こんにちは!
東京は、柿の実も色づいて秋の色が濃くなってきました〜。うわがとぅくまぬあきゃーのーしーがらー?(あなたのところの秋はいかがですかー?)
くまかまをじっくり読むのにぴったりの秋です。
さー、くま・かま vol. 133ぱずみっと〜(始めますよ〜)
かなす あぐぬき(愛しい友たちよ)
菜の花(伊良部町出身)
9月16日、伊良部中学校卒30周年大同期会が予定されていた。
その前日、時速10キロという自転車より遅い台風13号と競争するかのように、ゴールの宮古を目指して飛行機に乗った。何とか無事に宮古に着陸。
ところが・・・平良港には伊良部行きの船が一隻も見当たらない。フェリーの切符売り場の窓口は閉められ、高速船「はやて」の事務所も仕事をしている雰囲気じゃない。
のーしーぬばあがら (なんでだろう)。聞くと「全便欠航」と。しかも、あつぁまい(明日も)船が出せるか分からないと言う。同期会はどうなるわけ?
あがい〜!(嗚呼)島は見えるのによ〜。港を立ち去れないまま、母と初美に電話する。そぅ(潮)の上を歩いて帰っておいで〜。タライに乗って漕いで行け〜。下地島に飛行場があるからプロペラ機をチャーターやれ〜。と、冗談とも本気とも取れないエールが返ってきた。
電話でさんざん愚痴をこぼして、ようやく諦めてホテルに向おうとしたそのとき、「船で迎えに行くからそこで待っておけ」と同期からの電話。パイナガマの防波堤で待つよう言われても場所が分からん。同期の指示で見ず知らずの若者が車で港まで迎えに来てくれた。言われるまま車に乗り防波堤に着く。迎えに来た小型船に乗り、いざ!伊良部へ!
しかし、船が動き出してから台風が接近していることを思い知らされた。高波で船は変速ジェットコースターになり、諸々の内臓が ばた(腹)の中でカチャーシーを踊りだす・・・
あっがい!アララガマ!(なんの!これしき!)
船は島影で風を避けながら、佐良浜港の端っこの防波堤に着いた。波で船体が壁にぶつかり、壊れそうな鈍い音が聞こえる。外に出ると干潮で地上は遥か上。ここまできたら何だってどうだっていいさ〜。船の屋根によじ登り、防波堤で待つ同期と思われるおじさん顔の人に助けられ上陸を果たす。
長い年月は人の外見をも変えるものだ。私にはお礼を言うべき同期の顔が分からんかった・・・。名前を呼ばれてじーっと顔を見て、やっと面影を見つけ再会を喜んでいると、いきなりの強風と大雨。何とも劇的な再会の始まりだった。
思ったより大型の台風で、予定されていた同期会は延期。平良では 30名近い同期が足止めされ、丸勝ホテルを貸しきって前夜祭だと電話が入る。17日、ようやく台風一過。この日は伊良部中学校の運動会で、私達28期生も参加することになっていた。
お昼頃、集合場所の校門前に次々と あぐ(友)たちが集まってきた。この日のために準備されていた黄色いシャツの袖には校章が、背中には生まれ干支の「子」の文字がプリントされていてかなり目立っていた。
一人やってくるごとに、歓声が沸き起こり、姿はおじさん、おばさんでも気持ちは中学生だった。車座になって弁当を食べているのは、誰がみても遠足風景だ!そうこうしている間にも次々と到着する あぐ(友)たち。総勢102名になった。
懐かしい校庭に全員が整列して見守る中、同期会会長から校長先生に寄付金贈呈がされた。校長先生はお礼に「僕らはステキな同級生」との歌を歌ってくださった。歌詞の内容に当時を思い出して感涙する者もいたくらいだった。
予定外の全員参加のクラス対抗リレーは爆笑の連続で、校歌遊戯は在校生の後ろに並んで踊った。あの頃踊りもしなかった(元)男子生徒も必死で踊っていた。誰もが楽しんで参加している様子だった。嬉しくてみんなで校歌を歌いながら踊った。在校生徒数は約90名。同期会参加者は102名と、揃いの目立つTシャツ効果もあって在校生を圧倒していたらしい。運動会は同期会のために開かれたものと勘違いしていた人もいたくらいだ。こうして、28期生の伊良部中運動会乗っ取り事件はおばあたちのちゃー(お茶)飲み話に一役かった。
これで終わる伊良部同期会じゃない。翌日は中学校体育館でソフトバレーの試合に白熱した。気持ちは中学生でも、哀しいかな体は中年であることを避けられない。爆笑の連続で一汗かいた後、佐和田の浜でバーベキューを楽しんだ。島の味を たび(島外)にいるあぐたちに味わってもらいたい一心で、伊勢海老をたくさん用意してくれたあぐもいた。島で獲れた魚やエビはどれも かばすかざ(いい香り)がして、あぐの気持ちと一緒に ばたごーばたごぉ(腹いっぱい)になった。
夜になり、あぐの一人が下地島飛行場の滑走路を見れ〜と騒ぐ。みんなで目を向けたらば、なんとのばあーか!(何ということだ!)真っ直ぐ海に延びる滑走路のライトが全灯し、光の波が右に左に流れ出した。暗い海上を飾るイルミネーションは見事な光景だった。
ライト点検とか、歓迎のライトアップとか言ってるけど・・・誰かまた何かやらかしたんじゃない?!そう思いながらもだいず(凄く)ズミ(最高)なあぐたち!と拍手したくなる。胸もいっぱい、お腹もいっぱいで、なんと言っていいかも分からん。
ただただ、たんでぃがーたんでぃ〜・・・なだ(涙)がじわ〜と溢れた。
みんなで笑って、一緒にいられるだけでも幸せな時間だった。きょうだいのように育ってきた島のあぐたち。潮騒の音、心地良い海風、響くあぐたちの笑う声。私はこの島の、このあぐたちと仲間だったことを誇りに思った。
かなすあぐぬき(愛しい友たちよ)いつがみまい(いつまでも)がんずぅー(元気)でいようね。また、いつか必ず島で会おうね。
寝付くことがなかなかできない程、胸がいっぱいになった同期会の日々。私はまた宝物を島で見つけてきた。
下地小の校歌の作曲者はだ〜れ?
クイチャーマン(下地町那覇出身)
数年前、母校・下地小学校の校歌と、城辺のどこかの小学校の校歌のメロディーが同じであることを知り、ぴるますむぬ(不思議なことだ)と謎めいた話に興味を抱いた。しかし、その後何の行動も起こさず歳月が流れていた。
この夏、下地小学校の生徒が県内外のスポーツ大会で活躍。男子ミニバスケット部は県大会を制し、全関西大会でも優勝、校歌も歌われたりしたというのを知り、この機会に謎を解く作業に取り掛かることにした。
8月、職場の夏季休暇の平日、まず城辺小学校に電話をかけた。私達が6年生のころ徒歩による修学旅行の際、教室にムシロを敷いて泊めてもらった学校である。池田教頭が受話器を取られたので、名を名乗り、ばーしもじぬゆなぱ(私は下地の与那覇)出身と方言で告げ、事情を説明した。
「じつは、下地小の校歌は大正13年にできており、作詞者は当時の下地の訓導(くんどう=旧制小学校の教員のこと)で比屋根安英という人です。しかし作曲者が分かりません。当時作曲できる人を探したが見当たらなかったため、沖縄師範学校の寮歌のメロディーをそのまま使ったと言うことが、下地小の100周年記念誌の座談会の中に出ていて、下地小がそのようにしたので、その後宮古の何校かが同じように寮歌の節に乗せて校歌を作ったとあります。その学校が城辺にあったという記憶があり、電話しました。お忙しいところ恐縮ですが、いろいろ教えてください」
さらに私は続けた。
「そこで、先ず私が下地の校歌を歌いますので、城辺と同じかどうか聞いてください」私は、確認の方法はこれしかないと思い、少し姿勢を正し、せき払いを一つしてから恥を忍びつつ「♪仰げば高し野原岳 清きながめの与那覇湾・・・」と一番を歌った。池田教頭は「ちがいますねー」と返事したので、私は少し落胆しながらも、このまま引き下がるわけにはいかないと思い、「すみませんが、先生、ちょっと歌ってみていただけないでしょうか」とお願いした。「え?・・・」しばらく間があってから「じゃ、・・・」とまた間があって歌ってくださった。見知らぬ同士が電話口で校歌を歌いあったのは、地球の歴史上初めてではないかと、私は感動しながら聞いた。「やはり、違いますね。どうもありがとうございました」礼を述べたあと、城辺にある他の小学校名と電話番号も教えていただいた。
2校目の西城小学校では女性で音楽担当の山里先生が電話を取られた。事情を説明すると、山里先生も興味を示され「じゃあ、まず私が歌ってみましょうね」と言い、明るく伸びやかな声で歌ってくださった。「違いますねぇ」と答えて、私は下地の校歌を歌った。上手下手は別として、この場合は聞いてもらうのが礼儀だと思ったからである。私の歌も池田先生のときに比べると、落ち着いて幾分うまくなっている気がした。
3校目、福嶺小学校の電話に出たのも謝敷先生という女性だった。声の表情から山里先生よりも大分若い感じだ。事情の説明の途中で、謝敷先生が嬉しそうな声を発した。「あ、はい!うちは下地と同じです。前任校が下地でしたから、私もびっくりしましたよ。あの、ジャンカジャンカ、ジャンカジャン・・・と歌いますよね」先生は前奏のメロディーを口ずさんでくれた。私は歌う必要が無くなった代わりに、探しものをこのような形で発見した喜びを謝敷先生と分かち合った。作曲者については謝敷先生も分からないというので、何か分かれば教えて欲しいとお願いした。
福嶺が下地と同じだと言うことがわかり安堵し、私の次の関心は作曲者は誰なのかということに移った。あんしばどぅ(そういうわけで)城辺のもう1校、砂川小学校にはまだ電話をしていない。
その後、手がかりを求めて再び福嶺小に電話したら、川上教頭が電話に出られ「私も先日聞いて、そんなこともあるんだねと思っていたところです」と言う。謝敷先生が話したようである。数日後、川上教頭から我が家にファックスがあり、詳しいことは下地肇さんに聞くと分かるはずと、下地さんの電話番号を教えてくださった。
早速連絡を取った。下地さんは福嶺小の創立70周年のころのPTA会長だったこと、70周年記念誌を出し、それに校歌も掲載したとのことであった。そして記録によると、福嶺小の校歌は大正13年に制定され作詞・作曲とも森山盛誠となっている。森山先生は大正13年3月まで同校の校長であった。同年の10月、福嶺では盛大に校歌制定記念の第1回運動会が開かれている、と教えてくださった。
下地小の校歌も大正13年に制定されており、福嶺と同年であることも分かったが、作曲者が特定していることは下地小の座談会の内容と符合しないのが気になった。
私は沖縄師範学校の寮歌を探し、その作曲者を調べることが肝要だと思い、インターネットで沖縄師範学校を検索してみたが寮歌のことは解明できなかった。ひめゆり平和祈念資料館に問い合わせファックスしてもらった寮歌の楽譜は女子師範学校のもので違う曲だった。
そして、ついに「現段階では作曲者は不明である」と私は納得して結論付けた。
その根拠は沖縄県立図書館の蔵書検索で1980年11月に発行された沖縄師範学校の100周年記念誌『龍譚百年』(沖縄師範龍譚<りゅうたん>同窓会編)の存在を知り、それを借りて確認したことによる。同誌には、グラビア写真の次に、校歌と寮歌の歌詞と楽譜が掲載されている。寮歌の音符を指先でなぞりながら、ハミングしてみた。それは下地の校歌と同じであった。この原曲に逢った瞬間の感激を忘れることはないだろう。
しかし、寮歌の楽譜の右上の余白には「作詞 古谷莞爾 作曲 不明」と書かれていた。今度こそ作曲者が判明するに違いないと期待していただけに残念であった。作詞の古谷莞爾(かんじ)は元は泉莞爾であるが改姓しており、同校の物理の先生である。
校歌の制定は昭和15年となっており、それよりも早い大正3年に寮歌が作られている。(なんと寮歌の歌詞は12番まである)その10年後に下地の校歌が寮歌の節にのせて作られたことになる。下地小の創立は明治19年(1886年)である。ちなみに教員養成を目的とした沖縄師範学校は、明治12年に明治政府が廃藩置県を施行した翌年、明治13年(1880年)に設立され、昭和20年(1945年)の終戦とともにその66年の歴史に幕を閉じている。
新たな情報をと『龍譚百年』をめくっていき、最後のページの編集後記の末尾で、編集委員12名の中に伊良部出身で浦添市文化協会の活動で懇意にしている富浜定吉先生の名を見つけた。一縷の望みを託して先生に電話をかけた。
「自分は同窓会の事務局にも10年余りかかわっていたので、当時も、また記念誌の編集のときも作曲者を調べたが、結局分からなかったんだよ。おそらく明治のころに作られた古い曲なんだろうね」とおっしゃった。そして寮歌も歌ってくださった。福嶺小で校歌の作曲者とされる森山盛誠については、沖縄師範の同窓名簿にはないと言い「彼が作曲者というのは間違いでしょうね」とのことであった。
こうして、母校の校歌にまつわる私の調べものは、1ヵ月半でひとまず終わることにした。残された課題は、作曲者探しの継続と宮古島や県内に、ほかにも下地と福嶺と同じ曲の校歌の学校があるのかどうか調べることである。それにはもっと時間をかけたい。
私は下地と福嶺が、同一曲の校歌の学校として特別の友好関係を築いて欲しいと願っている。そして今回の私の取り組みにご協力くださった多くの方々にまーまーとぅ(いっぱい)感謝したい。たんでぃがーたんでぃ(ありがとうございました)
なお、下地小学校の校歌は「宮古島市立下地小学校」のホームページで生徒の斉唱で聞けることもわかった。うばいがうばい(すごいすごい)。また大阪に明治6年創立の豊橋市立下地小学校があるのも分かった。うむっしむぬいら(面白いことだね)。
お父がうむい(想い)
松谷初美(下地町出身)
私が子どものころのお父は、怒るとだいず やっう”ぃ(怖い)お父だったが、年を取ってだいぶ やぱーやぱ(柔和)になり、ずいぶんとイメージが変わってきた。
この夏、家族三人(夫と息子)で帰省した際、まーつき(一緒に)農業をしている兄も交えて酒を飲んだ。
お父は最近体の調子がよくないこともあり、晩酌もしなくなってきているようだが、この日は、ぷからすきなり(うれしそうに)皆と泡盛を酌み交わした。
ふだんは、あまり自分からしゃべることはしないが、お酒が入ると、饒舌になってくる。
話しは、なぜか、私たちの結婚のころの話になり(東京に娘を出したくない父親は、私たちの結婚に大反対をした)、「あの時は、大変だったけど、こうやって帰ってくることをお父はうれしく思っているー。でも、いらないと思うことがあったら、いつでも(娘を)返していいからね、T(夫の名前)」という。おいおい、お父、何を言うかよ。今でも娘の帰り(返り?)を待っているわけ?夫はそばで苦笑いである。
いい調子に酔っぱらってきたお父は、突然「宮古には、上等歌があるから歌おうねー、歌ってもいいか?」と言って「新かぬしゃがまよ」(作詞:国吉源次)を歌い始めた。
♪うわが くとぅうゆ あてぃ うむうやしどぅ っしゅたる ずぅゆまい ゆみうたる あやうまい ばすきにゃんにょー かぬしゃがまよー あなたの事を想いすぎて 知っていた字も読んでいた文も 忘れてしまったよ 愛しい人よ
三線は弾かず、酔った体を右に左に揺らしながら、お父は、身振り手振りを交えて感情を込めて歌う。
♪んみや ななんみ すぅくや ななすぅく くいなりくばよ かいしふぃなよ むどぅしふぃなよー かぬしゃがまよー 七つの山、七つの谷を 越えてくるから 帰すことはしないでね 戻したりしないでね 愛しい人よ
私はこれまで、こんなふうに歌うお父の歌を聞いたことがなかった。沖縄芝居でセリフのような歌を歌う場面をよく見るが、まるでそのような感じである。もしかしたら、昔よく歌われたトーガニは、こんなふうだったのだろうか。
お父は、私たち夫婦に対して歌っている。こんな気持ちで一緒になったんだろうから、いつがみまい ばっしゃーならんどー(いつまでも忘れるなよ)と。言葉には表さない、お父のうむい(想い)の深さを知り、目頭が熱くなった。
調子に乗ったお父は、その後も歌詞を まんちゃーくんちゃーしながら(まぜこぜにしながら)居眠りするまで歌っていた。
私たちはそんなお父を見るのが、可笑しいやら、うれしいやら。
私は、この日のお父の姿をずーっと忘れることはないだろうと思う。
あつーあつぬ(暑いあつい)夏の夜は、やぱーやぱになったお父の歌で更けていった。
豊年ぬクイチャー どぅかってぃ解説
マツカニ(上野出身)
今回はクイチャーの中でも「漲水ぬクイチャー」と並ぶ有名どころ「豊年ぬクイチャー」を取り上げます。
これは、「のおずゆーぬクイチャー」と読みます。
この唄は3番の歌詞でわかるように、久松でできたものが全島に広まったと思います。似て非なるクイチャーが島中にあり、その代表格の一つに数えられると思います。
「豊年ぬクイチャー」 1 のーす゜ゆうぬ あみよ とぅーかぐいや ながさ いつかぐい むゆかぐい ふりどぅ みぐとぅ (ソー ニノヨイサッサイ) 豊かなる年の雨よ 10日越えは長すぎる 5、6日越しに降ってこそすばらしい 2 くぬクイチャーぬ いでぃたりゃどぅ くとぅすゆーや なうれ やーにがゆーや まさりなうらし ばたんたし このクイチャーで唄い踊ったなら 今年は実り多き年になってくれ 来年は更に実って腹を満たしておくれ 3 まやまざーぬ うぷどぅふき ゆーなうらでぃぬーがら すまや ふたぱら うすぅい なゆす゜かぎさ マヤマ広場の大きなデイゴの木が実り多い年を暗示しているのか 島は2原(久貝と松原)覆って 枝もたわわにゆれて美しい 4 あがりんみゃーす゜つき゜がなす やーぬくびゅーどぅ てぃらさます゜ まんみん うらます゜つき゜がなすっさ まんみゅどぅ てぃらさます゜ 昇りくるお月様は 家の壁を照らされます 真上にいらっしゃるお月様は 真上を照らされます 5 あらやぬんまたが みなかんどぅ あかんん ふにす゜ぬ すだりゅんどー ずうゆがずうゆ にかがゆーや うりむす゜ だんかーよ 新家(屋号)の おばあの家の庭によく熟れたみかんがすずなりにぶらさがってるよ さあ行こうよ 今晩はそれをとる相談だ 6 ふにす゜ゆ ぢゃーんどぅ むらってぃぅす゜よ かばしょうぢゃーんどぅ かばってぃうす゜よ うまぬ やーぬ ミガガマゆ ぴとぅゆー だきみいば みかんさえ 盗ろうとしている 匂いさえも嗅ごうとしているんだもの (どうせなら)そこの家のミガガマを 一晩抱いてみたい 7 ぴとぅゆーだきば ぴとぅたーら ふたゆう だきばー ふたたーら みす゜ゆーだきば みす゜たーら たーらやぴだつ 一晩抱いたら1俵 二晩抱いたら2俵 三晩抱けば3俵 俵で壁ができる
(どぅかってぃ解説)
雨乞いぬクイチャーともいわれるこの唄は、豊年をもたらす雨が降り、食うに困らぬ実り多い年が来ますようにという願いが込められた唄です。
マヤマ座と呼ばれる広場のデイゴの木が枝もたわわにそよいでいるのを見て、豊年のきざしを感じるあたりは、楽観的な気質がかいまみえませんか?
横からは横を照らし、真上からは真上を照らし、すべて平等にお見通しのお月様が豊年をもたらしてくれるーお願いしますよお月様という気持ちだったんでしょう。
5番からは雰囲気がガラリと変わりますが、このクイチャーを唄い踊る中で生まれたんだと思います。
おいしそうなミカンをなんとかせしめようと相談していたが、どうせならあこがれのミガガマを一晩抱いてみたいという話になる。もしも実現すれば何物にも代えがたい喜びなんだけど、強いていうならば収穫の喜びや達成感などを重ねて俵という表現になったんだと思います。
雨を乞い願いながら時を忘れて唄い踊った事でしょう。苦しい現実はあるものの前を向いているのは豊年のあやぐにも通じるところです。
三線はそう難しくはありませんが、リズミカルに弾くことを心がける必要があります。国吉源次ばりに さぁいってみよう。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
今年もアッと言う間に10月ですねー。
先月23日は、東京の新宿でくま・かまのオフ会をやりましたー。遠くは名古屋から参加してくださる方もあり、総勢20名で楽しい時間を過ごしました。普段は掲示板などで交流していますが、掲示板と実際に会った印象はいかに?(笑)参加された方のそれぞれの感想の書き込みがまた、うむっしでしたね〜。
ご参加くださったみなさん、まーんてぃ たんでぃがーたんでぃでした!またお会いできるのを楽しみにしていますね〜。
さて、さて、vol.133 のーしがやたーがらやー?
菜の花の「かなす あぐぬきー」は、テレビカメラが中継してくれているかのごとく、イキイキとリアルに伝わってきましたね〜。飛行機が飛んんだはいいが、船が全便欠航と聞いたときは、こっちまで大ショック。あすぅが、荒波を越えて迎えにくるなんてー!王子様?それともスーパーマン!?さすが、菜の花です。最後の「宝物を島で見つけてきた」の言葉に、彼女の気持ちがすべて、入っているように感じましたー。
私も下地小学校の出身ですが、校歌が沖縄師範学校の寮歌のメロディだったとは、すさったんー(知りませんでした)。福嶺中学も同じとは、またびっくり。姉妹のような感じがしますね。小学校の校歌は、ホントによく歌ったので、すごく愛着があり、んなままい(今でも)一番はソラで歌えます。クイチャーマンさんの作曲家を探す情熱はすごいものがありますね。またれに応えようとする先生方の真摯な姿も印象深いものがありました。校歌を電話口で歌いあうということは、まーんてぃ ないことだったはずね。クイチャーマンさんの情熱によっていつかきっと作曲家に行く着く気がします。
クイチャーと言っても、ホントにいろいろなクイチャーがあるんですね。大人になるまで「漲水ぬクイチャー」しか知らなかった私には、「豊年ぬクイチャー」新鮮でした。マツカニさんの解説を読むと、明るくて、前向きに歌い踊る、老若男女の姿が目に浮かぶようです。自分のところのオリジナルクイチャーがあるというのは、素敵ですねー。うちの部落には、独自のクイチャーがないので、身近な地名などが出てくるクイチャーいいなーと思いました。
今年も宮古では11月に「クイチャーフェスティバル」が開かれるそうです。次号ではその詳細もおしらせしましょうね〜。
今号のご感想、ぜひお寄せくださいね〜。まちうんどー(待ってますよ)それから、投稿はいつでも募集中。下記までお送りくださいね〜。
明日は、中秋の名月、十五夜ですね〜。 かぎつき゜(きれいな月)が見れるといいですね〜。
次号は、10月19日の予定です。あつかーまたいらー!