くまから・かまから vol. 158

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 こんにちは〜。
 朝晩、ひんやりするようになりましたねー。ぞうかりうらまずなー(お元気ですかー)?
 今回も、いろいろな話が満載のくま・かまですよ。お楽しみくださいね〜。

クイチャーを踊ろう

クイチャーマン(下地町那覇出身)

 「第6回クイチャーフェスティバル2007」が、11月4日午後4時から8時までの予定で、平良のカママ嶺公園多目的広場で開かれる。
 
 日曜日の午後、野外の広い会場での開催とあって今年も ましぇーんぬ(大勢の)島内外のみなさんの参加で盛り上がることだろう。昨年は過去最高の29団体、1,400名の出場者、5,000名の観客だったという。
 
 このクイチャーフェスティバルは、去る3月、財団法人地域活性化センターの「第11回ふるさとイベント大賞」で大賞・優秀賞に次ぐ「奨励賞」に輝いた。全国の自治体推薦による211のイベントの中から上位7団体に選ばれての受賞だったとのこと。審査基準の「独創性」「地域資源活用」「住民参加」「文化創造」「経済効果」など、いずれの項目でもクイチャーフェスティバルの評価が高かったのが伺える。主催している実行委員会をはじめ出演団体、関係者にあらためて祝福の拍手を送る。
 
 今年のフェスティバルのチラシには、副タイトルとして「根(ニイ)から枝(スゥラ)枝(スゥラ)から花(パナ)」という文言が添えられている。この言葉の解説や説明はないが、文化や芸能はその発祥の地の栄養を吸収し、その力で伸び、成長発展して花開き、実を結ぶのだということだろう。
 
 チラシの最後の文章は「当日は見るだけでなく、一緒に踊りましょう!」と呼びかけている。まーんてぃー、あんしーだら!(本当に、その通りだ!)と私も思う。クイチャーは実際に踊ってみてこそ、その、ぴるます(不思議な)魅力を理解・確認し、納得することができる。「見ているだけでも元気をもらえる」という人もいるのはうれしいが、人生そのものが変わる場合もあるほどだ。ばがにゃーんしー(私のように)。
 
 クイチャーは、もともと祈りの気持ちを歌と踊りで表現して地域の神様に奉納する役割を担って継承されてきたものと思われる。それが庶民の日常生活の中にも採り入れられ、クイチャーを歌い、踊って歓喜を共有し、分かち合い、あるいは若者の遊びや娯楽として広まっていったと考えられる。
 
 しかし、この数十年の間に各地方に存在していた独特のクイチャーの中には、消滅してしまったのも多いという。その主な原因としては、近代化・都市化の流れの中で仕事や生活、遊び、娯楽の変化と多様化が進み、地域の共同体意識も薄れてきたことが挙げられよう。今日では、献身的な指導者がいて、目的意識を持って取り組まれている地域や団体によって継承され、ミャークヅツなど特別な催しのなかで踊られている。
 
 今後のクイチャーの継承・発展を考える場合、日常生活の中で、例えば新築や出産などの祝いのとき、運動会・学芸会など学校行事で、敬老会・同期会など、さまざまな催しの中で、もっともっとクイチャーを踊っていく必要がある。宮古の義務教育の中ではクイチャーを必修にし、小中学校の教職員の研修課題にもしてほしい。
 
 クイチャーフェスティバルは、クイチャーに触れ、実際に踊ってその楽しさ、素晴らしさを体験する機会である。私は今年もカママ嶺公園のクママ嶺(?)辺りで、座ったり、踊ったり、指笛を吹いたりしている予定である。
 
 ずうー、うぐなーり、まーつきぶどぅら!
 (さあ、揃って、一緒におどろう!)

みゃーくふつ そのなれなれしすぎる距離感

宮国優子(平良市出身)

 まず書いておかないと文章の意味が のーまいすっさーいん(全然わからないかも)と思うので一筆。
 
 知る人ぞ知る(みんな知っていると思うけど・・・)私のみゃーくふつはバリバリ市内ふつです。いわゆるオールみゃーくふつの世界に住んでいるおばぁおじいの言葉は聞けるけど、話せない。市内ふつは強力市内アクセント+若干の方言なのです。文章だとただの日本語に見えますが、読む時は、リピートアフターミー状態で市内ふつバリバリでお願いします。
 
 「くまかま」の素晴らしいオールみゃーくふつを読んで肩を落とすこともしばしばあります。私のみゃーくふつは浅い、浅すぎると。無理して文章中に使うと意味不明だったりする。喋るとうまくいくんだけどなぁと首をかしげる。単に訛りがあるだけなのですね、マイみゃーくふつ。
 
 たまに他の地域の人に「お前のみゃーくふつはみゃーくふつじゃない」とも言われますが、気にしていません。嘘、気にしてます。でも私にとってはこれが「みゃーくふつ、宮古ふつ」なのです。この時代に生きる市内ふつとでも思ってください。だんだんお願いになってきました。
 
 市内ふつはみやーくふつの変化球だけど、誰にでも簡単に使えるというか伝染する。それだけが唯一の特色です。多様性を許してください。よろしくお願いします。さて本文はじまりはじまり〜。(前置きが長い!)
 
 一年ぶりくらいに知り合いに会った。
 
 「あがぃーひさしぶり〜。元気だったかぁ」
 
 彼女の体には市内アクセントが染み付いている。東京出身なのに宮古に長く住むせいかバリバリ市内ふつだ。顔も年々というか、もとからかはわからんけど、宮古化していっている気がする・・・。そういう知り合いがどんどん増えてきている気もします。なんだかうれしい。
 
 彼女曰く「前さ、久しぶりに東京に来たときにさぁ。終電で帰ったわけ。したらさ、ホームの階段の上から人がガラガラと落ちてきたさーね」
 
 人の波が二つに分かれたらしい。下の方にいた彼女の目の前まで落ちてきた。周りの人は驚き、ただ見つめていた。
 
 ほろ酔いの彼女は「はい、にぃにぃ、どうしたかー」と声をかけた。
 
 その宮古ふつに驚いたのか、相手は「大丈夫です」と言い、そそくさと立ち上がって走り去ったという。あははーと彼女は笑った。
 
 「つい宮古ふつになっていたんだよね〜。あんなーときは標準語だとぴったりの言葉が探せんよ」
 
 私は「そうよねー」と相づちを打った。そして膝も打った。あーこれだ、ガフ(ぴったり)だ!私が感じていた標準語と宮古ふつの大きな違い。このなれなれしさや距離感が標準語ではなんとなく難しいのだ。
 
 特にふと人に優しくしようとするとき、すごく悩む。電車で席を譲ろうとするときなど、少し離れたおばぁに「こちらどうぞ」と大きな声で呼ぶのがドゥグリーで(恥ずかしくて)できない。席を立っている間に横入りされてしまったりするし。
 
 宮古ふつなら「おばぁ、こっちにすわるか?」と大声で聞いてから立ち上がればいいはず。横入りしたら「あがぃ!あんたじゃないよ、あのおばぁだよ」と言えそうな気がする。
 
 でも標準語が んば(嫌だ)とか悪いとかではない。いろいろな人が話す言語としてはこの遠慮しぃな感じが絶対必要だと思う。ただ私が感情表現の域まで達していないのかもしれない。感情を入れて話そうとすると宮古ふつオンリーになって、耳障りがたぶんズキバキ(ひどく傷つける)だはず。
 
 「そうか、宮古ふつは丁寧な言い方がないのね」と勘違いされると困るので書いておきますが、市内ふつでもおじいおばぁなんかは素敵な敬語を使う。とても上品だ。残念ながら私はうまく使い切れない。修行が足りん。そんな言葉が普段の生活になかった悲しき世代かもしれません。核家族のせいです。その脳みそを今は標準語習得にまわしています。
 
 宮古以外の場所で話す宮古ふつは、まるで何かの暗号みたいだ。相手の「あがい」という言葉と声色だけで、すべてが理解できたりする。
 
 宮古ふつが第二言語のその友人と話していると、言葉は生き物だなぁと感じる。そしてその話す言葉は個人の生活はもちろん、世間や社会情勢にも直結していると思う。
 
 宮古ふつの可能性はどこまでも広がっている・・・てぃーすっす。
 
 私の宮古ふつだけが発展も成長も のーまいにゃーん!

願いの風景

ビートルズ世代のサラリーマン(平良出身)

 宮古島にはたくさんの御嶽がある。御嶽はたいていこんもりと茂った林の中にあって、がじゅまるなどの大木の根元に無造作に香炉などが置いてあったりする。

 そこは、神聖な空気が充満している不思議な空間だ。その空間に一歩足を踏み入れると神々と会話が交わせるのではないかと思える程、神々を身近に感じる。御嶽は神々が降臨してくる神聖な場所なのである。
 
 宮古の人々は実に様々な願いをしに御嶽にやってくる。
 
 「とーとぅ かんがなす 商売がうまくいくように」 
 
 「子宝を授かるように とーとぅが とーとぅ」
 
 「とーとぅ かんがなす 大和に行った孫が困らないように」 
 
 「高校に受かるように とーとぅが とーとぅ」エトセトラ・・・
 
 やらびぱだ(子供の頃)よく祖母や母に同行して御嶽に行った。祖母と母は、幾日も前から準備をする。まず、願う目的によって巡る御嶽を決める。例えば、学業成就の願いなら下地の「つぬじ御嶽」をメインにその周りの御嶽を巡る。次に、行く ぴかず(日にち)を決める。ぴかずを決めるにもいろいろ決まりがあって、神願いに詳しい知り合いに相談して佳き日を選ぶ。
 
 お供え物は、あらいぐみ(洗い米)、さき(泡盛)、まーす(塩)の3点セットを用意する。親指の頭大の備え餅を用意する場合もある。それから、マッチ、線香(平香)、ロウソク等を用意する。意外と重宝するのが新聞紙である。風が強く、なかなか線香に火がつかない場合、新聞紙を広げて風除けにしたり、新聞紙を燃やしてそれで線香に火をつけたりする。
 
 なにしろ、大量の線香を使用するのである。風の強い日は意外とこの作業に手間取るのである。それから、風にあおられ火事にならぬよう、あらかた願いがすんだらお茶や水をかけてちゃんと火の始末を忘れない。宮古のおばあ達は、我々子供にもてきぱきと手伝いの指示する。御嶽でのおばぁ達は、とても生き生きしている。
 
 拝む者達の焚く線香の煙が木漏れ日を透して漂っている。かんにごう(神願う)おばぁ達の祈りの言葉が低く静かに流れる。リズムを取るように手を合わせ、擦り合わせ、最後は手のひらを上に向けささげるように かみると「とーとぅが とーとぅ」と長い祈りを締めくくる。これでまた明日から、うむやすーと(安心して)生活できるねーと、おばぁ達は晴れ晴れとした表情で帰途につくのである。
 
 城辺の西里添にある「びまる御嶽」は一風変わった御嶽である。子供の頃、親父に連れられて1〜2回行っただけなので正確な場所は分からないが、畑の脇の細い道を辿っていくと、程なくこんもりとした茂みに行きつく、そして洞窟のような祠の中には石の柱が土に埋もれるように立っている。
 
 この御神体は子宝に恵まれるご利益があるといわれ、洞窟の奥にはしとねのような平らな岩棚があって、ここで愛の営みを行なえば子宝に恵まれるのは間違いないという話しを子供の頃聞かされ、ドキドキしたのを覚えている。
 
 石柱の真上を見上げると何メートルもの堅い岩盤を貫いて丸い穴が開いている。石柱は天から落ちてきた、つまり隕石だともいわれている。子宝に恵まれるのは、その隕石から放射される微量な放射線のせいなのでは−という説もある。
 
 少々、話しは脱線してしまいましたが、宮古島の御嶽にはそれぞれに伝承されている由来、伝説があり、面白い。そして、宮古の人々はそんな御嶽を大切にし、なんにつけても神に拝む。
 
 私にもそんな宮古のDNAが受け継がれているらしい。最近、毎朝通勤途中にある湯島天神で手を合わせ拝むようになった。やらびぱだに聞いた、おばぁの かんにごう(神願い)を思い出して、みゃーくふつで願う。「ぶず、ぶず、ぶず、ぶず、とーとぅが とーとぅ!」。
 
 果たして、湯島天神の神は、ばが みゃーくふつぬ にがいゆ(私の宮古方言の願いを)理解できているのだろうか。

八重山移民

R(平良出身)

 父が、39歳、母が37歳の時に なすきしゃー(末っ子)として生まれた私には既に父方のおじー、おばーは他界し、母方のおじー、おばーも一緒に住んでいなかったので、おじー、おばーの存在は遠いものだった。
 
 姉や兄の子ども達に接するおとーとかあちゃんのおじー、おばーぶりを見て、自分も孫としての立場を擬似体験していたように思う。
 
 両親が亡くなり、宮古に実家がなくなった時に、両親との繋がりを求めての行動なのか、んきゃーんぬ(昔の)話が聞きたくなり石垣島に住む叔母を毎年、夏に訪ねている。
 
 叔母から語られるおじー、おばーの話は、これまで聞いたことがなかった話(実際聞いているが興味が無く聞き流してしまったのかもしれないが)ばかりで、知らなかった、また、知ろうとしなかった自分に気づいて本当に驚くばかりである。
 
 おじーは、宮古島で外腹の子として農家に生まれ、おばーと結婚し子どもを育てた。生活は、貧困を絵に描いたものだったことは容易に想像される。おじー、おばーは、4男4女に恵まれたが、次男を養子に出し、長女・次女(私のかあちゃん)・三女・長男と4人の子ども達が結婚して独立した後、当時、中学2年(三男)と小学6年(四男)の息子(叔父達)と小学2年(四女)の娘(叔母)を連れて1955年に宮古島から石垣島下地集落への入植者となった。
 
 1952年から57年にかけて琉球政府は、計画移民を推進し、八重山には22部落が形成されたという。今でも石垣島には多良間島からの入植が行われた「多良間」という集落が残っている。八重山の他、ボリビア・アルゼンチン・ブラジル等への移民が行われた時代だ。
 
 八重山・石垣島は、今般の沖縄離島ブームで全国に発信されているとおり、もっとも自然豊かな場所である。それだけに自然との共存も大変なものとなる。マラリアなど風土病が猛威をふるう中、台風や干ばつと闘いながら、荒れ地を開墾してきた。小学2年の叔母も いみっちゃぬ(小さな)鍬を持って石がごろごろ出てくる土地を耕したと話し、当時の苦労を振り返った。
 
 あれから50余年、いとこ夫婦が、数年前、小学5年(長男)と2年(長女)の子どもを連れて沖縄本島から石垣市内へ、そして「多良間」へ引っ越した。いとこ夫婦の母校で子どもたちが通う野底小学校は、現在、在校生、35人程の複式学級。(入植当時は、野底小中学校で350人ほど生徒はいたようだ)
 
 やっと1チームができるメンバーしかいない野底小学校の野球チーム(いとこのご主人が監督でもちろんいとこの子ども二人も参加)の練習を見学した。人数は少ないが、その笑顔に心が浄化される気持ちになるのは、私だけではないはず。校庭に響く元気な子どもたちの声だが、すぐにまわりの静寂に吸い込まれる。
 
 おじー、おばーの人生の一部となったこの地に身を置けば人間の力のなさをまざまざと感じ、自然に従って生きる人間の原点に返るような気がする。

編集後記

松谷初美(下地町出身)

 vol.156でおしらせした、マツカニさんの三線教室(琉球民謡伝統協会神奈川支部)の発表会が7日に神奈川であり、14日は、関東宮古ふるさとまつりが東京上野でありました。どちらも宮古や内地の人たちで大賑わい。まーんてぃ すごかったどーや。
 
 マツカニ三線教室のみなさんは、習い始めて1年とはとても思えない素晴らしい歌、三線でした。菜の花も堂々と三線を弾き、楽しそうに歌っていましたよ。沖縄から本部のみなさんも応援にかけつけ、民謡、琉球舞踊などを披露。琉球芸能の素晴らしさを堪能しました。
 
 14日の「第34回関東宮古ふるさとまつり」は、例年のホテルの会場ではなく、去年までアララガマフェスタをやっていた、上野水上音楽堂という野外の会場でした。1000人以上の人が入ったそうです。「なりやまあやぐコンテスト」が開かれたり、各郷友会の踊り(下地の「与那覇ヨンシー」の ぶどず(踊り)に私も初参加)があったり、クイチャーパラダイスさんのステージ、下地勇さんの歌で大盛り上がりでした。勇さんの歌は、ふるさとまつりにぴったりの選曲で会場を大いに沸かせました。
 
 会場では、泡盛を片手に再会を喜びあったり、歌に合わせて歌ったり、踊ったりと だいず賑やかでした。私も思いがけない人に会って、懐かしさとうれしさで、感極まっておりました。うう。
 
 当日は、くま・かま本も販売させてもらって、たくさんの方に買っていただきました。たんでぃがーたんでぃ〜!会場で、くま・かま読者の方とお会いできたのも ぷからすむぬでした。
 
 ふるさとてぃ まーんてぃ 上等ぬ むぬやー(ふるさとってホントにいいものだなー)と思った一日でしたよ。
 
 さて、さて、vol. 158 や のーしがやたーがらやー。
 
 クイチャーフェスティバルももう6回目になるんですねー。奨励賞の受賞おめでとうございます。クイチャーマンさんは、若い頃に國吉源次さんからクイチャーを習い、その魅力に引き込まれたそうです。それから36年、うまかまで(あちこちで)踊ってきたとのこと。「クイチャーのおかげで、私は人生が明るく、前向きに変わったといっても過言ではありません」と話していました。ハンドルネームがクイチャーマンというのもうなずけますね。クイチャーフェスティバルぜひおでかけください〜。
 
 優子さんの みゃーくふつの距離感の話、分かりますね〜。ホントに宮古の人は近い!初めて会う人でも、みゃーくふつでならすぐ、うつーうつぬ(親しい)気持ちになれる。宮古なまりの標準語もまた味わいがあっていいですよね。優子さんの平良アクセントが聞えてきそうなお話でした。
 
 ビートルズ世代のサラリーマンさんの「願いの風景」は、その風景が目の前に広がっているような、こう(線香)の かざ(匂い)までしてきそうな感じがしましたね。おばぁたちの手の動きの描写に、まーんてぃ あんちーやー(ホントにそうだねー)と思いました。「願いの風景」は、「宮古の風景」でもありますね。
 
 Rさんは、今回「八重山移民」の話を書いてくれましたが、くま・かまで移民の話が出たのは、初めてです。興味深く読んでいただけたのではないかと思います。移民は、そんなに んきゃーんぬ(昔の)話ではないんですよね。Rさんのおじいちゃん、おばぁちゃんを思う気持ちもいっぱい伝わってきましたね。
 
 しまいぎー ゆみふぃーさまい たんだぃがーたんでぃ〜(最後まで読んでくださって、ありがとうございました〜)
 
 今号の感想もぜひお寄せくださいね。
 投稿もどんないお待ちしていますよー。
 
 では、次回は11月1日にお会いしましょう〜。
 次回もお楽しみに〜。あつかー、またいら!