みなさん、こんにちは〜。
さぁ、きゅうやぴるますぱなすっぅやまかさおくらっとー(さぁ、きょうは不思議な話をたくさん送りましょうねー)
ぬかーぬかゆみふぃーさまちよー(ゆっくり読んでくださいねー)
- ~ぴるますぱなす(不思議な話)特集~
名前を当てた!
ひさぼう(平良市西仲出身)
ひとはそれぞれ別々に生きている。けれどもナニかで一体になっているのではないか。ときおり、そう思えることがある。
小学3、4年生のころだと思う。
同級生のあぐ(友人)が、ボクの知らないそいつのあぐを連れて目の前に現われた。初対面のその顔と全身を見たそのとき、思わず口が動き出して、「うう”をばあ、しもじ○○○○ てぃど あずだらあ(君をば、下地○○○○と言うだろう)」と名前を言いあてた。
あぐが、あからさまに驚いて「のおてぃが、うう”ぁ っしゅうりゃあ(何でお前は知っているか)」と聞いてきた。けれども自分でも答えようがなかった。口が勝手に動いた、としか言いようがなかった。
「自動書記」という現象があるらしい。ナニかにつき動かされて、手が勝手に字を書き出すというようなことである。この例でいうと、紙に「キミノ ナマエ ハ シモジナニナニ」と書くようなものである。
口が勝手に動きだしてナニかをしゃべる、あるいは手がひとりでに動きだしてナニかを書き始める、おそらくこういうことは現実にある。宮古島の「カンカカリャ」が、いわゆるトランス状態になってナニかをうたい・語り始めるのは、これと同じことではないかとも思う。それではいったいナニに動かされるのか。
「ウタキ」と「カンカカリャ」は、宮古島に生まれ育った者にとって、ごくあたりまえの自然の樹木の在る場所だし、馴染みのンマ(おばあ)のことである。ところがひるがえってみると、ウタキにはナニが居るのか、カンカカリャはナニに対して拝んでいるのかという問いが出てくる。
普通使われることばで表現すると、ウタキは、霊木とか霊域であり、カンカカリャは、霊感とか霊験あるいは霊気の領域に居る人である。つまりは「霊」とはナニかということになる。
ふと今、祖父が来たような気がした、あるいは見たような気がした。そしたら亡くなったという知らせが入った。あるいは、カタカタカタカタ何かの音が聞こえて胸騒ぎがしたら、さっき誰それが死んだという・・・。こういう話しはよく聞く。
人間の知識や経験を超えてそこに何かあるとは感じられるけれども実際には実体がとらえられないもの、わからないことがあるというのはこの世の事実である。生物の中で最も進化した万物の霊長=人間が、結局、実体としてはとらえられないものに包まれて生きているというのは不思議といえば不思議だしおもしろいといえばおもしろい。
「あの世」を研究しているという足立郁朗というひとが10年前、宮古島で講演して次のようなことを話したという。
「本土から沖縄本島、本島から宮古島へ入ってわかったことがある。いま日本で一番波動レベルが高いのが宮古島だ。波動は伝播するから、宮古島のみなさんにはいまのよい波動をどんどん高めてもらいたい。宮古島のよい波動が沖縄本島に伝われば沖縄全体がよくなり、沖縄がよくなれば本土がよくなる。日本がよくなれば、それが世界全体へ伝わるように思う」
ここで「波動」というのは「霊」のようなものだろうか。いずれにしても10年後の今、「宮古島の波動レベル」はどうなっているのだろう。
ぴんなぎぴるます(おかしくて不思議な)謎に包まれた思い出
あば本舗(下地出身)
人は誰でも子供時代に、説明のつかない不思議な体験や怖い思いをしたことがひとつやふたつあると思う。
私は うーかたむぬ(不器用)なのでドジな思い出だけは多い。それに霊感や第六感という高等能力を備えていないので、鳥肌がたつような経験は少ない。
あんすぅが、あんすぅが!(だけど!だけど!)凡人の私にもひとつだけ、かりゃ のーてぃぬばーやたーがら?(あれは一体なんだったのかいな?)という、チョーぴんなぎぴるます(おかしくて不思議な)謎に包まれた思い出があるのだ。別に がーりて(威張って)いるわけじゃないけどね。
あれは小学校3年生の夏休み。うか〜すき うぷあみ(凄い大雨)が降り続いていたある日の朝。私は夏風邪をこじらせ熱を出して寝込んでいた。最初の異変は、横になっていると天井が目の前に近づいてきたことから始まった。(う〜ん。これは何ちゅうか、幽体離脱?)高熱で朦朧としていた私は、やがて起きだし窓から塀の上へと飛び乗った。外はバケツをひっくり返したような大雨。母は台所で食事の準備をしている。しかし、娘の行動には全く気がついていない様子だ。
さぁそれからが大変。私は裸足で外へ飛び出した。30〜40年前の宮古の道路はアスファルトではなく、ごろごろしたナフサ道である。だが足の痛みは感じない。何かにとりつかれたように私は走り出す。三軒後ろの家の庭に入りこみ、裏庭から広いキビ畑を走りぬけた。そして、ガラスの破片や石ころだらけの川を越え、泥まみれで与那覇湾沿いの道路を川満方面へとひたすら走った。
途中、トラックに とぅびょぉーたー(出会った)ことまで鮮明に覚えている。あば?こんな雨の中を子供がなんで一人で走っているのかな?という表情の運転手の顔を、はっきりと記憶しているのだ。そのあと、小学校方面へと右に曲がり学校の裏山から校庭へとたどり着いた。今でもあの時走った道順は全て覚えているから、自分でも ぴんなぎー(変、おかしい)である。
私が失踪?したあと、家族はもちろん隣近所や親戚は大変な騒ぎになっていたらしい。かー(井戸)に落ちたのではないか、はたまたウタキに迷い込んだか、いんかいどぅ ぴす゜たーびゃー?(海へ行ったのか?)と、里の人々総出で大捜索したという。
あんすぅが のーばしーとぅみりゃーまい んじゃんまいうらん(だけど、どんなに探しても どこにもいない)青ざめる母親。その時、中学生だった三番目の兄が言った。かりゃ 学校んかいどぅ ぴりゅーす゜ぱずゆ(あれは学校に行っているはずよ)
夕方になり、下地小学校の軒下でブルブル震えながら突っ立っている私の目の前に、秀坊(三番目の兄)は、自転車で迎えにやって来た。うわ うまんのーゆがしーゆーりゃー?じゅーら やーんかい(君は一体、ここで何してんの?さぁ家へ帰ろう)そう言うと自転車の後ろに乗せてくれた。雨があがったデコボコ道を家路へと急ぐ兄妹。何故あの時、私の居場所が彼にわかったのか?今もって謎である。
あの頃を懐かしむだけでは物足りず、何とか解釈したくなるのが私の悪い癖。沖縄は、日本のあるいはアジアの古層の姿が残っているといわれる地域である。特に宮古はそこかしこに自然の神々・精霊が息づいているような土地だ。
今思うと宮古で過ごした子供の頃、宮崎駿監督がアニメで描くような不思議に満ち溢れていた。まずむぬ(精霊) や ぱーんどぅ(オバケ)が、あちこちに潜んでいそうな気配が濃厚だったし、妖しげでワクワクする様な空気が うかーすきなり ありゅーたー(もの凄くあった)。
もしかしてあの時、小学生の私も自然の中の存在に惑わされのでは?などと夢想したりしてみるが結局よく分らない。熱に浮かされた子供の脳内でどんな変化がおこったのか?それこそ神のみぞ知るである。
ずっと胸の奥にしまっておいた私の ぴるますきぱなす(不思議なお話)は、物資はなくても気持ちは豊かだったころの摩訶不思議な思い出であり、今は亡き兄との大切な宝になった。
正夢
松谷初美(下地町出身)
この世に生きて40数年。よもや自分に ぴるますことが起こるとはうむいまん みーったん(思ってもみなかった)
今年の6月ごろ。くまかまの掲示板にア、イラブyouさんが「外はかちかち、中はとろーりなーんだ」というなぞなぞを書いてくれた。その後、「それは、くーがだよねー菜の花さん」と書かれていた。「くーが」てぃや のーりゃー(「くーが」とは何か)?聞いたこともなかったのでさっぱり分からなかった。
そのことがよほど頭に残っていたのか、その日の夜、いみゅーみーたー(夢を見た)。母ちゃんらしき人と話をしている。その人に、「くーがとは何を言うか?」と聞くと「くーがとは卵のことさー」という。「卵をばとぅなかと言うんじゃないな?」「とぅなかは・・・くーがは・・・」と何やら説明をしている。内容は ばっして(忘れて)しまったが、すごく説得力のある説明だった。
翌朝、半分は疑いながらも「くーがとは卵のこと?」と書き込みをした。したら、なんと本当に卵のことだった。まさかよー。ぴとぅーうどぅるかす(人を驚かす)!
早速、宮古に電話した。おばぁが出た。「おばぁー、くーがとは何を言か分かる?」「くーがー?っすさんゆ(知らないよ)」「じゃ、卵をば何という?」「とぅなかさーい」やっぱし。くーがのことは知らないんだ。次に母ちゃんに電話を代わってもらった。やっぱり同じ答えだった。くーがとは聞いたこともないという。それなのに、なんで、夢の中で知ることになったんだろう。まーだぴるます。
その他、今年の2月にはこんなこともあった。
じゅうるくにつのころ、宮古に帰った。そのとき伊良部にも行き、菜の花の実家にも寄ることになった。彼女とは高校時代からの どぅす(友人)だが、一度も家に行ったことはない。お母さんに会えるので、それを楽しみにしていた。明日伊良部に行くという日、夢を見た。
菜の花の実家を探して歩いている。ここだーと思われる家の前に来た。玄関から庭にかけて、緑がいっぱいで、すだーすきーぬやーや(涼しそうなおうちだなー)と思った。ふと見ると、入り口の西のほうに、ランタンがぶら下がっていた。キャンプなどに使うランプだ。ああ、いい感じだなーと見ていた。そこで夢は終わった。
翌日、車で伊良部に渡った。なかなか菜の花の家を見つけることができず、結局、人につれていってもらった。家の前に来て、びっくりした。夢に出てきた風景とそっくりだったのだ。家の入り口の緑といい、ランタンの位置といい あにぎな(そのまま)だった。初めての経験に頭がくるくる回った。こんなことってあるんだ!
人はどんなときに、そういうことが起こるんだろう。私の場合、想いがそこに集中したときに夢を見るように思う。しかも、両方とも伊良部との繋がりがあるというのも面白い!むかし昔、私は伊良部と何か関係があったのか?謎は深まるばかりだ。が、そういうことに縁のなかった私にも、ぴるます事が起こったというのが、なんだか、うれしくもあるのである。
月
神童(平良市出身)
日本復帰を果たした夏。同級生6人で屋根にいた。昼間の直射日光の温もりが残るコンクリートスラブ。目的は、伝書鳩の捕獲。んーばと(キジバト)も旨いから伝書鳩も旨いに決まってるのだ!夕刻にねぐらへ戻る伝書鳩を待ち伏せて捕獲しようという作戦。夕日が西の峰に沈み宵闇が迫る頃、伝書鳩は所定の位置に戻っている。
窓の上の20cm程の庇で夜を明かす伝書鳩をスラブから確認。地上にいるメンバーにある程度の位置を伝え、庇の下方から見えない伝書鳩をんちゃむ(鷲掴みにする)方法。ちなみに、鳥があまり下を気にしないことはこの頃の経験から得た知識だ。結局、1羽の伝書鳩も捕獲できないまま作戦は失敗した。
反省点を確認するため、再び屋根に集合するメンバー。東の空には満月。皆で寝転がって話し込む。ふと ぱいぬんみ(南の嶺(正確には西の嶺))を観る。集落へ上水を供給する給水タンクの上方に月が。正確には月とほぼ同じ大きさの物体。東の空の月は煌々と集落を照らすのに対し、西のそれは濃い卵の黄身のような色。発光するでもなし。でも、はっきりと視認できる物体。同級生全員が固唾をのんで見守るなかで、物体は移動し始めた。
三角関数の軌跡をなぞるような動き。左に移動しながら沈み込み、そこから浮き上がりまた沈み込む。更に浮き上がったところで一旦停止。その後、右へ移動。左へ移動した軌跡を正確になぞる動き。元の位置まで戻ったところで再び左へ移動し、半分の周期のあたりで忽然と消えた。全員声が出ない。でも、確かに見た。
沈黙の後、「かりゃー のーりゃー?」 (あれは何だったんだ?)という話になった。未確認飛行物体かも?結論がでないまま、解散となった。
黄色い月目撃からしばらくして、夜中に目が覚めた。満月が昼間のように地上を照らしている。月明かりで小説でも読めそうな明るさ。目が覚めたのは、誰かに呼びかけられた気がしたから。一目散に外へ出て、隣家の2階屋上へよじ登った。
何故か月が愛おしい。上空に何かが待っているような気がする。意識は、はっきりしている。意味も解らず上空と交信できるような気がして両手を突き上げる。あたりまえのように交信はない。焦る。何かが迎えに来ている気がする。
その後、集落の屋根を駆け回り、のーがらん うすかされー うーんだかに(何かに突き動かされるように(下地勇のパクリです。))集落から1kmほど離れたあたりまで歩く。寝床から飛び出したので裸足だ。
畑の中でふと我に返る。その後はどのように帰宅したのか、解らない。布団に潜り込んで ぷとぅぷとぅ(がたがた)震えていた。
同級生に確認したことはないものの、目撃者は全員、同じ様な行動をしたかも知れない。あの、黄色い月は何だったのだろうか?
ぱごーさぬ(怖い)!
うりまい(それも)運命?!
菜の花(伊良部町出身)
ばっしらいん(忘れもしない)2001年12月19日22時05分。ベートーベンの「運命」の曲が流れてきそうな出来事が起こった。
その一週間前から体がだるくてきつかった。ぶがり(疲れ)ているせいだと思った。そのうち熱がでてきた。風邪だと思って解熱剤を飲みながら仕事した。あんまーす、あんまーす(吐き気も)してきた。ストレスで胃がやられたと思った。そんなこんなのうちに遂に運命の瞬間を迎えたわけだ。
その日、日勤のあと帰宅してから深夜勤入りのシフトだった。めざまし時計は非情にもまだ休んでもいない私の耳に夜勤へ行く時間を知らせる。ガンバルか・・・!気合を入れて立ち上がった瞬間、下腹部にズンッ!!ばた(お腹)の中から何かがぶつかる音が聞こえた(ホントに聞こえた)中腰で立ったまま、自分が自分じゃなくなっていく感じだ。血の気が引いていく。
痛い!しばらくうずくまってみるが治まらない。気を失いそうだ。体を引きずって電話に手を伸ばし夜勤交代のSOSを告げた。何とかするとの返事を聞きほっとする。こーこーしぃ(苦しくて)、やんーやん しぃ(痛くて)どうにもならない。家族に助けを求め、夫と息子が救急車を呼んで付いてくれたが、痛みで気を失い、痛みで目を覚ました。こんなことってあり?!
病院では超音波の検査がされた。腹水が溜まっていると言われ、今度はCT室に連れていかれた。つぅぎふぃ(気丈なふり)して自力で台に乗ろうとして気を失いかけた。レントゲン室のお兄ちゃんが抱えて台に乗せてくれた。もっと意識がはっきりしてたらお姫様抱っこの気分も味わえたのに、まったく覚えていない・・・あたらきゃ(もったいない)。
CTでも腹水が溜まっていると言われ入院。私のするべき夜勤は、病棟はどうなっているのだろうと思いながら私も ゆなは(深夜)じゅう痛みと戦う すぐとぅ(仕事)をした。
明け方、突然 さんぎ(寒気)がきてガタガタ震えた。ぴしむぬ〜!ぴしーぴしどぅ!!(寒い!寒い!!)熱が39度以上もあった。医師が動脈血を取っていく。すとぅむてぃ(朝)になり内科から外科に引き渡され、外科チームが夕方まで手術にかかるので念のため婦人科にも行くようにといわれ、私は雑科の患者となった。
あちこち検査で引き回されて痛みは増すばかり。私は一体どうなった?!仮にも同僚である若いナースに苦しいと んざいん(言えない)。んっちゃーならん(言ってはならない)気がした。夕方4時過ぎ、体がフワフワとしてきた。痛くて苦しいはずだったのに、痛いのか苦しいのかよく分からない。そして、はっきりと見た!
私のベッドの左手には夫の亡くなった両親が、右手にはこれまた亡くなった父方のおばぁと母方のおばぁがベッドに寄りかかり、私を覗き込んでいるのだ。しかも、ベッドの足元には父が かなます゜(頭)を垂れ黙ってうつむいているではないか。父のその姿を見た瞬間、あばー すん どぅす(私は死ぬんだ!)と思った。私の異変に、隣の患者がナースコールを押したらしく、白衣の天使が走ってきた。続いてドヤドヤとオぺ着のままの外科軍団がやってきた。朝からのオペが終わったところらしい。一通り診察したあと、「これから開いてみましょう」とアジの開きでもするかのように言う。
すぐに手術となり、夜遅く無事に病室のベッドに戻ってこれた。その夜、義母が夢にでてきた。「ホラ、食べな。これを食べな・・・」と四角い弁当箱のような っすぅ ぬぬ(白い布)に包まれたものをしきりに薦められた。翌日、夫にそのぱなす(話)をしたら「そんなもの食べるんじゃない!食べたのか?」と怒られた。だって、夢の話だってば〜。夫は術後医師から、卵巣嚢腫破裂で、かなりの血液が腹腔内に流れ腹水も意外に多かった。癒着がひどく危ない状態だったと説明されたらしい。なんでこんなにも管が多いのかと思っていたが納得した。危なかったのか・・・あの世からお迎えが来ていたってこと?!
私は くんつ(根性)の限りを見せて回復し、退院の日も決まった。そんなある日、父の夢を見た。手術をした日と同じように、ベッドの足元で黙ってうなだれて立っていた。声を掛けても返事もしない。ぴるますむぬ(おかしい)。のーぬ いみぬどぅ あい゜がぁ(なんの意味があるか?!)
その夜、担当の医師がカルテを持って病室にやってきた。面会に来ていた夫を見て「ちょうどよかった。大切なお話があります」と言う。医師が大切な話というときは大抵大変な話をするものだ。ちょっと不安。
医師からカルテを見せられ「ちょっとやっかいなことになった」と。その一言で全部分かった。医師の言葉の続きは必要なかった。カルテをとり、細胞結果を見た。オペ記録を見た。検査データを見た。「異型細胞に類似した細胞を多数認める。腺癌を疑う。」とあった。あがい〜!だいっずなむぬ〜!!(嗚呼!大変なこった!!)気持ちがすーっと冷静になっていった。父はこの事を知らせていたんだ。なぜかそう思った。
ろうばいす (うろたえる)夫に説明する。白じゃないけど黒でもなく、より黒に近いってことかな?!と。なんでこんなに他人のことのように話せるんだろう・・・。とにかくなんとかしなくては・・・。すぐに再手術の申し入れをし、年明けの1月9日に予定された。しかし、どうもしっくりしない。セカンドオピニオンという制度をつかって、都内の癌専門病院での受診も希望した。あらゆる資料を持って受診したが、答えは開腹して組織を調べないと断定できないとのことだった。まわりのアドバイスの力を借り専門病院で手術をする覚悟を決め予約を入れた。
暮れが迫った晦日の日に退院となり、年明けからすぐ職場に戻った。働いていた方が のーまい かんがいだ らく あたー(何をも考えなくて楽だった)。腺癌だったら一年もつかな・・・。暇になるとそんなことばかり考えていた。二月になり、専門病院から部屋が空いた電話が入った。いよいよだ。入院前日、「神様があなたの人生はこれまでです。と言ったらその通りでしょう。でも、もしも、生きていくことを許されるなら私は白衣を着てここに戻ってきます!」とスタッフに挨拶しながら胸がいっぱいになった。
手術は二度目とのこともあり、淡々と迎えることができた。しかし、術後イレウス(手術のあとの腸閉塞)は苦しかった。ぱな(鼻)から腸の内容物を流出させる管が入っているにも関わらず、時間ごとに ふつ(口)から吐き出される胃液や胆汁・・・まるで青汁・・・。青汁なんか一生飲まないからね!!と心から思った。吐き気と心労で にゅーわいん(眠れない)夜が続くなか、私の求める答えははただ一つ。癌か、癌じゃないのか。死ぬのか、生きていられるのか・・・。毎夜、悶々と宙に問いかける。
ある夜、お坊さんが夢に現れた。穏やかな顔をして、静かにこう言った。「焦らないで、待ちなさい」私は目を開いていた。お坊さんが笑ったように見えた。術後初めて不思議な うむやすさ(安らぎ)を感じた。焦らないこと。待つこと。自分にもそう言い続けた。ようやくイレウスも治まり、流動食がでた。術後初めて口にする重湯はほんとにおいしかった。乳児が生まれて初めて口にする離乳食はこんな感じなのだろうか、そう思いながら、一口一口味わって頂いた。
気持ちにも余裕がでてきた。本も読んでみようという気力がでてきた。私の勤務先の病院に、実習にきていた医学生が置いていったという本を、教授が病棟に下さったのをこっそり持ってきていた。クラシック曲や新良幸人パーシャークラブ「vol.02」というCDと、ミヤギマモル・やいまというCDも持ってきていた。
本を開いてみて、心底驚いた!袈裟をまとった著者紹介の写真は、夢にでてきたお坊さんと同じだったのだ。(「禅僧が医師をめざす理由」対本宗訓著)なぜこの本の中のお坊さんが夢にできたのかは、未だに分からないが「焦らないで、待ちなさい」との穏やかな声と言葉は、術後も検査の連続であった私を励ましてくれたことには間違いない。
手術の結果は二週間めに言い渡された。私の担当の研修医が ばらいみぱな(笑顔)で部屋に入ってきて「大丈夫でしたよ!」と大きな声で言った・・・。それまで一度も泣けなかった私は うぷぐい ゆ いだっし(大きな声を出して)泣いた!周りから拍手が起こった。そうだ。ここにいる方たちはみな癌と闘っている方たちなのだ。
「すみません。私だけ・・・」もう言葉が出てこない。「卒業おめでとう!一人でもここから卒業できるんだから嬉しいねー」と自分の事のように ぷからずぎ(喜ぶ)お部屋の方々。私は てぃんがなす(天の神)から生きていることを許された。まだ生きていていいんだ!そう思うと、なにもかもが あたらすむぬ(愛しくて)、たんでぃてぃぬ くとぅ(ありがたかった)。
医師の説明によると、前回の結果はあまりにも炎症がひどかったために、細胞が変化し癌細胞に酷似していたとのこと。前回の手術の時の標本も提供されたので、何度も調べ直したとの事だった。いんしーぬ くとぅるがー(そうなのか)!私は二度も ぬつ(命)を救われた気持ちだった。
あれから数年が経った。私は12月になると、「再生」ということを頭に描く。再び生き直すこと。過去は変わらないけど、今ここからの未来は変わる。いつも自分にそう言い聞かせる。
私はたくさんの ぴるます(不思議な)出来事を経験し、今も元気でいる。見守られているんだと思うこと以外、なにに感謝をしていいかわからない。私が元気だと家族も元気だ。また、新たに前を向いてこの感謝を返していくこと・・・。いつもそう思う。
ぴるますといえば・・・入院中、新良幸人さんのCDにも何度も力づけられた。最近になり、その新良幸人さんの歌をライブで聞けるようになったことも、偶然にしてはありがた過ぎる。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
さぁー、今回初めて「ぴるますぱなす」特集というのを組んでみました。どれをとっても、とても信じられないような話だったと思いますが、のーしがやたーがらやー(いかがだったでしょうか)?
私は今年になって生まれて初めてそんな経験をしたので、面白いなーと思い、ライターの何人かに聞いてみました。そしたら、みなさん結構、いろいろな経験をしているのがわかり、特集しようと思ったのでした。
ひさぼうさんの人の名前を当てるのにも、びっくりですよねー。しかもそれが口からスルスルと出てきたというのだから、まーんてぃぴるますむぬど〜。宮古は波動が高いというのは、なだか分かる気がします〜。
あば本舗さんがはだしで与那覇湾沿いを走る姿を想像すると、本当に宮崎駿監督のアニメにでてきそうな感じがしますね〜。やっぱり、宮古にはあの世界が んざがらーんありゅーぱず〜(どこかにあるんだはず〜)。お兄さんがあば本舗さんの居場所を分かったのもまた ぴるますむぬやー。
神童たちが見たという黄色い物体!それはいったい のーがやたーがら(何だったのでしょうか)?それを見てからの自分でも制御できないような不可解な行動。謎に包まれていますねー。でも、人間と月は、きってもきれないものがあるんだはずね。
菜の花のものにも ぴるますくとぅぬ(不思議なことが)やまかさ(いっぱい)でしたねー。そして、一連の出来事が今の菜の花の生き方に色濃く出ているのが分かる ぱなす(話)だったのではないでしょうか。
はぁー(深ーいため息)、この世界は、ホントにぴるますことに満ち満ちていますね〜。でも、それはきっと悪いことではなく、すごく良いことのような気が、今回特集をして感じました。
ライターの皆さん、貴重なお話たんでぃがーたんでぃでした!
あなたも、ぴるます経験をしたことはありませんかー?今回の特集を読んで、そういえば!と思い出した方、ぜひその話、書いて送ってくださいませんかー?また、やまかさ集まったら、特集を組みたいと思います。どうぞよろしくお願します。
さてここで、少し宮古や那覇からのおみやげ話がまをもしましょうねー。
11日に東京に戻りました。
宮古では5日に、那覇では10日にオフ会を開き、読者のみなさんやライターのみなさんと集まり、本の出版を まーつき(一緒に)喜びました。宮古では、カニさんが「くまかまあーぐ」を。那覇では、クイチャーマンさんが「くまかまクイチャー」をそれぞれ自作して披露してくださり、それをみんなで歌いました。まーんてぃ ぷからすむぬやたん。那覇では、ボーダーインクの新城和博さん、金城貴子さんも参加してくださり、本にまつわる話も聞かせてくれましたよ。参加してくださった皆さん、たんでぃがーたんでぃでしたー!お礼申し上げます。
それから、くまかま本の置かれているところも見てまわりました。(笑)最初に宮古のブックボックスに行ったのですが、レジ前に平積みにして置いてあるのを見た時は、だいず感動しましたねー。なかなかの売れ行きのようでしたよ。(笑)
沖縄教販宮古店でも、展示に力を入れてくれていて、ぷからすむぬでした。これからもたくさんの方に手にとっていただくべく、くまかまも頑張っていきたいと思っています。読者の皆さんも宣伝をお願しますね。
すとぅがつ(お盆)に帰ったのは久しぶりで、お盆の買い物をしたり、かんたな(仏壇)の掃除をしたり、飾りつけをしたり、料理を作ったり、親戚回りをしたりしました。この時は、宮古がぜーんぶお盆一色になる感じで、あっがいたんでぃ〜、スーパーなどお盆の買い物をする人の多さ、賑やかさ、うどぅるき゜たー(びっくりでした)
親戚回りをして思ったのは、かんたな(仏壇)を世話をする人の世代交代でした。んにゃ、ばんたが世代んどぅ なりきしーうーさいが(もう私たちの世代になってきているんですね)。私の従姉妹も親や親戚にならいながら一生懸命、お盆のことをやっていました。
三度三度の食事に、ちゃーぬちょうき(おやつ)、やるのは大変だけど、でも、ご先祖様をお迎えしてもてなす心は、素晴らしいですね。私の東京の家にも松谷の母の仏壇があります。改めて、宮古の人たちのように大切にしていこうと思ったのでした。
宮古に帰ると、気持ちがゆるーくなって、とってもラク〜な気分になります。さぁ、充電満タン。これからも頑張っていきまーす。お世話になったみなさん、たんでぃがーたんでぃでした〜。
今号の感想、お便りも楽しみにお待ちしています。
どうぞ、投稿もお気軽になさってくださいね〜。
あつかー、まちうらっとー(では、待っていますねー)
次号は、三週間後9月7日(木)発行予定です。あつかー、またいら。
がんずぅやしー うらあちよ〜。