff」が2月22日メジャーデビューするそうです!デビューシングルは「風ノ女神」。
生まれ育った宮古を誇りに想い、活動を続ける「gulff」は、メジャーデビュー初のライブを宮古を皮切りにスタートするとのこと。
宮古でのライブは、Naokiさんの母校、宮古高校で行われ、後輩の宮古高校の生徒会、吹奏楽部が企画・運営をするそうです。だいず盛り上がるライブになりそうですね。ぜひ、いきみーるよ〜。
「gulff 宮古島 フリーライブ」 〜故郷から新たなスタート〜
日 時 | 2006年2月26日(日) 開場:15:00 開演:16:00 |
場 所 | 宮古高校グラウンド |
料 金 | 入場無料 |
H P | gulffオフィシャルサイト http://www.gulff.com/ |
編集後記
松谷初美(下地町出身)
13日に宮古に帰ってきました。空港の外に出たとたん、この季節の宮古のかざ(匂い)がして、思わず、胸がキュンとなりました。「宮古だー」
宮古は、ここ3日、20度をこす暖かい(というか暑い)日が続いていています。天気もよくて、ぶーぎなき゜(キビ倒し)をするには、上等!今年の ぶーき゜は、非常にできがよく、平均糖度が15度で、豊作だそう。ぷからすくとぅやー。食べてみたら本当に甘ーかった。
私もやー(家)のぶーぎなき゜を2日間、手伝って、んにゃ、筋肉痛。いまさらながら大変な作業だということを実感。一本一本、そぅら(先端)を切り、根元から切り倒し、ぱーがら(葉殻)をかく。気が遠くなりそうな作業だ。私は、ぱーがらをかくのが仕事だったが、終わるころには、もうヘトヘトだった。
それにしても、今どきは、ハーベスターというキビを収穫してくれる便利な機械があるんですねー。ばんたが、一本、一本、やっているそばから隣の畑では、ガーガーガーガーと簡単に刈り取っていくのでした。そばで見ていると、「私たちっていったい・・・」という気分になるなー、ハーベスター君。でも君のおかげで、我が家の ぶーぎなき゜は、早くも終了だそうです。「んにゃ、うむやすーやす(もう安心だ)」と母ちゃんは話していた。
14日には、くま・かまミニオフ会を「あぱら樹」でやり、ライターや読者のみなさんと楽しい時間を過ごしました。ご参加いただいたみなさん、たんでぃがーたんでぃでした。お会いできて、だいず、ぷからすむぬやたん。またお会いできるのを楽しみにしています〜。
さてさて、vol.118 のーしがやたーがらー?
ひさぼうさんの今回のものもまた、説得力がありますねー。まーんてぃ「縄文時代の言葉が聞きたかったら、ぜひ宮古に!」と言いたいですね。「今、この21世紀に、その生の言葉が聞けますよ!」と。一回目は、昨年の8月5日発行(vol.105)でした。こちらもぜひ、合わせてごらんください。
みしんさんの県人会のぱなす。海外にもやまかさ県人会があるんですね。しかし、繋がりというのは、ぴるますむぬやー(不思議なものですねー)顔を見て、池間の人だとすぐ分かるのもすごい。池間ふつも味わい深く、アメリカでの出来事が、近くのことのように感じました。
神童の行くところ、行くところ、何かしらありますねー。時々、神童には、エピソード生産マシンが搭載されているんじゃないかなーと 思ってしまうさー。淡々とした文の中に周りの人の温かさもにじみ出てほんわかに。
ジュウルクニツの料理は、なぜ12品目なのか、餅もなぜ12個なのかご存知の方いらしたら、おしえてくださいー。9個でも良いという話もききました。のーてぃがらやー?
感想や、投稿など、いつでも、どこでも募集中。
今号の感想もぜひぜひお寄せください。まちーうらっちばー。
きゅうまい、ぷからすーぷからす ぬ 一日でありますように!
次号は、3月2日(木)発行予定です。あつかーまたいら〜。