こんにちは〜。
梅雨のはしりのような天気が続いて、すぷーと(じめーっと)している東京です。あなたのところはいかがですかー?
vol.197お届けしま〜す。
我が人生のラッキーチャンス
宮国勉(城辺西城出身)
昭和40年頃の我が家は兄がサトウキビの運搬をし、それに少々のサトウキビを作り生計を立てていた。
生活するのがやっとの我が家。兄弟が多く、上から3番目の私は高校進学を半ば諦めて中学を終えればすぐに稼ぐことを考えていた。しかし、夏休み期間中に受験のために行われる補習授業は受けることにしていた。高校進学は人生の節目と思われる大切な時機で、私には初めての岐路でもあった。
受験日が近づいて希望校を決める時期になり、担任と親との面談会が行われた。誕生日を祝う習慣のない我が家では悪さをしない限り、滅多に夕食後の家族会議の主役にはなれない。将来について話し合う高校進学は唯一、主役になれる場面である。
ところが家族会議の主役ではなく兄のオートバイの後部座席で走りながらの二人だけの会話。夕食後に親戚の家へ行く途中で、ちょうどカーブに差しかかった坂道で将来の進路について話を切り出された。
話が始まった場所は石ころがゴロゴロしてデコボコな坂、なぜか先行きが険しいような予感すら感じるところ、しかも辺りは薄暗い。話の内容は「電気、建築、機械だったら進学しても良いよ」と兄がさらっと提言した。
高校進学の承諾が取れた事を意味し、自分の将来に明るい希望が見えたような気がして嬉しい瞬間だった。台風銀座の宮古島の子供はやはり風に強い家造りを先ず考えるわけで建築を選んだ。
運よく沖縄本島の高校に合格し、判ってから4日後にはオリエンテーションに間に合わせて沖縄に行かなければ成らなかった。
兄と2人で早速船に飛び乗って行くことになった。船にジャンプして乗ることを指すわけではなく、正規の切符を買うのが間に合わないので乗船時間前に船員に頼み、乗せて貰うことである。つまり、乗客人数にカウントされないお客である。
夕方の4時頃出港して次の日の7時に那覇の泊港に接岸するので夜通し波に揉まれて約13時間、降りた桟橋が宙に浮いているようで足が地に着かないのだ。これも初めての船酔い体験で、タクシーも空中を走っているようだ。しかし、初めて見る車の多さや信号機にたまげていると学校までの通学の心配などで船酔いが醒めた。
オリエンテーションに行き、ワサワサとした人混みの中で5ドルの大金を拾った。落とした人の事を思う余り早く返さなければと思い、職員室に向かう先生らしき人に渡した。今でもちゃんと落とし主に戻ったか気に掛かる。兄は、あの5ドルがあれば・・・と、人助けした温かい心の持ち主は立派な弟である。40年近く経つが忘れない、悟りが足りない我が心。
アパートを勢理客(じっちゃく)に借り、学校が在る松川までの通学距離約7キロを乗り換えなしの単純なコースを選んだ。ハッキリと区別が付く緑に黄色の東陽バスを利用し、栄町で降りて15分歩きで学校にたどり着く。そうやって半年が経ち通学にも馴れたころ、安謝橋まで歩き銀バスを使うと、市内料金で学校の傍までたどり着けることを発見、バス料金が半額以下で済んだ。
学生の必需品である机と椅子は何よりも先に揃える必要がある。安謝橋の近くで親戚の伯父さんが製材所に勤めていた。丁度ラワン材の心材部分の重たくて釘が打ちにくい処を取り除く作業中だったので、はじかれた部分のそれを貰い、兄がその端材で椅子と机を作ってくれた。引っ越しのときは大荷物であったが安定して製図には最適だった。
伯父さんは昔、ピサラ(平良)の北小の近くで菓子屋をしていた。5,6才のころ自転車の荷台に乗せてピサラまで連れて行ってもらい、帰りはスイカを抱えて帰ってきたことを鮮明に覚えている。しかし、その伯父さんとの繋がりは亡くなるまで正確には知らなかった。そこの伯母さんは父の姉だったのだ。あがんにゃよーい(誠に、さあ大変である)
高校時代は二つ上の姉と二人で住んだ。アパート代、生活費、学費の殆どが姉の給料で賄われた。何とか卒業できて就職は大和(埼玉)に行くことが良いようだと自分なりに決断を下した。
私達の世代は進学率が高くなりつつあることと、日本が高度成長期にあり若者は金の卵と持て囃された時代であった。タイミング良く産んでくれた親に感謝である。
就職は埼玉の施工会社で同級生3人で入社し、会社の事務所の2階で自炊することになった。その時は就職について熟慮して決めたつもりであったが、大穴が開いているのが判明した。それは6ヶ月で一人辞めてしまった事で、辞めることを説得する理由が見つからなかったことを今も思い出す。
潔く決断することが男らしいことだと決めたことが、小さい失敗を大いにした。だが、「決断」は適切な時期になすべきで、早すぎたり遅すぎたりすると別の問題が起こり解決に余分な労力を強いられることになりかねないことも事実である。
上司への、ほう(報告)、れん(連絡)、そう(相談)、を省略した生意気な判断は自分が辛苦を味わうことになった。責任を取ればよいだろうと開き直っても、責任を持てるほどの能力が有ったわけではなかった。若さ故に虚勢を張り、終には上司から大目玉を食らうことも度々あった。それは自分の成長を促進させた副産物だと思っている。
人生の曲がり角と言われる結婚、その後どんどん状況が自分に良い方向に向かっていったように思う。間もなくして子供が生まれ、手の掛かる頃は母子家庭だとかなりの非難を浴びた。そのころは仕事も忙しく、マージャンに付き合いと称した飲み会と遊ぶのも忙しい元気な毎日だった。
住むアパートを探しながら家賃がもったいないから家を買うようにと周りに薦められるままに決心し、小さいながら我が家を持てた。当時は土地を買えば必ず値上がりして定期貯金に匹敵するような時勢だった。その頃、3ヶ月毎に住まいが変わることになり年中引っ越しをしているようだった。土地は住み続けると愛着が生まれ、また隣近所の付き合いも生まれて後ろ髪を引かれる思いをするものである。
しかし、その住まいには9年間住み、水が出るので買い換えることにした。今度は判断材料に、水が出る、風当たりが強いなどの自然環境の善し悪し、買い物に便利、学校、病院の位置関係、レジャー施設、図書館などの公共施設、その他いろいろな良さと悪さを見極めることの出来る条件を並べて判断し、特に水には慎重になった。
転職して半年後の大きな買い物、3年後ぐらいでバブルが到来し強運を喜ぶことになった。会社に辞めることを告げて20日経ったが、面接した会社からは全く連絡がない。
「のうしいがすうでぃ(どうしたら良いもんか)」と思っていると4月2日から出勤するようにと2週間近になって、やっと連絡が入り胸をなで下ろした。工事現場の引渡が3月30日で、その日の夕刻から送別会をしてもらい15年間勤めた会社の皆さんに別れを告げた。
転職は、明日の生活費にも悩むことに成る、焦って事をし損じることにもなるので慎重にことを進めた。転職した頃はやはり誤りではなかったかと自問自答もした。だが、3年先、7年先を思い浮かべ、プラス思考で我慢した。転職するときの決断はまさに勇気ある決断だったように思う。今年で25年になりやっと「あの時、決断してよかったね」と思うようになった。
即座に決断を下すのも通販やネット販売には仇になるときがある。以前通販で、丸い洋服掛けを2セット買ったが置き場所に困り1セットは人に差し上げることになった。
また、テレビショッピングで有名な「ジャパネットたかた」の売り込みに8ミリビデオカメラを買った。メディアはデジタルカードの積もりだったがテープで是また失敗。手に取ってみないと写真や映像だけでは判らない部分があり後悔先に立たずである。
茹でた宮古島の ずまみ(落花生)をネットで注文したら島の味が早速届いて懐かしい味にしばしの至福の時間を楽しめた。故郷の産物が容易に入手できるこの時代は大和との距離がかなり離れた宮古島の将来を支える良好なシステムだと思う。
建築用語で決る(しゃくる)ことは欠き取ることの意味で、床板などを幅方向に接合することを合決(あいじゃくり)という。溝を作ることにより幅が決まってしまうことから付いたと思われる。ちり決り(じゃくり)という語もあり、和室の柱と塗り壁に隙間が出来ないように欠き取った溝のことである。
最後に、皆さんにラッキーチャンスが続くことを願って!
<生まれは 一度;死には 一度>
ムマリャー ピトワ”タ スンナ ピトワ”ダ
【通釈】
(生きとし生けるものすべてが)生まれ出るのは一度(きりであり), 死に(去くの)も一度(に過ぎないものである).
<生まれは 一集落;育きは 七集落>
ムマリャー ピトスマ ソダッツァ ナナスマ
【通釈】
(人間は誰でも)生まれ(る所)は一郷(に限られるが),生育(発展する場所)は七郷(ならぬ,人間世界のいたる所に存在するものである).
#『宮古古諺音義』新里博 著より
一行詩
松谷初美(下地町高千穂出身)
☆ぱんだるゆ ふつしーとず うやが き゜む
(鼻汁を口で吸い取る親の心)
昔はよく見た風景。
☆健康診断 じゃーなの かず服ぅ きし ぬず 体重計
(健康診断 一番軽い服を着て乗る体重計)
ぴっちゃ やらばん(少しでも)。
☆あぐのきゃーの オトーリの成果ゆ みず 同窓会
(友たちのオトーリの成果を見る同窓会)
男子の挨拶が上手なことよ!
☆みがにゆ かきゅうてぃまい んざんがあーがてぃ とみまーり
(メガネをかけていてもどこにあると探しまわる)
んにゃ みーむっち。
☆とぅんがらから んまが自慢の メールきす
(友人から 孫自慢のメール来る)
初孫にメロメロ。ばんたまい孫のできる年になったんだなぁ。
☆「老後の楽しみにとっておくさー」80過ぎの あんなが くとば(母の言葉)
老後はまだまだ?
神の使いの っふぁ(子ども)
ワタリマリ(上野宮国出身)
みゃあぐん(宮国)ずまには、昔話や古い迷信、言い伝えなどがいっぱいある。
私の母はそれらのことに少々詳しくて、姉たちや幼い私にいろいろ話してくれたのだが、そんなことより ぽー(クロイゲ)や むとぅびー(野イチゴ)を探しては食べることに夢中になっていたので、まったく興味を示めさなかった。
成人してからは、姉妹のうち、だれよりもあんたが一番興味がありそうだからといってはゆっくりと語ってくれた。だけど、私ときたら、いい加減な聴き方で話してくれたそれらのことのほんの少ししか書き留めてなかった。なので今になって後悔しはじめているのだ。
もちろんその種の資料や語ってくれる方はたくさんいると思うのだが、母の語りには独特のリズムと暖かさと何といってもちゃきちゃきの みゃあぐんふつ(宮国なまり)が味わえたのだ。
今日はそのなかのひとつをオールみゃあぐんふつでどうぞ。
いらあ〜、んきゃーんどぅ んにゃ なんにちまい あみぬ ふっふぁんたんとぅすぬ ああたーちーだら。
(あのねー 昔のこと もう何日も雨が降らない年があったそうだよ。)
すまじゅう ぬ ぴとぅぬきゃあや んーな ざーん あつまりい いつからが あみぬふいすがまたがちい ぱなしゅうたざー。
(島中の人たちがみんなで座に集まって いつになったら雨が降るのだろうと話していたんだって。)
うまんかい みす゜たーくとぅぬ にゃーん んみーぬ っふぁがまぬきし「のうちが うわたーや んーな うまん あつまりゅうが 」ちいき゜かい゜たーば「んにゃ なんにちまい あみぬ っふあんばどぅ いつぬ ぞうぴかずん が あみぬ っふういがまたが ちどぅ あみぬっふいむぬう まちゅう」
(そこに 見たことのない 小さな子どもが来て「なぜ みなさんは全員ここに集まっているのですか」と聞いたので「もう何日も雨が降らないので、いつのよき日に雨が降るのだろうと雨が降るのを待っているのです」)
ちい あす゜ばどぅ うぬ っふあがまあ「きゅうれきぬ 3月ん ぞお ぴす゜かずう とぅりい かんにごお ゆ しいるばどぅ あみゃあふい゜。ぞうぴかず ちや きゅうふぬ うまか ひつじん あたい゜」ちい ならあすたーざー。
(と言うとその子は、「旧暦の3月によい日取りを取って神願いをしておけば雨は降りますよ。よい日とは、きのえのうまか ひつじのことです」と教えたんだって。)
「まーんちぬが」ちい き゜き゜ばどぅ 「まーんち」ち あす゜っち かまーんかい ぴりい みらいんふ なあい゜ったーざあ
(「本当ですか」と聞くと「本当です」と言って、向こうのほうへ行き、見えなくなってしまったんだって。)
すまぬ んまたあや うぬ っふぁ ぬ あす゜とおりん ツカドゥマリャ むとぅんかい いき いるんな むぬう かざりい みす゜か くむりい かんぬ にがうたあ ざー。
(島のおばあたちは、その子の言うとおりにツカドゥマリャ元に行き、いろいろなものをお供えして3日篭り、神願いをしたんだと。)
あす゜かあどぅ いらあ まーんち あみぬ ぱらぱらちい うちい き゜すたあ ざー。
(そしたら、ねぇ、本当に雨がパラパラと落ちてきたんだって。)
うんかりゃ あみぬ っふぁん とぅすんにゃ ツカドゥマリャ むとぅんき かんにごお ゆ すうばどぅ かならーず あみぬ ふい゜たあざあ。
(それからというもの、雨が降らない年には、ツカドゥマリャ元に行き、神願いをすると必ず雨が降ったそうだよ。)
あしばどぅ うぬ っふぁがまうばあ かんぬっふぁがまどぅ ありゃちい んーな あす゜ゆうたあざあ。
(だから、その子のことは、神の使いの子だったに違いないと、みんな話していたんだって。)
うりゃあ まーんちぬ ぱなす あーばどぅ みゃあぐん な んなまぬ ゆう がみ つづきゅう ち ばやあ うむい ゆう さあ。
(これは本当の話だから、宮国は今の時代まで続いていると私は思っているさあ。)
と母は話していた。
ところで、今もよい日取りのとり方としては 大安 先勝などあるのだが、宮古的な日取りのとりかたには、ちんぷんかんぷんな私は母に再度聞いてみた。
カレンダーを見てみると良く分かるのだが ひのえ つちのえ かのえみずのえ きのえ の順番なっていて、それに十二支がくっついています。
だが、宮国の場合は、つちからはじまり(つちのえ)、土の上には火を燃やし(ひのえ)、その上には鍋(かのえ)(金をカニとして鍋はカニできている)、鍋の上(中)には、みず(みずのえ)、みずからゆげ(けむり)ができ、これを きゅうふ(けむり)にしたらしく、きのえがそれにあたるらしいのだ。
だからここでは、きのえのうまか、ひつじが良いぴかずと神のっふぁは言っているのだ。
が、んー、よく分からん。なんでそうなったかが。もしかしたら、宮古のどこかに同じような話があるかもしれないので、違う説があれば教えてほしい。ち うむいゆうさあ(と おもっているのさ)。
おしらせ
はじめまして絵本の会 池城かおり(平良出身)
■『はじめまして絵本プロジェクト2009』賛同者募集
くま・かまのみなさま、いつも素敵なお便りをありがとうございます。
今年1月のくま・かまで図書館応援ブログのご案内をいたしましたイケシロです。
このたび、赤ちゃんに絵本を贈る「みゃーく版ブックスタート」企画をスタートしましたのでご紹介にまいりました。
★ブックスタートとは
すべての赤ちゃんのまわりで楽しくあたたかいひとときが持たれることを願い、一人ひとりの赤ちゃんに、絵本を開く楽しい体験といっしょに、絵本を手渡す活動です。
-NPOブックスタートホームページより-
この活動は全国687の市町村が参加しており、お近くでは多良間村が実施しています。宮古島市で事業の予定はありませんが、市民発の活動として宮古島の子ども達に絵本を贈ることができればと企画しました。
<企画内容>
島内外の個人・団体・企業から賛同者を募集し、一口(3000円)の賛助金から1名の子どもにつき1冊の絵本と宮古島市立平良図書館の利用カードを贈ります。
プレゼント対象者は2009年3月31日までにご誕生の宮古島在住0〜3歳の皆さん(現在2297名)です。100人を目標にしていますが、賛助金額に合わせて設定します。12月に「お手渡し会」イベントを開き、地域交流の場を設けたいと思っています。
地元各紙にも掲載いただいて賛同を呼びかけておりますが、島外でご活躍の宮古島出身・宮古島ゆかりの方々からも応援をいただけますと心強く思います。
また、プレゼントは応募制(8月中旬より受付)ですので、宮古島のご親戚ご友人等に対象年齢のお子さんがいらっしゃる方はこの機会をご活用いただけますようお勧めください。
どうぞ多くの方のご理解とご協力をいただけますよう宜しくお願いします。
詳細は、下記のサイトをご覧ください。
編集後記
松谷初美(下地町高千穂出身)
宮古では、いよいよマンゴーの季節を迎えたようですね。宮古毎日新聞には、すだりている(たわわに実っている)マンゴーの写真が載っていました。今年は、出来が良いようですよ。
さて、vol.197。のーしが やたーがらやー。
中学や高校を卒業すると、宮古のほとんどの若者は宮古を出ることになります。宮古を出た宮国さんが苦労しながら、その時々で決断をし、現在にいたるまでのことが伝わってきましたね。まーんてぃ「生まれは 一集落;育きは 七集落(ムマリャー ピトスマ ソダッツァ ナナスマ)」の諺通りやー(ですね)。
一行詩、久しぶりに作ってみました。宮古ふつの味を出しながら、サラリーマン川柳のようなものを作りたいのですが・・・なかなかです。
ワタリマリの みゃーぐんふつの んきゃーんばなす、あずーあずで(味があって)良かったですねー。上野宮国の言葉は、平良や下地で「まーんてぃ」と「てぃ」を使うところを「まーんちぃ」と「ちぃ」と言うんですよね。んなまの ゆー(今の時代)まで続いている宮国を誇りに思う気持ちも伝わってきました。神願いは、簡素化されているようですがんなまがみ(今まで)続いているそうですよ。
池城さん、素敵なおしらせをありがとうございました。本と人を繋げるために、一生懸命考え、行動をしている池城さんにはホントに頭が下がります。この企画がきっかけになって、いつかは自治体でできるようになるといいですね。大変なことも やまかさ(たくさん)あると思いますが、頑張ってくださいね。応援しています。
今回も しまいぎー ゆみふぃーさまい ぷからすむぬやたん!
うわが感想ゆまい きかし ふぃーさまちよー(あなたの感想もお聞かせくださいね)。
さー、きょうは午後8時からNHK教育テレビで「福祉ネットワーク一粒の種〜遺言から咲いた命の歌〜」が放送されますね〜。どうぞお見逃しなく!
次号は6月18日(木)の発行予定です。お楽しみに〜。
うぬときゃがみ がんずぅかり うらあちよー。あつかー、またいら!