くまから・かまから vol. 170

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 こんにちは〜。 170回目のくま・かまです。
 きゅうまいゆみふぃーさまいたんでぃがーたんでぃ〜。(きょうも読んでくださってありがとうございます〜)
 今回も、いろいろなぱなすお送りしますよ。

みゃーくぴとぅ(宮古人)が行く−(1)ドクター・あがぃがくがぃ編

あば本舗(下地出身)

 ドクター○貝は、当センターの有能な心臓血管外科医。昼夜を問わず運び込まれてくる救急患者(動脈瘤破裂や心筋梗塞)を助けるべく日々奮闘している。出身は宮古島市平良。
 
 自己主張が強く喜怒哀楽が うかーすきなり(とーっても)はっきりしている まーだぬ みゃーくぴとぅ(ほんまもんの宮古人)だ。思ったことをズバズバ口にするので最初は怖かったりするが、後がなくさっぱりしているので慣れると気楽なもんである。
 
 そんな彼を私たち宮古出身の看護師は、親しみを込めてドクター・あがぃがくがぃと呼んでいる。
 
 ある日、動脈瘤の手術を控えた患者・家族へ病状と手術についての説明を行うことになった。
 
 患者さんは、これまた宮古出身の60代後半の男性。若いころから大酒飲みで大の煙草好きという生活習慣の末、家族には愛想をつかされ病に冒された。
 
 で、説明を聞きに集まったのは家族ではなく、本人が働いている建設業関係の親戚数名。もちろん、集まったのは全員 みゃーくぴとぅ(宮古人)という濃〜い図。
 
 通常、手術前の説明は術式や使用される物品・器具(人工血管など)についても、患者家族が納得いくように時間をかけて行われる。こういう場での本人・家族は、表情は硬く痛いほどの緊張感が漂っているものである。中には感情が高ぶって泣き出す家族や患者もいるほどだ。
 
 しかし、ばんたがみゃーくずま(私たちの宮古)の人びとは違う。もちろんドクターの説明をみな神妙な面持ちで聞く。今回も最初は静かだった。「○○さんの血管は、動脈瘤が大きくなっていて放っておけば破裂の危険があります。そこで手術によって人工血管という新しい血管と取り替えます。」
 
 説明を一通り終え、何か質問は?と訊ねたところ、急に座がざわめきだした。
 
 あがいんにゃ しんぴん血管とぅどぅ交換っすっちゃー!
 (おぉー 新しい血管と交換するんだってさー!)
 
 がばどぅゆどぅ しんぴんかい なすてぃぬばーなー?じょうとうさぃが。
(古い身体を 新しくするってわけだな?いいーじゃないか。)
 
 あがぃ すぅーじゃぎむぬ ばんまい 手術ゆしらいみーぶすむぬゆー!
 (あぁ 羨ましいな。俺も手術されてみたいなー!)
 
 通常はまるで勉強会かお通夜のようなムンテラ(医師の説明)の場が、あやうくオトーリでも始まりそうな賑わい方で終わった。笑いをこらえるドクター・あがぃがくがぃ。
 
 手術という人生の一大事に立たたされているというのに、深刻な雰囲気が殆どない。みゃーくぴとぅの、スコーンと抜けたような逞しさと明るさに出会うたび、ドクター・あがぃがくがぃはニヤリと笑っちゃうのである。

かじふき°のぱなす(台風の話)

ビートルズ世代のサラリーマン(平良下里出身)

 沖縄は台風のメッカである。その中でも宮古島近海は台風銀座と呼ばれ、これまでに数多くの大型台風に見まわれている。
 
 遥か南方洋上フィリピンの東海上沖で発生した台風は、発達しながら北西に進み、宮古島近海付近でその進路を北または北東の方向へ変える。その向きを変える地点を転向点といい、台風の一生の中でも最も発達し勢力が増す時期に当たる。
 
 更に、この転向点付近ではスピードが極端に遅くなるため、猛烈な暴風雨に長時間さらされる事になる。その結果、宮古島は観測史上稀に見る超大型台風が過去幾度と無く観測された場所となっている。
 
 中でも、1959年のサラ台風(宮古島台風)、66年のコラ台風(第2宮古島台風)、68年のデラ台風(第3宮古島台風)は超大型で、宮古島を直撃し、家屋や農作物に甚大な被害をもたらした。
 
 幸か不幸か、私はこの3大台風を3つとも体験している。それぞれ、小学2年生、中学3年生、高校2年生の時のかじふき°(台風)である。
 
 サラ台風の時は、平一小学校の木造校舎が倒壊し2部授業を経験している。(教室が足りないため、午前中は低学年、午後からは高学年に分かれ教室を使用し、授業を受ける事から2部授業呼ばれていた)。
 
 教室を使用しない場合は、がざまぎー(がじゅまる木)の下に机を並べ青空の下で授業を受けた。授業中にバッタや蝶々が飛んできたり、涼しい風が吹いてきたりとやたら楽しかった記憶はあるが、台風そのものの記憶はあまり無く、台風一過の青空の下、濡れた畳や衣類を乾かす光景を覚えている程度である。
 
 それに対し、66年のコラ台風は、中学3年の夏だったので鮮明に覚えている。我が家は丁度、鉄筋コンクリートの家を建築中だったので、その未完成の家へ避難した。鉄筋コンクリートといえども、窓という窓の雨戸はまだ一切取り付けられていない。薄いガラスの窓のままである。
 
 荒れ狂う外の模様が さらーと(はっきりと)見える。気圧の関係か、つうかじぬ(強風が)吹くたびにガラス板がしなるのが分かる。風は益々つーふなり(強くなり)地鳴りのような うとぅるすき(恐ろしい)音がして一段と風が強くなったその時、もの凄い音とともにガラスが割れ、雨と風がどっと家の中へ押し寄せた。
 
 「あがんにゃ!」やーでぃや(家族は)大パニック!でも、さすが 父ちゃんは落ち着いている。「まどぅから ぱなりる!(窓から離れろ)」と叫ぶや、げんのうと5寸釘を持って、んざがら とぅみき°すたーが(何処から探してきたか)板を がんまがんまと(がんがんと)打ちつけた。
 
 なるべく窓から遠い奥の部屋へ うがなーり(集まって)、かじぬ とぅりる(風の止む)のを待つ。あすが(しかし)風はやむどころか益々激しくなって行く。ローソクの あかす°(灯り)の中でうとうとしていると、今度は2階の窓が割れて、滝のような水が階段を伝って流れてくる。一難去ってまた一難。まるで映画ポセイドン・アドベンチャーみたい。
 
 これもなんとか応急処置し うふしゃがまと(やれやれと)一息つくが、こちらを修理したらあっちの窓ガラスと息付く暇もない。その度に、父ちゃんは板を打ちつける。
 
 一段と風が強くなって、多分夕方頃だったように思う(台風の中では昼夜の記憶が曖昧になる)。隣のAやー(家)が避難してきた。雨風が吹き荒れる中、塀を乗り越えての決死の避難だ。家と家との間を抜ける風は やーばし風(家端風)といって一段とその勢いが増すが、まさにその やーばし風の中での避難である。
 
 雨はその猛烈な やーばし風のため霧状のしぶきとなって吹き付ける。梯子を登り必死なってこちら側にやって来る子供達が、塀の上でとばされそうになっている。着ている服がちぎれんばかりにはためいている。こちら側から抱きかかえるようにして降ろす。一人また一人。全員無事避難し終わる。
 
 「うばいがうばい(やれ、やれ)怖かったねー」と恐怖と寒さで紫色になった唇をひきつらせていると、誰か裏戸を叩くものがいる。開けてみると、まいばら(向かい)のMやー(家)のオバサンと みどぅんやらび(娘)達がずぶぬれで立っている。お父さんと びきふっふぁ(息子)達はと聞くと「父ちゃんに一緒に ぴんぎよー(逃げよう)といっても、んばと がんなりて(絶対嫌だと頑として)きかん」そうだ。「お願いだから、ばんたが父ちゃん達もいってさーりてきて(行って連れてきて)」という。
 
 私と父が行くことになった。外に出て表の凱旋通りの様子を窺うが真っ暗で何も見えない。猛烈な風と雨の中、風が一瞬弱まる風と風の継ぎ目のタイミングを計るようにしてはって進む。もの凄い音がするので身をすくめると みーぬまいゆ(目の前を)トタン板がガラガラと恐ろしい音をたてて飛んできて、あっという間に暗闇に吸い込まれていった。
 
 死ぬ思いでやっとがま、辿り着いて やどぅばす(雨戸)をたたいて、同級生のYちゃんに救出に来た旨を告げると、暫くして帰ってきた返事は「父ちゃんは んばと(嫌だと)言っている」、「くぬやーゆ(この家を)守って死ぬ」そうだ。あがんにゃ、そういう硬い決意ならば引き返すしかないと、私と父ちゃんは また 恐怖の匍匐前進を繰り返し、とぅんまーりて(とって返して)帰った。
 
 多分その後、台風の目の中に入って、かじがとぅり(風が止まり)暫くして猛烈な返し風が吹いて長い長い夜が明けて、台風は去っていったのだと思うが、私は、あの匍匐前進の疲れで寝てしまっていた。
 
 目が醒めると、あの恐ろしい風は去っていた。窓からは巨人が大暴れしたかのような みなか(庭)の風景が見えた。きーやぶり(木はへし折れ)ブロック塀は かたうきて(傾いて)いた。そして、隣近所のみんなが家から這い出してきた。「うこーす つー かじどぅ やーたーやー!(凄い強い風だったねー!)」と口々に叫びお互いの無事を喜び合った。そして、あの同級生のYちゃんの家もなんとか壊れずに建っていた。
 
 あれだけの猛烈な台風にも係わらず、亡くなる人が極端に少ないのが宮古島の台風の特徴でもある。これは台風について詳しい知識や台風対策をしっかり行うからだといわれている。
 
 大人達はよく、外に出ては「んなまや(今は)、かじや(風は) ぱいかじやーすが(南風だが)、すだいん(次第に) あがす°んかい(東へ)まあり(変わって)くぬつぎや(今度は)にす°かじぬど(北風が)つーふなす°どー(強くなるぞ)」等といってその方角の戸締まりを強化をしたりする。台風の進路によって、どういう風が吹くかを知っているのである。
 
 台風は農作物にも大きな被害を与える。収穫を間近にしたさとうきびや野菜が一瞬にして風になぎ倒された畑の前で呆然と立ちつくす農家の人々。それでも、宮古の人々は「あららがま!(なにくそ!)」とかけ声をかけて、屋根を修理し、電柱を元に戻し、ぱりを(畑を)耕しまた新しく作物を植え付け始める。
 
 しかし、自然は過酷である。コラ台風の僅か2年後、またしても大型台風デラに見まわれるのである。それでも人々は「あららがま!」と立ち向かう。決してあきらめる事は無い。「あららがま魂(だましい)」である。
 
 この宮古の人々の不屈の精神は台風が生み出したと言えるのではないだろうか。自然災害は確かに辛いがそれと向き合うことで、自然の偉大さを知り、立ち向かって行くことで生きていく勇気を教えられているような気がする。
 
 長年大和に暮らしていると、あの台風の感触というのもすっかり忘れてしまっている。台風はこっちにもやって来るが、こちらに来る頃にはすっかり勢力を弱め、もの凄いスピードで駆け抜けていく。そんな台風でも熱帯低気圧の湿った空気を遙か彼方から運んできてくれる。湿った空気の中に、あの宮古島で嗅いだ南国特有の甘い匂いを感じ懐かしくなる。
 
 そんな時は、遙か2000キロ南方洋上に浮かぶ、ばが(私の)すまゆ(島を)うむい(思い)外に出て思い切り ぱいかじ(南風)を吸い込む。
 
 最後に「宮古島」と名称のついた台風の観測値を紹介して終わりにしよう。どれだけ猛烈な台風だったかおわかり頂けると思う。

1959(S34).9.15宮古島台風(サラ)
最大風速53.0m/s南西
最大瞬間64.8m/s北
最低気圧908.1hpa
被害数死者7 重軽傷者83 住宅全半壊5174
1966(S41).9. 5第2宮古島台風(コラ)
最大風速60.8m/s北東
最大瞬間85.3m/s北東
最低気圧928.9hpa
被害数死者0 重軽傷者30 住宅全半壊2977
1968(S43).9.22第3宮古島台風(デラ)
最大風速54.3m/s北東
最大瞬間79.8m/s北東
最低気圧942.5hpa
被害数死者3 重軽傷者10 住宅全半壊2888

 ※「宮古島地方気象台のホームページより」
 
 ちなみに、第2宮古島台風の最大瞬間風速85.3mは観測史上第1位の風速である。

おとうが しーとーやー(父の製糖工場)

松谷初美(下地町出身)

 おとうの自家製しーとーやーが出現したのは、今から10年近く前、キビの圧縮機を入手した時だ。台湾から輸入されたものだそうで、それを っしかた(家の裏方)に備え、だいばん(大きな)鍋と竃と薪を準備して、おとうの しーとーやーが始まった。ちなみに、んきゃーんな(昔は)圧縮器がなかったので、馬の力を借りて絞っていた。
 
 おとうは若いころ、部落にあった しーとーやーの さたにーぐな(砂糖を煮る役回り)だったそうだ。その他に ぴーまーしゃぐな(火の当番)というのもいたそうである。昔は今のような製糖工場がなかったので各集落で作り、それを売っていたとのこと。今はまったくの趣味。さて、昔とった杵柄。何十年ぶりかに黒砂糖を作ったが、かばすーかばすの(香ばしい)上等黒砂糖が出来上がった。
 
 その後は、毎日のように黒砂糖作りに専念。作りたてのものを親戚や近所の人たちに配り、だいず喜ばれた。
 
 黒砂糖の作り方は、まずキビを刈ってきて、それを圧縮機に入れ、汁を絞る。絞った汁を だいばん鍋に入れ、自家製カマドに薪をくべ煮る。アクを取りながら煮詰めていき、石灰を入れる。この石灰の加減で、黒砂糖の出来が決まると言われるくらい、熟練の技が必要らしい。キビの種類によっても匙加減をみなければならず、失敗もあるとのこと。
 
 しかし、またこの失敗からおいしい黒砂糖ができることもある。あみざた(飴砂糖)と言われるもので、柔らかく ゆにく(はったい粉)をまぶして食べると最高だ。でも、初めからこの柔らかい黒砂糖を作ろうとしてもまたできないものらしい。砂糖作りもきびしいのう。
 
 私も何年か前に、おとうの黒砂糖作りを かしーした(手伝った)ことがある。キビを絞り、鍋で煮ている間は比較的のんびりした感じだが、アクを取り、石灰を入れ最後の段階になると一気にあわただしくなる。
 
 短時間でいくつかの容器に移さなければいけないので、あうんの呼吸が必要だ。いつもは、母ちゃんとやっているので何も言わなくても分かるのだろう。でも、私は初めて。容器を出すタイミングがズレたりして、砂糖がこぼれる。あー、あたらか(もったいない)。
 
 おとうは、あちこーこー(熱々)のできたての砂糖をほんの少し私の手に乗せた。はー?熱いんだけどお!?「早く飴を作らんか?」と、おとう。「飴えー?」何のことだかさっぱり分からずに右に左に砂糖を持ちかえる。「母ちゃんは、そうやって作った砂糖が一番おいしいと言うよ」「えー、そんなこと知らんがな」(なぜか大阪弁)「こんなにーと引っ張って、こねていたら白くなるさー、それを作って食べてごらん」。やっと話しが飲み込め、やってみた。「んー、なびぱた(鍋の端で作る薄い黒砂糖)の方がおいしい気がする」(親の心、子知らず)
 
 おとうも子どものころ、大人が作っているそばでこぼれる黒砂糖を取り飴を作って食べていたそうで、そんなこと誰でも知っていると思ったようだった。(わたしゃー、やったことないってばさ)
 
 ともあれ、黒砂糖作りは無事に終わり、あとは固まるのを待った。翌日見てみると砂糖は固まり、かばすーかばすとしている。私はそれを東京に持ち帰り、友人たちに配った。
 
 おとうは、食卓の上に黒砂糖入れの容器を置き、飽きることなく毎日食べている。作ることも食べることも大好きなのだ。
 
 時には、黒砂糖作りを教えてくれと頼まれ、いろいろなところに出かけて行くらしい。私も、「お父さんの作った黒砂糖はおいしいですね」と言われると、ぷからすーと(うれしく)なる。
 
 いつかまた、おとうの かしーをして黒砂糖を作れたらと思う。その時は、少しは、役立つようになっているかな。して、突然、あちこーこーのものを渡されても、びくともせず、飴を作って食べるさね。今度は、それが んまーんま(おいしい)と感じられるような気がしているさー。

魂の芯

菜の花(伊良部町出身)

 今回も老人の話題を書くことを許っしふぃさまちよ〜(許してくださいね)。
 
 のーてぃんざばん(何といっても)ういぴとぅ(老人たち)との毎日は驚きでいっぱい。事件ばかりが起こるので飽きないというか、パワーにおされるというか・・・。かなすーかなすで(愛しすぎて)私の頭の中も、心の中にも(夢の中にさえも)施設の年寄たちが登場してくるのだ。
 
 一昨年、百歳の誕生日を迎えた年の敬老の日、総理大臣からもらったとうぽーぷぬ(大きな)賞状と金杯を持ってステーションに見せにきてくれた老人が何人かいた。百年を生きる。それだけでも称賛に値する。私もそう思う。
 
 その老人たちの日常を預かる施設職員になって4年が経った。老いた主人の両親を看取ったあとは、老人問題には関心も薄く自分にとっては枠外のことのようだった。でも、4年も施設にいると老人が老いていく様も、衰えていく様も手に取るように見えてくる。
 
 年をとると知的活動も衰えてくるが、重度の認知症の老人は宇宙的な感じがする。軽度の認知症なら知性や理性がちょっとばかり邪魔をして自律することもあるが、重度になってくると、知性の衣を剥ぎ、理性の衣を剥ぎ、素のままというか、本能のままというか・・・魂の芯のような感じのままに日々を生きる。
 
 今日はそんなおばぁの話。
 
 生まれは北の国、青森。人は とぅす(年)をとったら よーたぁ(少しは)丸くなる、とかなんとか言われるけど、そうでもないように思う。
 
 施設で働き始めた頃、すばい゜(オシッコ)で汚れたおばぁのズボンをはき替えさせようと車椅子の前に座ったとき、あー ぬどぅんかい(私の喉に)いきなり蹴りが飛んできた。不意打ちをくらって、後ろにひっくり返った私は思いきり かなまい゜(頭)をゴン!星がチカチカ〜。しばらく息もできずせき込んだ。死なされるかと思った。K1だってここまでは絶対しないはず。
 
 おばぁの名前は「ヤナ」という。宮古方言では乱暴な人のことを「やな」というけど、なるほど、このおばぁにぴったりな名前だ〜と勝手に納得する。ヤナさんが毎日事件を起こす重要危険人物であることを知るのに、たいして時間はかからなかった。
 
 ヤナさんは人工肛門がつくられているので、便をためるパックを ばた(お腹)に貼り付けている。このパックが行方不明になることが・・・多々あるのだ。部屋にいくと、黄金のアートに染まった布団が!壁が!ベッドが!・・・「きゃ〜っ!」声にならない悲鳴が自分の中で聞こえるさー。
 
 決しておとなしくないヤナさんがおとなしいときが一番危ないと気づくのにも時間はかからなかった。着替えがまた一大イベント。ヤナさんのみー(目)がキラリと光を増すとき、爪をたてシャッ!!と顔を引っ掻かれる。この目の光に気付けなかった私の顔は、何度もヤナさんの爪で掻くアートキャンバスになった。
 
 ヤナさんは転んでおでこが切れてしまい、流血がひどく縫合が必要な時があった。病院にいくまでの処置も だいず(大変)だった。傷に からず(髪の毛)がかからないようにしたいが、必死に抵抗するヤナさん。頭をブンブン振ると血がますますでてくるので、職員で押さえてようやくカットしたにはしたが、噛まれた職員と、唾をかけられた職員の犠牲者がでた。
 
 病院の救急処置室でも、さらに奮闘するヤナさん。医者に噛みつき、「呪ってやるからな〜」と毒を吐き、ナースを引っ掻き・・・かつて臨床で一緒に働いたこともあるナースだったが、私が謝る言葉にもしばし返事がなかった。「本当に申し訳ございません」と、深々と頭を下げて早々にヤナさんを連れて施設に戻ったが、人の心知らずのヤナさん、アガイ〜!(なんてこと!)おでこのガーゼを全部はがしている。縫合した糸は引っ張ると痛いのか、抜糸までそのままだったのがせめてもの救いだった。
 
 そのヤナさんに異変が起きた。転んだヤナさん。骨折してしまった。骨折をきっかけに以前のような激しさがなくなった。そればかりか「ありがとさん」という言葉を何度も口にする。「すみませんね」と言われたときは空耳かと思った。
 
 オゴエー!ヤナさん、どうしたの?具合でも悪いかぁ?車椅子の上で静かにしているヤナさん、やぱーやぱで(穏やかで)、まないー(おとなしい)との顔をしている。これはもう事件だ!
 
 して、ヤナさんを着がえさせたら「えらいね〜」と褒められた。ありえなーい!なんだか顔つきまで違う人のようになってきたヤナさん、大丈夫か?!採血のあとも「ありがとうございます」と、神々しい笑顔を向けてお辞儀するので、職員は唖然となった。
 
 今、「ありがとう」がいっぱいのヤナさん。ヤナさんの魂の芯には「ありがとう」がぎっしりと詰まっている。今年百歳になるヤナさんからの「ありがとう」には、なんだかどこか違う重さを感じてしまう。
 
 年を取り過ぎたことを「お恥ずかしい」という老人たち。ちっとも恥ずかしくなんかない!その人の本質を一枚、また一枚と剥がしてしていき、最後に見えてくるものは、その人の魂の原型だったりする。それを施設で働く私たちは知っている。
 
 人は生まれた瞬間をもって「死」を約束される。「老い」もまた同じこと。それは誰にも抗うことはできない。
 
 永田町あたりでは老人問題を手抜きしているような条例も見え隠れしているようにも思う。施設実習を必須にしたら、老人問題解決に向けて、もう少し現実味を持ったものにならんかね〜。

 なんといっても、明日は我が身!

編集後記

松谷初美(下地町出身)

 桜は散ったものの、いろいろな花が咲き乱れ春爛漫の東京です。あなたのところは、のーしーがらやー(いかがですかー)?
 
 今月初めに祖母(カナおばぁ)が亡くなって、宮古に帰っていました。入院の話を以前に書いたことがありますが、だいず元気になって退院したので うむやすむぬー(安心だー)と思っていたのですが・・・。あすがのうてぃ あじやーまい 百歳やーむぬーやー(でもなんと言っても百歳ですものね)、んにゃじょうぶんぱずやー(もう十分だったかもしれませんね)大往生のおばぁでした。
 
 宮古は、海開きも行われ、すだーすぱいかじ(涼しい南風)が吹いて、がいちん(セッカ)もチンチン鳴き、上等季節でした。カニさんの書き込み(掲示板)によるとデイゴの花も満開のようですね。
 
 さて、おかげさまで、くま・かまも170回を迎えました。こうやってお送りすることができる幸せをしみじみ感じています。みなさん、たんでぃがーたんでぃ〜!
 
 今回のくま・かまぁ のーしがやたーがらやー?
 
 あば本舗さんの病院での話し、想像がついて、笑ってしまいますね〜。気持ちを隠したり、取り繕ったりしないですよね。まーんてぃ ういがどみゃーくぴとぅ!(まさにそれこそが宮古の人!)今後もまたいろいろな話しが出そうですよ。どうぞお楽しみに!
 
 今年ももうすぐ台風の季節がやってきますねー。ビートルズ世代のサラリーマンさんの話は、まるで昨日の出来事かのように台風の時の様子がイキイキと描かれていましたね。そして、ホントに宮古の人たちは、台風とまっすぐに向き合わなくてはならない。あららがま精神はまさにそうだと思いました。
 
 菜の花の施設での話しは、いつかは誰にも訪れる老いというものを考えさせてくれますね。全ての物が剥がれ「魂の芯」から出る「ありがとう」に感動。そして「それを施設で働く私たちは知っている」の言葉にジーンとしました。お年寄りを心から理解し、働く人たちもまた魂で受け止めているんですね。
 
 さー、あなたはどんな感想を持ちましたかー?ぜひ、聞かせて下さいね。

 次号は、5月1日(木)の発行予定です。
 それまで、がんずぅかり うらあちよー(お元気でー)あつかー、また来月やー。