こんにちは〜。 ぱだーぱだうらまずなー(お元気ですかー)?
おかげさまで、くまかま150回目の発行です。
今回も、うむっしぱなす(面白い話)から、 心あったまる話まで、お届けしますよ〜。 最後までごゆっくりどうぞ〜。
ない!
神童(平良市出身)
(ういび(指))
常は板前の卵。
今日も今日とて板前修業。職場で先輩にどやされながら忙しい日々を送る。でも、職場だけでは上達しない。帰宅次第、包丁を研ぎ、キャベツの千切りの練習。包丁研ぎも立派な板前になるための修行。
とーてぃ っすっきゃー 研ぅぎばどぅ あば あっぶない たつんざ!かみそりんだかに!(賢明に研いで最早、剃刀並の切れ味。)早速キャベツの千切りだ。がすがすがす!がすがすがす!ぐりっ!えっげーっっ!あしどぅす。ういびぃ 切しにゃーん!(うわーーーー。やっちゃったよ!指切った。)
あたまんてぃ あかつだいだいぬ 玉菜ーとぅ まなた。(たちまち鮮血に染まるキャベツとまな板。)水道の蛇口で必死に傷口を洗う。あばぁ?にゃーん!ういびぬ すぅらね にゃーん!(と、ない!指の先っぽがない!)指落としちゃったよ。どこ?何処だ?俺の指!真っ赤なまな板の上を必死に探す。ない!流しのシンクにもない。何処なんだ?ゆびーーーーっ!
探しても探しても見つからない指。右手で指の付け根を押さえて止血しながら指を探す。30分探しても見つからない。えげーーーっ!仕方なく、病院に向かう。
傷口を縫合してアパートに戻ったのは朝方。玄関の扉を開けた常の目に飛び込んできたのは、流しの下に転がる人差し指の先っちょ。
(ニクリン)
平成5年。仕事である家庭におじゃました。
話し合いは無事終了し、契約にこぎつけた。若い頃、大工をしながら建築士の資格を取得した70歳のご老人。同業の大先輩にあたるご老人は契約を祝って一席設けてくれた。大先輩の申し出を無碍に断ることもできないので同僚と二人杯を傾ける。と、不思議なことを発見した。
大先輩の眼鏡が逆だ。大先輩は、ときおり契約書に目を通す。その時点で眼鏡が逆転する。普通、眼鏡は垂れ目気味にできてるさ。気がついたらウルトラマンみたいな吊り目サーね。でも、しばらくすると眼鏡はもとの位置に戻る。手品か?どうも、当方らが気付かないうちに眼鏡が逆転しているらしい。
普通、眼鏡は鼻にかけて、してツルの部分は耳に掛かってるさーね。でも、大先輩の場合は、耳に掛かってるツルの折れ曲がった部分が時々、上を向くんだな。上下逆になるんだ。ウルトラマンなんだな。不思議なことに。
よしゃーいいのに、同僚が大先輩に質問した。荷川取漁港で溺れたドジな奴。「あのーー、眼鏡。逆になってません?」
大先輩の説明が始まった。
若い頃、那覇で大工をしていて。米軍住宅の現場でコンクリ釘(正式名称:コンクリート・ネイル)に玄翁を すとぅにて(ぶったたいて)いたら ゆがたみして(的が外れて)釘が折れ、飛び散ったコンクリ釘の破片で左目を失明。
今から30年前までのコンクリ釘は、そりゃー堅くて滅多なことでは曲がらなかった。玄翁を釘に対して垂直に打ち込まなければ、釘が折れる。折れた釘は弾丸となって飛び散る。その結果、事故が多発して現在のような曲がるコンクリ釘が製造された。ま、コンクリ釘が打てない素人大工が増えたってことなんだけどね。
当方、サラリーマンなのにコンクリ釘が打てる。大工の腕を計るバロメータはコンクリ釘さーね。コンクリ釘が打てないようなというか、曲げる大工は熟練じゃないという証なんだな。現在では、コンクリ釘はエアーや火薬で打ち込んだりするさーね。ほとんど鉄砲と一緒!
沖縄県警!長い包丁というか、日本刀を取り締まるよりエアハンマーを取り締まったがいいぜ!あっぶないよ、本当に!
善良なる市民の皆さん。エンジン付きコンプレッサー担いでエアハンマー手にして西里通りを徘徊している不審人物を見かけたら要注意!建物の陰に隠れるか、机の下に潜って下さい。隠れるのが難しければメイクマンで同様の品物を購入して対抗して下さい。
大先輩はその後入院して治療に専念したものの、あまりの痛さに「ニクリン飲もうと思った!」と話す。まて!ニクリンは鎮痛剤じゃないぞ!大統領だ。違う。劇薬だ!痛みは消えるかどうか知んないけど、命は消えるぜ!ま、そのくらいの激痛だったってことだ。
なので、失明した左目に眼鏡は必要ないので、右のレンズは遠視用。左のレンズは近視用にしつらえてあるとのこと。うおおおーっ!究極の遠近両用眼鏡だぜ!だから、書類を見るときに眼鏡がひっくり返るんだ。などるほ!正に逆転の発想!いぎゃん!(すっげっ!)
いぶかしがる当方らに、更に駄目押しの説明が続けられる。「本当と思ってないでしょ?」大先輩。眼鏡を外して左目をごそごそ!なにしてんの?うわっ!目取り出しちゃったよ。大先輩の手のひらに義眼が・・・・。
『はせがわくんきらいや』が大好き
松谷初美(下地町出身)
『はせがわくんきらいや』は、絵本だ。
図書館で仕事をするようになってからこの絵本に出合った。絵も文字も黒一色で、タイトルも絵本らしからぬ ぴんなぎ(変な)本だなーと、最初は思った。
この絵本を かき゜たーぴとぉー(書いた人は)、昭和30年に製造されたヒ素の入った粉ミルクを飲んで どぅぬ(体が)不自由になった、はせがわくん本人である。
はせがわくんは、普通の小学校に通っていて、クラスメートの「ぼく」の目を通して、はせがわくんのことが大阪弁で生き生きと書かれている。
「ぼくは、はせがわくんが、きらいです。はせがわくんといたら、おもしろくないです。なにしてもへたやし、かっこわるいです。はなたらすし、はあ、がたがたやし、てえとあしひょろひょろやし、めえどこむいとんかわからへん。」
クラスメートの「ぼく」は、そう書くけれど、まーつき(一緒に)山に登ったり、野球をしたり、おうみゃー(ケンカ)をしたり・・・
「先生が「長谷川くん、からだ弱いから大事にしてあげてね」いうた。ぼくはとんぼをとってあげた。長谷川くん「とんぼいらん」ゆうた。「なんでや。」「虫は、きらいや。」「女みたいやなあおまえ。」そないゆうたら長谷川くん泣いてしもた。頭にきて「泣くな」ゆうてなぐってやったんや。」
あるとき「ぼく」は、長谷川くんのお母さん(本の中では、おばちゃん)から、長谷川くんは、赤ちゃんの時、ヒ素の入ったミルクを飲んで体をこわしたことを聞く。おばちゃんの言っていることはよくわからなかったけれど、おばちゃんにアイスキャンディをもらって まーつき(一緒)山にに連れていってあげる気になったそうな。そうは言っても、長谷川くんといる毎日は大変なのだ。
「長谷川くんきらいや。せっかくぼくら仲ようしたりようのに野球のときもゆるい球なげてもらいよんやで。そやのに三振ばっかりや。ぜんぜん勝てへんやんか。頭くるやんか。」
してから、やっぱり、長谷川くんのことが気になるみたいさね。
「長谷川くんもっと早うに走ってみいな。長谷川くん泣かんときいな。長谷川くんごはん、ぎょうさん食べようか。長谷川くんだいじょうぶか長谷川くん。」
鉄棒から長谷川くんが うてぃつかー(落ちると)真っ先に飛んでくるんだ、ぼくは。そして、なき゜みー(泣き虫)長谷川くんをおぶって帰りながら、こう叫ばずにはいられない。
「長谷川くんなんかきらいや。大だいだいだいだあいきらい。」
リズミカルな大阪弁と内容にぐいぐい引っ張られながら読んでいって、気がついたら、なだ(涙)が、ダダダダダダ・・・と落ちていた。
まーんてぃぬ(本当の)優しさってナンだろう。
変に気を使うことでもないし、ケンカしないことでも、悪口を言わないことでもないんだね。こうやって自分の気持ちを言葉と態度で素直に表せるって、なんて、気持ちが良くて、上等ことなんだろう。
絵本は、やらび(子ども)だけのものじゃないなーと思ったさ。大切なことをおしえてもらった本なので、今では買って持っている。そして、自分に優しさが足りないなーと思ったら開くようにしている。んー、なかなか「ぼく」のように優しくなれないんだけどね(笑)
そんなわけで、『はせがわくんきらいや』大好きな絵本です。
※ 文中のかぎかっこ「 」の中は、『はせがわくんきらいや』作・絵:長谷川集平(ぶっきんぐ)より抜粋しました。
まゆがま(猫ちゃん)日記 パート3 〜母ちゃん入院の巻〜
あば本舗(下地出身)
ばんたが あんなぁ(うちの母は)一週間のうち月曜日と金曜日の2回、デイケアに通っている。デイケアの施設側は、週3回は参加できるのでぜひどうぞ!と熱心に誘ってくれている。だけど母は決して週3回に増やそうとはしない。
みじゃーすきなりどぅ いきぅっすぅが のーしゃーがら?(楽しそうに行っているけど、何故かな?)と思っていたら、それにはちゃんとした理由があった。
ばがデイケアんかいちゃーないきゅぅっかー まゆがまー たうきゃーだらっすさー?うりゅばーとーが みばからでぃっしゃぁ(だって、私がデイケアにばかり行っていたら猫ちゃんは一人でしょ?この子の世話は誰がするの?)ぴんなむぬてぃ(不思議だなぁと)思っていたらこんな事を考えていたのか・・・と、半分あきれながら何も言わないことにした。
そんなこんなの日々が続いていた2年前の夏。外食して家に戻ったあと、母は激しい下痢と腹痛に襲われた。すぐに近くの病院を受診させて点滴開始。「急性胃腸炎ですね。脱水も起していますので、10日くらいの入院加療が必要です」と言い渡されてしまった。
横で聞いていた母は、みぱなーっふぉーっふぅしー(顔はぶす〜っとして)嫌がっていたが仕方なく入院した。食事は中止、抗生剤が開始され二日目からは内服治療薬が始まった。
しかし、面会に行くたびに ちー やーんかいいかでぃ ばや んにゃんじゃーまい やみゃーうらんさーゆー(さぁ、もう家に帰るよ。私はどこも悪くないんだよ)と、しきりに訴える。かんってぃのーさだかーならんっちゃ〜(ちゃんと治さないといけないんだってよ〜)と、説明しても家に帰ると言い続けていた。家で待つハナの方も、窓枠にしょぼんと座って外を見つめていることが多く、のーがらー つんだらーすきーむぬやたん(何だか可哀相だった)
入院三日目の昼に面会に行くと、何と服を着替えて待っている。困ったような表情の医師から説明があった。「ご本人がどうしても退院したいーと仰るので。本当はもう少し点滴を続けたほうがいいのですが・・・。下痢と腹痛はだいぶ良くなりましたし、あとは自宅で内服薬をキチンと飲めば大丈夫だと思います」私は、申し訳ありませんと頭を下げて退院させるしかなかった。
エレベーターまで見送ってくれた担当の看護師さんは、にこやかに微笑みながらこう言った。「お宅では猫を飼われているんですか?私が世話しないとエサをあげる人がいないから、心配で病院にはいられないとしきりに仰っていましたよ。おばぁちゃん、猫ちゃんと仲良しなんですね〜。」あがぃ。ここまでくるともう怒る気にもなれない。
自宅に戻ると、ハナが玄関先まで出てきてミャーミャー泣いて迎えてくれた。あがぃ〜 やーっすさーしーや うらったん?(あぁ、お腹を空かしてはいなかったかい?)と、ふらふらしながらハナに話しかける母の笑顔は、だいず ぷからすきむぬやたんどー(凄く、嬉しそうだったよー)
うわたがキャンプぉー40点
アモイ(平良市出身)
今年5月に父の7回忌で帰省した。父が裏山に植え育てたアマリリスや百合の花が6年前と同じように咲き乱れ、あの日の事が昨日のことのように思い出された。
7回忌当日、午後4時前に、読経を終えてテーブルを囲んだ内地出身のお坊さんは、タバコを吸いながら「もう7回忌か、早いもんだね」などといって話が弾みだした頃「悪いねーこの後マダ2箇所あるからさー」と言って次の場所へと送られて行った。宮古島のお坊さんはせわしなく働いているようだった。
夜に入ると、酒の好きな親戚や近所の人達がテーブルを囲んでいた。その中に初めて会う上野にせい(青年)がいた。従姉妹のだんなさんだった。「上野やーつかー、野原な?」(上のだったら野原か)「野原ゃーあらんすぅが つかふさーい」(野原じゃないけど近いよ)隣に座った近所のタルアザに聞かれて答えていた。
タルアザというのは「恋の空気入れ物語」(vol.11、12に掲載)の中で、アモイ少年に彼女の呼び出しを頼まれて、とっさに「空気入れをからし」と言い放ったあの先輩なのだ。上野にせいも空気入れ物語の事を知っていて、おのずと空気入れ物語の事が話題になった。
上野にせいの話によると、その当事者である親父さんは何年か前に亡くなったよ、という事だった。生きているうちに当時の事を覚えているか聞いてみたかったね。(おやじさんへ、トウトガナス(ご冥福を祈ります))
そして其の後、タルアザとの思い出話がはじまった。その前に私が知るタルアザの逸話を紹介しよう。
学年は私の一つ上で、タルアザが小学生の時の事、親戚の義兄がアメリカへ留学していて、その義兄がアメリカ人の友人を連れて宮古へ帰省した。その時にちょうど遊びにいっていて居合わせたそうで、義兄とアメリカ人との会話を聞いて、カルチャーショックを受けたそうだ。
「だいず、はーい あざが、アメリカ人とぅ、エーゴしーぺらぺらてぃぱなっすぅ っすつかーずみどー、あまいとぅけんまい エーゴしどぅ あまいゆーたーどーや、」(あのさー、義兄がアメリカ人と英語で話しをしている時は最高にかっこいいよ、笑うときにも、英語で笑っていたんだよ)
それからというもの、どうしても英語がしゃべりたくなった。しかし小学生なのでまだ英語を習っていない、そこで自分で英語を作る事にしたのだった。「よーし、きゅーから ばが英語を つぅふぁっちゃーやー」(よし、今日から俺が英語を作るからさ)と宣言して『んなまからー、ふさー いふたばすが かりうーきゃー?、てぃや「ミズカーブ?」てぃあす゜さやー。』(今から、草はいく束刈りてある?というのは、「ミズカーブ?」と言う事にしよう。)と決めて、草刈に行ったときには「ハーイ、アモイ!ミズカーブ?」と聞かれ「バーヤーミス゜タバース゜」(俺は3束ですよー)などと言って、英語もどきの会話がなりたったのであった。アメリカナイズされたタルアザは情報や流行にも敏感だった。
タルアザが中学3年の時だったか、キャンプへ行こう、と言い出し、タルアザと私と私に2つ年下のヤマと3人でキャンプに行くことになった。場所は長間バー(浜)だ。昭和40年代前半のこと、私は「キャンプ」というものをこのとき初めて知った。タルアザが全てを仕切り、家にあるカパ(農業で使うシート)でテントを張ることにした。
当日海に着くと、3人で協力し、まず砂浜のハマユウなどが生えてるあたりに木をたててその上にカパを載せ何とかテント小屋らしきものをつくった。昼間はバサナスの木(芭蕉の木)を海に浮かべて沖まで行きモリでミンタ(ハゼ)をついたり、カズカ(ウニ)をとり、すぅーぬ ぴすつかー(干潮になると)なんとかニゴー(シャコガイ)も採れておかずの足しになった。
昼間を海で過ごしたあと、家に帰らないのはわくわくするような嬉しさがあった。夜になり、寝る時間となった。あすぅがどぅ、カパぬ ぴすきぴすきてぃうーてぃ、がざんな ぱす゜し゜きし ブーン、てぃー、とぅびまーり、ずーんな あかーすから ぴんなぎ むすまい いでぃきし ぱすこーかーば、にうわいぐーっふぁにゃーん(しかし、シートが穴だらけになっており、下には隙間も有るため、蚊は飛んでくるわ、地面には蟻んこやら変な虫がでてきくるわ、で痒くてなかなか寝付けそうにない)
その状況に我慢のできなくなったヤマは「ばーやー、んにゃ、んびゃーいんにゅば、やーんかい ぴらっちゃー」(俺はもうとても耐えられないないから家に帰るよ)といって初日の夜、キャンプを放棄して帰ってしまった。今思えば、まだ小学生のヤマには酷だったのだと思う。タルアザとアモイ少年は蚊の攻撃を受けて、あちこち掻いて血を流しながらもなんとか一晩をテントの中で過ごし、翌日も同様に我慢して2泊3日の初キャンプを全うしたのだった。
キャンプから帰ると、父からキャンプの状況を聞かれ、一通りの事情を説明しておいた。そして途中で戻ったヤマの事を知った父は「ヤマー、うわーキャンプよーてぃーいきってぃ、がざんぬ うーば んびゃーいんてぃー ぴんぎぃ やーんかい きすたーよーてい あんちーやならんどー」(ヤマーお前はキャンプだと出かけたからに、蚊がいるから耐えられんと逃げて帰ったそうだが、それではだめだよ)と説教したのだった。当時の親は自分の子供も他人の子供も区別することなく説教するは普通の事だったが、特に父は他人の子供にも厳しかった。
タルアザには「タルー!うわたが キャンプぉー 40点さいが」(タル、あんた達のキャンプは40点だね)とキャンプの評価を下したとの事だった。「あの時は嬉しかったよ、自分たちのやったキャンプに関心をもって理解を示す親なんてめったに居なかったからね」と言ってタルアザは7回忌に相応しいはなむけの言葉で父を偲んでくれた。
編集後記
松谷初美(下地町出身)
始めにも書きましたが、んーながうかぎん(みなさんのおかげで)くまかま150回目の発行となりました!毎回ゆみふぃーさまい(読んでくださり)、そして、応援してくださって、まーんてぃ たんでぃがーたんでぃ〜〜。今後ともどうぞよろしくお願いします!
宮古では、旧暦の5月4日にあたる18日に、ハーリー(海神祭)が行われたようですね〜。宮古毎日新聞で見ましたー。宮古で育ちながらいっかいやつん(一回も)まだも見たことがないんですよねー。いつか、くまかまでもハーリーのことを載せられたらいいなーと思っています。
さて、vol.150 のーしが やたーがらやー(いかがでしたか)?
神童の「ない!」は、おごえー!な展開でしたが、可笑しさの中に、人の強さというか、大らかさというか、入っていますよね。今回も神童ワールド炸裂でした。
『はせがわくんきらいや』(1976年)はたびたび絶版になりましたが、現在「ブッキング」というところから出ています。良かったら。みゃーくふつの絵本もあると上等だね。
あずーあずのういずふつ(味わい深い上地方言)が入ったあば本舗さんの「まゆがま(猫ちゃん)日記」第三弾をお送りしました。お母さんとまゆがまの深い絆が伝わってきてほのぼのとした気持ちになりますね〜。まゆがま日記、今後も楽しみにしていてくださいね〜!
「うわたがキャンプぉー40点」は、お父さんのお人柄とアモイさんのお父さんへの気持ちが溢れていましたねー。お友達にもすごく慕われていた様子が伝わってきました。タルアザが登場する「恋の空気入れ物語」(vol.11、12)をまだお読みじゃない方は、ぜひ、バックナンバーでごらんくださいね。
みなさんからの感想が、ばんたが(私たちの)エネルギーです。
今号の感想もぜひお寄せくださいね〜。
最近は、投稿もなくて、淋しい限りです。どうぞよろしくお願いします。
次回は、7月5日(木)発行予定です。どうぞお楽しみに!
きょうも楽しい一日でありますように!あつかー、またいら〜。