くまから・かまから vol. 157

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 こんにちは〜。
 10月になりましたねー。
 郵便局が民営化されたり、いろいろなものが変わる10月。くま・かまは、かーらだな(変わらず)いつも通り行きますよ。
 まずは、んなまずぶんぬぱなす(この時季の話題)から。

空飛ぶ ごちそう(サシバ)

菜の花(伊良部町出身)

 もうすぐ寒露。
 宮古の島々にはアカハラダカが渡ってきたとの話題を聞く。このアカハラダカはやがて本格的なサシバ(猛禽類で鷹の一種)の飛来が近いことを告げる ムカイ ダカ(迎え鷹)とも呼ばれる。
 
 寒露と運動会は同じ季節の思い出として今も鮮明に残っている。運動場の上空にサシバが舞うと、例え子どもの演技の途中でも、おとうやおじいたち男性陣はサシバ獲りに勇んで一目散に帰っていった。男子生徒も気持ちは同じようで、運動会が終わると とばして(急いで)帰っていった。
 
 授業中であってもサシバの舞う空を見あげては、ソワソワ、ソワソワと心此処にあらず!まーんてぃ(ほんとに)授業どころではない。先生に怒られても落ち着かない。一刻も早くツギに行くことしか頭にはないのだ。
 
 ツギとはサシバを捕獲するためにつくられたもので、木と木の枝に竿や棒でとまり木をつくり、サシバがとまるのを木の上に作った小屋でじっと待つのだ。小屋は木の枝や葉っぱで作ってあり、誰それのツギの作り方が上手いとか下手だとかも、サシバの飛来の頃には話題となっていた。
 
 このツギのある木に上がっていくとき、物音をさせようものなら、近くに作ったツギの主からものすごく叱られるので、早くツギを作った木の小屋に入っていなくてはならないのだ。人の気配を感じたサシバは絶対にその木や近くの木にはもう降りてこないらしい・・・。
 
 なぜ、こんなにもサシバを獲ることに躍起になるのか。それはサシバが大切な食料だったからだ。空を黒く染めて食料が乱舞しているのだから、なんとしても捕獲したいという気持になるのだ。ツギに座って、目の前でサシバを見ながら、息を殺してサシバの首にマーニ(クロツグ)で作った縄をかける瞬間も、言葉では言い尽くせないスリルだったにちがいない。想像するだけで緊張する。
 
 サシバを食べたことのある人で、「サシバはまずい」と言う人はまずいないと思う。煮付けにしたら んまーんま(美味しくて)、汁にしたらだすーだす(だしがあって)本当に美味しかった〜。
 
 しかし、今のご時世でサシバを捕獲しようものなら、多額の罰金を取られ、食べようものなら極悪人のレッテルが貼られること間違いなし!サシバは見るだけにしないといけませんよ。サシバを食べたことのある者にしか分からない「幻の味」の話しは、想像に任せるにしておいた方が無難ということになる。
  
 私が子どもの頃は、今ほどサシバの捕獲について取締りが厳しくなかった。捕獲したサシバを平良に売りに行く人もいたらしい。佐良浜の桟橋で並べられたサシバを見たことがあるが、そうか、あれは売りものだったのか・・・。当時の相場は25セント位だったらしいが、もっと高く売ったという人もいて、ほんとのところはどうだか売ったことのない私にはわからない・・・。
 
 サシバが乱舞するのを見あげては、子ども心にも浮かれる気持ちになって「タカのー(鷹の) むにどーい(胸だよ) ちびどーい(尻だよ)ふぁーまー ふぁーまー(食べるよ 食べるよ) ドンマ ドンマ ドンマ(囃子)」と子ども達同士で空に向って囃子たてたことを思い出す。
 
 今日も、宮古に渡ってきたサシバが乱舞する空を見て、いったい何人の人が生唾を呑みこんでいるだろうか・・・。

うばいがうばい(はてさて)!

神童(平良市出身)

 平成4年、那覇の取引先で1年間の研修。樋川の木賃宿から泉崎まで徒歩で通勤。
 
 宮古出身の経営する旅館。土日は洗濯に追われる。素泊まり2,000円を365日続ける。土日に部屋の掃除をするからーと外に出されても行く所がないのでぼーーっとしながら掃除するおっさんを見ている。床のカーペットに掃除機をあてて引き続きベッドのシーツも同じ掃除機でがーーっと!そうか。そうだったのか。床扱いか?俺のベッド!ちょっと、ショック!
 
 ノー残業デーの水曜日は午後5時の就業後、職場の先輩と3名で那覇市内の公園等に出かけ、太陽が没する頃、最初に目に付いた飲み屋に入るというルールの散歩があった。
 
 那覇市内には、多くの公園が存在する。国際通りを安里向けに左側、緑が丘公園。右は那覇高校裏手の松尾公園。続いて、ぷーさんのたまり場希望ヶ丘公園、58号を渡れば松山公園。福州園は松山公園の子分さーね。裁判所付近には、城岳公園や中央公園。都市公園じゃないけど若狭緑地や波の上緑地。波の上ビーチのあるとこね。と、こんな感じで割と公園が多いのだよ、明智君!大きいのでいくと奥武山公園や与儀公園とかね。与儀公園のソバが旨いんだな。安いし!
 
 いつぞやは、西部オリオン付近の地下ディスコが一番最初に目に付いた飲み屋。3名で入店し、速攻でビールを一気のみして、おいとま。あてぃんぎゃますかーば さびぃーてぃ ぬみゃーうらいん!(五月蠅すぎて、ゆっくり飲む雰囲気じゃない。)
 
 くぬぅ あざたぬぅ ぱなすぬぅどぅ いぎゃんごーり!(この先輩達のエピソードが凄い。)
 
 最年長の先輩は、沖縄と千葉の遠距離恋愛の後、無事祝言の運びとなり、勤務先の千葉県から空路沖縄へ移動して結納となった。しかし、結納当日、仕事の都合で沖縄へ帰るのが困難な状況となり、嫁の実家へ結納金を現金書留で送りつけた逸話の持ち主。
 
 「○○君。結納金を送りつけたらいかんよ!今でも嫁にぶつぶつ言われる」問題はそこじゃないと思うんだけど?
 
 此方の先輩は、長野出身の奥さんと学生結婚。就職の際は、既に二人の子持ち。賢明な就職活動が実り、無事に入社を果たす。しかし、卒業見込みで行った就職活動。残念ながら必修の1教科の つみゃーに(せいで)留年が決定。卒業保留!
 
 妻と幼子を養わなければならないため、留年を秘匿して入社。学生及び会社員という二足の草鞋を履きながら、定期的に内地にある大学に出席する生活を送る。
 
 でもでもでもでもっ そんなの関係なーい!そんなの関係なーいっ!じゃなくて、あっすがどぅ、ばーっとぅ、だけれどもが、くどいいねっ!しかし、年度末となると流石に仕事も立て込んで、結局、再度留年が濃厚となった。
 
 ことここに極まれり。宮古出身の上司に事情を打ち明ける。上司は部下に命じて、先輩の卒業設計の図面を手伝わせる。提出の前日は、全員が徹夜で図面を仕上げ、図面を片手に朝一便の飛行機で那覇空港を飛び立った。
 
 先輩は飲みながらしみじみ話す。宮古出身の上司が居なかったらどうなっていたことか。それから、今でも夢を見る。と続ける。「お前は卒業していない!卒業していない!」寝汗をびっしょりかきながら魘されて飛び起きるらしい。
 
 一年間の研修を終えて宮古島へ帰ることになった。偶然にも先輩が宮古支店に転勤。宮古へは単身赴任。東仲宗根にある宿舎でよく集まって飲んだ。
 
 建築士会宮古支部の理事会を先輩の宿舎で行う。当方を含めて先輩も宮古支部の理事。理事会は先輩の部下の新入社員君がいろいろ面倒を見てくれた。大抵は理事会終了後、宴会となるので先輩の部下は理事会終了時点から激務となる。
 
 ぬんむぬぅ 買いくぅ!(酒とビール買ってきて!)2名の新入社員は連れだって買い出しに出かける。酒、ビールを抱えて3階まで上がって肩で息をする新入社員に向かって10名の理事から次の指令が発令される。違う!9名だ。俺は外しとこう。
 
 「博竜菜館につまみを頼んだから取ってきて!」つまみを持ってきた新入社員に容赦ない指令が発令される。すまんすぅが 氷買いくぅ!(悪い。氷買ってきて!)氷の袋と現れた新入社員は指令から解放され宴会の席につく。「あばぁ?2次会ん いかっちゃーば ぴゃーまり ぬみぃ!ごごーーてぃ ふぁい!たくしーぬ まちゅうすぅが!」(「2次会行くから早く飲んで!早く食べて!タクシーが待ってるってば!」)
 
 うわたー にんぎんぬぅ そぅいや あらん。やなくんじょう むぬぬぅきゃー!(鬼か!あんたたち!)
 
 3年間の宮古勤務中、先輩はバイクより値の張るトライアスロン用の高性能自転車で宮古をくまなく探索する。友利部落からインギャーへ下る道路が開通して間もない頃、気持ちよく坂道をすべりおりていた。坂の下に広がるインギャー海岸の絶景に見とれながら。
 
 道路は、インギャー海岸に突き当たって終了する。しかし、インギャー海岸と並行して走る県道の右から飛び出してきた自動車の側面に激しく激突。ま、飛び出したのは自転車なんだけどね。自動車の助手席のガラスに顔面を打ち付け意識朦朧。あわてふためいたのは自動車の運転手と同乗者。先輩を後部座席に放り込み、トランクに自転車を突っ込んで発進した。
 
 けたたましいサイレンの音で意識を回復した先輩。必死に安否を気遣う運転手。この4月に就職した職場の車での勤務中の事故。いくら自転車が飛び出したとは言え、交通弱者。
 
 先輩を乗せた自動車は、ありゃーみーん すぴーどしどぅ みゃーくびょーいんかい。(通常では、考えられないスピードで宮古病院へ向け疾走する。)4月に採用されたばかりの宮古署の警察官が運転するパトカーにぶちあたっていた。ばらうとぅん しらいん 事故!(笑えん事故だ!)
 
 宴会の2次会はイーザトのスナック「レディー」と決まっていた。誰かがカラオケをがなるとマドラーでステンレスのアイスペールを叩いて応援する。そのうちカウンターのなかから金属製のものを物色し、おのおの叩き出す。
 
 しばらく通ううちにカラオケが始まるとママがそっと鍋をテーブルに置く。今や、使い物にならなくなった鍋。ママの無言の抵抗だ。んまかま ふぐぅんふぐぅん てぃぬ なびぃぬぅ ぷかぬぅ かにがらゆ たたきやー ならんっ!てぃぬぅ くとぅっつぁ!ふがます んまりがまゆ!(ぼこぼこになった鍋以外の金っけのものをぶったくんじゃーねーぞ!ということらしいのな!)
 
 宮古勤務でオトーリと宮古民謡を習得した先輩。3年の刑期を終えて那覇へ転勤していった。しかし、3年間で染みついた宮古の習性はぬぐい去りがたく、水曜日ともなると、就業後の職場で課長の机の前に陣取り、ビールで乾杯しながらナリヤマアヤグを朗々と絶叫するのだった。宮古の後遺症?
 ちなみに先輩は、親が今帰仁出身。立派な やんばらー!

『新城 松(しんじょう まつ)』ぬ 話(ぱなす)

カニ(平良出身)

 最初に「新城松」のことを知ったのは國吉源次氏著の『宮古民謡工工四』を読んだときだった。その書の最後の章に書かれている。
 
 明治38年5月22日、「新城松」という者は、城辺町吉野海岸に友利金戸野と打ち網漁をしに出かけたときに、ロシアのバルチック艦隊を見つけ、それを報告しに、平良にある島庁まで馬に乗り、往復40kmの暗い道のりを食わず飲まずで、ただひたすらお国のためにと労を投げた人物であるということだった。
 
 つまり宮古島・吉野沖を走る黒船集団・ロシアのバルチック艦隊第一番目の発見者であったとのことだ。「新城松」の黒船情報は、久松の漁師らに伝えられた。そうしてこのことは、久松の5人の漁師らの漕ぐサバニで、石垣島の電報局まで伝えられたとのこと。
 
 命がけの船旅をした久松の5勇士は英雄として日本政府から表彰されている。しかしながら、この5勇士の影には、もう1人の英雄・「新城松」が隠れていたのである・・・そのような内容の話だった。
 
 この話を知ってから、六年が過ぎた。ある日、カニは麻姑山書房で古本を立ち読みしていた。古本屋のご主人がある一冊の本を見せた。
 
 「カニさん、この書に興味はありますか?もしも興味があるならただであげますよ、その書を書いた人の子どもさんから頼まれております。そしてカニさんがその書を貰ったら、私はそのことをその子供さんに伝えなければなりません」・・・その子供さんは「どういう方がこの書に興味をもたれるのか興味がある」とのことだった。
 
 その書の名前は『隠れたる偉人』という書と『とこしえの東底原』であった。書かれた人の名前は、砂川泰信氏であった。砂川泰信氏は城辺町・東底原に明治41年に生まれ長年教員生活をし、昭和49年には城辺町の教育委員会教育長を務めた方でもあった。『とこしえの東底原』は、東底原の起源、約240年あまりの出来事をまとめたものである。
 
 砂川泰信氏の想いは『とこしえの東底原』に、『当時の時世の人頭税を苦に、人類無踏の地「東底原」の原生林を切り拓き、新しい東底原の村を築いた「真佐利と妻」の子孫として、東底原の歴史を後世に伝え、その伝統を継承してほしい』という一心で書き留められている。
 
 さて、『隠れたる偉人』と云う書を読んだときに、その「新城松」の生い立ち、あるいはその「新城松」のル−ツの話に触れたときの感動は、今でも忘れることができない。
 
 「新城松」の別名は「西原真津」とも云う。「西原真津」の父の名前は「西原龍之介」といった。詳細は省くが、龍之介は1847年、静岡の清水に商人「西原勇達」の次男として生を受けた。この時代は、まさに日本の国が長い間の鎖国政策から脱皮しようとする胎動の時期でもあった。嘉永6年(1853年)には米国使節ペリ−が浦賀に現れている。
 
 新しい混沌とした世相の中で成長してきた「西原龍之介」には、揺らぐ情勢に対応して生き抜く心構え・・・商人として身を立てていくか、船員として身を立てていくか、二つのうち一つを選ぶ・・・が迫っていた。
 
 「西原龍之介」は常々、日本国内のことに精通し、更に世界のことについても知りたいと願っていた。彼の住んでいる清水には港があった。清水港と呼ばれていた。毎日のように清水港に出入りする漁船や貿易船を眺めていた。
 
 その中に、彼は一隻の機帆船の入港を見つけ、彼の心は踊っていた。この帆船は鹿児島船籍の貿易船・隼瀬丸であった。龍之介少年(15歳)は、自らの力で自らの道を拓く意思を持っていて、勇気を鼓舞して隼瀬丸の船員として乗船したい旨を船長に伝えた。船長もまたこの奇抜な少年の意気を感じ、隼瀬丸の船員を許可した。そうして龍之介の夢は叶えられた。
 
 隼瀬丸は鹿児島を基地として、太平洋沿岸の港に立ち寄り、各藩の荷物を江戸まで運搬するという役割をする帆船であった。「西原龍之介」は鹿児島の船宿場で、そこの主人から倭寇の話を聞いた。こんなことを聞いた。
 
 倭寇は皆薩摩人なり
 
 島津によって動員された倭寇は、沖縄と同じ血縁集落マキヨの性格を持つ民衆である
 
 倭寇の実戦部隊の主力は、隼人の末裔、または古代海人の凄まじい精力を持つ農漁民だということ
 
 琉球の小島や宮古・八重山の島々には、こうした倭寇の子孫と島の人とが入り組んで生活を営んでいること
 
 このような話を聞き、龍之介は「琉球を知りたい。琉球に往復する船の船員になりたい」と未だ見ぬ琉球の国に夢は膨らんでいた。そうしてついに琉球貿易船の船員になったのである。第1回の航海で那覇に着き、さらにそこの宿場で多くの情報を得て、龍之介は「もっと琉球を知りたい、否、その先々の島も知りたい」と日々、彼の胸は膨らむ一方だったようだ。
 
 那覇の宿屋の主人に宮古の事情を聞き、龍之介は乗客として宮古に渡ろうと計画した。宮古行きの船はその当時は貢納船と呼ばれる船であった。明治7年(1874年)、夏の季節風・北風を利用し、船は宮古島へと出航した。翌日、宮古島の港についた。船客は殆どが役人で、家族や関係者が迎えに来ていた。龍之介だけが迎える人もなく、あてになる宿屋もなく、言葉も通じない見知らぬ土地、宮古島の港で途方に暮れていた。
 
 そんな中で田舎に向かう荷馬車を牽いた人に出会い、手招きで「私は旅の者です。泊まる場所がないので、泊めてくれ」とお願いした。荷馬車の主は「ついてこい」と手招きした。荷馬車の主の名前は下地といった。龍之介は荷物を預け、言葉が通じないので無言で歩き出した。
 
 荷馬車の主の下地の家は城辺・新城村であった。長い道のりを裸足で歩いた龍之介は新城村に着いたときには心身共に疲れ果て、言葉を発する元気もなく、そのまま寝込んでしまった。それも長い期間寝込んで休養をするという身体の状況であった。主人の下地氏はこの状況で手厚く龍之介を看病し、自分の事以上に世話をしたようだ。
 
 明治8年(1875年)の夏までに完全に健康を取り戻した龍之介は、下地家の下男として働くことを心に決めた。下地家の家族の一員として一生懸命働いた。彼の素直な性格は下地家の人達にも、新城部落の人達にも快く受け入れられた。
 
 時は過ぎ、明治10年(1877年)には、龍之介は割目(バズミ)(今の吉野部落)の根間蒲の娘・カマドと結婚した。明治11年には長男・蒲戸が生まれた。龍之介は家族を養うために、悪税・人頭税の敷かれる中で、新たな土地を開拓した。明治14年(1881年)には次男・朝光も生まれた。そうしてさらに明治16年(1883年)には三男「西原真津」が誕生した。
 
 龍之介は学問に励む機会を逸し船乗りとしての道を選んだ自分の人生を嘆き、自分の子供らの教育には深く考え込んでいた。明治23年(1890年)には、福里簡易小学校が設立し、勉学を目指す者は士族平民を問わず就学が許可できる制度にはなっていたが、誰も急に入学し勉強するものは少なかった。
 
 そんな中で、龍之介は長男、次男を福里簡易小学校(4年制)に入学させ、卒業後は父の農業後継者として農業経営に従事させた。三男の真津は明治24年に福里簡易小学校に入学し、学業成績も優秀だったことから、さらに高等科のある平良村の学校に入学を許可された。
 
 当時は平良村で高等科の学校に通うには、平良村で部屋を借りて、自炊生活をするのが普通であった。「西原真津」も平良の高等科で学ぶ学生で自炊学生であった。食糧は兄の蒲戸と朝光が週2回運んでくれた。3日に1回は兄らが運んでくれて、週末になると真津は帰宅した。このことはすべて歩いて行われたことだった。週末になると真津が帰ってきて一家団らんの時を過ごすことが家族の楽しみともなった。それほど龍之介は子供らの成長を喜び、期待した。
 
 真津は、1学期の間はこうして家族に、特に2人の兄に支えられ無事に過ごすことができた。上級の学校で勉学に励むことができた真津は、夏休みの帰郷でも、周囲からみれば羨望の目でみられていたに違いない。
 
 そんな中で真津は2学期になると突然、学校には行かないと言い出した。自分が勉強を続けることは家庭経済の破綻に繋がり、一家を破滅状態に陥らせる、しかも父母や兄弟の心からの協力に対しても報ゆるに仇となる結果になるだろう、と心優しい真津は判断したのだった。真津は学校を退学し、一家揃って協力し合って働く道を選択したのだった。このような素晴らしい家族思いの心暖かい真津に成長していた。
 
 勉学の道を断念した真津は大工の道を極め、大工の棟梁となった。それだけでなく、海では打網漁の第一人者となり、暇を見つけては打網漁に出かけた。また、新城村では、兄の農業の加勢をしながら新城村役人の佐事という職に選ばれ忙しい毎日を送っていた。
 
 「西原真津」は新城部落役員(佐事)であるだけにバルチック艦隊についての布令のことは充分承知していた。そんな時に、真津は友達・友利金戸野と吉野海岸に打網漁に出かけたのだった。そしてそこで、まだ見たこともない黒い大きな船が何十隻となく水平線近くを南から北へ向かって走っていくのが見えたのである。
 
 このような中から、ロシアのバルチック艦隊第一発見者・宮古島新城村「西原真津」は生まれたのであった。「西原真津」は、真津が22歳の時に新城家の娘で入り婿となり結婚し、名前も「新城松」となったのである。
 
 「新城松」・・・「西原真津」・・・バルチック艦隊発見と共に自らを公のために犠牲にして報告に行った心と体の強靱さ、宮古で一校しかない平良村の高等学校に入学したその意志とその高い能力、自分のことだけではなく両親や兄弟のことを案じる心の優しさ、高等学校は中退したがすぐに建築技術の修得に専念し、大工の棟梁となり活躍する先見の明、「新城松」ほど、当時の青年として高傑な人格を備えた人物はいなかったことだろう、とカニは思う。
 
 カニは「新城松」のことを調べて本当に心暖まる思いがした。それは「新城松」の中により人間的で暖かいこころを感じたからだと思う。
 
 学生時代にカニはノ−ベル賞受賞生物学者で、パリ・パストゥ−ル研究所長であられた、ジャック・モノ−氏の書『偶然と必然』を読んだ。その書の中で、モノ−氏は人間の最高の資質を、勇気、愛他心(他の人の幸せを思う心)、寛容、創造的野心と云っていた。カニは「新城松」「西原真津」という人物の中に、そんなものを感じ心から感動していたのであった。
 
 んきゃ−んからどぅ みゃ−くんな ぱいぬくにからまい にすぬくにからまい うぱ−さぬ きむかぎ ま−ぴとぅぬきゃ−がどぅ ぱいじきしうずや−(昔から宮古には南の国からも北の国からも沢山の心の綺麗な真の人間らが入ってきていますね)
 
 あがいたんでぃ 真津がま あってぃ 真津がまぬ うや− うう゛ぁた− まんてぃ いんがなす ま−ぴとぅ ど− (真津さんとそれに真津さんのお父さん、あなた達は本当に心の優しい真の人間ですね)
  
 このことを調べて、カニは1200年代から1500年代頃に倭寇と呼ばれる九州の古代海人らが、先島にもやってきて自らの中継基地を作り、その中で帰れなくてそのまま南島に残った方らがいることを知った。
 
 南の島に残った倭寇の方らは、元来の島の人と結婚したりして子孫繁栄していることも知った。彼ら倭寇の中継基地は、宮古島では例えば保良、砂川(上比屋山)、宮国、与那覇、川満などにあったと云われ、その遺跡も残っている。また石垣島の川平部落、竹富島、西表島の祖内など多くの遺跡が残っているようだ。
 
 宮古島が初めて中国の書・『元史』仁宗記と『温州府志』に登場するのは実はこの頃である・・・波羅公管下密牙古島人六十余人新嘉坡に交易に赴きたる帰途逆風に遭い、その中十四人温州に漂着す・・・・
 
 #参考図書
 『宮古民謡工工四』 國吉源次 著
 『平良市史』第3巻
 『宮古島庶民史』 稲村賢敷 著
 『隠れたる偉人』 砂川泰信 著
 『とこしえの東底原』 砂川泰信 著 砂川博美 編
 『琉球諸島における倭寇史跡の研究』 稲村賢敷 著

おしらせ

ポストカードアート展 ぴん座 -PINZA-

PINZAプロジェクト

 電子メールで瞬時に連絡が取れる時代に、あえてスローなコミュニケーションツールとしてのポストカードの価値を再発見し、ポストカードが持つさまざまな魅力を見直してみたいと考え「ポストカードアート展」を企画しました。
 
 文化系イベントの振興、宮古発の新しいアーティスト発掘を通して、宮古島の文化・観光を、アートの側面から応援していきたいと思います。
 
 写真、イラストをはじめ、手書き作品、毛筆、漉き紙など、各アーティストがポストカードのサイズをキャンバスに、ほとばしる才能と卓越した技能とあふれるアイデアが凝縮した、多岐にわたるテイストで表現されたポストカード作品がそろいました(総展示数、100葉以上)。
 
 来場者の方々にも、この機会にあらためて「手紙を書く」ことの楽しさや味わいを実感してもらいたいと思います。
 
 また、ギャラリー内に会期限定の特設カフェを併設いたします。くつろぎながらゆったりとお楽しみください。

期 間2007年11月1日(木)〜5日(月)
時 間11:00〜19:00 最終日は18:00まで
会 場ギャラリー うえすやー
沖縄県宮古島市平良字下里574
入 場無料

第四回「エッセイ賞」作品募集

 今年も「エッセイ賞」の作品を募集します。どうぞ、みなさん、ふるってご応募ください。お待ちしています。

テーマ一般=自由選題
中・高校生=「いま、思うこと」
内 容一般(1800字程度)
中・高校生(1600字程度)
趣 旨今回は一般を自由選題とし、中・高校生のみにテーマを
設定しました。将来の夢、友情関係、家族のこと、学校のこと、
地域のことなどを自由な切り口で表現することにより自分を
取り巻く環境に対する関心を高めてもらいたいというものです。
主 催宮古ペンクラブ・宮古毎日新聞社
締切り2007年11月10日
受賞者発表11月下旬
表彰と祝賀会12月1日(受賞者には正賞と副賞)
宛 先宮古ペンクラブ事務局
沖縄県宮古島市平良西里338ワイド企画
電話 0980−72−8828 FAX 0980−72−3164

編集後記

松谷初美(下地町出身)

 桜の葉も色づき始め、秋の気配が漂う東京です。
 
 9月29日の教科書検定撤回を求めての11万人抗議の模様は、東京の新聞でも一面トップで報じられました。三面では、沖縄の高校生の「教科書の中のたった一行かもしれません。しかしその中には失われた多くの尊い命があるのです」というメッセージも紹介されていました。心に つうつう(強く)響きました。宮古でも、2500人が集まったとのこと。この思いの全てが届きますようにと願っています。
 
 宮古各地の学校の運動会は、今年も賑やかだったことでしょうね。運動会の ずぶん(シーズン)といえば、宮古で「サシバ」は切り離せません。
 
 宮古の中でも特に いらう(伊良部)はサシバが やまかさ(多く)飛来します。菜の花のサシバの話は、あの頃の切っても切れないサシバとの関係が生き生きと描かれていますね。思い出が蘇った方も多かったのでは。
 
 神童を取り巻く人間模様は、ありゃーみーん(ありえない)ようなことが多いけれど(ホントになんでそんなに多いの?)、熱くて、うむっしで(面白くて)、優しくて・・・やめられません(笑)まだまだ続きます。
 
 カニさんの「新城松」さんのお話しは、時代を遡る長編力作でしたね。久松の五勇士の話はつとに有名ですが、影にこのような人がいて、そしてそこには海を越えた深い物語があったんですね。とても感動しました。
 
 おしらせは、二通届きました。
 
 ポストカードアート展、だいず上等企画ですね〜。PINZAプロジェクトのメンバーには、掲示板に時々書き込みをしてくださる、D介さんもいますよ。そして、くま・かまライターのさどやませいこさんやミュージシャンの、のひなひろしさんたちも出展するとのことです。ぜひ足をお運びくださいね〜。
 
 「エッセイ大賞」では、過去に、くま・かまライターのクイチャーマン(垣花譲二)さんやあば本舗(国仲洋子)さんが賞を取ったことがありますね。(これ自慢!)みなさんもぜひふるって応募してくださいね。
 
 くま・かまでも、みなさんの投稿をお待ちしていますよ。
 今号のご感想もお寄せくださいませ。まちうんどー(待ってますよー)
 
 前号で、次号の予告は11月1日になっていましたね。まつがいでした。もう、ホントに私ったら。最近、あんちぬ くとぅ ちゃーん(そんなことばっかり)どぅまう”わして(迷わせて)ごねんなさいね。
 
 では、次回10月18日(これは間違いなし!)にお会いしましょう〜。
 あつかー、またいら!