こんにちは〜。4月になりましたね〜。
くま・かまも9年目のスタートです。あずーあずのぱなす(味わい深い話)が揃いました。
今回もお楽しみください〜。
下宿屋と甲子園物語り
クイチャーマン(下地町那覇出身)
んにゃ、かなーげーぬ、んきゃーんぬ ぱなす やっすぅが・・・。(もう、ずいぶん昔の話だが・・・)あんすぅが、また くぬずがたぬぱなすめー やーどぅっす。(しかし、また、先日の話でもあるのだよ)
42年前の高校3年生の頃、私は那覇市内で下宿していた。中学2年生の時に下地中学校から那覇の学校に転校して下宿生活を始めた。一年後には少しでも生活費を切り詰めようと、兄やいとこの男同士で自炊生活を始めることにした。
間借り先を見つけ、離れの納屋で炊事してもよいと了解を得て、平和通りで和倉カマドを購入し、たむぬ(薪)でご飯を炊く準備をした。一泊して、翌日間借りの契約を交わす段階で「宮古の人には貸さない」と断られた。みゃーくぴとぅ(宮古出身者)への偏見と差別。人生で初めて体験する屈辱であった。
仕方なく急いで別に間借りして、今度は石油コンロで自炊した。しかし、毎日まみな(もやし)と豆腐と魚肉ソーセージのチャンプルーだけという生活で、栄養不良による病人が出たため、自炊を諦めた。
高校入学のときは学校の近くで再度下宿。その年に東京オリンピックがあったが、下宿屋にはカラーテレビがなく、隣の家で見せてもらったりした。そのうち私の部屋に見知らぬ男の人が転がり込んできた。下宿屋としては、詰め込んで儲けようという魂胆であるが、3畳に二人詰め込まれ、私はたまらなくなって、隣の部屋にいた八重山出身の1年上の男子高校生と だんかーばしー(相談して)、間取りの少し広い別の下宿屋に2人相部屋を条件に転居した。
「下宿あります」と書いて軒下に貼り紙してある家を探して方々歩き回ったのは辛い思い出だ。貧乏学生にとっては、下宿賃、部屋の間取り、食事の内容など、条件に叶うのを見つけるのは容易ではなかった。ところが、安堵したのも束の間、八重山の同居人は、一緒に生活してみると日常的にたばこを吸っていた。私は彼を許すことができず、新しい下宿を探して別れることにした。
こうして4軒目の下宿に移ったのは高校3年のときである。自炊も含めると、4年間で住居を6箇所変わったことになるが、ようやく満足できる下宿屋にたどり着いた感があった。下宿賃はそれまでより割高だったが、あんさーめーじょうぶん(それでもよい)と納得のいくものだった。
下宿屋の経営者の夫婦は宮古島出身で、主人は定年間近の警察官。奥さんが食事の世話をしていた。夫婦には、私より一つ年上の長男を頭に3人の男の子がおり、ほかに私を含め男子高校生4人、大人の男性1人と5人の下宿人がいた。
奥さんは「私をあなたたちのお母さんと思ってねぇ、何事も遠慮しないでよ」と話し、自分の子どもと私たち下宿人を兄弟のように平等に扱った。10人の大家族で賑やかだった。商売とはいえ、毎日食べ盛りの男たちの食事の世話をするのは大変なことだったにちがいない。
高校生4人はいずれも宮古出身で、通う高校はそれぞれ違っていたが、方言も通じるし、すぐ仲良くなった。私と同年のIくんは、甲子園をめざして宮古の中学から興南高校に進学し野球部で頑張っていた。
その年、1966年の夏の甲子園の沖縄県代表に創立3年目の興南高校が初出場を決め、県民の期待を背に旅立った。鹿児島までは全日空の便で、さらに列車とバスを乗り継いで甲子園入りしたという。私たちは、夏休みのひと時、水揚げポンプのついた井戸端にタライを並べ、洗濯しながらトランジスタラジオの実況中継に耳を傾けて応援した。当時は、県内ではまだ高校野球のテレビ放送は行われていなかったと記憶している。
興南の対戦相手は茨城県立竜ヶ崎一高。延長10回の熱戦の末、興南は5対6で惜敗し、初戦を飾ることはできなかった。Iくんはショートを守り、8番打者として3回打席に立ったが、いずれも凡退してしまった。しかし、興南の初出場に貢献し、甲子園でプレーしたIくんは、私たち大家族の大きな誇りであった。
その2年後、1968年の第50回記念夏の大会で2度目の県代表になり、快進撃で4勝し「興南旋風」を巻き起こしベスト4入りを果たしたのは、今でも県民の脳裏に焼きついている。この興南の活躍はその後沖縄の球児たちの夢と希望を大きく膨らませ、指導者ら関係者の長年の努力も実り、沖縄尚学の2度のセンバツ全国制覇、沖縄水産の夏の大会2度の準優勝などに繋がったといえよう。
今年の第81回センバツに26年ぶりに興南高校が出場することになった。私は3月末で定年のため、その記念に興南の初戦の応援ツアーに参加することにした。Iくんも宮古島で定年を迎えることを思い出し、一緒に甲子園に行きたいものだと彼の連絡先を調べて電話した。
「俺も行くつもりで、別のツアーに申し込んであるよ」彼の声は昔の面影を漂わせていた。
3月26日、朝の甲子園球場。互いのケイタイで連絡を取り合い、42年ぶりにIくんと感激の再会を果たした。声と違って、みぱなー(顔は)すっかり変わっており、通りすがりに出会っても、互いに気がつかないと思われた。
私たちは抱き合うように握手を交わし、3塁側のアルプススタンドの高い位置に陣取り、懸命に応援を続けた。延長10回、興南は富山商業に逆転を許し惜敗した。しかし、私たちは19個の三振を奪った島袋投手をはじめ選手たちの健闘を称えて大きな拍手を送った。
宮古島の高校で野球に打ち込む球児たちの甲子園を目指す挑戦が続いている。八重山で出来たことが、宮古で出来ないはずはない、と。かつて島を離れて沖縄本島で下宿しながら甲子園を目指し、その夢を実現した先輩は、今ふるさとに住み、後輩たちに熱い期待を寄せている。
なつんけーばしーや、のーぬにゃーんが かーずがらいら。うりがどぅみーむぬさーい。<夏(の甲子園)に向けて、どれほどの 変化(成長)を遂げるか、それが 見ものだね。>
※備考:ご存知かもしれませんが、インターネットで「興南旋風」と検索すると「YouTube- 1968年全国高校野球興南旋風」の項で試合の模様が、当時のモノクロ映像で見ることができます。
うぷあんな(伯母さん)から貰ったねんねこ
あば本舗(下地上地出身)
さて、ぴしーぴし(寒い)だった季節も終わり春が来た。
休みになると いっちゃいでぃ(せっせと)冬物の整理をする日が続く。今年も30年近く愛用している花柄模様のねんねこを、クリーニングに出し終えた。
寒くなると大活躍する私のねんねこは、袖のほつれを幾度も縫い直し、襟は擦り切れ結び紐はいつの間にか無くなっている。今どきホームレスだって着ないかもしれない風格漂う?代物だ。
しかし、とてもお払い箱に出来そうもない。何故なら、20年程前に亡くなった うぷあんな(伯母さん)から貰った大事な物だからである。
私には、母の姉にあたる うぷあんな(伯母さん)が二人いた。両人ともすでに故人だが、親戚思いの き゜むかぎ あんがたー(心優しき女性たち)で、皆から慕われていた。
長女の方は、平良市(現・平良)に住んでいたので、ぴさらのうぷあんな(平良の伯母さん)、次女の方は、夫が郵便局長だったため、郵便局のうぷあんな(郵便局の伯母さん)と呼ばれた。
郵便局のうぷあんな(郵便局の伯母さん)は、大正生まれで生まれも育ちも下地の上地。夫も上地の びきどぅん(男性)。郵便局に勤めていた夫は、定期的に県内各地へ転勤になった。
そして、うぷあんな(伯母さん)も転勤に伴い くまんかいかまんかい(あちらこちらへ)住まいを変えなければならなった。最終的には那覇市の安里に落ち着き、晩年は西原町に住む母と私のところにもよく遊びにきてくれたものだ。
30年前、看護学校を卒業し就職したばかりの私は、よく風邪をひき体調を崩した。ねんねこは、そんな私を心配した彼女が那覇市安里の大道市場から買ってきてくれたのである。
当時、看護師としての自信や覚悟が足りなかったピヨピヨの私は、不安と緊張で押しつぶされそうだった。早く辞めてしまいたいと、毎日なきーちゃーなうたー(泣いてばかりいた)。
そんな時、うぷあんな(伯母さん)が届けてくれたオレンジ色の花柄模様のねんねこ。何も言わずに置いていった彼女の無言の励ましが嬉しかった。ぬふーぬふの(暖かい)ねんねこは、沈んだ私の心をどれだけ軽くしてくれたことか。
84歳で亡くなった うぷあんな(伯母さん)は、ずみぎっすぅぎぃ(かっこいい白髪)の あぱらぎ(素敵な)おばぁだった。
いつーまい ぬかーぬかしー すなかぎーぬ あんが やたん(いつでも穏やかで品の良い女性だった)。
夫に早く死なれ んにゃがまてぃ(大変な思いで)4人の子供を育てていた妹(私の母)を励まし、物質的にも精神的にも支えてくれた恩人でもある。そして、プレゼントされたねんねこにも、私の看護師人生をずっと応援してもらい励まされてきた。
気がつけば自分も年をとり、叔母さんとして甥っ子や姪っ子の面倒を見る側である。今頃になり、彼女たちが やまかさ(一杯)の愛情で見守ってくれていた事をやっと分るようになった。
あんがたーん ましゃーん あたらっさぁ しらいたいにゃーんしぃ(伯母さんたちから、たくさん可愛がってもらったように)私もまた甥や姪に優しくしようと思う。
おばあが、みーつぬ くくるみ(おばあの、3つの心得)〜母から聞いた昔話〜
アモイ(平良宮原出身)
みゃーくぬ ぱなりずまんどぅ、うかーす うやきやーぬ あーたーっざ。やーでゃー、おとー、みどぅん、やらびぬ ふたーす、おばあ(おとうがかあちゃん)とぬ4人暮らしやーたーざ。
(宮古の離れ島に、大変なお金もちがいたそうだ。家族は、親父、奥さん、子供2人、おばあちゃん(親父のお袋)との4人暮らしだったそうな)
あるひ おとーや、すまぬぴす゜とぅから「みゃーくんな うわたゆっさまい んなぴぬ うやきやーぬ あーてぃんどー」てぃぬ ぱなっすぅき゜き゜たーっざ。うんから うぬ うやきやーんかい いきみーぶすふなり、みゃーくぬ すまがみ たびんかい いでぃくとぅん なす゜たーざ。
(ある日、親父は島の人から「宮古にはあんた達よりも、もっと大金もちがいるそうだよ」と言う話を聞いた。それからというもの、その大金持ちの家を行って見てみたくなり、宮古本島まで旅に出る事になったそうな。)
ふにん ぬーり、みやーくがみ いき んにゃ、うまかまぬ ぴす゜とぅんかい、「うまたんな だいずな うやきやーや にゃーんなー」てぃー き゜き まーりゅーきゃー、「だいずぬ うやきやーやーすかー、かまたんどぅ あーさーい」てぃ ならーさいたー とぅかなんかいしーいきばどぅ まーんてぃー どぅーたが やーゆっさまい だいばん やすきす゜ぬ あーてぃんだら。
(船に乗って宮古本島まで渡り、そしてあちこちの人に「ここら辺に大金もちの家はありませんか」と聞き歩いているうちに「大金持ちの家だったらあちら辺にあるさー」と、教えられた方にいくと本当に自分の家よりもはるかに大きな屋敷があったそうな。)
あすぅがどぅ、「門番まい う―てぃー ぱす゜ごーごーぬ やーやあば」てぃー どぅむぬゆんなしー まーりゅー あいき みーつかー つかふん いみーっちゃぬ やーぬ あーたーてぃしば、うまんかい ぱす゜し みーたーざ。
(だけど、「門番も立ってるし 入りにくい家だなー」とつぶやきながら周りを歩いてみると、近くに小さい家があったのでそこへはいってみた。)
やどぅ たたき゜す゜つかー おばあが いでぃき゜すたーてぃしば「おばあ、とぅなすぬ うやきやーんかいどう、いかってぃーうむいゆーすぅが、のーしーがー あにぎな いきゃーまい じょうぶんな むぬな」てぃー き゜きみーたーざ。
(戸を叩くとおばあさんがでてきたので、「おばあさんや 隣の大金持ちの家を訪ねてみようと思うんだけど、どんなかねー」)
「かまんかい いかでぃやーつかー、くくるみだかー ならんっくとぅぬどぅ 3つありばやー、あすぅがー ただしやならーさいん、ぴす゜てぃーつんつき ぴすとぅたーらなーしー、あわだーら、ます゜だーら、まみだーらぬ3俵ゆ あとぅから むちくーでぃやーすかー ならーさでぃやーすぅが じょうぶんな?」親父は「じょうぶん」てぃ約束っし ならーしむろー くとぅんなす゜たー。
(「あそこにいくんだったら、心得てないとならないことが3つ程あるさー、だけど只では教えられないさ、1つの教えにつき1俵として、粟俵、米俵、豆俵の3俵を持ってくるようだったら、教えてもいいけど、いいですか?」親父は「大丈夫」と約束して教えてもらう事になった。)
1ーつ、「ぐっちー すぅーば くくるみよー」(ごちそうされたときは心得よ)
2ーつ、「いそぅがば くくるみよー」(急ぐときは心得よ)
3―つ、「きす゜むいでぃが ぴゃーりんな 手ーゆ ぴす゜きよー」(腹が立ったときには手を引きなさい)
くぬ3つぬ くくるみゃー おばあん き゜かさいってぃ ぴーっちゃうとるすふなりにゃーんすぅが ぷとぅ ぷとぅ てぃーがまーしーうーてぃーまい いきみーくとぅんっすたー。
(この3つの心得をおばあさんに聞かされてちょっと怖くなってしまったが、どきどきしながらも訪ねてみることにした。)
門ぬ まいがみいき゜すつかー 門番ぬ うーてぃ 案内しらい ながーながぬ 廊下をー なかんかいしーぱす゜し 部屋んかい 案内っしってぃ「うまん まちゅーりよー」てぃ あす゜しってぃ 門番な むどぅりぴす゜ーたー。
(門の前まで行くと門番が案内してくれ長い長い廊下を奥に入っていき、部屋に案内して「ここで待っていなさい」と言って門番は戻っていった。)
ぴっちゃすかー、女中ぬ ちゃーとぅ ちょーきゅー うつきってぃぴす゜たーあとぅん、用心がまーしー あいき き゜すたー ちびゅー みーゆーりばどぅ みどぅんぬ ふたーす゜しー だいずばかーすぬ ふぉーむぬー くーうふぃ むちきすてぃんだら。
(ほどなく、女中がお茶とお茶菓子を運んできておいていった。用心しながら、歩いてきた後ろを見ると、女の人2人で大変なご馳走を運んでくるではないか。)
のーてぃぬ ばーがら、まちよー うりゃーもしか っすつかー「ぐっちーゆ すぅーば くくるみよー てぃーぬ ばーべーやー?」てぃ うむい きす゜のーつき みーるばどぅ 料理やー んまくぎ肉料理んぎどーり あすぅがどぅ、ちびんな ナイフぉーむちぬ びきどぅんぬ かふぃかふぃ てぃー あいきぃ きすさいが、「あがだいず、ぴんぎる」てぃ みなかんかい ぶどぅんき、門ぬ まいんかいしー とばしいきばどぅ、門番ぬ かに まちうーてぃんだら、
(どういう事だろう?まてよ、もしかしたらこれは「ご馳走されたときは心得よ」と言うことか、と注意してみていると、料理はおいしそうな肉料理らしい。しかし、2人の後ろにナイフを持った男の人が隠れながら歩いてくるではないか、「これは大変だ、逃げろ!」と庭に飛び降り、門の方に走っていくと、門番が待ち構えているではないか)
「くりゃー だみさいが」てぃー、塀ぬ ふっつぅ とばしいきばどう、だてぃふぬ木ぬ ゆだぬ さがりゅーていん、くいんかい、「とうとがなすー」てぃー 手―ゆ かみってぃ、わいてぃー ゆだぬ さきすぅう かつみるばどぅ、びゃんまてぃー わーぶんかい ぱに、へいぬ あらーがみ とばし、うらすてぃんだら。
(「これは駄目だ」と思い 塀に添って走っていくと、だてぃふ(竹に似た木で日本語名不明)の木の枝が垂れている、枝に向かって「とうとがなすー」と手をあわせて枝の先をしっかりつかむと、ふわーっと枝が上に跳ね上がり、塀の外まで跳ね上げておろしてくれた。)
「だてぃふがまー たんでぃがたんでぃ」てぃ あーがっちゃん さんばしんかいしー、すんとぅびすやしー やっとぅてぃー さんばしんかいつきす゜たー。
(「だてぃふの木よ ありがとう、ありがとう」といいながら、港の方へと死ぬ思いで走り、やっとの思いで港までたどり着いた。)
さんばしんかい つきす゜つかー 2艘ぬ ふにぬ いでぃぴすーんてぃー、うーとぅかなーしーうー。
(桟橋にたどり着くと2艘の船が出港していくところだった。)
あがんにゃ くりゃーんにゃ かぬ船んかい ぬーらだかー んちゃみらいでぃす。しまいさいが、のーしがすぅーでぃ?あはー おばあが くくるみぬどぅ あーさいが くまんな、くいぱず「いすぅがば、くくるみよー!」てぃー だいばんくいしー やぐいっしばどぅ、一艘ぬ船ぬ むどりきし、ぬーしたーてぃんだら。
(こりゃーまずいぞ、ここはあの船に乗らないと 捕まえられるぞ。しまった、どうしよう?そうだ、おばあの心得があった。ここはこれか。「急がば心得よー!」と大声で叫ぶと、一艘の船が戻ってきて乗せてくれた。)
あしってぃ、むどうらだなしー、先ん ぴす゜ーたー 船やー、うぷ波ゆー うき、沈んたーてぃんだら。
(そして戻らずにそのまま先に行った船は、大波を受けて沈没してしまったそうだ。)
船頭んかい「あんちーかんちぬ ばーどーや」てぃあーつかー「かまぬやすきんかい いきすたー ぴす゜とー んないっかいてぃや むどぅりやー くーんてぃぬ うわさーやーばよー」てぃ あす゜ゆぅーば、あはー かまぬ やすきす゜んな やーんかいきすぴす゜とぅー どぅ 死なし 料理やーしー ふぃーゆーさいが、ぱごーぎぃとぅかなさいがてぃかんつき、あとぅからまい うとぅるすかーば ならったん。
(船頭に「これこれこういう訳なんだよ」と話すと「あそこの屋敷に行った人は、2度と戻ってこないという噂があるよ」との事、親父はその話を聞いて、なるほど、あそこは訪ねてきた人を殺して、人肉料理を出しているんだ、と感づき、改めて恐ろしさが蘇ってきた。)
やっとぅがまてぃ どぅーが すまんかい つき やーんかい いそぎす゜たー。
(ようやく島の港に着き、家へと急ぎました。)
玄関かい ぱすしばどぅ、あずざな とぅ、あっざぬ うつかいゆー てぃんだら、「あば とーぬ びきどぅん ぬが どぅーが うらんときゃん、きしうーが」てぃー うむい、部屋んかい ぱすし いきばどぅ、っさん びきどぅんぬ、どぅが みどうんとぅ、にうふぃ うーにゃーん うー、あがんにゃ、「くりゃーまさか?のーしぬばーが」てぃ、ばたふさり、ぼーや とぅみきしー かなますゅ たたきとらさってぃー、うむいってぃ、
(玄関に入ると、男物の傘と下駄が置いてあったそうだ。何だ俺の留守にどこの男がきているんだろうと思い、部屋に入っていくと、知らない男が自分の女房と布団に入っている様子、「まさか??何て言ういうことだ」と腹が立ち、棒を探してきて、後ろから頭を殴りつけてやろうと思ったが)
まちよー、おばあが くくるみやー「きす゜むいでぃが ぴゃーりんなくくるみよー」やーたー、やっとぅがま がまんなしー、棒ぬ手ぃーやぴずき びきどぅんぬぅ 肩がもー たたき うかしってぃ、みぱなを みーるばどぅ あっば どぅが かあちゃんなしーうー。
(ちょっとまて、おばあの心得だ「腹がたったときには手をひきなさい」だったなー、ぐっとこらえて 棒をもった手を引き、男の肩を叩いて起こし、顔をみると、なんと自分のお袋だった。)
ふとぅんぬ なかんな、2人ぬ やらびぬ いっしょん にうふぃうー。あばあや息子ぬみーん とぅけん ぴんなぎ びきどぅんぬぬがらー きし わちくーすぅーでぃやーつかー だいず てぃー しわーしー 玄関な、びきどんぬ、さなとぅ、靴う うつきってぃ、どぅーや 丸坊主なり、びきどぅんぬ 髪型しー、やらびゅー 守り にうふぃ うーたーていんだら。
(布団の中には2人の子供がいっしょに寝ており、おばあちゃんは息子が留守のときに変な男でもきて、何かあっては大変だと心配して、玄関には男用の傘と男物の靴を置き、自分は丸坊主になり、男の髪型にして、子供を守って寝ていたということです。)
おとーや みーつぬ くくるみゅーならーすたーおばあとぅぬ 約束通り、粟だーら、米だーら、豆だーらを3俵 おばあが やーがみ むちいきす゜たーざ。
(親父は3つの心得を教えてくれたおばあさんとの約束通り、粟俵、米俵、豆俵の3俵をおばあさんのところまで届けたそうです。)
−うすかしーしまい(これでおしまい)−
編集後記
松谷初美(下地町高千穂出身)
去った3月29日は旧暦の3月3日。サニツでしたね。宮古では、潮干狩りを楽しむ家族連れや幻の大陸、八重干瀬(やびじ)ツアーへの観光客で賑わったようですね。
私の やらびばだ(子どものころ)には、どこまでも潮の引いた与那覇湾で ぬーまぴらす(馬の競走)や宮古相撲などが行われ、やまかさの見物客で大賑わいでした。
アオサを採ったり、シナ(二枚貝)をとったりもしましたよー。(シナを食べた後の貝は、ままごとになー使ったさね。木の枝を刺して、さじにしたり、だいばん貝だったら きな(お玉)にしたりよ。懐かしい・・・遠い目)サニツがくると、もう夏だなーという感じがします。
さて、今回のくま・かまぁ のーしが やたーがらやー?
クイチャーマンさんは、甲子園での指笛応援もお馴染みですが、高校生の頃から甲子園と繋がるものがあったんですね。当時、宮古から甲子園を目指して沖縄で下宿生活をしていた選手がいたとは、すさったん(知りませんでした)当時の世相とともに、今の沖縄の野球に綿々と繋がるものを見た気がしました。
「うぷあんなから貰ったねんねこ」の話、き゜む(心)に染みますねー。読みながらうるうるしました。伯母さんの想いがあふれたねんねこがあば本舗さんの心をどれだけ勇気づけたか・・・伯母さんへの深い感謝とともに伝わってきました。
アモイさんのオール宮古ふつでの、おばあのくくるみの話しは、臨場感にあふれ、まるですぐそばで聞いているような味わいがありましたね。話にぐいぐい引き込まれていきました。アモイさんがお母さんからこういう話しを聞いている図も、想像するだけでほんわかとなります。
んきゃーんばなす(昔話)は、これからもやっていきたいですね。良かったらあなたの知っている んきゃーんばなす まい き゜かしふぃーるよー(昔話も聞かせてくださいね)
今号の感想もぜひ、よろしくお願いします!
次号は、4月16日(木)の予定です。
うぬときゃがみ がんずぅかり うらあちよー(その時まで お元気でー)あつかー、またいら!