こんにちは。ゴールデンウィークですねー。のーしがうらまずー(いかがお過ごしですかー)?
今回のくま・かまは、「子どもの日」の日にちなんで、やらびぱだぬかしーの特集をお送りします。
どうぞお楽しみください〜。
やらびぱだぬ かしー
カニ(平良出身)
カニゃー ぴさらぬ にしざと んまりだら(カニは平良の西里生まれです)やらびぱだぬとぅきゃー ばんたが やーや あかがーらぬ 木造やーやーたむ(子どもの頃、私らの家は赤瓦の木造屋でした)
いちばんざー(とぅくぬまーてぃまい あいじうずたむ)にばんざーうらざー ぷかんな とうう゛ぁ ぬどぅ あずたむ(一番座『床の間とも呼んでいた』2番座、裏座、外には台所がありました)
にばんざーんな かむたなぬどぅ ありってぃ しゅうぬ みーにつんなりちかー うつざぬきゃーがどぅ にばんざーん うぐなーり がふってぃびじ のーがら ぱなすゆしーうずたむ(2番座には神棚があり、お祖父の命日になると、親戚らが2番座に集まりぎっしり座り、何がしの話をしていました)
みなかぬ いずかたんな あみゅー たみうず タンクぬどぅ あずたむ(庭の西の方には雨を貯めるタンクがありました)みなかぬ にすかたんな ふず ぬどぅ あずたむ(庭の北の方には、便所がありました)ふずぬ ゆかあらんな ばさぎーまい あずたむ(便所の傍にはバナナの木がありました)うぬ ばさぎーやー なつんなずちかーばさなずぬどぅよーどぅ すだりなりうずたむ(そのバナナ木は、夏になるとバナナの実が沢山実っていました)
みなかぬ ぱいかたんな だいばん ばんちきろうぬ きーまい あずたむ(庭の南の方には、大きなばんちきろうの木もありました)なずぬばんずんな ばんちきろうぬなっずゆどぅ むずふぉーたむ(実の季節になると、ばんちきろうの実を採り食べていました)
ばんたがやーぬ ずーや んつから すたんどぅあり ふぐみうずたむ(私らの家の地面は、道から下の方にあって窪地になっていました)あみぬふりちかー うぬ ふぐみうず ずーんかい あみみずぬどぅ たまり カニたー うぬ みずたまずぬ なかんぱいじ あっぴうずたむ(雨が降るとその窪地には雨水が貯まり、カニらは、その水たまりに入り遊んでいました)のーぬ あすぴうどぅ しーうたずがら ばやー ばっしにゃーん(どんな遊びをしたのか私は忘れました)
やーぬ ぞーなぎんな うぷがずまぎーぬ あずたむ(家の門付近には大きなガジュマルの木がありました)うぷがずまぎーぬ すたー かぎんなりってぃ とぅなずんぬ あんがたがどぅ うぐなーり むぬゆんしーうずたむ(大きなガジュマルの木の下は陰になって、隣のおばさんらが集まりお喋りしていました)
ぴょーすんな あつーあつーぬ ぴーん とーりゆ あずく しゅうむまぬきゃーたがどぅ うぬ うぷがずまぎ−ぬ すたぬ かぎん ゆくいびじうずたむ(時には暑い日には、通りを歩くお爺さんやお婆さんらがこの大きなガジュマルの木の下の影で休み、坐っていました)がずまぎーぬ すたー すだすーすだすぬ ぱいかじぬど ふきぬきしーうずたむ(ガジュマルの木の下は涼しい南風が吹き抜いていました)
やーぬ あがずぬ かたんな とくるかむぬどぅ あずたむ(家の東の方には 屋敷神がありました)ばんたが やーぬ へいや んーな さんごいすゆどぅ かさび積みうずたむ(私らの家の塀は全部珊瑚石を重ね積んでいました)ばやー あんちぬやーぬ なすきしゃしー んまりきすたずとぅぬばーだらさーい(私はこのような家の末っ子として生まれてきたとのことですよ)
カニゃー うぬやーぬ うらざん にっう゛ぃうずたむ(カニはこの家の裏座に寝ていました)あってぃ カニゃー まいにつ いちばんざーんまい うらざんまい かやゆどぅ ぱりうずたむ(それでカニは毎日一番座にも裏座にも蚊帳をはっていました)かやゆ ぱらだかー がじゃんかい っふぁり すとぅむてぃなりちかー みぱなー あかてぃんてぃんし−うずたむ(蚊帳をはらなければ藪蚊に吸われ、朝になってみると顔には赤い斑点がありました)
ゆーん なりちかー カニゃー かやゆどぅ ぱり すとぅむてぃんなうぬかやゆ とずみたたみうずたむ(夜になるとカニは蚊帳をはり、朝にはその蚊帳を片づけてたたんでいました)カニゃ− かやぬ たたみんつがどぅ じょうずん なりってぃ あがいたんでぃ きつぎんどぅ たたみ うやからまい あんなからまい ぷみらりうずたむ(カニは蚊帳のたたみ方が上手になって、本当に綺麗にたたんで父からも母からも誉められていました)
んなままい うぬ たたむんつぁー んーな うぶいうずだら(今でもそのたたみ方は全部覚えていますよ)んなままい たーんまい まきらいんどー(今でも誰にも負けないぐらいですよ)かやぱりぬどぅ カニぬぐな(びー)やずたむ(蚊帳張りがカニの役割でした)
カニゃー やらびぱだぬとぅきゃーからどぅ にがらむぬやーたむどー(カニは子どもの頃から早起きものでした)すとぃむてぃしゃーか からどぅ うきってぃ 新聞配達まい しーうずたむ(早朝から起きて新聞配達もしていました)
カニぬ配達し あーきまーずとくるぁー あがずがーに しもやーぱだてぃ でぃぐち にーま あがずざと やーたむ(カニの配達して歩いて回っていたところは東仲宗根、下屋、羽立、出口、根間、東里でした)
新聞配達ぬ てぃまー 1ドル50セント やーたむ(新聞配達の手当は1ドル50セントでした)うぬ てぃまちんや のーんかい つこーたーべーや(その手当は何に使いましたかね)カニゃー うぶいうらんすがどぅ ぴょーすんな 映画代んかい つこーたーぱずや(カニは覚えていませんが、たまには映画の代金に使ったかもしれません)まんてぃ あんちーぱず(本当にそうかも・・・)
すとぅむてぃしゃーからどぅ うきってぃ カニゃー かちゅうまいぴぎうずたむどー(早朝から起きてカニは鰹節の削っていました)ういまいカニぬ ぐな(びー)やーたむ(それもカニの役割でした)
かちゅうゆ ぴぎ すとぅむてぃぬ たちじるんまい つこーたむ(鰹節を削り、朝のたち汁に使いました)たちじるんなかん ぴょーすんなとぅなかゆいじりばどぅ ういがどぅまたどぅ んまーんまやずたむどー(たち汁の中には時に卵を入れると、これがまた美味しい味でした)
カニゃー たーからまいどぅ たのまらりやすーやすーてぃ つこーらりうずたむ(カニは誰からも頼まれやすいらしく、使われていました)
「カニゆどぅ つかいんやらし」
(「カニを使いに遣らし」)
「カニ さきぬ うさいゆ かいきしふぃる」
(「カニ 酒のつまみを買ってきて送れ」)
「カニ みなかぬ がじまぎーぬ ぱーゆ ぽーきし ぽーきふぃる」
(「カニ 庭のガジュマルの葉っぱを箒で掃いておくれ」)
「カニ 障子ぬ かびずゆ とぅりかいふぃる」
(「カニ 障子の紙を取り替えておくれ」)
「カニ かむたなぬきーゆ とぅりかいふぃる」
(「カニ神棚の木を取り替えておくれ」)
カニゃー まいにつ あまからくまからどぅ ぱしりつこーらりうずたむよーかむど(カニは毎日あれこれと 走り使われていたようです)あんちぬくとぅぁー「やずぐまた」「あすぐまた」てぃ うむいうずたむ(このようなことは 当たり前に「やるべき」「あるべき」と思っていました)のーまい かんがいすーだなし はいよはいよ てぃ ぱしりつこーらりうずたむどー(何も考えずに「はい」「はい」と走って使われていました)
んなまぬ時代ぬ っふぁぬきゃーたー あっざだかー のーまい やーぬかしーまい すーんさいが(今頃の子供らは言わないと、何も家のお手伝いもしないですよね)あっざちーまい なんぞ すーんゆー(言ってもまあ手伝いませんね)
まんてぃ のーばしぬ ゆぬなかん なりうずがらやー(本当にどのような世の中になりましたかね)ばやー んにゃ しわーちゃーんどぅ しーうずどー(私は心配ばかりしていますよ)
かしー(手伝い)
神童(平良市出身)
うちは、農家でないので手伝いと言っても・・・・。時系列に羅列してみよう!
まみな拾い。塩汲み。がちゅん干し。石投げ。アンガスの餌やり。木工所の手元。釘抜き。亀解体。山羊の草刈り。密殺(兎、鶏、犬、山羊、豚、牛、馬)大工(型枠、鉄筋加工、内装、左官(砂泥棒を含む)、タイル貼り)埋め立て工事。電気工事。グラスファイバーのボート製作。水上ハウス建設。ガサミ漁。養殖漁業。重機オペレータ。重機修理。多いな!順番に説明しよう。
(まみな拾い)
豆菜拾いだな。要するにモヤシだ。大豆は収穫後に天幕に広げて天日で乾燥させるさーね。で、まーいぼう(回し棒)で すとぅにて(ぶったたいて)鞘と大豆を分離させて、平たい ばーき(ざる)で選別して、未熟な大豆を捨てる。すると、捨てた大豆が発芽してまみなになる。子供は、このまみなを拾ってきて食事の足しにする。割と楽な手伝い。
(うぷすぅ(海水)汲み)
幼稚園の頃、豆腐やーをしていた。早朝、姉と二人でバケツ1杯の海水を汲んでくる手伝い。石畳の急勾配の道を運ぶ。家に着く頃には半分になってるので、結局もう一回汲みに行かされる。重労働だ。
(がちゅん干し)
がちゅんとはアジの仲間の小魚。冷蔵庫がなかったので魚の保存方法は煮干し。茹でた後、天日で乾燥させる。猫に取られないように2階の屋上に干す。高所作業だ。でも、スズメバチに結構囓られる。雨が降ると大急ぎで取り込まなければならない。洗濯物の場合、濡れてもまた乾かせばいいさーね。でも、がちゅんは濡れると腐るので、遊んでても雨が降る前に取り込まないといけないんだ。約1週間くらい干して完成となるんだけど、食べながら様子を見るので完成の頃には半分くらいになってたりする。忙しいけど美味しい手伝い。
(石投げ)
子供らしい手伝いと思ってるだろ?これは、いすぅばい(砕石)工場をしていたのでトラックで集めてきた琉球石灰岩をクラッシャーという砕石機に投入する手伝いだ。
んびゃーいんってぃ っすぅきゃー こーふたー!(きついぞ、かなり!)
(アンガスの餌やり)
実は養豚業もしてたことがあるんだけど。書きたくない。アンガスは牛の種類ね。通常の黒毛和牛の3分の2くらいの大きさ。小さくて可愛いなと思うところが素人。凶暴なんだ。馬鹿アンガス。鼻開けもできないので暴れたい放題。良く逃げ出すんだな、この馬鹿は。
(木工所の手元)
親父が大工だったので木工所が家の裏手にあった。製材する場合、親父が板を押してその反対側にいて木材を支える手伝い。馬鹿親父は自動鉋に自分の右手のひらを削って大さじ1杯分くらいの肉を削がれた!ぴっちゃがま あやーふたーがらまい っすぁいん。(ちょっと危険かも知れない。)
(釘抜き)
これは危険だ。コンパネ(コントロールパネル)に付いている釘を抜く手伝い。何回か釘を踏み抜いたな。痛いんだ、これが!
(亀解体)
定置網の網元をしていた。商品になるのは漁協に売るんだけど商品にならないものは家の食卓に上る。代表的なのはフカ、エイ、亀だ。フカ(サバ)及びエイは骨がないから(軟骨だから)簡単なんだ。切るのは。問題は亀だ。鼈甲はお土産やに売れるんだけど100kgくらいの亀はどうしようもない。なので、解体して喰う。まず亀の口に猿ぐつわを咬まして。亀ぐつわじゃないよ!咬まれると結構痛そうなので桟木を咬ますさーね。それから裏返して六角形の合わせ目に包丁を入れてパカッと開ける。後は、切り分けておしまい。臭いんだな。フカもエイも亀も。
(山羊の草刈り)
これは手伝いじゃないな。俺の仕事だった。
(密殺)
兎、鶏、犬、山羊、豚、牛、馬。犬と馬がめんどくさい。馬なんて切り分けた肉がぴくぴく動く。ヤモリか?次に牛。中身を洗うのが大変。1頭につき3時間くらいかかる。畜生め!
(大工)
型枠、鉄筋加工、内装全般、左官、タイル貼り。左官の場合、まず海岸にいって砂をかっぱらってくる。もちろん子供だけで。れっきとした犯罪なので大急ぎで積み込んで現場から逃走しないといけないさーよ、無免許で。当時(復帰前後)は砂浜の監視を海上保安庁のヘリコプターでやってて。真冬でもすげー汗をかく。超重労働。
(埋め立て工事)
入り江の袂に店舗を建設するため海域を埋め立て土地を造成するというほとんど違法行為の作業。小さいケーソン(コンクリートで出来た巨大なお椀)造って間詰め石入れて上部コンクリートを打設して。埋め立ては、正式名称が「公有水面埋め立て」と言い、公共団体で無ければ埋め立て事業を行うことはできないこととなっている。ま、犯罪ですね!
(電気工事)
電信柱を建てて電線を配線する手伝い。これは手伝いじゃないな。指示だけ受けて子供達だけで行うから無償の請負工事みたいなもんだ。そんなにきつくない。でも、命の危険が危ない。電信柱はステップがあるわけじゃなく、棘のついた靴を木製の電信柱にけり込みながら登っていく。電信柱は揺れるし、蹴り込みが甘いと落ちそうになるし。
(グラスファイバーのボート製作)
手漕ぎボートだ。準備するのは、剥離剤、グラスファイバーのマット、ポリライト、硬化剤。船のデザインは面倒くさいので市販されているボートを型にする。市販ボートをひっくり返して剥離剤を塗って、マットを当てながらポリライトを塗りつけていく。1日あれば乾くので簡単さーね。船底に敷く「すのこ」の制作中に電動ノコギリで左親指の第1間接付近をカット。4針縫って何とか繋がっている。危険かも知れない。
(水上ハウス建設)
入り江のなかに水上テラスを作り、その上で客に酒を飲まそうという趣向だ。2年くらい使って台風により すきゃーりぱにやま(木っ端微塵になった)そんなに危険な作業じゃない。
(ガサミ漁)
ノコギリガサミをひたすら捕る。まあるい網の中央にサンマの切り身を縛って蟹が食いついた時に水上ハウスに引き揚げる。it’s かまり do!(すっげー退屈な作業)
(養殖漁業)
件の入り江になんでもいいから養殖をするという無謀な発想のもとに南北市場から魚のあらをもらってきてミンチにかけてばらまくというほとんど無意味な作業。対象魚が定まってない。入り江全体の管理が行き届かない。ということで、大失敗。
(重機オペレータ)
無免許で重機(ブルドーザ)を運転する作業。公道をキャタピラで走行中、じゅんしゃ(宮古署)に見つかり殴られる。
(重機修理)
先のブルドーザは中古なので良く壊れる。それもブレーキが。修理はキャビンを取り外しブレーキのドラムパッドを取り替えることになる。毎回、ボルトが4〜5本余る。ぴとぅまい 機械まい ぴっちゃ たらーんばかいぬどぅ 上等!(人間も重機もねじが足りなかったりするくらいが、ちょうどいいんだ!)
以上!
ちなみに。馬鹿親父の職歴を記そう。大工見習いの後、19歳で独立。棟梁となる。大工は本土復帰頃まで続いた。大工見習いと並行して、以下の職業が行われている。
(1)養豚業
家の裏に豚舎を構築したのでひたすら臭い。kibagari!
(2)豆腐や
大豆を一晩水にふやかして、ミンチにかけ豆乳をつくり豆腐にする。お袋の仕事。
(3)畜産業(牛)
成牛を1頭農家に預けて、第1子は農家にあげて、後の子牛は親牛も含めて親父のもうけになるという悪徳商法。アンガスだけは引き取り手がなく渋々、自分で肥育。手に負えなくて半年で売却。
(4)木工所
発電機をまわして電気をつくり、その電気で木工機を作動させ木材を加工する。本人が使用することはもちろん、時間当たりでよその大工に木工所を使用させる。その後、台風で半年くらい停電となったときに、電気を売っていた。
(5)運送業
6tのボンネットトラックを買ってきてサトウキビの運搬を開始。
(6)網元
定置網を設置し、構成する漁師が網をあげる。家には、毎日の報告と商品にならない雑魚(フカ、エイ、亀、ダツ)が届けられる。
(7)運送業
タクシー会社の株主となり、自らも乗務員となる。このへんで本土復帰。
(8)サービス業
大工の臣下がほとんどやめたので島尻の入り江にレジャーランド建設を思いつき、ダンスホールを経営する。この時点で、建物建設に必要な違法埋め立てを行うと共に、入り江に区画漁業権を設定し、養殖場の構想を思いつくも両事業とも失敗。
(9)重機リース業
レジャーランド失敗を受けての起死回生の事業。農地開墾のためオペレータ付きでリースを行う。(高校1年の頃)
(10)道路清掃作業の下請け
道路植栽の管理、側溝の掃除を受注してきて子供達に仕事をさせる。(児童虐待)(高校卒業後なので弟達の仕事)
(11)石材業
重機リースが下火となったので琉球石灰岩を加工して販売する。なんとか、現在まで続いている。
(12)製塩業
未だ建設中!
やーぬ かしー(家の手伝い)
ひさぼう(平良市西仲出身)
宮古島の「三大特産物」は黒砂糖とかつお節と宮古上布、と学校で習った。
やらびぱだ(子供時分)の思い出だと、黒砂糖はサトウキビを搾るのに馬を使っていたシートーヤー(製糖小屋)の時代で、親の実家が二人とも平良市の郊外にある「添道」なもんだから、用があって親と出かけるたんびに、その小屋に行っては馬と歯車がぐるぐる廻る様子を見ていた。小屋の中の煮えたぎった大きい砂糖釜にサトウキビを突っ込んで、棒状のアメにして食べるのが大好きだった。あの香ばしい小屋のにおいが懐かしい。
かつお節は、平良桟橋とポー崎の間、ポー崎のつけ根のところに工場があって、那覇行きの連絡船を横目に、大漁旗を掲げたかつお船が盛んに出入りしていた。しかし、時代の変わり目だったのか、シートーヤーもかつお節工場もいつの間にかなくなった。
うちには、タカバタ( 宮古上布を織る機械 )が二台あった。機械といっても、木で作られた織り機で、四畳半の部屋の南側と西側の窓際に置いてあった。そこで親が二人でバッタン、バッタンやっておった。東側の出入り口の脇には、藍染めをする樽が置いてあって、母親がその前に何時間も腰掛けて、ギュッギュッと言わせながら両手でにぎにぎするように布を染めていた。ゴムの手袋をしているのだけれど、手はいつも藍色に染まっていた。あと、糸を紡いだり、かけたりする道具などがあちこちにあった。
近所のうちにも、同じような タカバタや道具やらがあったから、その頃、1950年代はまだ普通の光景だったかも知れない。おとうに二人の織り仲間がおって、「あぐ〜」と呼びかけながらうちにやって来ては、「糊つけ」とか「洗濯」、「検査」また「組合」とかむつかしいことを話し合っておった。
何十年か経って、たまたまNHKのテレビを見ていたら、そのうちのひとりのおじさんがまだ現役で出てきて驚いたことがあった。80歳は過ぎておったはず。もうひとりのおじさんは、近所でも評判の“釣り名人”で、一艘の小船を持っていて、ハタ織りの合い間によく沖に出て行く姿を見かけた。
おとうは、その合い間には農業をやっていた。農業といっても、うちで食べる程度の芋と野菜作りで、それに山羊と豚を飼っていた。それだけでは現金収入が足りなかったのか、母親は豆腐を作って売っていた。
宮古上布はこどもが手伝うには専門的過ぎた。ただ、バフという片手でくるくる回しながら糸を巻きつける竹製の道具を使った作業はやらされた。庭先に糸の束を左右のあっちとこっちに引っ掛けて置いて、その間を行ったりきたりしながら、そのバフに糸を巻きつけていくのだった。
その巻き取った糸は横糸になった。シャッ、バッタン、シャッ、バッタンというハタ織りの音の、そのシャッという音が、横糸が左右に走るときの音で、バッタンというのが、その横糸が縦糸にかみ合わされる音である。そうやって面となって一反の上布に仕上がるのに二ケ月はかかっていたと思う。そういうわけで、うちの中は日常的に、シャッ・・バッタン・・シャッ・・バッタンの音がしていた。
半ば自給自足みたいな生活だったから、こどもの出番は多かった。ぴんざぬふさかず(山羊の草刈り)、んむかじ(芋ほり)、かまどで芋を煮る、かまどで燃やすタキギ・カンナ屑を集める、豚のえさ運び、あと現金収入になる“砂利売り”。これは、自然にころがっている石を拾ってきてげんのうで割って砂利の山をつくり、その山が馬車一台分になったら売る、という作業だった。
現金収入で手っ取り早いのは、鉄くずを拾って売ることだった。その時代まだ砂浜で火薬が拾えたから、薬莢(やっきょう)とかも落ちていて、そのほかナニかの破片みたいなものとか鉄線、ジュラルミンとかが拾えた。なかでも薬莢なんかの真鍮はいちばん高く売れた。
「ぴんざぬふさかず」は、ほとんど自分一人で山羊を育てたようなもんだった。山羊のエサは、芋ほりのときに出る んむぎー(いもの葉っぱ・ツル)が基本で、あとは住んでいる場所が平良市内だから草を刈る場所は限られていた。
海沿いの畑の辺りを、いざら(鎌)と おーだ(もっこ)を持って歩き回った。めぼしいものが無くなったら、“内陸”の方へ遠征した。乳が張って痛がって、親山羊が子やぎに乳を吸わせないものだから、給食の粉ミルクを残して持ってきて、綿に含ませて吸わせていたこともあった。そうすると、ミルクをやるひとを自分の親と思うのか、顔を見せると犬のように尻尾を振ってはしゃぎまくり、小屋の外に出してやると、トコトコどこまでもついてきた。
豚のエサでは、時々、「たりかす」を貰いに行かされた。たりかすというのは、酒造所で泡盛を造るときに出てくる“米のタれたカス”で、酸味のつよい茶色の汁だった。下里通りに魚の好きな家族があって、その食べ残しをカンカンに入れてもらいにもやらされた。
「食物連鎖」ということばがあるけれど、1950年代、まだ人のウンコを家畜に食べさせることをやっていて、外のトイレと豚小屋がつながっていたりした。年寄りは、孫のおもりをしながら、ウンチをさせるときは、“チク!チク!”と犬を呼んで始末させていた。
火が燃えるのを見ていると不思議な“おもい”がするのだけれど、かまどで芋とか大豆のひき汁を煮るのに、しゃーか(朝早く)から起きて、火をおこすのも やーぬかしーのひとつだった。芋を煮るときは、火の消し時はふたを開けて うみす(箸)で突いてみてわかるのだけれど、豆腐の場合はさすがに途中交代だった。
水道はなかったから、その代わりに雨どいから天水を貯めるタンクがあった。自分の背丈より高いコンクリート製のタンクで、その下の方に蛇口が付いていて、水の用はすべてそれで足していた。長いこと雨が降らないとひどいことになった。当然タンクがカラになる。そのときは、かー(自然の湧き水の出る所)まで行って水を汲んだ。長い石段をひんやりした暗がりのところまで下りて汲み上げた。こっちの水のほうが断然おいしかった。
歩いてすぐの近所に、子供のいない しゅうとんま(おじいとおばあ)がいて、そこにはタンクの代わりに水ガメが とーうう”ぁ(台所)の入り口に置いてあった。どういうわけか、その水ガメを満たすのが自分の役目になっていた。んまは、かんかかりゃ(神願い人)で、しゅうは、あすぴびー(遊びが役目の人)だった。可愛がられすぎて、あやうくもらわれそうになった。
「あたらす っふぉ お あんちい ならっちゃー」(大事な子をそんなことできない)、母親の抵抗で かんかかりゃの息子にはならなかった。
やらびぱだー あ まーんていー ゆーど やーぬかしーから となずぬかしー がみ しーどうずたず(子供時分には、ほんとによく家の手伝いから隣の家の手伝いまでやった)
お便りコーナー
平良出身東京在住 山中佐智子さんより
初めまして。くまから かまからをここ最近から読み始めている平良市西里出身 山中(旧性 荷川取です)といいます。
私も、東京の西東京市に住んでいて上京してからはや20年近く。
来年40代に入る昭和42年生まれの専業主婦ですが・・・忘れていた宮古ふつをくまからかまからで読むとほんとーーーに懐かしくてなつかしくて一人、パソコンに向かってげらげら笑ったり泣いたりしています(^^;
私の場合、平良生まれ平良育ちで、いわゆる市内方言?しかつかってなかったし、母親も台湾の疎開帰りで方言がしゃべれなかったのであまり方言がしゃべれません。
でも、父親は鏡原出身でいわゆる鏡原方言?(かなり、乱暴&野蛮・・)をしゃべっていたから聞けば分るかな・・・という感じです。ま、でも、方言を聞くと本当に癒されて心からリフレッシュできる私はやーーっぱり宮古ぴとぅ!さいが!と思います(‘-‘*)。
くまからかまからを発行をするにあたっていろんなご苦労もあると思いますが世界中の宮古ぴとぅの為、そして沖縄県人の為!どうか、どうか、お体に気をつけて頑張って下さいね!!ずっとずーーーーっと応援させていただきます。
なお、vol.145で発行された分の中で「凱旋通り」の話がありましたが、まさしく私の遊び場所!!でした!そのなまえの由来に、だーいずびっくり!母親に教えてあげようと思いました♪
ちなみに、私の子供の頃は凱旋通りで遊んでいると夏の頃は防虫剤を噴射して走る防虫スプレーカー??(荷台に虫除けの薬のタンクが載ったトラック)がのろりのろりと走りながら、物すごい勢いで防虫剤を噴射していました。
その後ろを、近所のにーにーねーねーときゃーきゃー言って、思い切りその薬の煙に巻き込まれながら追いかけるという遊びをよくやっていたっけ(/||| ̄▽)/
今、考えると正体不明のあの薬を毎年吸い続けて あがいーだいずここまでよくぞ成長したもんだねぇと思う次第です。
すいませんっ!!長くなりました。
ではでは、今後のご検討とご活躍 お祈りしております☆
※山中さん、ぷからすメールたんでぃがーたんでぃ〜。「凱旋通り」への反応、うれしいですね〜。ぜひお母さんに教えてあげてくださいね。これからもくま・かまの応援、よろしくお願いします!(松)
編集後記
松谷初美(下地町出身)
んにゃ、5月やー。
宮古では、ユリやグラジオラス、月見草なんかがたくさん咲いている頃だはずねー。目をつぶると鮮やかに白や赤やピンクの花々が目に浮かびます
さて、「やらびぱだぬ かしー」の特集、のーしが やたーがらやー?今回は、びきやらび(男の子)の かしーばかりをお送りしました。三人のそれぞれの かしー。いろいろあって興味深く読んでいただけたと思います。
方言の「かしー」は「加勢」からきていると思いますが、それにしてもんきゃーんぬ やらびゃぬきゃー(昔の子どもたちは)よく、かしーしてますよね。かしーの域を超えているさいが!というのもありますが(笑)その種類の多さといったら!あがい、びっくり。
家業によっても、時代によっても、またその地域によっても、かしーの中身は、それぞれですね。自分も同じ かしーをしたー!という方もたくさんいたのではないでしょうか。
して、かしーは、すごく大変で難儀なことだったりもするのだけれど、書いている本人たちは、とても嬉々としている感じがしますね。「語らしたら終わらんよ」みたいな。かしー自慢とでもいうべきか!?(笑)
子ども時代の かしーは、その時の誰かの役立ったばかりではなく、本人にとってものちのちだいず役に立つことだったんだなーと ぬふーぬふぬ(温かい)気持ちになりました。
さ、「かしー」は次号も続く予定です。次号は、みどぅんやらび(女の子)の かしーも登場しますよ。楽しみにしていてくださいね〜。
うう”ぁが(あなたの)子どもの頃の かしーもぜひおしえて下さいね。投稿、まちうらっちばゆ(待っていますからね)今回の感想もぜひぜひお願します。あて先は下記まで!
次号は、5月17日(木)の予定です。
楽しいゴールデンウィークをお過ごしくださいね〜!あつかー、また〜。