明けましておめでとうございます!今年もくまかまのことよろしくお願いしますね〜。
正月のくまかまはいつもとぴっちゃかーりー(少し変わって)、特集をお送りしています。
今年は、「思い出の歌」です。うわがっしゅうあーぐぁーあーでぃすびゃー?(あなたの知っている歌はあるでしょうか?)お楽しみくださいね。
♪支那の夜
ひさぼう(平良市西仲出身)
ぼくなんかの家族は宮古を離れて一時、台湾に住んでいたことがある。戦前、“大日本帝国”が中国大陸とか台湾とかに“領土”を拡げていた時代である。
ウチなんかの他に池村ヤーとか前里ヤーとかも台湾ではいっしょだったらしい。あと北海道から来た「コン(今)さん」とかオキナワから来た「ナガタ(長田)さん」とかいう家族もいっしょだったと思い出話のときに聞いたことがある。そうやってごく普通の家族が台湾に行って住んでおったらしい。
一歳にもならなかったから当時のことはなんにも覚えていないけれども、宮古に帰ってからもその名残りみたいなものがあった。(昭和20年の敗戦後間もないとき)
女、男、女、男、女の五人きょうだいだったけれども「ことば使い」がみんな違っておった。長姉が女学校、長兄が小学校を台湾で出ていたからその影響かと思われる。
上の三人は父親を「とうちゃん」と呼んで「共通語」でしゃべる。下の二人は「おとう」と呼んで「ミャークフツ」でしゃべる。母親に対してはみんなそろって「かあちゃん」と呼んで、長兄だけが「共通語」で話し、あとの四人は「ミャークフツ」でしゃべる。
長兄は、長姉と次女に対しては共通語でしゃべり、下の二人にはミャークフツで話しかける。上の姉同士は共通語でしゃべる。母親は亭主と子供全員にミャークフツで通し、父親は上の子供三人には共通語とミャークフツを取り混ぜてしゃべり、女房にはミャークフツをしゃべってごはんのときだけ共通語で「おかわり!」とか「少しだけ入れ」とか言った。下のこども二人にはミャークフツで話す。機嫌がいいときは共通語が入る。上の三人はお互いに共通語でしゃべり、下の二人にはミャークフツで話しかける。下の二人は家族全員にミャークフツでしゃべる、という具合だった。
また、次女は、上の二人をそれぞれ「ねえちゃん」「にいちゃん」と呼び、下の二人は「ねえね」「にいさん」と呼んでおった。下の二人は小学校に上がるまではミャークフツしか知らなかった。
小学校のときに先生が「宮古の人口は8万人です」と言っておった。ぼくなんかの家族みたいに“外地”に住んでおった人達が一斉に宮古に戻ってきたからで、今、宮古の人口は5万5千だから大変なふくらみ状態だったわけである。
して、なんで『支那の夜』かといったら、ぼくは宮古民謡のほとんど、『池間の主』『狩俣のいさみが』『豆が花』『なりやまあやぐ』『豊年の歌』とかなんかはぜんぶおとうがサンシンと唄で知ったんだけれども、その中に「支那の夜」が入っておったわけ。タンカ タンタン タカタンタン タンタカタンタン タカタンタン ・・というメロデイーがよくサンシンに合っておった。
おとうは酒は飲まないひとだったから毎晩のように弾いて唄っておった。だいたいが家の柱にもたれて弾いておったけれども、だんだん疲れてくると仰向けに寝ながら弾いて唄ってそのまま寝たりしておった。して、着物と さなぎ(フンドシ)姿だから、“たま”が見えたりした。
♪ うやが あつだに んたびさまらし (父の熱(あつ)き たまたま 手にとって 冷ませ) サッサ ハイヤ ア チッチ ア チッチ
というのはそういう情景でのこどもの唄だわけさ。
どういう気持ちでおとうが『支那の夜』を唄っておったかほんとのことは知らないのだけれど、自分としては台湾での生活やらベトナム、飛行機の整備工でベトナムあたりまで行っておったらしいから、おそらくそういう“外地”のことを思い出しているのだろうと考えておったわけ。
♪ 踊れ 踊れ 南洋の土人 色は黒いが 南洋じゃ美人 とか
♪ あんなにして こんなにして こどもができたのよ〜 とか
当時の“はやりうた(流行歌)”らしいものも唄っておったからまちがいないんじゃないかと思う。
♪ 支那の夜 支那の夜よ 港のあかり むらさきの夜に のぼるジャンクの 夢の船 ああ ああ 忘られぬ 胡弓の音 支那の夜 支那の夜
おとうがサンシンではいわゆるチャイナメロデイーはわからなかったけどそれが渡辺はま子の戦前(昭和13年)にはやった歌でありチャイナメロデイーだと知ったのはずっとあとになってからだった。「シナ」ということばは使ってはいけないと放送禁止にもなったらしい。
昭和47年、アグネス・チャンの ♪丘のうえ ひなげしの花が〜 が出たときはえっと思ってなつかしかった。バージョン・アップされた『支那の夜』にも聞こえたりした。
そういうわけで「思い出の歌」と言ったら『支那の夜』を思い出す。
※『支那の夜』作詞:西条八十
私の原点のような『しあわせの歌』
クイチャーマン(下地町那覇出身)
自分のこれまでの人生を振り返るとき、遠い彼方にありながらも、あるいはこの歌こそ私の生き方を決めたのではないかと思う歌が『しあわせの歌』である。ご存じの方も多いと思うが、歌詞は次のようになっている。
♪しあわせは俺(おい)らの願い 仕事はとっても苦しいが 流れる汗に未来を込めて 明るい社会を作ること 皆でうたおうしあわせの歌を 響くこだまを追って行こう (2,3番は割愛)
石原健治作詞・木下航二作曲のこの歌は、戦後10年にあたる1955年(昭和30年)に発表されているが、急速に全国に、宮古島までも広まったようだ。というのは、その翌々年、サニツの舞台(旧暦の3月3日に、与那覇部落が公民館の庭で仮設舞台を組み、芸能発表会をしていた)の青年会の寸劇のフィナーレで、将来への夢と希望を象徴する歌として斉唱されていたからである。
私は8歳のときその寸劇で「貧しい靴みがきの少年役」で初舞台を踏み、「おじさん、靴みがかせておくれよ」と声をかけたものの、酔っ払いのおじさんに蹴飛ばされて泣きじゃくるという筋書きで60秒ほど出演した。その酔っ払い役で、台本も手がけたのが10歳違いの兄であった。
宮古農林高校を卒業して青年会に入ったばかりの兄は、『しあわせの歌』と同じく昭和30年に発表された宮城まり子のヒット曲『ガード下の靴みがき』をヒントに、戦中・戦後の厳しく貧しい時代を生き抜いた人達と自身の青春を重ね合わせて台本を書いたという。その前年に病気で母を亡くし(享年48)失意の中にありながらも、兄は寸劇のフィナーレで、出演した青年たちと一緒に肩を組んで『しあわせの歌』を歌い上げた。自身への応援歌でもあったのだろう。
そのとき私も舞台の上に居たかどうか記憶していないが、稽古で何度もその歌を聞かされて曲を覚え、口ずさむようになっていた。幼い私の心にも、この歌を歌うと何かしら明るい希望が芽生えるように感じられた。平易で簡潔な歌詞で、現状を見つめ、みんなで力を合わせて明るい未来を切りひらこうと呼びかけるこの歌は、当時の人々を励まし、勇気づけたに違いない。
発表して2年ほどのこの歌が、宮古島の田舎の舞台で歌われていたことから当時の“うたごえ運動”の広がりが感じられる。ちなみにその前年の農高の文化祭は平良市内のオグデン会館を借り切って3日間開かれたという。私も平良まで見に行き、“股旅姿”や白いマドロス衣装で踊る兄の晴れ姿を遠くから眺めた思い出がある。その後、兄は教職につき定年まで勤めたが、教職員組合でもこの歌をよく歌ったという。木下航二の曲には他によく知られた『原爆許すまじ』(作詞:浅田石二)や『死んだ女の子』(作詞:ナジム・ヒクメット)などがある。
私は高校卒業後、就職先で労働組合活動やうたごえ運動にもかかわり、下地中の同期会や郷友会などふるさと関連の活動にも参加してきた。宮古民謡やクイチャーの普及のためにも活動している。微力ながら世のため、人のため、自分のためと、前向きに生きてきたつもりである。どのようなときにも、仲間を信頼し、みんなで力をあわせて、明るく楽しくと努めてきた。そのような生き方の原点にこの『しあわせの歌』があるような気がする。これからも大切な歌として歌い続けていきたい。
んなまー(現在は)指笛王国を建国し、その国王として、平和を願いながら指笛も響かせている。ちー、んーなしーうぷぐいばしい、あいじぃみゅー『しあわせの歌』を。(さあ、みんなで大きな声で、歌ってみよう『しあわせの歌』を。)
<参考>
『しあわせの歌』は2002年発売のCD
『労働歌ベストセレクションしあわせの歌』に他の20曲とともに
収録されている。(株・音楽センター製作 2500円)
ホテルカルフォルニア
naichar-shima(下地出身)
1977年1月7日、那覇発東京行き946便に乗り込んだ。飛行機は順調に飛行し、ほぼ定刻通りに東京国際空港に降りた。18歳の冬だった。
「オッゴエ!アバ!?アッガイピッシサ(どひゃー、さ、寒い)!」これが東京での第一声である。
何か目的があって東京に来たわけではない。宮古が嫌いだったのだ。とにかく島を出たかったのだ。でも何故かギターだけは持ってた。
最初に働いたのが、立川のレストラン喫茶「道」だった。まるで自分がこれからいく道を暗示するかのような店の名だ。
店は広くて、従業員もレストランと喫茶あわせて常に10人くらいはいたように思う。最初はウェイターをやらされたんだけど、なにしろ何もかもが初めてなもんで、トレイはまともに持てないわ、注文聞くとき「いらっしゃいませ、ご注文はなににするか?」などと訳のわからん言葉を話すわで、ウェイターはダメだという事で、結局カウンターの中に廻されてコーヒーの淹れ方、パフェの作り方、サンドイッチの作り方など教えてもらいながらなんとかやっていた。
その時しょっちゅう店の有線からながれてたのが「チャンチャカチャラ〜ンチャ、チャ〜ンチャチャラ、チャンチャカチャランチャチャン」アコースティックギターのアルペジオ奏法で始まるちょっと哀愁を帯びた、そう!あの名曲、イーグルスの『ホテルカルフォルニア』だ。
「エダオッタラハイウェイ、クーンミドゥンナヘー」と自分が聞えたまんま口ずさみながらプリン・ア・ラ・モードとか作ってました。
2〜3ヵ月後、店に新しく女性のアルバイトがはいってきたんだけど、背が俺よりでかくて、スタイルもすごくよくて、山口百恵に似てると他人はいってたけど百恵ちゃんよりずっとかわいくてキレイだった・・・気がする。
何故かその娘に気にいられて、ま、なんとなく付き合いはじめて、その頃にはカウンターの方はまかせられるようになってたから、俺が早番の時に彼女も合わせて早番にして、店の開店準備を二人でするんだけど、その時にもながれてくるわけよ、あの曲が。
「チャンチャカチャラ〜チャ、チャ〜ンチャ・・・・」もう店は開けないでこのままずっと準備していた〜いと思ったほどだったよ。あと、その時よくかかってたのがもう一曲あって、それは清水健太郎の『失恋レストラン』だった。正直言ってあまり好きじゃなかった。
結局その店は1年半位でやめてしまい、彼女ともささいな事でケンカして別れ、立川も引越し、吉祥寺に移り住み、また喫茶店でバイトするんだけど、そこでも「チャンチャカチャラ〜ンチャ、チャ〜ンチャチャラ、チャンチャカチャランチャチャン」とながれてくるわけさ。(う、辛いかも・・)
その当時、ディスコがすごい流行ってて、アフロヘアーとラッパズボンに憧れ、即、床屋に行きアフロにし、ジーパン屋でツギハギジーンズのラッパズボンを買い、昼間は喫茶店でバイト、夜は生バンドが入ってるディスコに通うという生活だった。(踊るよりバンドの演奏を聞きに行ってた)あと、インベーダーゲームも流行ってて雨後の筍のごとくあちこちにゲームセンターが出来てたな。ゲームはあまりしなかったけどね。
あれから早30年、どこで聞いてもあの『ホテルカルフォルニア』が流れてくるとあの時代、あの喫茶店、あの彼女の事を思い出す。「枝折ったらハイウェイ、来―ん女なヘー」今だに正しい発音を知らないおいらではある。
※『ホテルカルフォルニア』イーグルス(1976年12月に発表され世界的な大ヒットとなる)
ジャズ『テイク・ファイブ』を聴いた朝
松谷初美(下地町出身)
あれは、18歳(1978年)の夏の朝だった。
兄の部屋から き゜きゃーみーん(聞いたことのない)音楽が流れてきた。お腹の底にズンズンと入ってくるような、それでいてとても明るく、さわやかなリズム。サックスにピアノの音・・・んー、なんなんだこの曲は!思わず、ガバっと起きて、兄の部屋に飛び込んだ。
「この曲は何かー?」
「デイブ・ブルーベックのテイクファイブ。ジャズさー」
この時、私の頭に初めて「デイブ・ブルーベック」「テイク・ファイブ」「ジャズ」という言葉がインプットされた。
それまで、フォーク(さだまさし、かぐや姫、NSP、ふきのとう、森田童子など)が大好きでよく聞いていた。高校のクラスメイトの男子は、フォークギターを持っている人が多く(当時、高校に合格するとフォークギターを買ってもらうというのが流行っていた。私も5千円のギターを買ってもらった。けどちっとも上達しなかった)、曲のコピーをしたり、自分たちで曲を作って、文化祭で歌ったりしていた。そういえば、文化祭では、サザンの『勝手にシンドバッド』を熱唱して大喝采を浴びたクラスメイトもいたっけ。
そんな中でのジャズとの出合いだった。
私の兄二人は、何がきっかけだったのか、中学を卒業すると、洋楽に目覚め、うちには、その手のレコードが だう(たくさん)あった。ロックのサンタナや、ディープ・パープル。ビートルズなどがしょっちゅう流れていた。そのどれとも違う『テイク・ファイブ』がなぜこれほどまでに、私の心に深くに刻まれることになったかは分からないが、あの曲、あのリズムは、ばっしらいん(忘れられない)ものとなった。
そして、自分で給料をもらうようになって初めて買ったレコードがCBSソニーから出た「THE GREAT JAZZ COLLECTION」30巻だった。21歳(1981年)の時だ。デイブ・ブルーベックさえ買えばいいはずなのに社会人1年生は、大人ぶった。値段は ばっしにゃーんすぅが(忘れたしまったが)支払いは月賦だったと思う。デイブ・ブルーベックのほかに、マイルス・デイビスやベニー・グッドマン、渡辺貞夫などが入っていた。あすぅが(でも)どれを聞いても、私にとって『テイク・ファイブ』以上のものは にゃーったん(なかった)
就職1年目は、那覇だったので、生演奏でジャズが聴ける「寓話」というお店にもよく行った。その頃は、生演奏のあるジャズ喫茶が結構あった。
今は、レコードではなく、CDで『テイク・ファイブ』を聴く。ネットでいろいろ調べていたら、なんとこの曲は、私が生まれた1960年に発表されていた!これはきっと運命だったんだ!(いったいどんなよ?)というわけで?これから先も折に触れ、聴いていくのだろうなーと思う。
それにしても、兄たちから大いに影響を受け、いろいろな音楽を聴いてきたはずだが、兄たちのように楽器(兄二人は、ギターが専門)は、じぇんじぇんできない。数十年経った今も、私は聴くのが専門である。
※『テイク・ファイブ』デイブ・ブルーベック・カルテット同カルテットは、1951年に結成され、50年代末から60年代初頭にかけ大ブレイク。5/4拍子の『テイク・ファイブ』は、変拍子のジャズの代名詞とも言われている。
『おばぁ』との出会い
ビートルズ世代のサラリーマン(平良出身)
2003年2月1日。僕は仕事に追われていた。毎年この時期は年度末に当たり納期に追われいつも忙しい。この日も休日出勤のため家を出た。しかし、この日僕の足は会社へ向かうのではなく吉祥寺へと向かっていた。
その年の1月父の三回忌で宮古に帰郷していた僕は、滞在中いたるところで ぴるます(不思議な)歌を聞いた。ミャークフツで歌われているが民謡では無く今まで聞いたことの無い音楽。これが下地勇さんの歌との出会いだった。
その下地勇さんが東京吉祥寺のデパートでライブをするというのだ。僕はその日2回行なわれるステージの初回だけ見てから会社へ行こうという腹積もりで家を出た。
舞台に颯爽と登場した下地勇さんは、僕の予想とは違い たかぶにずみぎにしゃい(長身のハンサムボーイ)だった。しかし、歌い出すとガラッと印象が変わった。野太い声、激しくかき鳴らすギター。なによりそのミャークフツに圧倒された。
その曲は透き通るようなイントロから始まった、おじぃに先立たれたおばぁの悲しみを切々と歌った「おばぁ」という曲だった。
うう"ぁ のーてぃ ばんかい (あなた 何故) ぴらでぃてぃまい にゃーだな (さよならも言わず) ばぬー たふけーうつぎ さだりぴずがちー (私一人置いて 先に逝くの) ぴすぐりーぴず おじぃが みぱなゆ なでぃ (冷たくなる おじぃの 顔を 撫でながら) おばぁが みーから なだぬうてぃーぴず (おばぁの 目から 涙が落ちていく)
聞いているうちに涙がとめどなく流れてきた。こんなことは初めてだった。
涙は後から後から流れてきて止めようがなかった。
僕の中で何かが弾けた。故郷を離れて30数年、東京で生活するようになり忙しいサラリーマン生活の中で無意識に封印していた島での生活、故郷への思い、父に先立たれ一人病床に居る母への思い、いろんな思いがなだれを打っていっきに噴き出した。
結局、その日僕は2ステージとも見る事になり、昼からの仕事をキャンセルした。仕事なんかどうでもよくなっていた。この不思議な気持ちが何処かに ぴんぎぴらんよーん(逃げてしまわないように)勇さんの歌を聞き続けようと思った。勇さんのミャークフツに浸り続けようと思った。
この歌の素晴らしさは、悲しみを乗り越えてまた新たな希望に向かっていく「おばぁ」の再生の姿にある。悲しみだけではなく聞き終わった後、生きていこうという いず(元気)が湧いてくるのである。
ぴすかずや また すぎぴりー (時は過ぎ去り) すだすき ぱいかじぬ ふきーきしば (涼しい南風が吹きはじめる頃) おばぁや まがりーぴす°くすゆ むたぎぱずみ (おばぁは 曲がってきた腰を持ち上げはじめ) ふふぁぬきゃ んまがぬきゃ ばが みばかりいかだかならんち (子供達 孫達を見守っていかなくてはと) きゅうまい ぷからすきなり あまいーうー (嬉しそうに微笑んでいる)
この歌がきっかけで「くまから・かまから」に出会うことが出来たし、この歌を通して多くの人々と出会う事が出来た。正に『おばぁ』は僕にとって人生のターニングポイントとなる思い出の曲である。「おばぁ」と出会ってから4年が経とうとしている。父に先立たれた母も一昨年亡くなった。今頃天国で ふたーす°まーつき(二人一緒に)暮らしている事だろうと思う。
去年の11月、下地勇さんの「宮良長包音楽賞・特別賞」受賞の嬉しいニュースが飛び込んできた。応援してきたファンの一人として誇らしく思う。勇さんの歌は普遍的なテーマを扱った歌が多く人種や言葉の壁を超え大きな広がりをみせる力を秘めていると思う。これからの益々の活躍を期待したい。
※歌詞引用:下地勇作詞『おばぁ』(アルバム「天」より)
編集後記
松谷初美(下地町出身)
きゅうから すぐぅとぅぱずみ(仕事始め)という方も多いでしょうか。休みは、アッと言う間ですねー。正月は、いかがでしたかー?
東京に嫁いできてから22年。元旦は、やー(家)でお節を食べて、地元の神社にお参りに行くという変わらない生活をしています。でも、この変わらない生活というのもいいのかなーと最近思いますね。
さぁ、2007年も、みなさん、がんずぅ(元気)でいきましょうね。
さて、「思い出の歌特集」お届けしましたが、のーしがやたーがらやー?新年そうそう、思い出に浸るというのもなんですが(笑)、でも今年も、くまかまは懐かしい話し、満載でいこうと思っていますよ。
“歌は世につれ世は歌につれ”といいますが、本当に歌は、時代を映しますねー。今回は、歌を聴いた当時の年代の古い順におおくりしました。世相がくっきりと浮かびあがっているのではないでしょうか。
懐かしく感じたり、初めて知ったという歌もあったかもしれませんが、ひとりひとりのその歌に対する想いが伝わってきたのではないかなーと思います。
感想をぜひお寄せくださいね。そして、あなたも何か「思い出の歌」がありましたら、ぜひ投稿をしてください。よろしくお願いします。
くまかまでは、毎年のように新しいライターが仲間入りしていますが、今年も素晴らしいライターをお迎えしていますよ。3名いますが、徐々に登場してきますので、その都度紹介していきましょうねー。まず、ぱずーみぬ(最初の)登場は、ビートルズ世代のサラリーマンさんでした。掲示板では、歯切れのいい文章の中にあったかいまなざし、人柄がにじみ出る書き込みでおなじみです。どうぞよろしくお願いします。
[ビートルズ世代のサラリーマン]
1951年生まれ 平良下里出身 現在、埼玉県在住
さ、次号にも新しいライターさんが登場しますよ。どうぞお楽しみに。ご意見、ご感想、投稿は、下記まで。
あつかーんにゃ、きゅうやしまいっとー(それでは、きょうはこの辺で) 次号、vol.140(1月18日発行)でお会いしましょう〜。
がんずぅやしー うらあちよー(お元気でいてくださいね)
この一年も皆さんにとって上等一年でありますようお祈りしています。